幕長戦争小倉口の戦い
慶応二(1866)年六月十七〜慶応三年一月二十日

幕長戦争最大の激戦、高杉晋作最後の戦い

 幕長戦争に至るまでの経緯はこちらを参照ください


小倉口の戦いの概要

 この幕長戦争で幕府軍は長州藩を芸集口・石州口・小倉口・大島口の四方面から攻めこもうと計画していましたが、長州藩は大島口を除く三方面では長州藩兵は自藩領で迎撃するのではなく、自藩領から出兵して積極的に攻勢に出る作戦を立てます。この作戦に従い芸州口には河瀬安四郎太田市之進等が率いる遊撃隊・御楯隊・鴻城隊・鷹徴隊等が、石州口には大村益次郎率いる南園隊・精鋭隊・育英隊等がそれぞれ向い、そして小倉口へは高杉晋作率いる奇兵隊・報国隊・正名団・忠告隊等が出撃します(芸州口・石州口・小倉口それぞれの名目上の指揮官は別の人物ですが、ここでは実質上の指揮官を書いています)。
 また大島は一時こそ幕府軍に占拠されましたが、その後世良修蔵白井小助林友幸等が率いる第二奇兵隊・浩武隊等が出撃し、大島を占拠していた幕府軍を撃退し大島を奪回する事に成功します。この幕長戦争大島口の戦いについての詳しい記述はこちらをご参照下さい。

六月十七日 田の浦の戦い
 このような状況の元、ついに六月十七日に高杉は小倉藩領への上陸作戦を指示します。まず第一陣として山県有朋三好軍太郎等が率いる奇兵隊の第一銃隊・第六銃隊・一番砲隊と、福原和勝率いる報国隊の四番小隊・六番小隊が出撃し関門海峡を渡海します。この内奇兵隊は大久保海岸に上陸し、報国隊は田の浦に上陸します。
 これに対し小倉藩兵は一番手と三番手と六番手が門司周辺に布陣していて、上陸してきた長州藩兵に攻撃を開始しますが、下記の編成を見れば判る通り小倉藩兵は長州藩兵と比べて近代化が遅れていたため銃隊が少なく、また実戦経験の豊富な長州藩兵に対して小倉藩兵はこの戦いが初陣のため軍勢としての動きも長州藩兵に遥かに劣り、そして何より小倉藩兵には本気で長州藩兵と戦おうと戦意が少ないため、まず六番手が奇兵隊の猛攻を支えきれず敗走し、一番手は戦国時代に毛利家と大友家の間で争奪戦が繰り広げられた門司城跡で抵抗しますが、ついに報国隊の攻撃を支えきれずに敗走します。
 その後下関本営から第一陣に続いて第二陣が出撃しますが、これは時山直八率いる奇兵隊の第二銃隊・第三銃隊・二番砲隊・正名団一個小隊と、熊野直介率いる報国隊一番小隊・二番小隊によって編成され、門司方面に直接上陸を開始します。この第二陣は門司に布陣していた小倉藩兵三番手と激突し、これを撃破します。
 かくして門司周辺の小倉藩兵を駆逐した長州藩兵は、下関本営に「門司制圧」の合図を送り、これを受け福田侠平率いる残りの全軍が門司に上陸しますが、このまま小倉城まで攻め込もうと言う意見が大半の中、高杉は制海権が相変わらず幕府海軍に握られている中での長期対陣は不利と考え、一旦全軍を下関本営に撤退させます。

門司から見た関門海峡、長州藩兵はこの海峡を渡って侵攻してきました。


七月三日 大里の戦い
 この後しばらく長州藩兵と小倉藩兵は関門海峡を挟んで小康状態になりますが、七月三日再び長州藩兵は上陸作戦を開始します。六月十七日の戦いでは長州藩兵の奇襲を受け為すすべも無く敗走した小倉藩兵でしたが、前回の敗戦から考えを改め準備を整えていましたが、一方で小倉藩兵単独では長州藩兵に対抗出来ないと判断し、他の小倉口に集結してる諸藩兵や幕府艦隊に協力を求めます。しかし長州藩に恨みがある訳ではない諸藩兵からは協力を得る事が出来ず、また幕府海軍も煮え切らない態度を取っていたので、このように諸藩兵や幕府海軍の協力を未だ得ていない状況のまま、二度目の長州藩兵の侵攻を迎える事になります。
 十七日同様に田の浦・大久保海岸付近から上陸した長州藩兵は、上陸後に軍を二つに分け、海岸線沿いと山間部の両方から小倉藩の重要拠点の大里目指し進撃します。この大里に小倉藩兵は二番手・四番手・五番手を布陣させますが、前回は長州藩兵に為すすべもなく敗れた小倉藩兵も、今回は多小は戦慣れしたのか、長州藩兵の攻撃を受けても頑迷に抵抗します。特に大里砲台からの砲撃には長州藩兵も苦戦し、この大里砲台に強襲を仕掛けるものの、奇兵隊第四銃隊隊長阿川四郎が戦死するなどの損害を受け撃退されます。また大里砲台近くの御所神社には小倉藩兵の数少ない銃隊が篭り、松林内から長州藩兵に銃撃を加えます、これを駆逐しようと同じく奇兵隊第四銃隊押伍(半隊司令)の堀滝太郎が攻めかかりますが、彼もまた銃弾に倒れます。
 かくして苦戦を続ける長州藩兵でしたが、次々に新手を繰り出す事により次第に戦況は長州藩兵の優勢となり、遂には小倉藩兵も力尽き、赤坂方面に撤退しますが、長州藩兵にこれを追撃する余力はなく再び下関に撤退します。

大里の戦いで小倉藩兵が篭った御所神社


七月二十七日 赤坂口の戦い
 この日長州藩兵は三度目の上陸を果たし、これに対し小倉藩兵は大里に三番手と六番手が布陣しますが、もはや小倉藩兵に長州藩兵の攻撃に抵抗する気力は無く、長州藩兵の攻撃の前にあえなく敗退します。この後長州藩兵は軍を分け海岸線沿いに福原和勝率いる報国隊が進み、山間部を山県有朋率いる奇兵隊が進み、そして時山直八が迂回部隊(奇兵隊?)を率いて一気に三方面から小倉平野への突破を試みて進撃を開始します。
 しかしこの小倉平野への最後の関門の赤坂口にはそれまで傍観を決め込んでいた熊本藩藩兵が布陣しており、延命寺山に本陣を置き、弾正山に主力を置くなどして長州藩兵を迎え撃つ体制を整えていました。この赤坂は前述の通り小倉平野に出るまでの最後の要所で、海岸線ギリギリまで弾正山が張り出して門司から小倉まで続く街道を遮断してるので、この要地を突破しない限り小倉平野には出れないと言う正にこの小倉口の戦いの天王山でした。
 またこの地に布陣した熊本藩兵は小倉藩兵などとは違い、前々より軍の近代化をしており、数は多くはないですが銃隊が正式編成されていました。また長州藩兵が渡海作戦をしてる以上大型の砲を運用出来ないのに対し、熊本藩兵は当時最新鋭のアームストロング砲を装備してるなど、装備の点では長州藩兵と互角以上の軍勢でした。
 このような訳で強兵熊本藩兵が守る赤坂口を突破するのは至難の技でしたが、ここを突破しなければ小倉平野に侵攻出来ない為、遂に長州藩兵は赤坂に対し進軍を開始します。
 まず最初は海岸線を進軍してきた報国隊が砲隊を先頭にして攻撃を開始しますが、逆に熊本藩兵の砲撃に多大な損害を受け撃退され、福田率いる報国隊の攻撃は頓挫する事になります。続いて山県率いる奇兵隊が山間部より赤坂の突破を試みます、この奇兵隊の攻撃は、かつての高杉晋作のクーデターの際の太田絵堂の戦いで活躍した山田鵬輔率いる第一小隊を先鋒に攻撃を開始し、この奇兵隊と熊本藩兵による一進一退の激戦が繰り広げられますが、遂に猛将山田は銃撃を受け戦死します。またこの山田が率いた第一小隊自体も、熊本藩兵の猛攻により半ば壊滅させられる事になります。
 この山田の戦死をきっかけに山県率いる奇兵隊の攻撃も頓挫したのですが、一方迂回攻撃を目指した時山の軍も熊本藩兵の抵抗に阻まれ撤退します。またこの苦戦を見て高杉は熊野直介に命じて予備戦力(報国隊と正名団か?)を率いさせますが、この部隊もまた熊本藩兵に撃退される事になります。かくしてこれまで連戦連勝だった長州藩兵も、遂に熊本藩兵が守る赤坂口を突破出来ずに遂に全面撤退する事になるのです。この様にこの日の赤坂口の戦いは熊本藩兵の勝利に終り、初めて長州藩兵の攻勢は失敗する事になります。

    

左:手向山から見た赤坂方面、右奥の山が弾正山
中:小倉方面から見た弾正山、現在は山の麓が削り取られて道路が作られていますが、当時は海岸線ギリギリまで麓が迫り出していました。
右:弾正山に立つ山田鵬輔以下奇兵隊隊士達の墓

  

左:熊本藩兵が本営にした延命寺
右:延命寺に立つ熊本藩兵戦死者の墓


幕府軍撤退と小倉城炎上
 それまで無敵の快進撃を続けていた長州藩兵を撃退した熊本藩兵でしたが、流石に長州藩兵との死闘は熊本藩兵にも少なからずの損害を与えたので、熊本藩兵は小倉口の幕府軍総督の小笠原長行に赤坂守備の交代を求めますが、確固たる戦略を持たない小笠原はこれを拒絶します。これは熊本藩兵以外に長州藩兵に対抗できる部隊が居なく、大事な要所の赤坂を任せられるのは熊本藩兵しか居ないと言う判断からなのですが、実際に任せられる熊本藩兵からすれば別に長州藩に恨みがあるわけではないので逆に迷惑千万、次第に熊本藩兵の不満は募っていったのです。
 かくして七月二十九日不満の頂点に達した熊本藩兵は独自の判断で赤坂を放棄して撤退します、これは援軍を送ると言っておきながら何もしない小笠原に対しての反感が高まったからだと言うのも大きかったからですが、この熊本藩兵の撤退は小倉藩にとっては晴天の霹靂でした。この熊本藩兵の撤退を受けた小倉藩は慌てて自藩兵を赤坂に送りますが、自分達で長州藩兵を防げる自信が無い小倉藩兵は熊本藩兵に泣きつくものの、熊本藩兵は同情を示しつつも小倉藩の懇願を受け入れる事はありませんでした。

 そしてこの日更に重大な情報が小笠原の元に入ります、それは将軍徳川家茂が死去したと言う知らせで、これに衝撃を受けた小笠原は半ば錯乱し、一人軍艦富士に乗り小倉口から逃げ出したのです。
 この小笠原の逃走を知った小倉滞陣の諸藩兵は悉く自領に引き上げを開始し、結果小倉に残るのは小倉藩兵のみとなり、小倉藩兵は単独で長州藩兵と戦わなくてはいけなくなったのです。このような絶望的な状況の中、一旦は小倉城を枕に討死する覚悟を決めますが、例え城を捨てても譜代大名の意地を見せ長州藩兵と戦い続けるべきだとの意見に定まり、遂に八月一日小倉藩兵は自らの居城に火を掛け、全藩兵とその家族達は小倉領南東の山岳地帯である平尾台を目指して総撤退を行ないます。

長州藩兵の攻撃を防ぎきれないと自ら火を掛け落城した小倉城の復元天守閣


小倉藩兵のゲリラ戦と停戦、そして高杉晋作の死
 こうして平尾台の山岳地帯に撤退した小倉藩兵は、そこを拠点に小倉城下を占領した長州藩兵に対し活発なゲリラ戦を仕掛けるようになります。これに業を煮やした長州藩兵は平尾台の西側から山県が、東側から時山がそれぞれ軍勢を率いて攻め込みますが、これまでは長州藩兵の前に無様な敗北を続けた小倉藩兵は、このゲリラ戦では生まれ変わったかのように長州藩兵を翻弄し苦しめさせ、長州藩兵の攻勢を何度にも渡って阻みます。更に小倉藩兵は長州藩兵を撃退後も活発なゲリラ戦を仕掛け、長州藩兵の補給物資を奪取したり、小倉城内に放棄した前藩主の遺骸を奪回するなど長州藩兵が舌を巻くほどの奮戦を見せます。しかし所詮拠点を失った軍勢に長期的な戦闘が継続出来る訳がなく、佐賀藩と薩摩藩を仲介として両軍は和睦し翌慶応三年一月二十日に半年近く続いた小倉口の戦いは講和により終結したのです。
 そしてこの講和の約三ヶ月後の四月十四日、この小倉口の戦いの実質上の指揮官の高杉晋作は二十九年の激動の生涯を終えたのです・・・。


 最後にこの戦いの主力となった長州藩兵の奇兵隊と報国隊、及び小倉藩の編成を書かせて頂きます。

長州藩兵
 奇兵隊
  総督:山内梅三郎
  軍監:山県有朋、福田侠平
  参謀:時山直八、三好軍太郎、片野十郎
  第一銃隊隊長:久我四郎、滋野謙太郎
  第二銃隊隊長:三好六朗
  第三銃隊隊長:堀潜太郎
  第四銃隊隊長:阿川四郎
  第五銃隊隊長:杉山荘一郎
  第六銃隊隊長:三浦五郎(観樹)
  第七銃隊隊長:鳥尾小弥太
  第一小隊(槍隊)隊長:山田鵬輔
  一番砲隊隊長:神田撰十朗
  二番砲隊隊長:岩本勘九朗
  三番砲隊隊長:山本小八朗
  四番砲隊隊長:白尾行八郎

 報国隊
  都督:桂縫、三澤東一介
  参謀:原田隼ニ、村上彦右門
  軍監:福原和勝、熊野直介、金子四郎
  一番小隊隊長:下田恂介
  二番小隊隊長:内藤芳介
  三番小隊隊長:諏訪好和
  四番小隊隊長:木村安八
  五番小隊隊長:原田謙吉
  六番小隊隊長:下村文二郎

小倉藩兵
 一番手大将:島村志津摩
 ニ番手大将:渋田見舎人
 三番手大将:渋田見新
 四番手大将:中野一学
 五番手大将:鹿島刑部
 六番手隊長:小笠原織衛
 銃隊小隊長:平井小左衛門
 銃隊小隊長:高橋唯之丞

主な参考文献

「防長回天史 第5編中」:末松春彦著
「郷土物語16巻 小倉戦争〜四境戦争其の一〜」:吉村藤舟著、防長史料出版社
「防長維新関係者要覧」:マツノ書店
「長州戦争」:野口武彦著、中公新書

前のページに戻る