北越戦争 第三章
慶応四(1868)年六月七日〜七月二日

北越戦争関連地図
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〜八丁沖・栃尾周辺の戦い、新政府軍と同盟軍一進一退の攻防戦〜

*日付は八丁沖東部西部戦線、及び栃尾周辺の攻防戦が行なわれた日付です。


同盟軍の相互不信

 今町の奪取に成功し、その後新政府軍が戦線を後退させた事より見附・杉沢を手に入れ、これにより栃尾を重要な戦略拠点にした奥羽越列藩同盟軍(以下同盟軍と略)でしたが、主力となるべき長岡藩・米沢藩・会津藩の各藩兵には相互に不信感があり、決して鉄の結束と言う訳ではありませんでした・・・。

 まず長岡藩からすると、米沢藩に対して同盟軍最大の兵力を持ちながら、積極的に行動しない事に不満を持っていました。またこの戦いで米沢藩兵は戦災の被害を受けた民衆を救う為に積極的に各地で炊き出しを行ない、戦火に遭った民衆に振舞っていたのですが、これがその土地の支配者である長岡藩からすれば癪にさわる行動で、「もしかしたら米沢はこの戦いで勝利した後、米沢は越後全土を併呑するつもりなのでは」と言う警戒心を持っていました。また会津藩に対しては、そもそも長岡藩が北越戦争に突入するきっかけとなった小千谷談判の決裂には会津藩の暗躍が関わっていましたし、その後も河井が「会津も化けの皮が剥がれたかな」「会津はもう駄目だ」等の言葉を残している所からすると、長岡藩が会津藩に信頼感を持っていたとは思えません。
 一方の米沢藩からすると、あれだけ大きな口を叩いていながらもあっさりと長岡城を攻め落とされた長岡藩(と言うより河井継之助に)に不安を持っていましたし、本来自領を奪回する為に先陣を切って戦わなくてはいけない長岡藩が、先日の見附・赤坂方面の戦いでは前線を米沢藩に任せていた事にも不満を持っていました。また自分達の故郷である越後で後世「会津士魂」と称される名の元に民衆から略奪を欲しいままにしている会津藩に対しては、折角越後の民衆に歓迎されている自分達(米沢藩兵)が、民衆から蛇蝎のように憎まれている会津藩兵と一緒に行動すれば同類と思われてしまうと言う危機感を持っていました。実際京都守護職の活動で国力を使い果たした会津藩は慢性的な財政難に陥っていた為、越後に出兵した会津藩兵とその指揮下の衝鋒隊と水戸脱走軍は戦いよりも民衆からの略奪を重視していた様子があります。このため米沢藩参謀である甘粕継成などは「会津とは別行動を取るべき」と書き残しています(実際見附戦線での戦いの最中には、地元農民から会津藩と協力するのなら、米沢様には協力出来ませんと直訴されています)。会津藩兵の蛮行についての詳細はこちらを参照下さい。
 また会津藩に関しては、越後への出兵目的はこの年の二月に旧幕府から委譲された分を含む、越後内の会津藩の飛び領の防衛が目的で、会津藩を救済する為に他藩が越後に出兵してるのににも関わらず、肝心の助けられる会津藩が前線に送ったのは越後派遣軍の半分ほどで、残りは飛び地の蒲原郡や阿賀野川沿いの防衛に当てている事からしても、会津藩が本気で越後戦線で戦おうと思っていたとは思えません。いやむしろ自分の越後での権益を守る為に他の同盟軍を利用しようとしてたと言っても過言では無いでしょう。

 このように一口で「同盟軍」と言っても、越後戦線での同盟軍の主力である長岡藩・米沢藩・会津藩の三藩が固い結束で結ばれていたとはとても言えない状況で、むしろいつ破綻してもおかしくない危うい関係で共に戦っていたと言うのが、同盟軍の実像だったと言えましょう。


尊王藩かただの風見鶏か、新発田藩自己保身の戦略

 またこの頃同盟軍の間では加盟藩である新発田藩に対する不信感が高まってきました、自己保身に長ける新発田藩は京都の新政府に忠誠を誓う書状を送る一方で、同盟軍の会津藩に好意的な態度を示すなど、新政府軍と同盟軍がどちらが勝とうとも新発田藩が生き残れる態度を取っていました。この為他の同盟諸藩が出兵要請をしようとも、決して同盟軍の出兵要請には応じようとはしませんでした。
 この新発田藩の動向に業を煮やした米沢藩は新発田藩主の溝口直正に、当時下関に滞陣していた米澤藩主上杉斉憲の元に出頭するように命じますが、家老の溝口半兵衛を始めとした新発田藩重臣は領内の民衆を扇動して一揆を起こさせ、これを理由に出頭を拒否します。
 この新発田藩の動向に同盟軍は怒りを覚えますが、正面に新政府軍が布陣してるこの状況で後方の新発田藩とことを構える余裕もないので、忸怩たる思いを抱きつつも新発田藩に対して有効な対策を取れないでいました。しかしこの新発田藩が扇動した一揆の為に、新発田藩領を介して補給している米沢藩兵の補給は滞る事になり、以後米沢藩兵は弾薬不足に悩まされる事になります。

 このように今町攻防戦で勝利したとはいえ、決して同盟軍にとって有利な状況と言う訳ではありませんでしたが、八丁沖周辺に布陣した山県有朋率いる新政府軍に対して再び攻勢に転じます。


八丁沖戦線について

 前述のように今町攻防戦の敗戦を受け新政府軍を率いる山県有朋は、今町〜見附〜杉沢のそれまでの戦線を引き下げ、当時長岡の北東約8キロ付近に広がっていた、「八丁沖」と呼ばれた広大な湿地帯沿いの集落に新たな防衛ラインを設けます。この八丁沖の中央部は通行不能な底無し沼状態の部分も点在していたので、正に天然の要害と言って良い地形だったので、山県はこの天然の要害を利用すべく布陣します。
 この新しい新政府軍の戦線は八丁沖の東部から西部に渡っての壮大なものになったので、この為当サイトでは八丁沖東部の戦線を「八丁沖東部戦線」、八丁沖西部の戦線を「八丁沖西部戦線」と呼称します。しかし一口で八丁沖東部戦線と西部戦線と言っても、東部戦線と西部戦線では地形は全く違う物でした。

 まず主戦場となった八丁沖西部戦線は田んぼと湿地帯が延々と続いていた為、軍勢はこの歩行困難な湿地帯を徒歩するか、大勢が一度には通行出来ないあぜ道を進軍するしかない、正に軍勢が行動するには困難な地形でした。そしてこのような湿地帯の中に転々と集落が存在し、新政府軍、同盟軍共にそれらの集落に陣地を構築して対陣していました。
 このように歩行困難な地形である上に、湿地帯に点在する集落以外には遮蔽物が全く無く、更に八丁沖内に流れる猿橋川が天然の水堀の役目を果たしていたので、典型的な「守るに易く攻めるに難い」地形でした。
 このような戦場の八丁沖に新政府軍と同盟軍は猿橋川を挟んで対陣し、新政府軍は猿橋川左岸(西岸)の集落に陣地を構築し、同盟軍は猿橋川右岸(東岸)に陣地を構築して布陣したのです。ただし新政府軍が布陣する集落の一つである大黒村のみは、猿橋川右岸(東岸)に突出していたので、新政府軍の陣地の中では唯一守りにくい陣地でした。
 上記の様に八丁沖西部戦線は猿橋川に沿ったものでしたが、後年行なわれた猿橋川の河川工事により、現在と当時では猿橋川の流域が若干異なりますので、現在の猿橋川の流域と当時の戦線は若干異なる場所がありますのでご注意下さい。

 一方の八丁沖東部戦線は広大な西部戦線とは反対に、八丁沖の湿地帯と栃尾西部の丘陵地帯に挟まれた所謂「回廊」状の地形でした。このような地形の為、両軍とも回廊を進軍して正面から敵軍の陣地を突破するしかなく、新政府軍と同盟軍は回廊の入り口である南北の集落にそれぞれ陣地を構築して(新政府軍が回廊南端の集落に、同盟軍が回廊北端の集落に布陣します)対陣したのです。

 この新しい新政府軍の戦線は八丁沖西部戦線から八丁沖東部戦線に伸び、更に栃尾南部の山岳地帯にまで至る長大な戦線で、新政府軍は以下の編成で布陣します(この布陣は流動的なものだった模様で、後述の戦いとは矛盾する布陣もありますが、ご了承下さい)

八丁沖西部戦線
今町から長岡に至る街道沿いの八丁沖西部戦線最北西の集落
 川辺村:薩摩藩外城四番隊(隊長中村源助)・上田藩兵1個小隊及び砲1門
川辺村南東の集落
 十二潟村:加賀藩兵1個中隊相当(箕輪知太夫隊)及び砲1門
十二潟村南東の集落
 筒場村:薩摩藩城下士小銃隊十番隊(隊長山口鉄之助)・同外城三番隊(有馬誠之丞)・同二番遊撃隊(隊長大迫喜右衞門、ただし布陣時期は不明)及び砲1門・竜岡藩兵1個小隊
筒場村南東、猿橋川右岸(東岸)の集落
 大黒村:高田藩兵1個小隊(隊長前田門之丞
大黒村南方の集落
 福島村:富山藩五番小隊(隊長森田三郎)及び砲1門

八丁沖東部戦線
回廊の南方出口の集落
 浦瀬村:長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)・松代藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同三番小隊(隊長吉村左織)・同四番小隊(隊長代理小宮山三吉)及び砲2門・大垣藩兵1個小隊・高田藩兵1個小隊(設楽宰助隊)及び砲1門
浦瀬南方の集落
 乙吉村:高田藩兵1個小隊・上田藩兵1個小隊

栃尾周辺の山岳地帯
浦瀬東南、栃尾から長岡に至る街道上
 森立峠:長州藩奇兵隊三番隊・加賀藩兵1個中隊相当(小川仙之助隊)・飯田藩兵1個小隊
森立峠南東の集落
 半蔵金村:長州藩奇兵隊十番隊・松代藩一番小隊(隊長蟻川賢之助)及び砲1門・尾張藩兵1個小隊・松本藩兵1個小隊
半蔵金南東の集落
 福山村:加賀藩兵1個小隊及び砲1門・高崎藩兵1個小隊
福山村東方の集落
 須原村:加賀藩兵1個小隊・松本藩兵2個小隊・尾張藩砲1門

 新政府軍は上記のように布陣したのですが、その中でも八丁沖西部戦線と東部戦線の大軍を用いるのには不向きな地形で、新政府軍と同盟軍は一ヶ月余にも渡る戦いを行なう事になるのです。


十二潟村等の八丁沖西部戦線の戦闘六月七日

 山県有朋率いる新政府軍が戦線を引き下げ、八丁沖東部と西部に戦線を再構築した後、同盟軍も新たに占拠した見附から南下し、南下した同盟軍と新たな戦線を構築した新政府軍の間で八丁沖西部戦線で小規模な小競り合いは発生しましたが、大規模な戦闘は発生しないまま六月七日まで経過します。
 こうして六月七日の戦いを迎えますが、この日の戦いに先立ち米沢藩兵はそれまで大隊長だった斉藤篤信を仮参謀に任命します(後任の大隊長は香坂勘解由)、これにより今後この方面の米沢藩兵は斉藤の指揮の元で戦う事になります。
 かくして六月七日早朝、斉藤率いる米沢藩兵5個小隊(桃井清七郎隊・徳間久三郎隊・大津英助隊・左近司周助隊・大熊左登美隊)は見附南方の集落傍所村に集結し、刈谷田川を渡河し刈谷田川東岸の集落の中興野村に入ります。ここに本陣を設けた米沢藩兵は猿橋川西岸の集落の大口村に進み、ここから猿橋川西岸の集落の十二潟村に陣地を構えた新政府軍に攻撃を開始します。
 この日十二潟村の陣地を守っていたのは加賀藩兵1個中隊相当(箕輪知太夫隊)及び砲1門で、米沢藩兵5個小隊は大口村から対岸の十二潟村の新政府軍陣地を攻撃しますが、砲兵不在の米沢藩兵は薩長仕込みの西洋流陣地を攻めあぐね、逆に加賀藩砲兵隊の反撃に苦戦します。こうして暫くは猿橋川を挟んで大口村と十二潟村の間で米沢藩兵と加賀藩兵の間で銃砲撃戦が行なわれますが、正午頃加賀藩砲兵隊の放った弾丸が大口村の農家に命中、この砲撃によって発生した火災は大口村中に燃え広がり、その火災は大口村だけではなく隣の池之島村まで広がり、この火災による黒煙の為戦闘続行が不可能となり、両軍とも一旦引き揚げ陣容を立て直します。

 この日米沢藩参謀の甘粕継成は傍所村隣の葛巻村に本陣を構えていましたが、十二潟村に攻め入った斉藤隊の苦戦と斉藤の戦死(誤報)が伝わると手勢の2個小隊(須田右近隊散兵隊・上野貞助散兵隊)と2個大筒隊(桐生源作30匁大筒隊・蓬田新次郎隊)を率いて中興野村に向かいます。また米沢藩兵の苦戦を知った会津藩朱雀士中四番隊(隊長佐川官兵衛)及び砲1門と長岡藩兵1個小隊(大川市左衛門隊)も援軍に加わり、米沢藩兵・会津藩兵・長岡藩兵の同盟軍は中興野村に急行します。
 この甘粕等の同盟軍が中興野に到着すると、そこには斉藤率いる米沢藩兵5個小隊が休憩しており、斉藤の戦死が誤報と知った甘粕は火災が収まった事を確認し、自らが率いてきた軍勢と斉藤の軍勢を併せて十二潟村への攻撃を再開します。かくして米沢藩兵7個小隊(桃井清七郎隊・徳間久三郎隊・大津英助隊・左近司周助隊・大熊左登美隊・須田右近隊散兵隊・上野貞助散兵隊)と2個大筒隊(桐生源作30匁大筒隊・蓬田新次郎隊)、会津藩兵1中隊相当(朱雀士中四番隊)及び砲1門、長岡藩兵1個小隊(大川市左衛門隊)による同盟軍は大口村に向かい、再び猿橋川対岸の十二潟村への攻撃を開始します。
 こうして戦力を増強して再び攻撃を開始した同盟軍ですが、一方の新政府軍も十二潟村の苦戦を伝え聞いた筒場村を守る薩摩藩城下士小銃十番隊(隊長山口鉄之助)と外城三番隊(有馬誠之丞)の2個中隊相当が十二潟村に援軍として来援します。

 このように同盟軍・新政府軍共に午前の戦いより増強された戦力で戦闘を開始したのですが、午前の戦いでは砲撃力不足で新政府軍の陣地を攻めあぐねた同盟軍は、午後の戦いでは会津藩兵の砲1門と米沢藩兵の2個大筒隊が新政府軍の陣地に砲撃を行ないますが、勇猛果敢な薩摩藩兵は陣地を出て同盟軍に猛反撃を開始します。この薩摩軍の猛反撃の前に同盟軍は多くの犠牲を出し、特に新政府軍陣地を攻め落とす決め手となるべき会津藩砲1門の砲手が戦死します。これにより会津藩兵の砲1門が使えなくなった同盟軍は攻撃力が低下し、また勢いに乗った薩摩藩兵の猛攻を支えきれなくなり、結局夕暮れ頃には同盟軍は大口村を捨てて撤退します。

 またこの日は十二潟以外の八丁沖西部戦線でも、同盟軍は筒場村と大黒村の新政府軍陣地に攻勢を仕掛けますが、この攻撃は小規模なものだったので単なる銃撃戦で終りました

 このようにこの日の攻撃は失敗した同盟軍ですが、翌日から猿橋川右岸(東岸)の諸集落に進出して陣地を構築し始め、猿橋川左岸(西岸)の集落に陣地を構築した新政府軍と対陣する事になります。

      

左:現在の猿橋川、山県はこの猿橋川を水掘として利用して布陣します。
中・右:大口村と十二潟村間の当時の猿橋川流域、現在の猿橋川流域からはかなり南に位置します。


森立峠の戦闘:六月八日

 新政府軍の撤退により栃尾を奪回した同盟軍ですが、この栃尾からは山岳地帯を通って長岡まで繋がる森立峠があり、長岡藩兵はこの森立峠を奪取して長岡奪回の橋頭堡を得ようと、この森立峠攻撃を実地します。この攻撃に参加した同盟軍は川島億二郎率いる長岡藩兵4個小隊(花輪彦左衛門隊・渡辺進隊・荻野喜右衛門隊・稲葉又兵衛隊)・会津藩二番遊撃隊(隊長井深宅右衛門)半隊・衝鋒隊・村松藩兵2個小隊の戦力で、一気に奇襲で森立峠を突破するつもりでした。
 この時森立峠を守備していたのは加賀藩兵1中隊相当(小川仙之助隊)と飯田藩兵1個小隊のみで、その森立峠に同盟軍は忍び寄っていきました、しかし奇襲の予定だったのに、堪えきれずに長岡軍が先に発砲を開始したため、新政府軍に察知され瞬く間に銃撃戦に発展します。それでも戦力に勝る同盟軍は新政府軍を圧倒しますが、砲声を聞いて駈けつけた長州藩奇兵隊三番隊が援軍に駆けつけ、スナイドル銃による猛射撃を行なった為、同盟軍はこの反撃を支えきれず森立峠から撤退します。


同盟軍の指揮権の統一:六月十三日

 今までの戦いで指揮権が統一されていない攻撃は非効率と言うのを実感した同盟軍は六月十日、八藩(会津藩・庄内藩・長岡藩・桑名藩・村松藩・村上藩・山形藩・上ノ山藩)家老の連名を以って米沢藩総督の千坂高雅に同盟軍の総指揮を取るように要請します。当初はこの要請に戸惑いを見せた米沢藩側ですが、結局同十三日にこの要請を受諾し、以降は千坂がこの方面の同盟軍の総督に、米沢藩参謀の甘粕継成がこの方面の同盟軍の参謀に就任し、千坂の指揮の元同盟軍初の統一された翌日の八丁沖西部戦線・東部戦線への大攻勢が行なわれる事になります。


八丁沖西部戦線・東部戦線、及び栃尾周辺山岳地帯の戦闘:六月十四日
地図

 上記の通り指揮権を統一した同盟軍は、総督たる千坂高雅の指揮の元、八丁沖西部戦線と東部戦線での一斉大攻勢を行なう事を決断します。この作戦を実行する為に、同盟軍は六月十三日夜半に下記の様に集結します。

八丁沖西部戦線
中之島村:以下の部隊は川辺村を攻撃する。
 米沢藩兵6個小隊(寺島太市散兵隊・小野里勘蔵散兵隊・香坂勘解由隊・徳間久三郎隊・蓬田新次郎隊・本間伝兵衛隊)及び蓬田新次郎30匁大筒隊、衝鋒隊(2個小隊)
中興野村:以下の部隊は十二潟村を攻撃する。
 米沢藩兵6個小隊(千坂多聞散兵隊・大津英助隊・苅野鉄之助隊・香坂与三郎隊・松木幾之進隊・大熊左登美隊)及び桐生源作30匁大筒隊
大曲戸村:予備戦力?
 米沢藩兵3個小隊(菅名但馬隊・小山五兵衛隊・潟上弥助隊)
押切村:押切村には本営を置き千坂・甘粕が指揮を取り、以下の部隊は筒場村を攻撃する。
 米沢藩兵6個小隊(増岡孫次郎隊・曾根敬一郎隊・桃井清七郎隊・高野広次隊・山崎理左衛門隊・原藤吾隊)及び石栗善左工門30匁大筒隊、会津藩青龍士中三番隊半隊(半隊長永井左京)。また本営直属として米沢藩砲2門と長岡藩砲2門及び村松藩砲1門
福井村:以下の部隊は大黒村を攻撃する。
 米沢藩兵4個小隊(浅羽徳太郎散兵隊・古海勘左衛門隊・左近司周助隊・鈴木誠四朗隊)及び三矢清蔵30匁大筒隊、長岡藩兵2個小隊(軍事掛三間市之進が指揮、稲垣林四郎隊・横田大助隊)、会津藩朱雀士中四番隊(隊長佐川官兵衛)・同青龍士中三番隊半隊(隊長本木慎吾)及び砲1門

八丁沖東部戦線
田井村:以下の部隊は一方は南下し亀崎村・浦瀬村を攻撃し、もう一方は赤坂山を攻撃する。
 米沢藩柿崎家教大隊(柿崎家教隊・上野貞助散兵隊・小倉吉蔵隊・岩井源蔵隊・土肥伝右衛門隊・三股九左衛門隊・西堀源蔵隊の7個小隊)

栃尾周辺の山岳地帯
土ヶ谷村:以下の部隊は栃窪村を攻撃する。
 長岡3個小隊(保地九朗右衛門隊・鬼頭六左衛門隊・槙小太郎隊)、米沢藩兵1個小隊(戸狩左門隊)

 上記の様に集結した同盟軍は、本営の14日払暁に押切村からの砲撃を合図に、それぞれの担当部部署を攻撃する事となります(土ヶ谷村の部隊には押切村本営の指揮下には入って無かった様なので、独自に行動した模様です)。


 一方の新政府軍ですが、同盟軍の攻撃に対して下記のように布陣していました。
八丁沖西部戦線
 川辺村:薩摩藩外城四番隊(隊長中村源助)・上田藩1個小隊及び砲1門
 十二潟村:加賀藩兵1個中隊相当(箕輪知太夫隊)及び砲1門
 筒場村:薩摩藩城下士小銃隊十番隊(隊長山口鉄之助)・同外城三番隊(有馬誠之丞及び砲1門・加賀藩兵1個小隊(今井久太郎隊の内の1小隊)・竜岡藩兵1個小隊
 大黒村:高田藩兵1個小隊(隊長前田門之丞

八丁沖東部戦線
 亀崎村・赤坂山:大垣藩兵1個小隊及び大垣支藩兵半小隊、松代藩兵八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同三番小隊(隊長吉村左織)*ただし大垣藩と松代藩はこの地を交代で守っていたため、この日の同盟軍の攻撃に対し布陣していたのは大垣藩兵1個小隊及び大垣支藩兵半小隊のみでした。
 浦瀬村:長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)・高田藩兵1個小隊(設楽宰助隊)及び砲1門

栃尾周辺の山岳地帯
 栃窪村:松代藩兵六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同四番小隊(隊長代理小宮山三吉


 このように新政府軍・同盟軍共に布陣を終えた十四日払暁、大雨が降りしきる中、押切村の同盟軍本営に置かれた米沢藩砲2門と長岡藩砲2門が一斉に砲撃を開始し、この砲声を合図に八丁沖西部戦線の中之島村・中興野村・押切村・福井村、東部戦線の田井村にそれぞれ集結していた同盟軍は、それぞれの攻撃部署に一斉に攻撃を開始します。

川辺村の戦い
 前述しましたがこの日は終始大雨だった為、川辺村の陣地を守る薩摩藩外城四番隊も、大雨の降りしきる払暁前の暗闇に紛れて接近する同盟軍を発見する事が出来ず、押切村からの砲声を受けて一斉に攻撃を開始した同盟軍の攻撃は完全な奇襲となります。そのような奇襲を受けても勇猛な外城四番隊は反撃に転じますが、流石は歴戦の衝鋒隊が猛射撃と散兵戦術を見せた為、遂に川辺村を守る外城四番隊も上田藩1個小隊もこの猛攻を支えきれず、川辺村の陣地を捨てて撤退します。
 こうして川辺村は同盟軍の手に落ちた為、同盟軍本営は川辺村を攻め落とした衝鋒隊と米沢藩兵に、未だ戦闘中の隣村十二潟村への援軍を命じますが、衝鋒隊は本営の命令を無視して攻め落とした川辺村で略奪の悪癖をまた始めたのです。ただこの命令無視は衝鋒隊だけでなく、川辺村に進駐した米沢藩兵も略奪こそしませんでしたが、ぐずぐずしてる内に体制を立て直した薩摩藩外城四番隊は反撃の為川辺村に来襲します。この外城四番隊の逆襲は川辺村を奪われた雪辱を果たそうかのように凄まじい物だったらしく、また衝鋒隊が「弾薬が切れた為後退する」と逸早く撤退した為、残された米沢藩兵6個小隊はこれと言った抵抗も出来ずに結局川辺村を奪回されて敗退します。

十二潟村の戦い
 十二潟村に対する攻撃は、砲声の合図と共に米沢藩兵6個小隊が進軍を開始し、七日の戦いと同様に十二潟村対岸の集落の大口村をまずは占拠します。大口村占領後対岸の十二潟村の新政府軍陣地に銃撃を開始しますが、新政府軍の陣地の堅い守りに退けられます。余談ですが米沢藩の史料を読むと、八丁沖西部戦線の新政府軍の陣地の中では十二潟村の陣地が一番堅固だった模様です。この為押切村の本営より川辺村を占領した同盟軍に、十二潟村攻撃の援軍に向かうように命令がされますが、前述のように衝鋒隊が略奪に夢中になってしまい、また米沢藩兵がもたもたしてしている間に結局川辺村は奪回され、これにより十二潟村攻撃の援軍は幻となってしまい、結果十二潟村への攻撃は失敗に終わります。

筒場村の戦い
 筒場村への攻撃は同盟軍の本営が置かれた押切村の部隊が担当となり、本営直属の砲5門(米沢藩2門・長岡藩2門・村松藩1門)の砲撃の元、米沢藩兵と会津藩兵が攻撃を開始しますが、この筒場村には新政府軍精鋭の薩摩藩2個中隊相当(城下士小銃十番隊・外城三番隊)が主力となっていて守りを固めていたので(二番遊撃隊も居た可能性有り、もしそうなればこの筒場村を守っていた薩摩藩兵は3個中隊相当となります)、同盟軍の攻撃も思うように捗りませんでした。むしろ攻撃精神旺盛な薩摩藩兵の砲撃の前に、砲門の数で圧倒的な優勢の筈の同盟軍は砲撃戦で圧倒されてしまい、長岡藩と村松藩の砲兵が多数負傷します。同盟軍の砲撃も会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネルが自ら砲を操り筒場村への砲撃を行ないますが、防戦の一方で薩摩藩兵は隣の大黒村に城下士小銃十番隊半隊を援軍に送っている事からも、筒場村を守る新政府軍が余裕を持った戦いを行なっていたのは明確で、結局押切村からの筒場村への攻撃も失敗に終わります。

大黒村の戦い
 そして大黒村の戦いですが、砲声が聞こえると共に福井村から進発した長岡藩兵と会津藩兵は銃撃もそこそこに一斉に大黒村に突撃します。この日大黒村には高田藩兵1個小隊(緒戦は半小隊のみ)が守備しているに過ぎませんでしたが、完全に奇襲であった上にここを守る高田藩兵が農兵隊だった為に、士族部隊である長岡藩兵・会津藩兵の白兵戦にかなう訳がなく、瞬く間に大黒村から駆逐されます。余談ですが小銃の扱いは短期間で習得出来る為、戊辰戦争では農町民兵が活躍し、中でも大鳥圭介率いる伝習隊などは各地で新政府軍を破り大活躍しますが、刀や槍の扱いには長い鍛錬が必要な為、こと白兵戦となると農兵隊は士族部隊の敵では無く、前述の伝習隊でさえも銃撃戦では無類の強さを見せましたが、白兵戦となるとてんで弱かったのを指揮官の大鳥自らが認めています。
 かくして大黒村は同盟軍、中でも長岡藩兵と会津藩兵の猛攻の前に陥落したのですが、敗北した高田藩兵は蜘蛛の子を散らすように敗走し、何人かの兵が隣村の筒場村に逃げ込んだ為、筒場村の新政府軍は大黒村の陥落を知る事になります。これを受け筒場村を守る薩摩藩城下士小銃十番隊長の山口鉄之助は、十番隊の半隊を引き連れ大黒陣地に急行し、大黒村を奪取したばかりの同盟軍に襲い掛かります。この山口率いる城下士小銃十番隊半隊の攻撃は、流石は新政府軍の精鋭と呼ばれた薩摩藩兵の中でも最強と呼ばれた城下士小銃隊だけあって、圧倒的多数な同盟軍を突き崩すし大いに奮戦します、しかし山口達の奮戦がいかに勇猛果敢だったとしても、この頃には米沢藩兵4個小隊や長岡藩兵1個小隊(田中稔隊)も大黒村に到着していたので所詮は多勢に無勢、長岡藩兵・会津藩兵・米沢藩兵に囲まれた薩摩藩城下士小銃十番隊は隊長の山口と半隊長の皆吉九平太が戦死すると言う大損害を受け敗走します。
 こうして大黒村は陥落しましたが、この同盟軍の一斉攻撃と大黒村の陥落を知った関原本営の山形有朋は、長州藩奇兵隊八番隊(隊長三好六郎)と長府藩報国隊二番隊(隊長内藤百太)、他に加賀藩兵等の援軍を至急大黒村に送ります。かくして大黒村を占領した同盟軍に新手の新政府軍が襲いかかり、また筒場村からも城下士小銃十番隊の残りの半隊を始めとした援軍が攻め寄せ、他にもようやく体制を立て直した高田藩兵も戦闘に加わった為、大雨の降りしきる中大黒村では新政府軍と同盟軍入り乱れの死闘の末、遂に力尽きた同盟軍は夕暮れ頃大黒村から撤退します。

亀崎村・赤坂山の戦い
 上記の様に八丁沖西部戦線で同盟軍の一斉攻撃が行われましたが、八丁沖を隔てた八丁沖東部戦線の田井村に駐留する米沢藩柿崎家教大隊もまた、押切村からの砲声を聞き進軍を開始します。この時の柿崎大隊の動きについては詳細は判らないのですが、二手に分かれて亀崎村と赤坂山をそれぞれ攻撃し、この地を守る大垣藩兵1個小隊及び大垣支藩兵半小隊を破って敗走させます。かくして亀崎村と赤坂山を占領した柿崎大隊ですが、亀崎村南方の浦瀬村にこの敗戦が伝わると、大垣藩兵と共に亀崎村と赤坂山を守っていた松代藩八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同三番小隊(隊長吉村左織)と、元々浦瀬村を守っていた長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)が亀崎村と赤坂山奪回の為出撃します。
 かくして今度は攻守を逆にして、米沢藩柿崎大隊の守る亀崎村と赤坂山に、新政府軍の長州藩兵と松代藩兵が攻めかかる事となり、激戦の末に夕暮頃に米沢藩兵を破り亀崎村と赤坂山を奪回します。

栃窪村の戦い
 この日の同盟軍の戦いは八丁沖西部戦線と東部戦線だけではなく、栃尾周辺の山岳地帯の栃窪村にも同盟軍は攻撃を開始します。もっともこの攻撃は押切本営の指揮下に置かれた攻撃ではなく、栃尾村に駐留する同盟軍(主に長岡藩兵)が独自に行なった攻撃の模様です。この為大軍を運用するには不向きの山岳地帯の戦いとは言え、導入されたのは長岡藩兵3個小隊と米沢藩兵1個小隊の計4個小隊のみでした。
 この同盟軍4個小隊は土ヶ谷村の守りを村松藩兵に任せた後に進軍を開始し、栃尾周辺の山岳地帯の重要地である栃窪村に向かいます。この栃窪村攻撃隊は少数とは言え戦術的には中々優れており、長岡藩兵1個小隊(保地九朗右衛門隊)に間道を迂回させ、退路と援軍を断つ為に栃窪村の背後を断った上で残りの部隊が栃窪村に攻撃を開始します。このように戦術的には中々優れた同盟軍の攻撃でしたが、栃窪村を守るのは精鋭の松代藩六番狙撃隊と同四番小隊、退路を断たれても怯む事無く迎撃したので、結局攻撃を仕掛けた同盟軍が撃退され土ヶ谷村に撤退する事となります。

六月十四日の戦いについての考察

 以上のように初の統一指揮による大規模攻勢となったこの日の同盟軍の攻撃ですが、これだけの大軍を導入したのにも関らず八丁沖西部戦線の攻撃は、主攻撃も無ければ助攻撃も無い完全な平攻めでした。戦術的には主攻撃地点を決め、そこに戦力を集中して一気に敵の戦線を突破すべきするのが定石なのに、どの集落の攻撃にも満遍なく兵力を配置した為、決定的な攻撃力を得れず、折角川辺村と大黒村を一時は占拠するものの、それ以上戦果は得れませんでした。
 また大曲戸村には予備戦力とでも言うべき戦力が居たのですから、主攻撃と助攻撃を設けなくてもこの戦力を奪取した川辺村か大黒村に投入すれば、戦果を拡大出来た可能性は高かったと思えますが、この大曲戸の戦力が戦闘に参加した様子は見えないので、大曲戸の部隊は完全に遊兵と化していたと思われます。
 このように主攻撃と助攻撃を設けず単なる平攻めを行ったのと、予備戦力と言うべき戦力を遊ばせ遊兵としてしまったと言う二重の失策を犯した攻撃が成功する訳が無く、過去最大の戦力を投入した同盟軍の攻撃は見るべき戦果も無く新政府軍に撃退されたのです。
 この体たらくは「戊辰役戦史」でも書かれている通り、全て同盟軍の総指揮を取った千坂の能力不足と決断力の無さが原因と言わざるを得ません。
 かくして指揮権を統一し、統一されての軍事行動を取れるようになった同盟軍ですが、折角の指揮権統一も総督の千坂が才覚も度胸もなかったため意味をなさず、この後の攻勢でも同盟軍はただ無意味な平攻めを繰り返すだけでした。
 これに対して新政府軍の山県も平攻めだったではないかと言う批判があるかもしれませんが、平攻め同士の戦いなら戦力に勝る方が勝つの自明の理でした。

      

左:旧大黒集村内に築かれた新政府軍の陣地跡。
中:大黒集落から見た現在の八丁沖、奥の山地の麓が八丁沖東部戦線。
右:八丁沖東部戦線の間道、米沢藩兵柿崎大隊と新政府軍の長州藩兵と松代藩兵もこの間道を行軍した事でしょう。


新政府軍の組織変更と戦力増強

 またこの日この越後方面の新政府軍の組織が、今までの大総督府の指揮下の北陸先鋒総督府から、大総督府から独立した会津追討越後口総督府に再編成されました。これにより越後方面の新政府軍は朝廷直属の組織となり、独自の戦争指導を行なう事になります。
 この組織変更により、飾り物の公家等の顔ぶれは代わりましたが、実際の軍務の実権を山県が掌握してると言うのは今までと変わりませんでした。しかし今までよりも遙に強い権限を得た山県は、他戦線への援軍すらも越後口に回すと言う強引な手法で越後口新政府軍の戦力を次々に増強していったのです・・・。


十二潟村・筒場村等の八丁沖西部戦線の戦闘:六月十九日

 この日の戦いに先立つ十五日に米沢藩の出羽方面軍だった大隊頭横山与市率いる与板組6個小隊(桜孫左工門隊・温井弥五郎隊・高野織右工門隊・津田仁左工門隊・石井次郎右工門隊・船田善左工門隊)が見附に到着し、十七日には米沢藩の支藩藩主である上杉主水率いる8個小隊による1大隊(桐生丈右衛門隊・小幡弥五右工門隊・山崎虎吉隊・北村重助隊・角善左工門隊・泉崎弥市朗隊・鈴木源五郎隊・丸田右兵衛隊)も見附に到着します。またこの十七日には、五月に会津に援軍して派遣されていた大隊頭江口縫殿右衛門率いる6個小隊(佐藤孫兵衛隊・山吉新八隊・安部清兵衛隊・上村九左衛門隊・大石与三郎隊・新屋十次郎隊)も見附に転進して来た為、この中越方面の米沢藩兵の戦力は飛躍的に増強されます。

 さて上記で書いた通り今までのらりくらりと風見鶏をしていた新発田藩ですが、遂に米沢藩兵の圧力に屈して、遂に軍勢を同盟軍に差し出すことになりました。こうして新発田藩が差し出した溝口半左衛門率いる7個小隊(後述)は、前述の米沢藩大隊長の横山与一に伴われ、同じく十七日に見附に到着します。
  しかし軍勢を出したと言っても、今までの言動からとても新発田藩を信じる事の出来ない同盟軍は、新発田藩兵の戦意を試す為にも、新発田藩兵を米沢藩兵の指揮下に入れる事を決定します。こうして新発田藩兵7個小隊の内4個小隊は、八丁沖西部戦線の米沢藩兵の指揮を取る仮参謀斉藤篤信の指揮下に入り、残り3個小隊は八丁沖東部戦線の米沢藩兵の指揮を取る大隊長柿崎家教の指揮下に入れられます。
 また米沢藩は戦力だけではなく、銃弾・弾薬・雷管等の新発田藩に供出させます、これは米沢藩兵の補給を滞らせた事に対する懲罰行為だけではなく、八丁沖戦線の激戦により米沢藩兵が慢性的な弾薬不足に陥っていたので、その一時的な解決法として「懲罰」と称して新発田藩に銃弾・弾丸・雷管等を供出させたと思われます。ところで米沢藩兵が新発田藩が供出した弾丸・弾薬・雷管を使用出来たと言う事は、新発田藩兵と米沢藩兵が同レベルの小銃を装備していたのを表していると思います。この為新発田藩兵の装備は前装ミニェー銃とゲベール銃の組み合わせだったと思われます。

 *新発田藩が同盟軍に差し出した戦力は7個小隊と伝えられますが、確認出来る中越戦線に出兵した新発田藩の小隊長は溝口四郎左衛門・高山晟一郎・佐藤八右衛門・鈴木長次郎・里村縫殿・服部吉左衛門・窪田嘉右衛門・高山安兵衛の8名です。新発田市史を読む限り途中で小隊長の交代が行なわれた様子は無いので、中越戦線に出兵した新発田藩兵は伝えられる通り7個小隊だったのか実際は8個小隊だったのか判断がつきかねない状態です。


 こうして新発田軍を指揮下に置いた斉藤は六月十九日、米沢藩兵と新たに指揮下となった新発田藩兵を率いて十二潟村に攻撃を開始します。この日の戦いでは中興野村と五百刈を出陣した同盟軍は、まず先鋒として新発田藩4個小隊(溝口四郎左衛門隊・高山晟一郎隊・佐藤八右衛門隊・鈴木長次郎隊)が進み、その後を督戦軍として米沢藩兵2個小隊(鈴木源五郎隊・桐生丈右衛門隊)が進みます(後軍として仙台藩兵2個小隊が続くと言う記述もあり)。ただ今までの新発田藩の動向から督戦軍だけでは信用出来ない同盟軍参謀であり米沢藩参謀の甘粕継成は、黒金武五郎を始めとした6人の軍目付を直接新発田藩兵の中に送りこみ監視させます。
 この新発田藩兵と米沢藩兵の攻撃に対し、当時十二潟村は長州藩奇兵隊八番隊(隊長三好六郎)と加賀藩兵1個中隊相当(隊長蓑輪知太夫)が守っており、新発田藩兵と米沢藩兵はこれまでの戦い通りまずは十二潟村対岸の大口村を占拠して、ここから十二潟村に攻撃を開始します。この日の天気は晴天の猛暑だったので、銃撃を繰り返す銃身が焼けるような熱さになるのにも関わらず、米沢藩兵の目を気にした新発田藩兵は猛攻を繰り返し、佐藤八右衛門以下の多くの死傷者を出す事になるのです。
 結局この日の戦いは夕方に同盟軍が撤退した為終わりますが、それまで新発田藩に疑念の目を向けていた甘粕と斉藤は、この日の新発田藩兵の戦いぶりを見て、その疑念が晴れたと書状を残しています。

      

左:十二潟から旧坪内村を見て、奥の高地が旧坪内村です。
右:十二潟から大口方面を見て、私見ですが画像中央の木が密集している神明社が十二潟村の新政府軍陣地に使われたのではないでしょうか。


福島村・大黒村等の八丁沖西部戦線、及び東部戦線の戦闘:六月二十一日〜二十二日
地図

 先日の十四日に行なわれた同盟軍初の一斉攻撃が失敗したのは、同盟軍総督になった千坂高雅の作戦が、「何の工夫も無い平攻めだったから」と判断した長岡藩総督の河井継之助は、会津藩の佐川官兵衛(朱雀士中四番隊隊長、事実上信濃川西岸の会津藩兵の指揮官)を伴い、二十日の夜に見附の千坂の本陣を訪れ、自らの作戦を提案します。
 この時河井が提案した内容は、まず別働隊を夜間八丁沖内を迂回させ、新政府軍の最前線である大黒村の背後(南東)に位置する福島村を奪取し、福島村を奪取後合図の火の手を挙げ、この合図を受け福井村から大黒村を攻め、福井村からの部隊と福島からの部隊で大黒村を正面と背後から挟撃し、新政府軍の有力な拠点である大黒村も奪取して、新政府軍の戦線に楔を打ち込むという戦術を駆使した作戦でした。また河井はこの作戦を実地するに当たり、千坂に米沢藩兵の散兵隊を福島村への迂回部隊に参加させるよう求めます。長岡藩兵と比べると弱兵の米沢藩兵ですが、全兵7連発発射可能のスペンサー銃を装備した散兵隊は河井から見ても頼もしく見えたのか、この福島村への迂回部隊に米沢藩散兵隊の参加を求めます。
 これらの河井の提案を千坂は了承し、散兵隊だけでなく自らの指揮下の米沢藩兵と新発田藩兵を以って八丁沖西部戦線と東部戦線で一斉攻撃を行なう事を決断します。

 余談ですが同盟軍参謀の甘粕継成は、信濃川西岸に展開する同盟軍の戦意が少ないと判断した為、信濃川西岸に展開する同盟軍の指揮を取る会津藩越後口総督の一之瀬要人を督戦すべく地蔵堂の一之瀬の本陣へ出張中の為、この作戦に参加する事はありませんでした。更に余談ですがいざ地蔵堂に到着した甘粕は、この地で庄内藩家老の石原多門より「会津兵は戦いをせずに、農民から略奪ばかりして困る」と苦情を受けたので、甘粕は一之瀬に会津士魂と呼ばれた民衆からの略奪行為を辞めるように伝えます。これを受けた一之瀬はその場では甘粕に謝罪しましたが、結局その後も会津兵は一之瀬の厳命には従わず各地で略奪行為を続けたのです。この自藩兵を纏める事も出来ない一之瀬に対して甘粕は、「人物としては好ましいが、才覚は無い」と言う人物評を残しています。

 こうして河井・佐川・千坂の軍議の元同盟軍は二十一日夕方頃から布陣を開始し、夜半頃には以下の通り布陣します。

迂回部隊:八丁沖内を迂回進軍し、福島村を襲撃する。
 長岡藩兵4個小隊(花輪救馬が指揮、大川市左衛門隊・池田彦四郎隊・篠原伊左衛門隊・千本木隊)・米沢藩散兵隊2個小隊(千坂多門隊・浅羽徳太郎隊)・会津藩朱雀士中四番隊半隊(木村理左衛門が指揮)

主攻撃部隊
:福井村に駐留、迂回部隊の福島村奪取の合図を確認したら、正面から大黒村を攻撃する。
 長岡藩兵3個小隊(軍事掛三間市之進が指揮、稲垣平四郎隊・二見虎三郎隊、及び三間直率の1個小隊)・会津藩朱雀士中四番隊半隊(隊長:佐川官兵衛)・米沢藩兵1個小隊(鈴木源五郎隊)

助攻撃部隊:各集落に駐留し、迂回部隊の福島村奪取の合図を確認したら、各担当部署を攻撃する(最後に記述した田井村のみ八丁沖東部戦線、他の集落は八丁沖西部戦線)。
大保村・品之木村:以下の部隊は川辺村を攻撃する。
 米沢藩兵4個小隊(小野里勘蔵隊・古海勘左工門隊・山崎与以吉隊・本間伝兵衛隊)
中興野村:以下の部隊は十二潟村を攻撃する。
 米沢藩兵4個小隊(寺嶋太一散兵隊・大津英助隊・狩野鉄之助隊・北村重助隊)及び新発田藩大砲1門
灰島村:以下の部隊は十二潟村を攻撃する。
 米沢藩兵2個大筒隊(大熊左登美30匁大筒隊・小山五兵衛30匁大筒隊)・新発田藩兵2個小隊(溝口四郎左衛門隊・服部吉左衛門隊)及び大砲1門
大曲戸村:以下の部隊は筒場村を攻撃する。
 米沢藩兵2個小隊(松本幾之進隊・潟上弥助隊)及び1個大筒隊(桐生源作隊30匁大筒隊)・新発田藩兵2個小隊(里村縫隊・鈴木長次郎隊)
田井村:以下の部隊は亀崎村・浦瀬村及び周辺の新政府軍陣地を攻撃する。
 米沢藩柿崎家教大隊(柿崎家教隊・上野貞助散兵隊・小倉吉蔵隊・岩井源蔵隊・土肥伝右衛門隊・三股九左衛門隊・西堀源蔵隊の7個小隊)*ただしこの七個小隊の内何小隊が戦闘に参加したかは不明。、


 以上の陣容で布陣した同盟軍ですが、二十一日夜半まずは迂回部隊が進発します、「八丁沖戦線について」で書きましたが、当時長岡の北東に広がっていた広大な湿地帯である八丁沖ですば、場所によっては底無し沼の箇所も在りましたが、場所によっては通行可能な場所も在りました。その八丁沖内で漁をして生計を立てていた長岡藩の下級藩士を案内にして、迂回部隊は通行可能な部分を迂回部隊は進軍し、大黒村の横を通り抜け大黒村後方の福島村に迫ります。
 当時福島村は富山藩五番小隊(隊長森田三郎)が守っていましたが、最前線では無い福島村が攻撃されるとは思っていなかったらしく、ろくに歩哨すら出さずに油断していた二十二日未明、「通行不能」と言われていた八丁沖から突然同盟軍迂回部隊が現れて福島村に攻撃を開始します。ただでさえ油断していて軍装すらしていなかった上に、そもそもが弱兵の富山藩兵では、奇襲を成功させた上に、ただでさえ連度の高い長岡藩兵と会津藩兵、そして連度はともかく全兵スペンサー銃を装備した米沢藩散兵隊の攻撃に耐えれる筈がなく、ろくな防戦も出来ずに富山藩5番小隊は敗走します。
 こうして富山藩五番小隊を破り、見事福島村を奪取した同盟軍迂回部隊は合図の火の手を上げ、その後二手に分かれ一方は反転し、背後から新政府軍の重要な拠点である大黒村に向かい、もう一方はそのまま八丁沖沿いに進軍して福島村南西の集落の宮下村に向かいます。

 この福島上空に上がった火の手を見た各地の同盟軍は一斉に攻撃を開始しましたが、その中でも大黒村奪取を目指す主攻撃部隊は、福井村を出発して猛然と正面の大黒村目指し攻撃します。この時大黒村を守っていたのは高田藩兵(竹田十左衛門大隊所属の部隊、何小隊が布陣していたかは不明)でしたが、長岡藩兵・会津藩兵を主力とした主攻撃部隊は猛攻の末大黒村を攻め落とし、見事新政府軍の戦線に楔を打ち込むことに成功します。
 かくして大黒村を奪取した同盟軍でしたが、主攻撃部隊の大黒村攻撃を支援する為に新政府軍の各陣地を拘束すべく攻撃を開始した米沢藩兵を主力とした助攻撃部隊の攻撃が不徹底だった為、筒場村より薩摩藩城下士小銃十番隊が、浦瀬村からは松代藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同八番狙撃隊(隊長小幡助市)・同四番小隊半隊(隊長代理小宮山三吉)が次々と大黒村に援軍として駆けつけ、かくして大黒村の地で同盟軍主攻撃部隊及び迂回部隊と、新政府軍の薩摩藩兵と松代藩兵が激突する事となります。
 先の福島村と大黒村の戦いでは、新政府軍の守備部隊を鎧袖一触で打ち破った同盟軍迂回部隊ですが、これは同盟軍迂回部隊の強さも大きかったですが、何より福島村を守っていた富山藩兵、大黒村を守っていた高田藩兵が弱兵だったのが同盟軍迂回部隊の勝利の最大の理由でした。しかしこの時大黒村奪回の為に急行してきたのは士気も連度も高い薩摩藩兵と松代藩兵、さっきとは違い勇敢に攻め寄せてくる薩摩藩兵と松代藩兵の攻撃の前に同盟軍も苦戦に陥ります。特に勇猛果敢だったのは薩摩藩城下士小銃十番隊の戦いぶりでした、この部隊は先日の十四日の戦いで隊長である山口鉄之助を失ったばかりですが、更にこの日の戦いでは監軍の村田長左衛門と半隊長の大重彌早太が戦死、同じく監軍の大久保金四朗が重傷と次々に士官が倒れます。これだけ士官が倒れれば部隊の指揮系統が破綻してもおかしくはありませんが、健在である数少ない士官である後の西南戦争で勇名を馳せた監軍である中島健彦が、旗下の兵をよく纏めたので、これだけの損害を出したのにも関わらず薩摩藩城下士小銃十番隊は獅子奮迅の闘いを続けるのです。
 しかし薩摩藩兵と松代藩兵がどんなに強兵でも、同盟軍の主攻撃部隊と迂回部隊と比べると数的に劣勢なので、薩摩藩兵と松代藩兵の活躍も空しく、次第に劣勢に陥り始めます。

 このように前線の新政府軍の戦況は芳しくありませんでしたが、一方の新政府軍の司令部もまたこの奇襲を受け完全に後手に回っていました。しかし後手に回ったとは言え、上記した通り飾り物の総督を以前より豪華にする事に成功した新政府軍を率いる山県有朋は、その総督を利用して他の戦線への援軍を奪い取るなどの強引な手法も使って兵力を増強していたので、緒戦こそ同盟軍の奇襲に遅れを取りましたが、その後次から次へと前線に援軍を送ったため、次第に各戦線の新政府軍は持ち直し始め、逆に同盟軍の攻撃は鈍りつつありました。
 特に危機に陥っている大黒村には新手の長州藩千城隊一番隊(隊長福井太郎)・同二番隊(隊長平岡来三郎)・奇兵隊七番隊(隊長三浦五郎)・同八番隊(隊長三好六郎)を援軍に向かわせたので、二十二日の昼頃にはそれまでの攻守が逆転し同盟軍主攻撃部隊と迂回部隊が新政府軍に包囲される状況になります。こうして大黒村で新政府軍と同盟軍の死闘が再び行なわれ、長州藩千城隊一番隊隊長の福井太郎、米沢藩散兵隊隊長の千坂多門始め新政府軍・同盟軍問わず多くの将兵が倒れます。しかし最終的には兵力的に有利な新政府軍が同盟軍を包囲して、同盟軍は包囲殲滅の危機に陥ります。
 この危機は長岡藩の三間と会津藩の佐川が指揮下の兵を突撃させ、新政府軍の包囲網を突き破った事により離脱に成功しましたが、折角奪取した福島村と大黒村を結局新政府軍に奪回され、新政府軍の戦線に楔を打ち込むという同盟軍の作戦は失敗に終わったのです。

六月二十一〜二十二日の戦いについての考察

 この日の作戦は十四日に行なわれた平攻めとは違い、迂回と主攻撃と助攻撃を組み合わせた戦術を駆使し、こと戦術に関してはこの日の戦いは同盟軍が新政府軍を凌駕していましたが、それでも同盟軍の攻撃が失敗したのは私見ですが2つの理由があると思います。
 まず1つ目の理由としては河井・千坂・佐川の同盟軍上層部の考え方の温度差が挙げられると思います、この日の戦いでは主攻撃部隊の大黒村への攻撃を支援する為に、各新政府軍の陣地に米沢藩兵を主力とした助攻撃部隊が攻撃を行いましたが、この長岡藩兵を主力とした主攻撃部隊と米沢藩兵を主力とした助攻撃部隊の戦いぶりには明らかに差がありました。米沢藩兵を主力とした助攻撃部隊が各地の新政府軍を拘束出来れば、筒場村を守っていた薩摩藩兵と浦瀬村を守っていた松代藩兵による援軍が大黒村に向かう事は無かったと思われますので、この点は米沢藩兵の戦いぶりに問題があったと思われます。
 それでは米沢藩兵のみに問題があるかとそうとも言えず、確かにこの日の戦いに参加した長岡藩兵と会津藩兵の戦いぶりは素晴らしかったですが、そもそもこの戦いを乾坤一擲の戦いと言うには長岡藩兵と会津藩兵の参加戦力は余りにも少なすぎると言えます(長岡藩兵7個小隊と会津藩兵1中隊相当のみ)。もし河井が本気で新政府軍の戦線を突き崩す気があれば、全長岡藩兵を投入すべきなのに、それをしなかったのは戦力を出い惜しみしていたと言えましょう。
 このように戦術を駆使した作戦と言っても、米沢藩兵は参加兵力は多いものの消極的な戦いを行い、長岡藩兵と会津藩兵は積極的な戦いをしましたが戦力自体を出し惜しみしたと言えると思います。結局の所米沢藩も長岡藩も会津藩も「戦争には勝ちたいが、自分の藩の戦力は温存したい」との本音があり、これが同盟軍主力藩の相互不信に繋がり、結局この日の作戦失敗に繋がったと言えると思います。

 またもう一つの理由としては、山県が他の戦線の援軍も奪い取って集めた圧倒的な戦力による、重厚な防御陣と豊富な予備戦力の効果が大きかったと思います。確かにこの日の同盟軍の戦術は優れ、完全に新政府軍の裏をかきましたが、次々に雲霞の如く現れる新政府軍の援軍の前では、同盟軍の戦術など些細な事と言うのを見せつけたのです。後世からも何かと批判される山県の用兵ですが、少なくともこの日の戦いに限っては同盟軍の「戦術」を、新政府軍の「物量」が破ったのです。

   

左:旧福島村内に建つ福島村夜戦の戦碑。
中:大国主神社に建てられた大黒村攻防戦戦死者の墓


栃尾攻防戦:七月一日

 上記の通り次第に戦力が増強されていた新政府軍は、それまでの守勢一辺倒から攻勢に転じ、まずは同盟軍の拠点たる栃尾攻撃を決断します。この攻撃が誰によって立案されたかは判りませんが、長府藩の福原和勝や長州藩の福田侠平辺りが主戦論者だったと伝えられています。
 こうして一日払暁、新政府軍は栃尾から西方4キロの栃窪方面・栃尾から西南方6キロの森立峠方面・栃尾から南方10キロの半蔵金方面の三方から進軍を開始します。
 その陣容は栃窪方面軍が長州藩奇兵隊四番隊(隊長能見兵児)・同千城隊一番隊(隊長井上弥八郎)・薩摩藩外城四番隊(隊長中村源助)・大垣藩兵1個小隊半・大垣支藩兵半小隊・松代軍藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)・同四番小隊(隊長山越新八郎)による編成で、森立峠方面軍が長州藩奇兵隊三番隊(堀潜太郎の戦死後隊長不明)・同千城隊三番隊(隊長平野捨五郎)・薩摩藩遊撃隊二番隊(隊長大迫喜右衞門)半隊・加賀藩兵1中隊相当(隊長小川仙之助)による編成で、半蔵金方面軍が長州藩奇兵隊七番隊(隊長三浦五郎)・長府藩報国隊1個小隊・松代藩一番小隊(隊長蟻川賢之助)と言う編成でした。他にも高田藩兵・飯田藩兵・上田藩兵等の予備兵力を用意した大兵力で、この大兵力で一気に同盟軍の拠点たる栃尾を陥落させるつもりでした。

 これに対し同盟軍は八丁沖東部戦線及び西部戦線で攻勢に出ていた為、栃尾の守備兵力は十分ではありませんでしたが、斥候により新政府軍の接近を知り兵力を配備し、急ごしらえの感があるものの新政府軍迎撃の態勢を整えます。
 まず栃窪から栃尾に至る本道上の土ヶ谷に長岡藩兵1個小隊(鬼頭六左衛門隊)と米沢藩兵1個小隊が守備し、土ヶ谷西南方の山頂に陣地を設けてそこを長岡藩兵2個小隊(小嶋久馬右衛門隊・槙小太郎隊)で守備します。
 また森立峠から栃尾に至る途中の一之貝陣地を会津藩二番遊撃隊(隊長井深宅右衛門)と村松藩兵1個小隊(堀平多隊)が守備し、その一之貝後方の荷頃陣地に軍事掛川嶋億二郎が率いる長岡藩兵2個小隊(柿本五左衛門隊・渡辺進隊)と仙台藩兵1個小隊が守備します。
 そして半蔵金から栃尾に至る西中野俣には長岡藩兵1個小隊(花輪彦左衛門隊)を配備します。この他にも長岡藩兵・米沢藩兵・村松藩兵等が配備され、以上の布陣で新政府軍を迎え撃ちます。

 かくして一日払暁に進軍を開始した新政府軍と同盟軍との戦闘が各地で繰り広げられます。まず栃窪方面では本道を進軍する新政府軍を、同盟軍は土ヶ谷と土ヶ谷西南方の山頂陣地から挟撃した為、新政府軍を逆に撃退します。しかし奇兵隊四番隊が間道を迂回し山頂を守る長岡藩小嶋隊と槙隊を追い落とす事に成功すると、本道を進む本隊も土ヶ谷を奪取して、そのまま栃尾に進軍します。
 森立峠方面では加賀藩小川隊が先鋒となりますが、急ごしらえとは言え同盟軍の一之貝陣地は固く抜けないでいました。これを見た奇兵隊三番隊が迂回して一之貝陣地東方の大平山の山頂を占領し、ここから銃撃を行なうと一之貝守備兵も動揺し、更にはこれを見た薩摩藩兵が突撃したした為、一之貝陣地は奪取され同盟軍は後方の荷頃に撤退します。しかし勢いに乗る薩摩藩兵はそのまま荷頃陣地にも攻めかかり、激戦の末遂にこれを奪取します。
 そして半蔵金方面では、ここを守る花輪彦左衛門隊は奮戦しましたが、幾ら奮戦したと言っても所詮1個小隊に過ぎず、更に攻めるのは長州藩奇兵隊・長府藩報国隊・松代藩兵といずれも戦上手の軍勢だったため、どんなに花輪隊が強靭な防御を見せても、次から次へと迂回して包囲してくるので、支えきれずこれまた遂に栃尾目指し撤退します。
 このように栃窪方面・森立峠方面・半蔵金方面のいずれでも敗れた同盟軍ですが、攻撃の拠点であり、何より長岡藩に残された唯一の領土である栃尾だけは死守しようと、かつて戦国武将の上杉謙信公の居城だった栃尾城跡を最終防衛ラインにして布陣します。元来中世戦国時代の山城は近代戦には不向きとされていますが、この戦いでは同盟軍は栃尾城跡の狼煙台等の外郭ラインに塹壕や胸壁を築いて布陣して、ここまで勝ち進んできた新政府軍を食い止める事に成功します。新政府軍としても栃尾を間近として引き下がるのは不本意でしたが、栃尾城跡の防衛ラインが想像以上に堅固だったのと、夕暮れとなり慣れぬ土地での夜戦は避けたいと言う判断から、遂に栃尾を目の前にして撤収します。
 このようにして同盟軍はかろうじて栃尾を守る事に成功します、しかし栃尾が陥落の危機に瀕したと言うのは長岡藩兵に非常なショックを与え、このため河井継之助は長岡藩兵のほぼ全軍を栃尾に集結させ栃尾の守りを固める事を指示します。これによりその後も散発的に起きた栃尾周辺の戦いで同盟軍は栃尾を守りきりますが、以降第二次長岡城攻防戦まで長岡藩兵が大規模な攻勢に転ずる事はありませんでした。

      

左・中:栃尾城跡の外観
右:栃尾城跡の麓から栃尾の町を見下ろして


大黒村の戦い:七月二日

 上記の二十二日の攻撃の失敗に懲りた同盟軍は一旦攻勢を中断し、米沢藩の方でも長期に渡る戦いを労う為に「報奨金の支給」「新しい軍服(筒袖)の支給」「滞陣中の兵士に日にニ回は汁を、また二日に1度は漬物を支給する」「熱射病防止の為にコショウを支給する」等の処置をとります。また兵士を労うだけではなく綱紀粛正の為に、小隊長である増岡孫次郎を「小隊長の能力無し」と更迭するなどを行ないます。
 これらの処置により兵士の士気の回復に成功した米沢藩兵は自軍のみで八丁沖西部戦線の突出部の大黒村への攻撃を決意します、結果的にこの攻撃には長岡藩兵2個小隊も参加しますが、これは「もし米沢藩兵単独での攻撃が成功したら長岡藩の立場が無い」と言う河井継之助の打算による派遣だと思われますので、この七月二日の戦いは実質米沢藩兵単独による攻撃と判断して良いかと思います。
 かくして二日の払暁、仮参謀斉藤篤信の指揮の米沢藩兵13個小隊(曾根敬一郎隊・山崎虎吉隊・浅羽徳太郎隊・小野里勘蔵隊・桃井清七郎隊・戸狩左門隊・古海勘左衛門隊・上野貞助隊・松本幾之進隊・鈴木源五郎隊・桐生丈右衛門隊・山崎理左衛門隊・左近司周助隊)及び長岡藩兵2個小隊(池田彦四郎隊・本富寛之丞隊)が大黒村への総攻撃を開始します。
 これに対し新政府軍の配備は大黒村に高田藩1個小隊(竹田十左衛門大隊の内の1小隊)、大黒村支陣地の水門陣地に長州藩千城隊四番隊(隊長諏訪御守)、同じく支陣地の一ッ屋陣地に富山藩1個小隊と言う布陣でした。
 この日の払暁は濃い霧が漂っていた事もあり、米沢藩兵の奇襲は完全に成功した形で、かつこの日の米沢藩兵の攻撃はかつてない猛攻だった事もあり(特にスペンサー銃を装備した浅羽・桃井・上野の撤兵隊の活躍は目覚しいものがありました)、緒戦では支陣地の水門陣地と一ッ屋陣地を奪取するなどの戦果を挙げます。
 しかし幾ら米沢藩兵の勢いが凄まじいと言っても、単一箇所への攻撃では、六月二十二日の戦い以上に戦力を増強している新政府軍の防御陣を突き崩す事は出来ませんでした。また新政府軍も長州藩兵や薩摩藩兵や竜岡藩兵等の装備の優れた援軍を次々に投入してきた為、大黒村で新政府軍と米沢藩兵の死闘が繰り広げられます。これにより応援に駆けつけた長州藩千城隊六番隊隊長三浦政三郎が重傷(後戦傷死)を負うなどの死闘が繰り広げられますが、新政府軍と違い予備戦力の無い米沢藩兵は、援軍を投入する事は出来ず、遂に米沢藩兵は力尽きて撤退します。
 この日の戦いで米沢藩兵は山崎虎吉・桃井清三郎・曾根敬一郎の3人の小隊長を始め50名近い戦死者と、浅羽徳太郎と戸狩左門の2人の小隊長を始めとした多くの負傷者を出した為、この方面では攻勢を行うのが不可能な状況に陥り、この日以降この戦線では第二次長岡城攻防戦まで大規模な攻撃が行われる事はありませんでした。

      

左:同盟軍の大黒村攻撃の拠点となった西照寺
中:西照寺裏に建てられた同盟軍戦死者の慰霊碑
右:西照寺から旧大黒村を見て、画面中央が大黒村の陣地跡(距離にして300m程)です。


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主な参考文献(1章から6章まで通しで)

「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会

「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社

参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

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