の羽根 』


≪ 五、交差 ≫





緋色の髪の若い男と、黒髪の美女。
若い夫婦はその日、数日振りのまともな宿に辿りついていた。

「へぇ・・・こんなところに温泉なんてあったのか。」
「結構古い歴史のある宿みたいですよ?切り傷にも良いと聞きましたし、丁度良いでしょう。」
「そうだな。じゃあまずその温泉に入ってこようか。考え事をするにも一度さっぱりしたいし。」
「ええ、あなた。」

この2人―――この世界とはずれた時間軸の世から紅髪の女によって飛ばされてきた緋村と巴は、長野県の東端を南アルプスの山岳伝いに南下しつつこの地へやってきた。

事の発端は半月ほど前、諏訪でのこと。
そこで出会った事件自体は別に珍しくも何とも無いものだった。

宿場町を荒らす強盗団がいると言うので、そろそろ路銀も稼がなくてはならないかと思っていた2人はそれを退治することを引き受けて、3日と経たぬ内に捕らえてみせた。
元々人数も20人足らずとそんなに大きくも無く、腕も緋村にとっては大した連中では無かったのでそのまま警察にでも引き渡してまた次の街へ流れようと思っていた矢先。



捕らえた一味の者が、聞き捨てならない台詞を発した。


「へっ、俺たちだけを捕らえていい気になるなよ? 伝令を飛ばしたのを見逃しただろう、今頃お頭の所に伝わっている筈だ! お前達はもうこれで逃げられないぜ!」
「お頭から逃げられる奴なんていねえ! 何せあの人は伝説の『人斬り抜刀斎』様だからな!」


それは緋村にとって、大きな衝撃を与えるものだった。


緋村の元々いた世界では、志士は敗れ幕府が存続していた。
そんな世を3年ほど旅したが、いわば負けた側の志士をわざわざ騙るような輩は存在せず、こちらの世界へ来てからもそんな事件に関わったことは無い。

つまりこれは、緋村が初めて出会った『人斬り抜刀斎』を騙る事件。


それとなく警察からも事情を聞くと、数ヶ月前より諏訪より北、飛騨のあたりからそれは始まっていた。
『人斬り抜刀斎』なる男が率いた一団が、強盗殺人のような酷く惨いことを繰り返している、と。

しかし捕まるのはこのような小さな一味のみで、本隊と思われる一団は煙のように捕まらない。
『抜刀斎』のことも、捕まった者たちが口にするだけで姿を見た者はいないという有様で、警察も手を焼いていた。

もちろん警察も志々雄の一件で本物の抜刀斎は誰で何処にいるのか知っているので、奴らの言う者は偽者で本物がこんな凶行に及ぶ人物ではないことも判っている。

だが、未だその偽抜刀斎を捕まえることは出来ずにいた。



その話を知った緋村は、言葉を無くした。
自分の過去の、あの血塗られた名を騙ってこの平和になったはずの世で・・・凶行に及ぶ人物がいる。
その事実は大きな痛みを齎した。

そして味あわされた絶望にも似たそれを払ったのは、巴。


「しっかりして下さい。貴方の名を騙る狂人がいるのなら、他ならぬ貴方こそがその輩を捕らえるべきでしょう?」


巴のその狂人に向けた怒りは、緋村のそれよりむしろ大きかったかも知れない。
緋村がどんな思いで人斬りをしていたのか、維新は成らずともその後どうやって償い生きてきたのかをずっと見てきた巴には、その人物は到底許せるものでは無かったのだ。

かくして2人はその一団を追って、とうとうその根城と思われるこの地へ辿り着いたのだった。





「はぁ。さっぱりした・・・。」

先に湯から上がって部屋に戻った緋村は、窓辺にもたれてくつろいでいた。
木々の香りのする風が、湯上りに火照った身体に心地良い。

本当ならば直ぐにでも調べに赴きたいが、連日の山歩きで疲れていたのは緋村も同じ。
それに気付いていた巴に「そんなままでは行っても返り討ちに合うだけです」と強く言われてしまい、兎も角今夜は休むことにした。

まだ少し湿った髪もそのままで、行儀悪く片膝立てて冷酒を含む。
複雑な思いごと飲み干すようにぐいっと煽った。
喉を滑り落ちるそれは、本来ならば美味なのだろう味が微かにしか感じられない。

「・・・・・・美味いと感じないのは、今の俺の気持ちのせいか。」

昔、師匠に言われた言葉を思い出し、苦く笑った。




「湯上りにそんなところにいると風邪を引きますよ。」
「・・・大丈夫だよ。」

からりと襖を開け、入ってきたのは巴。
洗い髪に薄い浴衣が何とも色っぽい。
その姿を目にした途端、あれほど混沌としていた気持ちが嘘のように凪いだ。


これは甘えなのかもしれないし、逃げたいだけなのかもしれない。
何よりその肌に、温もりに、触れていたかった。

―――ただ、受け止めて欲しかったのかも、しれない。


「? あなた、何・・・・・・・・っ、ん・・・・・・っ!」

促されるまま中へ戻り、お茶の支度をする巴の手を止め口付けた。
野宿続きでずっと我慢していた若い身体は、それだけで身の内に小さな火を灯す。

「・・・っは、ん、んん・・・・・・っ」
「巴・・・、ともえ・・・・・・。」

情欲に掠れた声は、巴の身にもその火を移した。
巴とて、緋村に触れて触れられたかったのは同じこと。

・・・後はこのまま、2人でその熱に身を焦がすだけ。



静かな部屋に衣擦れの音と甘く熱い嬌声が、その日夜更けまで響いていた。








・・・そして刻はその少し前、宿の入り口にて。


「やれやれ、すっかり遅くなっちゃったわね。」
「そうでござるな、今夜は早く休んで温泉は明日ゆっくりつかるでござるよ。」
「本当ね。ずっと座ってたから腰がガチガチ!」

笑顔でそんな会話を交しつつ、東京からはるばるやってきた2人が入ったのは『梅薫楼ばいくんろう』と書かれた老舗の旅館。

その名の通り、白梅香の女と桜の似合う娘を迎え入れた旅館にて。




運命の歯車が、またひとつ音を立てて回り始めた。







戻 <<<                 >>> 進









2006.10.18