北越戦争 第一章
慶応四(1868)年五月ニ日〜五月十九日

北越戦争関連地図
(記事を読む前に別ウインドで開いて、記事を読む際にご活用下さい)

〜北越の蒼龍河井継之助遂に立つ、榎峠・朝日山の激戦と第一次長岡城攻防戦〜

*日付は小千谷談判から第一次長岡城攻防戦までの日付です。


北越戦争に至るまで

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍に勝利した新政府軍は、その後山陽・山陰・四国・九州の西国を平定し、背後の安全を確保した上で、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸城目指して進軍を開始します。しかし前将軍徳川慶喜が新政府軍に恭順降伏した為、次の討伐目標である会津藩討伐の為に、会津藩の搦め手である越後津川口から会津藩を攻める為に越後を侵攻する北陸道軍(北陸道先鋒総督府軍、後に会津征討越後口総督府軍に再編成)と、米沢藩・長岡藩・会津藩等を始めとした奥羽越列藩同盟軍(以下同盟軍と略)との間に行われたのが北越戦争です。
 この北陸道軍は長州藩の山県有朋(狂介)と薩摩藩の黒田清隆(了介)の両参謀の指揮の元、薩摩藩兵4個中隊相当(城下士小銃隊十番隊・ニ番遊撃隊・外城三番隊・同四番隊)、長州藩兵6個小隊(奇兵隊一〜六番隊)、長府藩兵4個小隊(報国隊一〜四番隊)等を主力として京を出撃し北進を開始しました。その後当時最大の藩だった加賀藩を降し、その兵力を傘下に加えた後に越後に侵攻、越後最大の藩でもある高田藩を降します。
 この後高田の地で本来は東山道軍(東山道先鋒総督府軍)所属だった軍監岩村高俊率いる尾張藩兵8個小隊・大垣藩藩兵3(?)個小隊・松代藩兵12個小隊(五〜八番狙撃隊・一〜六番小隊・一〜二番遊軍)及び13個砲兵隊・松本藩兵7個小隊・高遠藩兵2個小隊・高島藩兵2個小隊・飯山藩兵1個小隊・飯田藩兵1個小隊・上田藩兵2個小隊・竜岡藩兵1個小隊の戦力を指揮下に入れます。その後兵力を二分し軍監である長州藩の三好重臣(軍太郎)率いる海道軍と軍監岩村高俊率いる山道軍に分かれそれぞれ進軍し、各地の会津藩兵・桑名藩兵・衝鋒隊等の敵対勢力を駆逐し、最終的には長岡城にて合流する作戦でした。つまり交通の要所でもある長岡を新政府軍は最初から制圧するつもりだったと思われます。
 しかし上記の様に北陸道軍の目的はあくまで津川口から会津藩を攻める事で、幾ら最初から長岡を占領する意図があったとは言え、長岡周辺で三ヶ月近くも同盟軍と激戦を続ける事になり津川口に攻め込む時期が遅れたのは、北陸道軍を率いる山県とは黒田にとっては大きな誤算でした。


北越の蒼龍河井継之助の軍制改革

 越後のほぼ中央に位置する長岡藩は7万4千石の中規模の藩ですので、本来なら長岡藩の動向など歴史に残る事はなかったでしょう。しかしこの中藩の長岡藩に河井継之助と言う稀代の傑物が生まれたため、北越戦争は戊辰戦争最大の激戦となったのです。
 最終的に長岡藩の軍事総督となり、その鬼才で明治新政府に維新の挫折を覚悟させた程の河井ですが、長岡藩内では中程度の家系で世が太平ならせいぜい優秀な官僚として世を終える筈でした。しかし激動の時代は河井の手腕を必要として、河井は長岡藩の全権を握る事になるのです。
 かくして長岡藩の上席家老となった河井は、藩内の財政改革を行い万年赤字だった藩財政を一気に好転させるのに成功させます(河井の藩内の改革については割愛)。そしてその財政改革によって得た資金と、更に藩主の家宝等を売却して得た資金によって、河井は大量の武器を買い込み長岡藩兵の武装強化を試みます。
 この時河井が購入したのは前装施条銃のミニエー銃ないしエンフィールド銃だと思われますが、北越戦争の時期既に一部の新政府軍は後装施条銃のスナイドル銃を配備し始め、佐賀藩(北越戦争には不参加)に至っては7発連続発射可能なスペンサー銃を装備していたので、前装施条銃のミニエー銃やエンフィールド銃は既に新鋭銃とは言えなくなっていました。しかし新政府軍の大半は長岡藩兵と同じミニエー銃やエンフィールド銃を装備し、藩によってはそれ以下の前装滑腔銃のゲベール銃を装備していた藩もまだまだ存在していたので、少なくても武装に関しては長岡藩兵は新政府軍と互角以上の実力を持っていたのです。

 また単に武装の強化だけではなく、河井は軍制をも改革します。それまでは戦国時代と同様の禄高に応じた寄親(士分)・寄子(中間・足軽)が一緒になっての兵数もばらばらの編成でしたが、河井はこれを士分は士分、足軽(卒)は足軽(卒)と完全に分け、かつ1つの部隊の兵数を統一した部隊編成を実行します。これは新政府軍の薩摩藩・長州藩・松代藩と言った強兵の藩と同様の編成で、同じ部隊内の兵士の身分を統一する事により意思疎通を容易にして柔軟な部隊行動を可能にしました。こうして武士は武士、足軽は足軽に分けた兵士達に上記のミェー銃ないしエンフィールド銃を供与して、士分による「銃士隊(兵数35名程)」と足軽による「銃卒隊(兵数50名弱程)」の小銃隊編成を実現させたのです。
 こうして銃士隊と銃卒隊の小銃隊が誕生し、この小銃隊8個小隊によって1個大隊が編成され、この8個小隊による大隊が2個の2個大隊(計16個小隊)と32門の砲を有する砲兵隊が長岡藩の正規軍となりました。この正規兵を河井は長岡城城下の中島町に設営した中島兵学校で血の滲むような猛訓練させ、これにより長岡藩兵は後の戦いで薩長の精鋭と互角の戦いを繰り広げれる西洋化された軍勢となったのです。余談ですが同じ同盟軍でも米沢藩は小銃隊こそ編成出来ましたが、身分毎に部隊を分ける事は出来ませんでした(二章で詳細を説明します)。
 河井継之助と言えばガトリング砲が有名ですが、その本当の恐ろしさは上記のような薩長連合軍と互角以上の小銃隊の編成と、32門もの砲を誇った火力重視の軍勢を作り上げた事だと思います。河井の戦略手腕については賛否両論ありますが、こと軍制の手腕に関しては軍略の天才大村益次郎に匹敵する手腕だったと判断します。

 またこの正規軍2個大隊の他に、士分による槍隊と農兵隊が居ましたが、この槍隊と農兵隊の詳細は判りません。これら全ての兵力を加えた長岡軍の総兵力は1千余と言われ、河井はこの1千余の戦力を背景に新政府軍との交渉に入るのです。

 以上のように長岡藩の軍事力強化に勤めた河井が目指したのは長岡藩の武装中立だったと言われています(後述)、元々河井は鳥羽伏見の戦い直後の新政府軍に対して、内戦を避けるようにと建白書を明治新政府に提出しましたが、新政府に黙殺されました。これを長岡藩が小藩だから新政府に軽く見られたと判断した河督は上記のような軍事力強化に勤め、自身でも長岡藩の軍事力に自信が持てるようになったので、この自身の意見を掲げて、五月二日に行われた運命の小千谷会談に臨む事になるのです。


河井継之助の武装中立論について

 この河井の掲げた理論については色々な意見もありますが、私もつい最近までは河井が武装中立を本気で表明していたと思っていました。しかしよく考えてみると、この日本が新政府軍と親旧幕府軍(反新政府軍)の真っ二つに分かれた天下分け目のこの時期に、辺境の地ならいざ知らず交通の要所である長岡が中立を表明する事を新政府軍が許容すると河井ほどの男が考えていたとは思えません。実際前述した通り新政府軍は当初から交通の要所である長岡を制圧する予定だったので、河井ほどの男がそのような甘い考えを持っていたとは思えません。
 しかし一方で譜代大名である長岡藩牧野家が、徳川家からの政権奪取を掲げる新政府軍に恭順するのを、偏屈な河井が許容したとは思えず、むしろ会津藩等の親旧幕府勢力に好感を持っていたと思われます。実際河井は江戸から退去する際に会津藩の梶原平馬や桑名藩藩主一行と同行している事からも本心では親旧幕府だったのは間違いないと思います。また河井には自分が育て上げた長岡藩兵の実力を試してみたいという野望があったのも少なからずあったと思います、これは才能と野心に溢れた人間の性だったのではないでしょうか。
 以上の事から私としては、当時の河井は戦いと避けたい気持ちと戦いを欲した二律背反の状況だったと思います。また当時の情勢から、河井も心の奥底では新政府軍との戦いを覚悟して会談に臨んだと思っています。ただし長岡藩を巻き込む戦いを避けたいというのもまた本心で、武装中立論が新政府軍に受け入れればそれが一番良いとの気持ちで会談に臨んだのではないでしょうか?、武装中立論もまた紛れもない河井の本心だったと思います。

2009年7月5日追記
 本記事を書いた2003年当時は、上記のように河井の中立論を支持していました。しかし最近、幕末の越後における会津藩の動向を調べるに当たってこの考えを改めました。
 会津藩は討幕派の動向に備えて、慶応三年六月と翌四年二月に越後の諸藩を自分の陣営に引き込む為の、諸藩会議を開催しています(新潟県史通史編6)。この会議を会津藩と共に指導したのが長岡藩でした。この二回の会議、特に二回目の酒屋会議では、鳥羽伏見で勝利した新政府に対しての敵対姿勢を示す決議をしているのですから、長岡藩はこの二月の時点で会津藩と協力して越後諸藩を反新政府に纏めようと判断して良いでしょう。この諸藩会議の経緯を考えると、会津藩と共同歩調を取る長岡藩が「中立」と表明した所で、絶対主義による国内統一を目指す新政府軍が、長岡藩の姿勢を疑っても仕方ないかと思います。恐らく河井の中立論とは、新政府軍がそう疑ったように、新政府軍との開戦までの時間稼ぎに過ぎなかったのでしょう。
 尚、自分自身の考えの変化を記録する為にも、あえて昔の誤った自説を修正せずに残させて頂きます。


小千谷会談の決裂:五月ニ日

 かくして自己の理論を掲げて山道軍の本営の慈眼寺に乗りこんだ河井でしたが、対応した山道軍軍監の岩村高俊ははなっから河井の意見などは聞くつもりもありませんでした。この岩村はかつて坂本竜馬の下で働いていたと言う一点のみで新政府軍の軍監に抜擢された、正に薩長土のバランスによって選ばれた人間で、実際には何の能力も無い無能な男で、そのくせプライドだけは高いと言う正に愚物でした。しかし仮に岩村以外の人間が河井と会談しても、河井の要望が認められる事はなかったでしょう。これは絶対主義権力による国内統一を目指す明治新政府は、全国諸藩の全面的な恭順を基本方針としていたので、独自の立場を取ろうとする長岡藩の中立論を認める事は出来ませんでした。その様な意味では世間で言われる愚物の岩村ではなく、山県や黒田が河井と会談したとしても河井の要望が認められる事はなかったでしょう。
 その様な意味では小千谷会談の決裂は岩村一人の責任ではありませんでしたが、岩村の愚かなところは会談した河井の尋常ではない才覚を見抜くことも出来ず、自身が後年述懐したように河井を「田舎藩の馬鹿家老」と判断し、はなっから見下して対応して会談が決裂した後に河井を拘束せずに帰してしまった事にも現れています。その後の北越戦争での河井の活躍を考えれば、この時に河井を拘束しておけばその後の苦労もなかったのに、それすらもしなかった事からも岩村の無能ぶりが伝わってきます。
 このように小千谷会談の決裂は新政府の基本方針に従ったに過ぎませんが、もう一つ大きな理由として会津藩の暗躍があります。実は河井は小千谷会談に挑む前に長岡城南方の妙見高地から長岡藩兵を撤退させていました、これは平城の長岡城にとって妙見高地を奪われたら丸裸同然ですので、この妙見高地から兵を撤退させたと言う事は河井にとって、新政府軍に対して敵対の意思がないとの意思表示だったのですが、当時既に新政府軍と交戦状態に入っていた会津藩としては、強力な軍事力を持つ長岡藩を何としても味方に引き入れる為に、この越後方面に出撃していた会津藩兵を率いる一之瀬要人佐川官兵衛等は、小千谷会談を決裂させるため小千谷会談の前日に長岡藩内から新政府軍に攻撃を加えたのです。このため新政府軍は長岡藩を会津藩の味方だと判断し、この判断も小千谷会談の決裂に繋がったと思われます。
 その様な意味ではこの小千谷会談の勝利者は河井でもなく、無能な岩村でもなく、目論見どおり長岡藩を味方に引き込む事に成功した会津藩だったのかもしれません。

   

 左:河井と岩村が小千谷会談を行った慈眼寺
 右:小千谷会談の帰りに河井が立ち寄ったと言われている料亭「東忠」


榎峠攻防戦・朝日山攻防戦:五月十〜十三日

同盟軍の攻撃準備
 こうして小千谷会談が決裂と決まった河井は会談前に兵を引かせた妙見高地を奪回する事を決意、摂田屋に在る長岡藩本営の光福寺に諸隊長を集め、会談が決裂した事を伝えて新政府軍と戦う事を表明します。また新政府軍と戦うからには長岡藩の戦力だけでは戦力不足のため、長岡周辺で新政府軍と交戦していた会津藩兵や衝鋒隊や桑名藩兵を領内に迎え入れ、彼等を指揮下に入れ戦力を増強します。
 このように妙見高地奪回作戦を着実に進めていた河井継之助ですが、おりしも小千谷周辺は六日からずっと雨が降っていたため作戦行動が取れず、ようやく雨が止んだ九日に光福寺で長岡藩大隊長山本帯刀、会津藩の佐川官兵衛、桑名藩の立見鑑三郎、衝鋒隊の古屋佐久左衛門等を集め、妙見高地奪回作戦の計画を話し合い、その妙見高地を目指し出撃します。かくして光福寺を出撃した同盟軍は十日払暁に妙見高地の榎峠を守る新政府軍に対し攻撃を開始します。
 この時榎峠を守っていた新政府軍は尾張藩兵1個小隊(隊長津田九朗次郎)と上田藩兵1個小隊の計2個小隊だけでした。新政府軍としても榎峠に援軍を送ろうとしてましたが、同盟軍の行軍を防いだ大雨により信濃川が増水していたため、対岸の小千谷から援軍を送れない状況でした。
 このような状況の新政府軍が守る榎峠に同盟軍は攻撃を開始します、河井は軍を三つに分け、主攻撃の長岡藩軍事掛萩原要人率いる山本大隊所属の3個小隊(斉田轍隊・本富寛之丞隊・渡辺進隊)と砲2門、そして佐川官兵衛率いる会津藩朱雀士中四番隊を榎峠正面に向わせます。また助攻撃として長岡藩軍事掛川島憶二郎率いる残りの山本大隊所属の4個小隊(大川市左衛門隊・波多謹之丞隊・田中小文治隊・牧野八左衛門隊)を側面を突かるために迂回させます。また会津藩鎮将隊(隊長官野右兵衛)と桑名藩浮撃隊(隊長木村大作)・同神風隊(隊長町田老之丞)・衝鋒隊(隊長古屋佐久左衛門)による援軍は更に大きく迂回させ榎峠背後の朝日山方面に向わせます。

 長岡藩が本営を置いた光福寺

榎峠攻防戦
 かくして十日払暁から正面部隊は攻撃を開始しますが、弱兵の尾張藩兵と上田藩兵の僅か2個小隊しか守っていないとは言え榎木峠の狭い峠道では大兵力を展開出来ず、同盟軍は数の有利を活かす事が出来ず、序盤の戦況は新政府軍有利で進みます。しかし助攻撃の迂回部隊長岡藩兵3個小隊と砲兵隊が榎峠東の石坂山に辿りつき、山頂から銃撃と砲撃を開始すると、元々強くは無い尾張藩兵と上田藩兵は瞬く間に浮き足立ちます。更にその後会津藩兵・桑名藩兵・衝鋒隊の別働隊が榎峠南方の朝日山を占拠した事により、尾張藩兵と上田藩兵は半包囲状態に追い込まれ、榎木峠から敗走します。

 一方の小千谷の新政府軍本営の岩村は早朝の同盟軍の銃撃の音を聞いても事の重大さを理解出来ず、朝から酒を飲んでいると言うここでも無能ぶりを晒していましたが、同盟軍の銃撃音を聞いて急いで駈けつけた山県有朋が愚物の岩村を足蹴にして、自らこの方面の指揮を取る事を決意した事により、こうして新政府軍も反撃を開始します。余談ですが山県と同じく新政府軍の参謀だった黒田清隆はこの時高熱で寝こんでいたため、山県が一人で指揮を取る事になります。
 こうして山県は薩摩藩兵・長州藩兵(奇兵隊・報国隊)・松代藩兵・尾張藩兵等を援軍に向わせますが、信濃川をようやく渡河した頃には夕刻になっており、その時には榎峠・朝日山とも同盟軍に完全に占拠されてる状況だったので、山県は一旦兵を退かせます。

      

 左:信濃川と榎峠、左の山を通るのが榎峠で、その奥の山が朝日山です
 中:榎峠から長岡方面を見下ろして。見てもらえば判りますが榎峠以降は長岡城まで平野が続くので、長岡城にとってこの榎峠・朝日山等の南方高地は最終防衛ラインだと言うのが判って頂けると思います。
 右:榎峠古戦場の石碑

朝日山攻防戦
 こうして妙見高地は同盟軍が占拠する事になったため、山県は同じ長州藩奇兵隊の同志であり、北陸軍の仮参謀(注)の時山直八(山県は奇兵隊軍監、時山は奇兵隊参謀)と今後の作戦を協議して、まず妙見高地の要所である朝日山を奪取する事を決意します。
 こうして十三日に朝日山に対する攻撃を開始する事を決意しましたが、慎重な山県は更なる増援を求めるため十二日夜半一旦後方に下がりましたが、十三日払暁信濃川周辺に濃霧が漂ってるのを時山が好機と見なして手持ちの兵力のみで攻撃を行う事を決意して渡河行動を開始します。この時時山が率いたのは長州藩奇兵隊二番隊(隊長久我四郎)・同五番隊(隊長野村三千三)・同六番隊(隊長山根辰三)・長府藩報国隊一番隊(隊長下田恂介)・同三番隊(隊長諏訪好和)の5個小隊と、薩摩藩二番遊撃隊(隊長大迫喜右衞門)・同三番隊(隊長有馬誠之丞)・城下士小銃十番隊半隊(隊長山口鉄之助)の2個中隊半相当のいずれも歴戦の部隊で、時山自身も長州内戦から幕長戦争と数々の戦場を戦い抜いた歴戦の将でしたので、この精鋭部隊を率いて一気に朝日山を抜くつもりでした。

 そしてその自信の通り時山は同盟軍に気づかれる事なく濃霧に紛れて信濃川を渡河する事に成功し、長州藩兵(奇兵隊・報国隊)は朝日山北側より薩摩藩兵は西側より朝日山に攻め登ります。時山自身は奇兵隊を率いて北側より攻め寄せ、流石は歴戦の将らしく朝日山中腹の会津藩鎮将隊が守る陣地を次々に攻め落とし山頂に迫ります。しかし山頂間近の分かれ道で道案内の農民が道を間違えたため、本来は山頂の同盟軍陣地の背後から攻撃するつもりだったのが、同盟軍陣地の正面に出てしまうことになります。
 目論見が外れてしまった時山ですが、それでも同盟軍陣地を突破しようと攻撃を開始します。しかし幾ら歴戦の時山や奇兵隊と言えども、山頂の陣地を守るのは歴戦の桑名藩雷神隊(隊長立見鑑三郎)、すかさず猛烈な射撃を受けたので、時山率いる長州藩兵も突破する事が出来ず、ついに時山も銃弾を受け散華します。そして指揮官の時山が倒れると奇兵隊も総崩れになり、朝日山から敗走します。この長州藩兵の敗走を知った薩摩藩兵も撤退を開始したため、こうして新政府軍の朝日山攻撃は失敗に終ったのです。
 一方援軍を求めて後方に下がっていた山県ですが、時山の行軍を知り慌てて小千谷に戻ってきましたが、山県が信濃川を渡ろうとした時には既に新政府軍が敗れた後で、時山の亡骸(首)と対面した山県は昔からの同志の死を痛みました。この時山県が詠ったのが有名な「仇まもる、砦のかがり、影ふけて、夏も身に染む、越の山風」です。

 (注)時山の北陸軍での身分は仮参謀と言う説と軍監の説の両方がありはっきりしません、ただ同じ奇兵隊参謀の三好が軍監だったのを考えると時山も軍監だったと考える方が自然なのではないでしょうか?。余談ですが白井小助は小軍監と書かれています。
 また山県・時山・三好が活躍した幕長戦争小倉口の戦いについてはこちらで纏めていますので、興味がありましたらご参照下さい。

      
 朝日山のいたる所に立つ同盟軍兵士の墓。同盟軍戦死者の内長岡藩兵は領内の墓所に葬られましたが、会津等の他藩の兵士は朝日山山中に葬られました。
      
 左:朝日山山頂に同盟軍によって築かれた塹壕
 中:朝日山山頂から榎峠を見下ろして
 右:朝日山山頂に立つ朝日山古戦場後の石碑   

      

 左・中:小千谷市内船岡山内の新政府軍墓地
 右:新政府軍墓地内に建つ時山直八の墓


第一次長岡城攻防戦:五月十九日

 こうして朝日山攻撃が失敗に終ると山県有朋は更に慎重になり、三好重臣率いる海道軍が到着するまで守勢をとる事にし、信濃川を挟んだ同盟軍陣地への砲撃に徹します。
 一方の河井の方も守勢に入った新政府軍を攻めるだけの戦力はないので(この頃はまだ米沢藩兵等の援軍は到着していません)、同盟軍の方も妙見高地の榎峠や朝日山の陣地を強化して、こちらももっぱら砲撃に徹する事になります。こうしてしばらく両軍は信濃川を挟んで砲撃戦を行う膠着状態となるのです。

 一方の三好率いる海道軍は出雲崎等に篭る桑名藩兵・会津藩兵・水戸脱走軍等の同盟軍を駆逐しながら前進し、ついに十二日に長岡西方5キロ弱に位置する、長岡平野を見下ろす丘陵地帯の関原を制圧します。この関原を本営とする事にした三好は小千谷の山県と連絡を取り、同盟軍の主力が妙見高地に居る隙を狙い、十九日に海道軍が一気に信濃川を渡河して長岡城を攻撃する作戦を立てます。当時は大雨により信濃川が増水していたため、これには当初薩摩陣営から「無謀だ」と言う反対意見が出ましたが、かつて「長州勢は思っていたより弱い」と薩摩勢に言われた事のある三好と報国隊軍監の熊野直介としては、ここで長州勢の意地を見せてやると長州藩兵が先鋒となる渡河作戦を決意します。

 かくして十九日払暁、三好と熊野は長州藩奇兵隊三番隊(隊長堀潜太郎)・長府藩報国隊二番隊(隊長内藤芳介)・同四番隊(隊長木村安八)を率いて渡河作戦を開始して長岡城正面の中島方面に上陸します。また続いて高田藩榊原若狭大隊(小隊数不明、兵員380名程)と加賀藩兵2個中隊相当(隊長小川仙之助斉藤興兵衛)も渡河作戦を開始し、中島周辺には次々に新政府軍が上陸します。またこの三好率いる部隊の上陸後に薩摩藩兵も渡河作戦を開始し、三好達が上陸した北側の蔵王方面に薩摩藩城下士小銃十番隊半隊(隊長山口鉄之助)・外城三番隊(隊長有馬誠之丞)・同四番隊(隊長中村源助)等が次々に上陸し、蔵王堂城陣地を守る長岡藩兵を撃破してこの地を占拠します。
 これに対して同盟軍は主力を妙見高地に配置していたため、長岡城の守備戦力は脆弱なもので、完全に奇襲を受けた状態の状況では長岡城の防御は難しいものでしたので、河井は新政府軍の奇襲を受けたのを知ると長岡城の放棄を決意するのです。
 元々長岡城は平城のため防御力がなく、そのために妙見高地を新政府軍から奪取したくらいですので、信濃川を渡られた以上長岡城を保持するのは不可能でした。そのため新政府軍の渡河を知った河井は長岡城に駈けつけるとまず藩主親子を会津に脱出させ、その後自らガトリング砲を操り新政府軍を拘束し、その間に旗下の部隊を栃尾方面に撤退させると言う遅滞戦術を成功させるのです。
 この三好の攻撃を知った山県は小千谷から出撃し妙見高地奪取を目指しますが、妙見高地守備の同盟軍からの激しい迎撃を受け撃退されてしまいます。この隙に同盟軍は妙見高地から撤退したため、この妙見高地を守備していた部隊も殆ど損害を受ける事なく撤退したのです。

      
左:新政府軍が本営を置いた関原に立つ「新政府軍本営跡地」の石碑と案内板
中:信濃川西岸関原方面から、新政府軍が上陸した信濃川東岸中島方面を見て
右:信濃川東岸中島方面から信濃川西岸関原方面を見て

           
左:中島町の新政府軍上陸の地の碑と、この戦いで戦死した新政府兵士の慰霊碑
中・右:長岡城跡の石碑

 かくして山県と三好が意図した長岡城の奪取は成功しましたが、肝心の同盟軍主力の捕捉殲滅には失敗し、敵の根拠地を奪ったにも関わらず同盟軍の戦死者は50名弱というほぼ無傷の状態で取り逃がしてしまいました。ただ兵力的な損害は少なかったとは言え、長岡城を奪取された事により折角備蓄していた弾薬や食糧及び金を失った事は河井にとっては痛恨の極みだったでしょう。

 それでも同盟軍は栃尾へ逐次撤退し、長岡からの撤退軍と妙見高地からの撤退軍が栃尾に到着合流すると、更に後退を続け桑名藩領の加茂に向います。この加茂に米沢藩兵を主力とした援軍が到着したため、同盟軍の戦力は増加し約3000の大軍となり、更に背後の新潟港から諸外国から購入した銃砲及び弾丸の補給が容易になったため新政府軍への反撃を開始し始めます。
 一方長岡城を奪取した新政府軍ですが、その後同盟軍の追撃を目指し次々に進軍していったのですが、余りにも前線を伸ばし過ぎたため補給が追いつかなくなり、正に攻勢限界点に達してしまったのです。
 こうして長岡城攻防戦に勝利したとは言え、新政府軍は補給に不安を持つ状況でかつ前線が延び過ぎた不安定な状態だったのに対し、敗れた筈の同盟軍は米沢藩兵を主力とした援軍を得て、更に新潟港からの補給が整ったため戦力も士気も回復して、攻勢限界点に達した新政府軍に攻撃を開始する事になるのです。
 かくして北越戦争の戦況は第二段階に入っていくのです・・・。

第二章に進む


主な参考文献(一章から六章まで合わせて)

「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会

「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社

参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

前のページに戻る