北越戦争 第二章
慶応四(1868)年五月一日〜六月二日

北越戦争関連地図
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〜米沢藩参戦す、同盟軍の反撃開始 見附・赤坂等の戦いと今町の激戦〜

*日付は米沢藩参戦から、今町攻防戦までの日付です。


米沢藩の思惑と参戦

米沢藩の成立と宿願
 米沢藩は史上有名な上杉謙信公の養子上杉景勝公を藩祖に持つ藩です、かつて越後を本拠地として周囲にその武威を示した上杉家ですが、豊臣政権を経て関ヶ原で西軍についたため故地の越後から米沢の地に封じられる事になりました。
 この時から上杉家家中は故地である越後にいつか帰る日を夢見るようになりました、これは幕末に米沢藩が越後内に1万石余の預かり地(岩船郡)を得る事により、その想いは益々強くなり、この状況の中大政奉還から王政復古を経てついに鳥羽伏見の戦いとなるのです。

米沢市上杉家御廟所に建つ、米沢藩藩祖上杉景勝公の墓

      

左:米沢城正門跡、現上杉神社正面参道
中:米沢城正門に掛かる舞鶴橋
右:春の米沢城跡

      

左:冬の寒さで凍った米沢城跡の内堀
中:春の桜の花弁が積もった米沢城跡の内堀
右:米沢城二の丸跡、現上杉記念館

奥羽鎮撫総督府の派遣と米沢藩の対応
 鳥羽伏見の戦いを知った米沢藩は、藩主である上杉斉憲自らが新政府と旧幕府の調停をすべく軍勢を率いて出陣しましたが、情勢の変化を見て米沢に引き返すことになります。ただその際家老である千坂高雅等を京に派遣し新政府と折衝させる事になりますが、見るべき成果を見ない間に三月に入り、世良修蔵大山格之介が率いる奥羽鎮撫総督府が会津討伐の為仙台に到着するのです。
 この実質世良が率いる奥羽鎮撫総督府と世良修蔵暗殺事件については幕長戦争大島口の戦いの記事を参照して頂くとしまして、不利な情勢の中にも関わらず世良は奥羽諸藩に指示して会津藩藩境近くまで軍勢を進ませますが、その中には奥羽鎮撫総督府の要請を受けた家老色部長門の率いる米沢藩兵の姿もありました。
 ただ米沢藩はかつて寛文の御家断絶の危機の折に会津藩から助力を受けていた恩があったので、新政府軍に兵を送る一方で、宮島誠一郎等の使者を京に送り状況打開を試みます。この宮島は京にて新政府参与の広沢真臣(長州)と会談し、遂には広沢の口から「会津と会談の場を設ける用意がある」との言を得て米沢に帰還します。しかし絶対主義権力による国内統一を目指していた新政府の方針を考えれば、広沢が宮島の言うような事を語ったとしても、これは単に広沢個人の考に過ぎず、広沢の認識を新政府の認識としてしまたのは宮島の早計だったかもしれません。
 しかし広沢の言葉に希望を見出した宮島は米沢藩に帰還後この事を報告し、更に他の奥羽諸藩に伝える為にも当時奥羽諸藩の藩士達が滞在していた仙台藩領白石に向かうのですが、その白石で絶対主義権力による国内統一という使命感から、奥羽諸藩に対し非妥協敵な態度を取り続けた世良が仙台藩士によって暗殺された事を知らされ、宮島は日記で「京での数日の苦労も水泡となった」と記す事になるのです。そしてこの世良の暗殺を契機になし崩し的に対新政府の様相を持つ奥羽列藩同盟が成立する事により、遂に奥羽戊辰戦争が始まる事になるのです・・・。


米沢藩兵の出兵と軍制について

米沢藩兵の出兵
 かくして奥羽越列藩同盟が成立したのですが、その中で米沢藩は最上方面と越後方面の担当となったので、家老色部長門千坂高雅毛利上総、中老若林作兵衛、小姓頭下条外記安田彦平太、中之間年寄倉崎七左衛門庄田総五郎、役所堀尾保助中川英助等の米沢藩政府首脳部の会議の元で越後と出羽への出兵が決まります。
 これにより家老千坂を総督として役所堀尾保助を伴ない7個小隊を率いて、庄内攻撃の為に新庄に向った大山率いる新政府軍別働隊を攻撃する為に閏四月二十五日に出羽へ向けて出陣します。しかしこの出兵は大山が機転を利かし、街道を封鎖して秋田に逃走したため、千坂率いる軍が到着した時には既に新政府軍は秋田に去った後でした。この後千坂は越後方面軍の指揮を取る為にこの地を去った為、その後の出羽方面軍の指揮は本庄昌長が引き継ぎます。

 一方の越後方面軍は前述した通り藩士の多くが、故地越後を奪回すると言う長年の夢と、その故郷の民衆を救いたいと言う使命感に胸を高まらせていました。しかし一方越後に出兵すれば新政府軍との戦いは避けれないので、少数派とは言え和平派の藩士は越後出兵に反対し、この為多くの藩士の熱意とは裏腹に出陣準備が捗りませんでした。それでもようやく五月一日に大隊頭中条豊前率いる先発の11個小隊による1大隊(斉藤篤信隊・柿崎家教隊・香坂与三郎隊・苅野鉄之助隊・香坂勘解由隊・岩井源蔵隊・菅名但馬隊・芋川大膳隊・小倉吉蔵隊・朝岡俊次隊・松木幾之進隊)凡そ680名が前軍と出陣します。その後遅れて五月十三日にようやく色部長門を総督、甘粕継成を参謀とする大隊長大井田修平の率いる13個小隊による1大隊及び砲2門の凡そ計650名が出陣します。この大井田大隊は大井田率いる7個小隊(古海勘左衛門隊・増岡孫次郎隊・曾根敬一郎隊・桃井清七郎隊・長右馬之助隊・山下太郎兵衛隊・戸狩左門隊)と、総督の色部直属の6個小隊(浅羽徳太郎二番散兵隊・下秀丸一番散兵隊・潟上弥助隊・徳間久三郎隊・高野広次隊)及び砲2門に分かれて行軍を開始しました。
 しかし兵力不足を心配した米沢藩政府は十五日には追加の軍勢として馬廻組10個小隊(土肥伝右衛門隊・関文次隊・山崎理左衛門隊・西堀源蔵隊・三股九左衛門隊・佐藤久左衛門隊・岡田文内隊・古海又左衛門隊・上野貞助三番散兵隊・寺島太一四番散兵隊)及び、30匁大筒隊4隊(石栗善左衛門隊・桐生源作隊・三矢清蔵隊・蓬田新次郎隊)を出陣させます。
 かくして出陣した本軍は米沢街道を進み、十五日に遂に国境を超え宿願の越後に入国します。この日の夜は国境付近の下関村の米沢藩の御用達商人であり、この北越戦争では米沢藩兵の中継基地となる渡辺三左衛門の屋敷に宿泊し、この屋敷で横浜で購入したミニェー銃2000挺とスペンサー銃250挺を受け取り、これらの銃を装備していよいよ米沢藩兵は越後戦線に参戦します。

米沢藩兵の編成について
 米沢藩上杉家の軍制は「組」によって区分される戦国時代から続く家臣団の編成により構成され、大まかに分けると米沢移封後に成立した侍組・三手組・三扶持方・扶持方並・足軽組の基本5組による編成で戊辰戦争に突入する事になります。このように基本5組による編成で戊辰戦争を戦った米沢藩ですが、以下に米沢藩の家臣団の編成を簡単に説明させて頂きます。

侍組
 米沢藩祖謙信公に従って各地を転戦した越後の国衆及び、上杉家に馴染みの深い信州侍の大身の者から選ばれています。また甲州武田家が織田信長によって滅ぼされた際、越後に亡命してきた武田家の生き残りも含まれます。
 この侍組は米沢藩上杉家の家臣団の筆頭格で、千坂高雅や色部長門や甘粕継成と言った戊辰戦争で米沢藩兵を率いた指揮官達もこの侍組の出ですし、他の侍組の藩士も戊辰戦争では兵士としてでは無く、士官として参加した者も多かった模様です。
三手組
 三手組は「馬廻組」・「五十騎組」・「与板組」の3組から構成されています、馬廻組は藩祖謙信公の旗本から選抜された者により編成されました。次に五十騎組は初代藩主景勝公の旗本である上田長尾衆から有望な者から選抜されており、また与板組は景勝公の片腕であり、上杉家の副将格だった直江兼続の家臣達によって構成されています。直江家そのものは断絶しましたが、兼続の残した家臣達は有力な戦力として優遇され、馬廻組と五十騎組と並んで三手組と称され米沢藩の主力戦力とされます。

 以上の侍組と三手組が米沢藩の上級家臣で、戊辰戦争に参加した軍監や隊頭(小隊長)は主にこの侍組と三手組から選抜されています。

三扶持方
 続いての三扶持組は「猪苗代組」・「組外」・「組付」の3組から構成されています、この内まず猪苗代組は侍組の選抜から漏れた越後の国衆及び信州侍の小身の者から構成され、組の名前の由来は会津移封後に猪苗代で知行地を与えられた事から命名されたと言われます。次の組外は名前の通り通常の上杉家家臣団の組とは別の、関ヶ原の際に集められた浪人達によって構成されています。最後の組付については詳しい事は判らないのですが、どうやら侍組・三手組の分家によって構成されている模様です。

 上記の侍組・三手組の上級藩士と三扶持方の中級藩士によって構成された組に対して、下士(下級藩士)により構成されたのが扶持方並と呼ばれる諸組です。この扶持方並にはたくさんの組がありますので、当サイトでは戊辰戦争に馴染み深い組のみ説明させて頂きます。まず「本手明組」は景勝公の旗本の上田長尾衆から五十騎組に選ばれなかった者によって構成されています。次の「新手明組」は直江兼続の家臣で与板組には選ばれなかった下級家臣から構成されていると思われます
 「段母衣組」は元々上杉家の伝令役でしたが、いつしか鉄砲の名手が選ばれるようになり、戊辰戦争の時もそれは代わらず開戦に先立ち真っ先に全員がミニェー銃を供与されました。「百挺鉄砲組」こちらも同じく鉄砲の名手から選抜された組で、段母衣組と同じく開戦に先立ち真っ先にミニェー銃を供与されます。「弓組」名前の通り弓の名手から選抜されますが、途中より小道具係と兼任となり、戊辰戦争開戦時にはミニェー銃を供与され名も「新銃隊」と改めます。
 最後の「足軽組」は文字通り足軽により構成され、家臣団の中最大の人数を誇り、戊辰戦争でも米沢藩兵の主力戦力となります。

 ただこの編成は、例えば五十騎組の小隊は全員五十騎組の士分で編成されていると言う訳ではなく、五十騎組の士分の下に足軽や人夫が入って一小隊が編成されると言う、士分は士分、足軽は足軽で小隊編成をした新政府軍の薩摩藩兵や長州藩兵や松代藩兵、同盟軍の長岡藩兵や会津藩兵等と比べると戦国時代と同じ旧態依然の編成でした。
 また小隊編成と言っても名ばかりで上記の通り士分と足軽が同居した旧態依然の編成でしたし、1個小隊と言っても兵士数は多い部隊は50〜60名、少ない部隊は小隊と名乗っていても10数名と隊によってバラバラでしたので、小隊編成を名乗っていてもそれは名前だけのものに過ぎませんでした。
 以上が米沢藩の軍編成で、これは初代藩主景勝公が米沢に転封された際に編成した軍編成とほぼ同じ編成で、米沢藩上杉家はこの戦国時代同様と言って良い軍制で戊辰戦争に挑む事になります。

米沢藩の鉄砲についての認識
 上記の様に旧態依然の米沢藩の軍編成ですが、他の奥羽諸藩(庄内藩は除く)と違い米沢藩が先進的だったのは”鉄砲”を重視していた事です。徳川幕府の政策で「鉄砲は下賎の武器で武士は持たぬ物」と言う考えが広められ、奥羽諸藩の大半に至っては戊辰戦争までこの考えから脱却出来ませんでした。
 しかし米沢藩は徳川幕府の政策に逆らい、領内に鉄砲鍛冶氏達を住まわせ”鉄砲”を生産させるなど、江戸時代を通して鉄砲隊の存続を図ります。また他の奥羽諸藩の武士の多くが鉄砲を持つのに抵抗があったのに対し、米沢藩の武士達は参勤交代から藩主が帰国した際に行われる観閲射撃の順番を巡って馬廻組と五十騎組が何度も争うなど、”鉄砲”の技術を誇りに思していました。このように他の多くの奥羽諸藩と比べれば火力重視の先進的な考えを持っていた米沢藩ですが、薩長を始めとした西南諸藩と決定的に違っていたのは、薩長が早くから西洋小銃を入手してその鍛錬に励んでいたのに対して、米沢藩が鍛錬に励んでいたのはあくまで”鉄砲”、つまり火縄銃だった訳です。
 それでも一応戊辰戦争の始まる前の1855年より西洋銃の鍛錬を始めましたが、効果が出る前に戊辰戦争となりました。確かに銃器に対する抵抗は無く、その扱いに慣れていたと言う意味では米沢藩は、他の多くの奥羽諸藩と比べて先進的だったかもしれません。しかし奥羽や越後に進軍してきた西洋銃の扱いに慣れた新政府軍と比べれば、それはあくまで他の多くの奥羽諸藩と比べれば”マシ”と言う程度にしか過ぎませんでした。
 ただ幾ら”マシ程度”と言えども米沢藩士達が鉄砲の扱いになれていたのは間違いなく、越後出兵の間際に西洋銃を渡されても、どうにか新政府軍と戦えたのはこの米沢藩の藩政のおかげだったと言えましょう。

米沢藩の銃隊について
 このように小銃の扱いに慣れていた米沢藩兵ですが、小銃の扱いに慣れていれば小銃隊として活躍出来るかと言えばそんな事は無く、小銃の扱いと同時に西洋軍事訓練を行なって、初めて強力な小銃隊となるのですが、小銃の扱いには長けていた米沢藩兵も西洋軍事訓練に関しては、他の奥羽諸藩と同様遅れていました。実際同じ同盟軍でも猛訓練の末に小銃隊を編成した長岡藩兵や会津藩兵と比べると米沢藩兵は訓練不足の感は否めず、練度の低い米沢藩兵は散兵戦術などはとても出来ず、各地の戦いで苦戦する事になります。
 そんな実質何とか形だけは整えた感の米沢藩兵の小銃隊ですが、開戦前に大量に入手した小銃の配布にも上記の身分によって代わる旧態依然の問題もありました。まず米沢藩兵の主力となった侍組と三手組、三扶持方には新政府軍の標準装備でもあった前装施条銃のミニェー銃が供与されます(厳密には同じミニェー銃でも三手組と三扶持方では違うタイプが渡された模様です)。続いて指揮官や士官クラスには後装銃(スターク銃?)や七連発銃(スペンサー銃?)が供与されました。また米沢藩虎の子の散兵隊は全員七連発銃(スペンサー銃?)を装備していました。しかし実際には最も兵力の多い扶持方並と足軽組にはゲベール銃が供与された模様です。
 このような身分によって持たせる小銃を替える編成は、上記の通り同じ隊の中で士分と足軽が同居する米沢藩の編成では、同じ隊の中でも身分によって装備する小銃が違っていました。幾ら兵士達が小銃の扱いになれていたとしても、同じ隊の中でも身分によって射程距離も発射速度がバラバラなのですから、新政府軍と比べると柔軟的な行動はとても望む事は出来ませんでした。
 以上のように米沢藩兵は一口に〇〇小隊と言っても、身分や部隊によって兵士数や装備がまちまちな軍制でした。ですので当サイトとしても、単に「徳間久三郎隊」や「香坂与三郎隊」と書くので無く、「組外徳間久三郎隊」や「侍組香坂与三郎隊」と書かないと本当の意味での戦力は判らないのですが、この点は不勉強の為に掌握しきれてないので、この点は今後の課題にしたいと思います。

米沢藩の砲兵力
 また小銃と並んで戊辰戦争の主力兵器となった大砲に関しては、鉄砲に関しては他の多くの奥羽諸藩と比べれば先進的な米沢藩も、他の多くの奥羽諸藩と同様、いやそれ以上に後進的でした。上記の通り開戦当時に大量の西洋銃を配備した米沢藩ですが、大砲に関しては米沢藩が開戦時に保有していたのは僅か9門(内3門は自藩製)に過ぎませんでした。これは米沢藩の半分の国力しかない長岡藩の32門に遠く及ばず、それこそ強兵とは世辞にも言えない二本松藩の保有数(10門)をも下回っていました。
 火力重視の米沢藩が大砲軽視なのは意外に思われるかもしれませんが、これも上記の火縄銃への拘りが災いして、米沢藩は江戸時代を通して大筒の配備と鍛錬に励んでいました。この米沢藩の大筒への拘りは大変なもので、二十匁・三十匁(23〜27ミリ)と言った一般的な大筒だけではなく、一貫目(千匁、89ミリ)と言う”大砲並み”の巨大な大筒隊すら存在しました。
 しかし”並み”はあくまで”並み”でしかなく、幾ら一貫目の巨砲とは言え、無施条で丸弾では発射音は大きくても、発射音程の効果は無く、榴弾を発射する新政府軍の施条砲と比べれば玩具同然の代物でした。一応米沢藩の方も砲兵力不足を自覚したのか、文久二年(1862)より砲兵の編成を目指し、大筒の廃棄を試みますが、砲兵の編成が始まる前に戊辰戦争が始まったので、大筒を砲兵代わりに戊辰戦争に突入する事となります。しかし米沢藩はこの大筒に誇りを持ち、一部の部隊には「雷神隊」と名を付け戦場に送ったのです。

 このように少なくとも小銃隊に関しては、何とか形を整える事の出来た米沢藩ですが、砲兵隊に関しては最後まで未完成となってしまったのです。

 この後の北越戦争で民衆に対する配慮に関しては、随所で素晴らしい様を見せる米沢藩兵ですが、実際の戦いに関しては最後までイマイチの感のあるのは、この旧態依然の軍事制度のせいだったと思われます。

越後の民衆に歓迎された米沢藩兵
 上記の様に旧態依然の軍制で参戦した米沢藩兵ですが、とにかく越後の民衆に歓迎されたのは有名です。これはまず米沢藩兵に先だって越後に入国した会津藩兵と会津藩指揮下の衝鋒隊と水戸脱走軍が、「会津士魂」の名の元越後の民衆から略奪と暴虐の限りをつくしたため越後の民衆から忌み嫌われた為、越後の民衆はかつての越後の支配者たる米沢藩に助けを求めたと伝えられます。会津藩兵の蛮行についての詳細はこちらを参照下さい。
 この会津藩兵の搾取と略奪について少し書かせて頂きますと、まず搾取については会津藩兵は自軍が進駐した村々、例えば塩沢村からは550両、六日町からは500両、浦佐村からは480両等々と搾取し、更に新たな税金を設け羽織着用税として5両、脇差税として10両等々と徹底的に民衆から搾取したのです(「越後歴史考」P123〜124)。しかしこのような搾取は会津藩兵の蛮行の中ではまだマシで、北越戦争に先立つ新潟町では会津藩兵は市民から徹底的な略奪を行ないます、元々阿賀野川に利権を持つ会津藩は新潟町と縁深く、四章で後述しますが当初新潟町奉行所は会津藩に新潟町の統治を求める計画でしたが、上記の略奪により新潟町の町民が会津藩に深い憎しみを抱くようになったので、新潟奉行所はかつての越後の支配者の米沢藩に庇護を求める事になります。

 この様に会津藩の搾取と略奪に苦しんだ越後の民衆は、米沢藩に助けを求めた訳ですが、一方の米沢藩の将兵も「故地である越後の民衆を救いたい」と言う不思議な使命感を持っていたらしく、各地で戦災に追われた民衆の為に自軍の兵糧を使って炊き出しを壮んに行ないました。また会津藩兵だけでなく、新政府軍も戦略上やむを得なくてもやたら越後の民衆の住居に火を放ちましたが、この点でも米沢藩兵は違い、新潟港攻防戦の際などは新政府軍の砲撃によって起きた火災を米沢藩兵が鎮火して回ったと言うのが新潟町民の証言に残っています。
 この為北越戦争自体では敗れた米沢藩兵ですが、越後の民衆から慕われたまま戦いを終えたのです。この辺は越後の民衆から仇敵の如く憎まれ、会津藩兵敗北の話を聞いた民衆が喜んだと伝えられる会津藩兵とは雲泥の違いです。


同盟軍加茂に集結

 かくして越後に入国した米沢藩兵でしたが、新潟の旧幕府奉行所から総督の色部の元に「新潟の治安維持の為軍勢を送ってほしい」と言う懇願が来た為、色部は五月十七日に3個小隊(柿崎家教隊・芦名但馬隊・苅野鉄之助隊)を新潟に送ります。また4個小隊(香坂与三郎隊・岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)を長岡城を失った同盟軍が集結しつつある加茂に、そして4個小隊(斉藤篤信隊・香坂勘解由隊・芋川大膳隊・朝岡俊次隊)は色部と共に会津領水原に留まります。
 この後米沢藩兵は新津を通過して加茂に向うのですが、面白い事に甘粕は本軍から分かれ、浅羽徳太郎二番散兵隊を率いて沼津藩領の五泉に向います。この五泉は甘粕の先祖の甘粕長重の旧領で、長重の城址もあったのですが、ここを訪れた甘粕は旧主の子孫を向える住民の大歓迎を受けるのですが、この日の甘粕の日記「甘粕継成日記」を読むと、当時の甘粕の心情が興味深く書かれています。旧領の越後回復を目指した米沢藩でしたが、もし越後回復が成功した暁には甘粕はこの旧領の五泉の地に返り咲くと言う宿願があったのではないでしょうか?、この日の甘粕の日記には単に故郷を懐かしむと言うようなノスタルジックに済まないものを感じます。

 話がそれましたが、その後米沢藩兵も奥羽越列藩同盟軍(以下「同盟軍と略)が集結する加茂に到着し、二十二日に米沢藩を加えた同盟軍の軍議が行なわれます。この軍議での各藩の主な顔ぶれは以下の通りです。
○米沢藩兵 参謀:甘粕継成、大隊長:中条豊前等 兵力凡そ1000
○長岡藩兵 総督:河井継之助、軍事掛:花輪救馬等 兵力凡そ700
○会津藩兵 総督:一瀬要人、奉行:秋月剃次郎等 兵力凡そ700
○桑名藩兵 軍事奉行:金子権太左衛門、隊長立見鑑三郎等 兵力凡そ320
○上山藩兵 家老:堀新兵衛 兵力凡そ105
○村上藩兵 家老:水谷孫平次等 兵力凡そ160
○村松藩兵 家老:森重内等 兵力凡そ80
 *上記の軍議と兵力には庄内藩兵と衝鋒隊の名が見られませんが、両軍共この後の作戦に参加しています。

 上記の軍議で同盟軍はいよいよ反撃を決意します、この軍議で河井継之助は長岡城奪取には見附を制圧するのが必要不可欠と力説した為、米沢藩始め他の同盟軍首脳が了承し、主攻撃を見附に行ない、赤坂と与板方面に助攻撃を行なうと決したと「甘粕継成日記(以下「甘粕日記」)に記されています。その作戦の部隊配備は(以下筆者による呼称)主攻撃の見附方面への右翼軍(米沢藩兵・衝鋒隊)、赤坂を介して見附を突く左翼軍(長岡藩兵・村松藩兵)、そして助攻撃の与板方面軍(桑名藩兵・会津藩兵)に分かれて進軍します。また新政府軍の出雲崎方面軍に備えて弥彦口には庄内藩兵と会津藩兵が守りにつきます(実際には見附方面には米沢藩兵・衝鋒隊・山形藩兵・会津藩兵が進軍し、赤坂方面には長岡藩兵・会津藩兵・米沢藩兵・村松藩兵が進軍し、与板方面には会津藩兵・桑名藩兵・米沢藩兵が進軍する事になります)。
 そしてこの戦いで米沢藩兵がいよいよ越後戦線での初陣に挑む事になるのです。


見附・赤坂方面の戦い:五月二十四日〜六月一日

 上記の様に見附・赤坂方面に攻勢を取ることにした同盟軍ですが、一方の新政府軍は薩摩藩の淵辺群平(直右衛門)と長州藩の三好重臣(軍太郎)が、この見附・赤坂方面の新政府軍の指揮を取っており、この淵辺と三好が率いる新政府軍が守る見附・赤坂方面に同盟軍は攻勢を仕掛ける事になります。

見附方面の攻防
 かくして米沢藩兵を加えた同盟軍はいよいよ反撃を開始します、まず主攻撃と言うべき見附攻撃に先立ち、米沢藩兵は斉藤篤信を仮大隊長(頭)に任じ、中条豊前率いる大隊の内から4個小隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・下秀丸隊、及び斉藤小隊の後を引き継いだ大津英助隊)と、大井田修平大隊の砲1門を引き抜き、この4小隊と砲1門により大隊を編成し斉藤の指揮下に入れます。
 こうして新たに編成した斉藤篤信大隊と、大井田修平自らが自身の大隊の内から4個小隊(増岡孫二郎・曾根敬一郎・戸狩左門・長右馬之助)を率いる事になります。この米沢藩兵2個大隊と衝鋒隊が見附攻撃に当たる事になり、米沢藩参謀の甘粕継成がその指揮を取る事になります(尚、甘粕直属として侍組精選隊須田右近隊と散兵隊浅羽徳太郎隊の2個小隊も参加する事になります)。

 かくして五月二十五日甘粕が率いる斉藤篤信大隊・大井田修平大隊・衝鋒隊(木村大作・松田政太郎等が指揮)の3隊(規模としては3個中隊相当)は加茂を出発し、同日夜は斉藤隊と衝鋒隊が三条東南の大崎村に宿陣し、甘粕と大井田隊は大崎の五十嵐川対岸の月岡村に宿陣し、翌日の攻撃に備えます。
 こうして翌二十六日の早朝、見附攻撃の第一陣として斉藤率いる4個小隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・下秀丸隊・大津英助隊)及び畠山修蔵大砲隊と衝鋒隊が向かいます。この時見附を守っていたのは薩摩藩外城四番隊(隊長中村源助)でしたが、同盟軍の接近を見て小栗山に陣を設けますが、同盟軍は正面から米沢藩兵が攻める中、戦慣れした衝鋒隊が迂回して外城四番隊を包囲したので、外城四番隊もここを支えきれず撤退します。
 かくして小栗山を奪回した斉藤隊と衝鋒隊ですが、両隊ともこの戦いで弾薬を撃ちつくした為、衝鋒隊は独自判断で後退します。これを受けた斉藤は大井田隊に援軍を求めた為、正午前大井田隊は月岡を出発し午後には見附に到着します。
 しかしすぐに新政府軍の薩摩藩城下士小銃隊十番隊(隊長山口鉄之助)と同外城三番隊(隊長有馬誠之丞)のそれぞれ半隊と、長州藩奇兵隊二番隊(隊長久我四朗)、松代藩五番狙撃隊(隊長祢津丈三郎)が援軍に駈けつけ、撤退した外城四番隊も加えて今度は米沢藩兵8個小隊(斉藤隊4小隊・大井田隊4小隊)の守る小栗山に攻撃を開始します。
 こうして新政府軍と米沢藩兵が小栗山で激突しますが、今度は数で勝る新政府軍の猛攻の前に米沢藩兵が劣勢に陥ります、これを見た甘粕は直属の2個小隊(侍組精選隊須田右近隊・散兵隊浅羽徳太郎隊)を率いて新政府軍の側面に回りこみ、新政府軍の西方より田んぼ越に射撃を開始します。この甘粕が率いた須田隊と浅羽隊は共にスペンサー銃を装備した精鋭部隊で、射撃を受けた新政府軍も一時は混乱しますが、流石は薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵の精鋭部隊一時の混乱からを立ち直ると反撃を開始、逆に同盟軍の側面に回りこみ、また薩摩藩兵の砲撃の前に甘粕隊は撃退され、小栗山の斉藤大隊と大井田大隊も遂に小栗山を放棄して月岡方面に撤退した為、この日の戦いはこれで終わります。
 
 翌二十七日は両軍とも休養に当たった模様ですが、新政府軍の一部は小栗山北東の大面村に進駐し、この地に陣地を構築し守りを固めます。この新政府軍の大面村占領に対し同盟軍は軍議を行いますが、攻勢を主張する米沢藩に対し衝鋒隊が「疲れたので明日も休養したい」と反対意見を出したため軍議が紛糾します。これはこの頃は同盟軍の指揮権が統一されてないからで、指揮権の統一されている新政府軍と比べるとこの頃の同盟軍は意思統一が出来ていませんでした。
 このように衝鋒隊の反対により頓挫するかと思われた同盟軍の再攻勢ですが、米沢藩の要望により会津藩朱雀隊寄合二番隊半隊(半隊長山田陽二郎)と、大道寺源内率いる山形藩2小隊及び砲1門が来援した為、これらの兵力と米沢藩兵による再攻勢が行われる事になります。
 また米沢藩兵の方も加茂本陣から援軍を呼び寄せ兵力を増強します、この米沢藩兵の兵力は逐次増強となった為、何日にどの小隊が援軍に到着したと言うのは判りませんが、最終的には斉藤篤信大隊が8個小隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・大津英助隊・潟上弥助隊・西堀源蔵隊・古海又左衛門隊・石栗善左衛門30匁大筒隊・桐生源作30匁大筒隊)及び畠山修蔵大砲隊となり、大井田修平大隊は6個小隊(増岡孫二郎・曾根敬一郎・戸狩左門・長右馬之助隊・山崎理左衛門隊・三股九左衛門隊)まで増強されます。またこの斉藤と大井田が率いる両大隊とは別に、甘粕継成自らが率いる散兵隊5個小隊(須田右近隊・千坂多門隊・浅羽徳太郎隊・上野貞助隊・寺島太一隊)が率います。*散兵隊一番隊は隊長の下秀丸が負傷した為、千坂多門が小隊長の任を引き継ぎます。

 こうして二十八日早朝同盟軍は一陣会津藩朱雀隊寄合二番隊半隊・二陣米沢藩斉藤篤信大隊・三陣大井田修平大隊の順番で大面村に向かい進撃を開始します、また二十六日の戦いで新政府軍に迂回攻撃され敗北した経験から警戒部隊として山形藩兵と甘粕継成直属の散兵隊が当たります。
 この日の戦いは詳細は判りませんが、大面村を巡り新政府軍と同盟軍は戦闘を開始し、激戦の末に大面を守る新政府軍(高田藩兵か?)も追い出し、同盟軍は大面村を占領します。この大面を占領した同盟軍はその後小栗山と小栗山西方の指出村に布陣する新政府軍に攻撃を開始しますが、逆に新政府軍(薩摩?)の施条砲による反撃を受け、結局この日は深夜まで双方銃撃戦を行う事になります。

 このような深夜まで銃撃戦が行われた翌二十九日同盟軍は再び攻勢を開始します、この日は米沢藩総督の千坂高雅が前線に激励に来た為か、米沢藩兵は奮起し朝早くから斉藤篤信大隊と大井田修平大隊の一部が指出村に進撃を開始します。こうして米沢藩兵が指出村に猛攻を開始しますが、指出村(長府藩報国隊二番隊が守備)・指出村北方の帯織村(守備兵不明)・指出村南西の片桐村(薩摩藩遊撃隊二番隊守備)それぞれの集落を守る新政府軍が駆けつけ、逆に新政府軍に半包囲され散々に打ち破られ敗走します。この敗走した米沢藩兵を今度は新政府軍が追撃し、米沢藩兵は壊滅の危機に陥りますが、この日戦線に復帰した衝鋒隊(隊長永岡敬二郎)が新政府軍の側面を突き崩します。こうして新政府軍と衝鋒隊が野戦となりますが、流石は戦上手の衝鋒隊、新政府軍のお株を奪う散兵戦術で新政府軍を打ち破り、今度は衝鋒隊が敗走した新政府軍を追撃します。
 この衝鋒隊の追撃に新政府軍は指出村を放棄して片桐村に撤退し、これを追った衝鋒隊も指出村に到着したのですが、衝鋒隊は到着した指出村で略奪を開始して新政府軍の追撃を辞めてしまいます。敗兵を収容し陣容を立て直し指出村に到着した斉藤篤信は衝鋒隊に共に片桐村攻撃に参加するように求めますが、略奪に夢中な衝鋒隊はこれを拒否したため斉藤大隊のみで片桐村攻撃に向かいます。しかし新政府軍はこの衝鋒隊が略奪している間に陣容を立て直していた為、斉藤大隊の攻撃は撃退され、折角の機会を同盟軍は生かす事が出来ませんでした。

 翌三十日は二日間に渡る戦闘による疲れの為か、新政府軍と同盟軍共に積極的な攻勢を行なわず、様子見の散発的な銃撃戦を行なっていましたが、やがて小栗山西方の指出村・片桐村・帯織村の各集落を守る新政府軍から銃砲撃を受けた為、同盟軍も大面村から反撃を行ないます。しかし両軍とも銃砲撃のみで積極的攻勢は行なわなかった為、この日の戦いは銃砲撃のみで終わります。
 この三十日以降は新政府軍と同盟軍共に積極的な攻勢を行なわず、散発的な銃砲撃戦を繰り返す事になり、同盟軍の目指した小栗山及び見附の奪取は出来ませんでしたが、この見附方面の攻撃と、後述の杉沢・赤坂方面の攻撃により、新政府軍主力の薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵は、この戦線に拘束される事により、これが結果的に後の今町攻防戦の勝利に繋がるのです。

      

左:小栗山の外観、中腹に見える建物は新政府軍の宿陣地とされた不動院
中:不動院に立つ、山県有朋による戊辰戦争の碑
右:小栗山の北東に建つ東山寺、米沢藩兵の宿陣地として使われたと伝えられます。

赤坂・杉沢方面の攻防
 上記のように見附方面の攻勢と共に、見附東方の赤坂峠とその南方の杉沢方面にも同盟軍は攻撃を開始します。この方面は見附の側面を突けるだけではなく、長岡藩の拠点の一つだった栃尾にも繋がる要所だったため、緒戦こそ佐川官兵衛率いる会津藩朱雀士中四番隊が小規模な攻撃を仕掛けていましたが、二十四日夕に長岡藩軍事掛川島億二郎率いる11個小隊(大川市左衛門隊・波多野謹之丞隊・稲垣林四郎隊・毛利幾右衛門隊・長谷川健左衛門隊・田中小文治隊・槙三左衛門隊・渡辺進隊・森一馬隊・大瀬庄左衛門隊)が戦線に到着します。
 しかしここで解せないのがこれだけの大軍を向わせたのにも関らず、長岡藩総督の河井継之助自身は来ていないのと、後述しますがこれだけの大軍の内二十六日以降の戦いに参加したのは少数で、大半はすぐに加茂に引き返したのを見ると既に河井はこの頃には今町攻撃を決意していたのでしょうか?、ただ米沢藩の資料にはそのような事は書かれていないので、同盟軍の米沢藩に一言の相談がないのも解せない為、「見附を取るべし」と言っていたわりにはこの赤坂・杉沢方面への河井の真意が私には判りません。
 まあ河井の真意はともかく、二十六日に長岡藩兵は杉沢村目指し赤坂峠に進軍します。しかし上記の通り11個小隊の内この戦いに参加したのは大川隊・波多野隊・長谷川隊の3個小隊のみで、しかもとても真剣に戦闘したとは思えず「我に利あらず」とさっさと撤退しています。更にこの戦いの終了後、森隊と稲垣隊の2個小隊以外の9個小隊は加茂に引き上げてしまいます。これに驚いた米沢藩は加茂で警戒に当たっていた大井田修平率いる大隊の内から3個小隊(古海勘左衛門隊・山下太郎兵衛隊・桃井清七郎隊)と色部直属の2個小隊(徳間久三郎隊・高野広次隊)を赤坂峠北方の長沢村に向けます。その後兵力不足を危惧した千坂と色部により中条豊前大隊の内から3個小隊(岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)と30匁大筒隊の三矢清蔵隊を長沢村に送った為、最終的に長沢村の米沢藩兵は9個小隊となります。

 かくして六月一日に米沢藩兵8個小隊・長岡藩兵2個小隊・会津藩兵1個中隊相当と1個小隊・村松藩兵2個小隊によって構成された同盟軍が赤坂峠方面に進軍を開始します。
 この日の同盟軍は赤坂峠と左右間道を進む米沢藩兵5個小隊(古海勘左衛門隊・山下太郎兵衛隊・桃井清七郎隊・小倉吉蔵隊・松木幾之進隊)・長岡藩兵1個小隊(森一馬隊)と砲2門・会津藩朱雀隊寄合二番隊半隊(隊長土屋総蔵)・村松藩兵2個小隊(速水滝右衛門隊・青木剛八隊)による本道軍と、赤坂峠西の山中を迂回して見附と杉沢の中間に位置する堀溝村を攻撃する米沢藩兵3個小隊(徳間久三郎隊・高野広次隊・三矢清蔵30匁大筒隊)・長岡藩兵1個小隊(稲垣林四郎隊)・会津藩青龍士中三番隊(隊長本木慎吾)・村松藩兵若干による別働隊に分かれ進軍を開始します。
 この同盟軍本道隊が進軍した赤坂峠山頂には松代藩兵十二番大砲隊が布陣していましたが、同盟軍本道隊はこの松代藩大砲隊を蹴散らし、山頂を占拠した後に赤坂峠を下り始めます。こうして赤坂峠を更に進軍する同盟軍本道隊でしたが、下りの斜面に新たに陣地を発見し、この陣地にも攻撃を開始しますが、この陣地を守る松代藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)と同四番小隊(隊長山越新八郎)の猛烈な抵抗の前に陣地を抜けずにいました。こうして同盟軍本道隊が松代藩兵2個小隊が守る陣地を攻めあぐねている間に、陣容を立て直した松代藩十二番大砲隊(砲2門)と、杉沢村から長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)が援軍に駆けつけ、陣地を守る松代藩兵2個小隊と共に反撃に転じ同盟軍本道軍を散々に打ち破ったので、同盟軍本道隊はほうほうのていで赤坂峠から離脱し長沢村に敗走します。
 一方の別働隊は見事迂回に成功し、赤坂後方の見附との補給線である堀溝村を守る新政府軍守備隊(加賀藩兵か?)を敗走させ、更に堀溝村に貯蔵された物資を焼くなどの戦果を挙げます。しかしこれを知り見附から薩摩藩城下士小銃十番隊半隊と松代藩八番狙撃隊(隊長小幡助市)と同三番小隊(隊長吉村左織)が援軍に駆けつけると、別働隊もまた散々に打ち破られ長沢村に敗走します。
 この日の戦いでは同盟軍は新政府軍の反撃により多数の死傷者を出し、指揮官だけでも米沢藩小隊長の山下太郎兵衛、村松藩軍監の奥畑伝兵衛、同藩小隊長の青木剛八始が戦死、他にも将兵に多数の死傷者を出して敗北したのです。

   

左:赤坂峠古戦場の碑
右:赤坂峠古戦場から北側の山道を見て

 結局同盟軍の見附・杉沢・赤坂各方面の攻撃はその目的を果たせませんでしたが、この同盟軍の攻撃により新政府軍主力の薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵の大半はこの方面に拘束されてしまい、これが河井の狙いだったのかは判りませんが、これが結果的に今町の敗戦に繋がるのです。


今町攻防戦:六月ニ日

 果たして見附・赤坂方面の攻撃が河井継之助の陽動作戦だったのかは判りませんが、上記の通り同盟軍の見附・杉沢・赤坂方面、そして信濃川西岸の与板方面での攻勢により、新政府軍の主力たる薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵はこの見附・杉沢・赤坂、そして信濃川西岸の与板方面に拘束される事になります。この為長岡から北に10km弱の距離に位置する見附と三条に繋がる街道が在る交通の要所である今町村の守備が手薄になり、これを察知した河井は六月一日に三条で米沢藩参謀の甘粕継成(見附方面から軍議に参加するため戻っていました)と会津藩の佐川官兵衛と軍議を行ない、この機を活かして一気に今町村を攻め落とし長岡城奪回の橋頭堡を築こうと決意し、その日の昼頃には早々と出撃します。
 この時に出撃した戦力は長岡藩兵7個小隊(小島久馬右衛門隊・斎田轍隊・本富寛之丞隊・大川市左衛門隊・田中稔隊・槍隊池田彦四郎隊・九里磯太夫隊 注:ただし九里は負傷の為山本帯刀がこの小隊を直率します)、衝鋒隊1個中隊と1個小隊(古屋佐久左衛門が中隊を率いていた模様)、そして佐川官兵衛が率いる会津藩朱雀隊士中四番隊でした。
 この軍勢を河井は3つに分け、刈谷田川東岸に沿って進み今町の搦手に当たる安田口を攻撃する河井自身が率いる長岡藩兵2個小隊(斎田轍隊・田中稔隊)と砲2門・会津藩朱雀隊士中四番隊による中央軍、三条から今町に繋がる本道を進み坂井口を攻撃する山本帯刀が率いる長岡藩兵3個小隊(小島久馬右衛門隊・大川市左衛門隊・九里磯太夫隊)による左翼軍(後に米沢藩兵2個小隊も参加)、刈谷田川西岸に沿って今町の刈谷田川対岸の集落が在る中之島口を攻撃する古屋が率いる長岡藩兵2個小隊(本富寛之丞隊・槍隊池田彦四郎隊)・衝鋒隊による右翼軍の3つに分かれ、3方面から今町を目指し進軍を開始します。

 この同盟軍の進軍に対して、上記の通り主力の長州藩兵・薩摩藩兵・松代藩兵を見附・杉沢・赤坂、そして与板方面に拘束されている新政府軍は、今町村の守備兵には本道の坂井口に高田藩兵2個小隊(設楽宰助隊・坂田藤江隊)と上田藩兵半小隊、搦手の安田口には尾張藩兵1個小隊(高橋民部隊)、見附口に上田藩兵1個小隊、そして刈谷田川西岸の中之島口には高田藩兵1個小隊(榊原若狭大隊の内の1個小隊、小隊長名不明)と地元の志願農兵隊の方義隊2個小隊の、少数かつ弱兵の戦力しか布陣していませんでした。

 そしてこのような防御の手薄な今町に対し、二日の正午頃ほぼ同時に同盟軍は三方から攻撃を開始します。陽動役の左翼軍に注意を傾けている間に河井自らが率いる中央軍が安田口に猛攻を仕掛けた為、弱兵の尾張藩兵1個小隊は瞬く間に崩れ、早くも安田口は突破されそうになります。これに対し同じく同盟軍右翼軍の攻撃を受けた中之島口では、弱兵の高田藩兵1個小隊こそ早々と敗走しますが、戦意が無く嫌々出兵している高田藩兵・尾張藩兵・上田藩兵とは違い、尊王の意思に燃える志願農兵部隊である方義隊が奮戦し、右翼軍の攻撃を防ぎます。このように木砲までを駆使した方義隊の防戦ですが、幾ら士気が高くても歴戦の衝鋒隊等の攻撃をいつまでも耐える事は出来ず、遂に方義隊もまた敗走します。

 このような今町陥落の危機が見附に伝わると、この見附方面の新政府軍の指揮を取っていた薩摩藩の淵辺群平と長州藩の三好重臣、そして長府藩報国隊軍監の熊野直介が駆けつけ、崩れ始めた新政府軍の建て直しを計ります。
 しかし確かに淵辺や三好等の指揮官達は駈けつけて来たものの、この頃見附方面では同盟軍が散発的なものの攻勢を仕掛けていましたし、三条から進軍してきた米沢藩兵2個小隊(柿崎家教隊・土肥伝右衛門隊)が坂井口に援軍として来援した為、援軍として率いて来れたのは長州藩奇兵隊三番隊(隊長堀潜太郎)半隊のみだったので、指揮官達は駈けつけて来たものの相変わらず兵力劣勢の状況は変わっていない状況でした。ただ淵辺と三好は見附を守る松代藩八番狙撃隊(隊長小幡助市)と同三番小隊(隊長吉村左織)の2個小隊にも今町へ援軍に来るように伝達していたので、ある意味淵辺と三好はこの松代藩兵2個小隊を用いた今町での後詰決戦を狙ったのではないかと推測します。
 このように松代藩兵2個小隊の後詰が来るまで耐え抜こうと言う目論見があったからなのか、淵辺や三好等は自らが率いてきた少ない戦力を有効に活かして迎撃を行なったので、逆に同盟軍を圧倒し長岡藩小隊長の斎田轍が戦死するなどの損害を与えます。
 しかし河井達とてここで敗れたら後がないので、河井・古屋・佐川等が必死に兵を叱咤激励したため、再び同盟軍が攻勢を強め、特に安田口の源介坂では凄まじい死闘が行なわれる事になります。この為夕方頃になると三好が負傷、堀が重傷(後に死亡)、そして熊野が戦死と次々に新政府軍の指揮官が倒れたため、松代藩兵2個小隊が援軍に駆けつける前に新政府軍は崩れ去ります。しかし唯一健在だった指揮官の淵辺が敗兵を上手く纏めて撤退したので、かろうじて新政府軍は壊滅の危機から逃れ撤退します。また淵辺と三好が期待していた松代藩兵2個小隊は見附と今町の中間の集落の柳橋村に到着した際に、今町陥落の知らせを聞いて見附に撤退します。
 こうして今町の新政府軍が撤退すると、それまで防戦していた坂井口の新政府軍も退路を絶たれるため、撤退を開始し、見附口を守る上田藩兵も見附に敗走した為、今町方面の新政府軍は完全に駆逐されたのです。しかし同盟軍の方も撤退した新政府軍を追撃するだけの余力は無く、今町に火をかけ一旦三林に後退します。この今町に放たれた火による火災は凄まじく、遠く大面や赤坂で戦っていた同盟軍からもこの火は見えたと伝えられます。

今町攻防戦後の戦線の移動
 話は遡り、今町で戦いが起きたのを知った、関原の本営に居た越後方面の新政府軍を率いる山県有朋は、状況を知るために歴戦の白井小助を偵察に送りますが、予想外の敗戦に愕然とするのです。その後山県はこの敗戦を重視し、今町から一気に長岡を突かれるのを危惧して、見附・杉沢・赤坂方面及び栃尾に布陣する軍勢を後退させて、今町から長岡に至る途中の八丁沖西岸の十二潟・筒場・福島・大黒、東岸の浦瀬等の集落に再布陣させ戦線を引き下げる指令を出します。
 今町で勝利した同盟軍には追撃する余力はありませんでしたが、新政府軍が後退した事により、見附方面には米沢藩兵の斉藤篤信大隊(香坂勘解由隊・香坂与三郎隊・大津英助隊・潟上弥助隊・西堀源蔵隊・古海又左工門隊・石栗善左工門30匁大筒隊・桐生源作30匁大筒隊及び畠山修蔵大砲隊)と大井田修平大隊(増岡孫二郎・曾根敬一郎・戸狩左門・長右馬之助隊・山崎理左工門隊・三股九左工門隊)・衝鋒隊が四日に進駐し、また赤坂峠を越え杉沢方面にも米沢藩兵8個小隊(古海勘左衛門隊・桃井清三郎隊・岩井源蔵隊・小倉吉蔵隊・松本蔵之助隊・徳間久三郎隊・高野広次隊・山下太郎兵衛隊)・長岡藩兵・村松藩兵がそれぞれ四日には進駐したので、それまで攻防戦を繰り返していた地域を戦わずして奪取する事に成功するのです。
 特に長岡藩兵にとっては先日放棄した栃尾を戦うこと無く奪取出来たので、ようやく根拠地を確保し今後の攻勢の拠点となったのです。また米沢藩兵は見附を本営にした模様です。

 余談ですが戦闘とは関係ありませんが、今町攻防戦が行なわれる前日の一日に大面村の米沢藩本営に「略奪を行なう会津藩兵と一緒に行動するのなら、もはや米沢様には協力出来ない」と農民が懇願に訪れます。これを知った甘粕は会津藩兵とは別行動を取り、米沢藩兵のみで戦う配置換えを考案しますが、今町攻防戦での勝利による戦線前進によりこの配置換えは立ち消えになります。このように甘粕の配置換えの考案は立ち消えになりましたが、会津藩兵と衝鋒隊の略奪に悩む農民の姿を知った甘粕は、見附そして八町沖西部戦線に進軍する前の四日に大面周辺の農民に大規模な炊き出しを行い、これは戦災に遭った農民達に大層感謝されたそうです。

         

左:今町北方に在る神明神社、今町攻防戦では同盟軍はこの神社境内から今町に向けて砲撃を行いました。
中:今町攻防戦時新政府軍の本営が置かれた永閑寺。
右:今町西方に流れる現在の刈谷田川、今町戦時は衝鋒隊等の同盟軍右翼軍が西岸を、同盟軍中央軍が東岸を進軍しました。

源介坂について
 この今町攻防戦で最大の激戦が行なわれた源介坂ですが、当時の刈谷田川の流れは現在よりも今町の町内に入り込んでいて、この旧流域時の堤防に上がる為の坂が源介坂と呼ばれていたそうです。しかし明治に入り治水工事と国道を通す為刈谷田川の流域が西へ移動させられた為、旧流域の堤防も壊され、当時は見上げるほどの勾配だった源介坂も現在では影も形も無くなってしまったと土地の方に教えて頂きました。

      

左:現在の坂井口、直進すれば今町内に入り、右折すれば源介坂に繋がりました。
中:土地の方に教えて頂いた現在の源介坂、当時は見上げる程だった源介坂も工事の行なわれた今は単なる小道です。
右:今町内を流れる当時の刈谷田川の名残、用水路として当時の流域はかろうじて形を残しています。


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主な参考文献(一章から六章まで通しで)

「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会

「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社

参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

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