北越戦争 第四章
慶応四(1868)年七月二十四日〜七月二十九日

北越戦争関連地図
(記事を読む前に別ウインドで開いて、記事を読む際にご活用下さい)

〜新政府軍と同盟軍それぞれの攻勢、第二次長岡城攻防戦と新潟攻防戦〜

*日付は第二次長岡城攻防戦から新潟攻防戦までの日にちです。


新政府軍と同盟軍それぞれの攻撃計画

 七月一日の栃尾攻防戦と七月二日の大黒攻防戦以降、信濃川西岸の与板・出雲崎方面では新政府軍と桑名藩兵を中心とした奥羽越列藩同盟軍(以下「同盟軍と略)が相変わらずの戦闘を繰り返していましたが、八丁沖東部戦線及び西部戦線、そして栃尾周辺では小規模な戦闘こそ起きたものの大規模な戦闘は無く、完全な戦線膠着状態となりました。これは新政府軍と同盟軍共に正面から敵の戦線を突破する事は不可能と判断したためと思われ、新たな攻撃作戦を新政府軍と同盟軍共に模索する事になったためです。
 しかし新政府軍と同盟軍共ほぼ同時期に新たな攻撃計画を立案し、しかもほぼ同時にこの攻撃を実行します。

新政府軍の攻撃計画
 まず新政府軍の方は、それまで関原に置いていた本営を七月九日に長岡に移します。これは新政府軍首脳部が長岡がもはや安全圏に入ったと判断したのと同時に、これから攻勢前進する為に関原から前線に近い長岡に移したと言う二つの面から本営を長岡に移したのでしょう。
 ところで、この時期解せない事として、これまで実質新政府軍の指揮をとっていた山県有朋が参謀を辞任して、後任の参謀として同じく長州の前原一誠が任じられます。ただ辞任した筈の山県が何時の間にか参謀に復帰していて、結局新政府軍の総指揮を取っているなど、この時期の新政府軍首脳部は内部でゴタゴタしていたのが察する事が出来ます。山県の著書「越の山風」にも、北陸軍進発時より長州と薩摩の確執が起きているのが書かれているので、それがこの時期に爆発したと判断されます。
 その確執が最も健著に現れたのが、十三日頃に山県と前原、そして薩摩の黒田清隆吉井友実とで立案された作戦です。この作戦では海軍の艦隊によって同盟軍の後方拠点の新潟近くに上陸して、一気に新潟を突く別働隊こそ薩長の兵を合同させているものの、その別働隊に連動して長岡から進撃する軍勢は、一方の今町方面軍は薩摩藩兵とその他の諸藩兵によって編成され、もう一方の栃尾方面軍は長州藩兵とその他の諸藩兵によって編成されると言う、薩摩藩兵と長州藩兵が完全に別行動を取る事になっていた事からも、この当時の確執が深刻だったのだと察せられます。

同盟軍の攻撃計画
 一方の同盟軍の方は、七月一日の栃尾攻防戦にショックを受けたのか、長岡藩兵が他の戦線から撤退して栃尾の防御に専念していましたが、これではいずれジリ貧に陥るのは明白なので、何とかして攻勢に移りたい所でしたが、同盟軍は新政府軍の様に戦力に余裕がある訳ではなく、また新政府軍の様に海軍があるわけでもないので、その攻撃作戦は必然的に奇襲しか残されていませんでした。そんな状況で河井継之助が決断したのは、深夜に八丁沖を突破して直接長岡城を攻めると言う奇襲でした。第三章で書かせて頂きましたが、この当時長岡の北東約8キロには底無し沼も在り通行不能と言われた八丁沖と呼ばれる広大な湿地が広がっていまして、この為新政府軍と同盟軍は平野部では八丁沖の東部と西部で戦闘を繰り広げていました。河井は長岡藩兵を率いてこの誰もが通れないと思っていた八丁沖を突破して長岡城を攻撃しようと言う賭けに出る事にしたのです。

 このように新政府軍と同盟軍は共にほぼ同時期に攻撃計画を立案し、共に作戦決行の日に向けて準備を開始し始めたのです・・・。


新政府軍の海上別働隊の出撃:七月十七〜二十三日

 上記の様に別働隊による海上機動作戦を決めた新政府軍ですが、この決断にはそれまで風見鶏をしていた新発田藩が新政府軍への恭順を打診してきたのが大きかった模様です。これを受けた新政府軍はこの新発田藩の裏切りを許可して、新発田藩領の太夫浜に上陸させ、上陸後部隊を二つに分け、一方は同盟軍の後方拠点である新潟を攻略して同盟軍の補給を断ち、もう一方は風見鶏の今度は新政府軍を裏切るとも限らない新発田藩を完全に従属させる為に新発田城に向う作戦を立てます。
 かくして海上機動作戦を行なう為に、軍艦の攝津(新政府直轄?)と第一丁卯(長州)、輸送艦の千別丸(柳川)・大鵬丸(福岡)・錫懐丸(加賀)・万年丸(芸州)の6艦による艦隊を編成し、この艦隊を長州の山田顕義が海軍参謀として率いる事になります。
 そしてこの山田率いる艦隊によって、海上輸送される陸上部隊の指揮官として薩摩の黒田清隆が任命され、その幕僚として薩摩の本田親雄が海軍参謀兼陸軍参謀に、土佐の岩村高俊が軍曹(軍監から降格)に、長州の白井小助久保無二三が海軍周旋にとそれぞれ任命され、この顔ぶれで陸上部隊を率いる事となります。
 この人事の決定された十七日辺りから、海上別働隊に参加する兵士達が出撃港となる柏崎に集結し始めます。その海上別働隊に参加する軍勢の編成は以下の通りです。

長州藩兵:奇兵隊五番隊(隊長野村三千三)・千城隊七番隊(隊長岡部富太朗)・同八番隊(隊長山中梅二郎
薩摩藩兵:外城一番隊(隊長村田経芳)・同三番隊(隊長有馬誠之丞)・遊撃隊2番隊(隊長大迫喜右衞門
徴兵隊:五番隊(隊長森斉助:後述)・十二番隊(隊長岡村喜兵衛:鳥取藩兵)
芸州藩兵:6個小隊(総括隊長寺西盛登:新整組入澤初之進隊・同津田友次郎隊・同永原繁人隊・同三村槌之丞隊・同村井為次郎隊、遊撃隊大橋織衛隊)及び砲4門
長府藩報国隊三番隊(隊長諏訪好和)・高鍋藩兵90名(隊長武藤東四郎)・明石藩兵79名(隊長友部久五郎)・福知山藩兵50名(隊長白井武勇)
 計 艦隊の将兵も含めて凡そ1000名

 かくして二十三日の夕刻、上記の軍勢を収容した山田顕義率いる艦隊は柏崎港を出航し、海路新発田藩領の太夫浜目指して出撃したのです。

 *注:徴兵隊とは直属兵力を欲した新政府が、各藩から提供された兵によって編成された部隊で、五番隊は宮津・杵築・高鍋・福知山・岡田・庭瀬・狭山の諸藩兵による混成部隊でした。尚この徴兵隊は新政府軍の恒久的な直属軍とはならず、翌明治二年三月に解散される事になります。


第二次長岡城攻防戦:七月二十四〜二十五日

長岡藩兵の攻撃準備
 河井継之助がいつ八丁沖突破の奇襲を立案したのかは不明ですが、七月十一日に栃尾の本営に米沢藩参謀の甘粕継成と仮参謀の斎藤篤信を招き、長岡藩の花輪救馬三間市之進も交えて軍議を行ないましたが、その際に河井が「尋常な手段では駄目だ」と語ったと伝えられているのを考えると、或いはこの時点で八丁沖突破を考えていたのかもしれません。その後十五日に同盟軍の総督も勤める米沢藩総督千坂高雅と軍議した後に、十七日夜に栃尾本営に長岡藩大隊長の山本帯刀牧野図書稲垣主税の3人、更にこれまでの戦いで武名を挙げた川島億二郎三間市之進花輪求馬の3人と、会津藩兵・桑名藩兵の士官(氏名不明)を招いて、この場で八丁沖突破の奇襲作戦を明かします。
 この奇襲は作戦の難易度上長岡藩兵でないと実行不可能な為、長岡藩兵単独で行なう為それまで全長岡藩兵を集結させていた栃尾から、長岡藩兵総軍17個小隊が十九日見附に移動します。この際万が一情報が漏れたら奇襲は成功しないので、奇襲を行うと言うのは兵士はおろか小隊長すら知らされてなく、長岡藩兵は訳も判らず見附に移動します。ちなみに長岡藩兵が去った後の栃尾には米沢藩兵6個小隊による1大隊(大隊長菅名但馬、朝岡俊次隊・北村重助隊・楠川織右衛門隊・矢尾板忠右衛門隊・戸沢又八隊・本間大力隊・小越平兵衛隊)・会津藩朱雀足軽四番隊(隊長横山伝蔵)、他村松藩兵・仙台藩兵が入りましたが、その際米沢藩兵は太鼓を打ち鳴らして行軍するなど、新政府軍の注意を栃尾に向けるように陽動を行っています。
 尚、この栃尾に集結した同名軍の指揮は仮参謀の斉藤篤信が取りました。

 このように十九日に見附に移動した長岡藩兵でしたが、河井としては二十日夜に奇襲作戦を実行するつもりだったものの、この日の前からの雨の影響で八丁沖はすっかり増水して、完全に通行不能な状態になっていたため河井は作戦の延期を決めます。しかしただ延期した訳ではなく、この延期の間河井は長岡藩の下級藩士である鬼頭熊次郎や須藤岩之助等を招き、彼等から八丁沖の詳しい情報を得ます。彼等は生計の為に八丁沖で漁をしていたため、正に八丁沖を庭の如く知っていたので、彼等から八丁沖突破の経路を聞き、更に彼等に道標や船橋の設置など八丁沖突破の為の準備作業を命じます。

長岡藩兵の作戦決行
 そして二十三日、遂に河井は全長岡藩兵に八丁沖を突破して長岡城を奪回する旨を発表します、それまで訳も判らず見附に連れて来られて悶々として長岡藩兵達は、この故郷奪回の作戦を聞いて狂気乱舞し、瞬く間に長岡藩兵の士気は高まり、兵士の誰もが新政府軍を撃破して故郷を奪回するのだと言う強い決意をするのです。
 かくして翌日二十四日、河井は見附本営に再び全長岡藩兵を呼び集め、彼らの前で訓令を行ない全軍に決意を表明し兵士達の士気を鼓舞させます。その後夕食を取らせ兵糧を持たせた後、午後7時頃遂に長岡藩兵総軍17個小隊は長岡城奪回を目指し八丁沖に進軍を開始したのです。
 この八丁沖進軍時の長岡藩兵の編成は、まず鬼頭熊次郎等八丁沖を知りぬいてる十名が道案内として進み、続いて山本帯刀と川島億次郎率いる第1陣の4個小隊(花輪彦左衛門隊・大川市左衛門隊・槙小太郎隊・千本木林吉隊)が続き、第2陣は三間市之進率いる4個小隊(稲垣林四朗隊・鬼頭六左衛門隊・篠原伊左衛門隊・小野田伊織隊)、第3陣は花輪求馬率いる4個小隊(渡辺進隊・小島久馬右衛門隊・望月忠之丞隊・奥山七郎左衛門隊)、この後を河井の本陣が進み、後衛の第4陣が牧野図書と稲垣主税率いる5個小隊(今泉岡右衛門隊・稲葉又兵衛隊・内藤直記隊・河井平吉隊・横田大助隊)の計17個小隊凡そ600人でした。
 こうして八丁沖に潜入した長岡藩兵は一列縦隊となり、一人一人の間隔を約1mに保ち行軍します。単純計算ではその全長は600メートル余となりますが、それぞれの部隊の間隔を考えればその全長は1キロメートル余に渡っでしょう。またこの日の全長岡藩兵は弾丸と食料とは別に1人1人が青竹を一本持っていて、この青竹で足場を確めながら行軍すると言う非常に厳しい条件で八丁沖を進軍していったのです。しかも夜空に月が出たら、全兵士湿地帯の八丁沖に伏せて雲が出るまで待つ取り決めで、かつその際には決して小銃は濡らさないようにと言う取り決めも(射撃不能にならないように)されるなど、正に忍耐の限界を試すような行軍でした。
 しかしその苦労が報われ、長岡藩兵は新政府軍に見つかる事無く、八丁沖南端の富島に午前2時頃第1陣が到着します。それからほぼ全兵士が富島付近に集結すると、二十五日未明遂に長岡藩兵は長岡城奪回の攻撃を開始します。

 ところで一方の新政府軍も、上記した通り新政府軍を指揮する山県有朋もまたこの二十五日を総攻撃の日と決めていて、その為薩長両藩兵の主力部隊や、今までの戦いで経験を積んだ歴戦の部隊を総攻撃の為に、長岡周辺から前線へ配置していました。この為長岡守備の為に柏崎に到着したばかりの兵や、または出雲崎・与板等で戦闘していた兵を引き抜いて、これらの兵で本営がある長岡を守備しました。このように数だけは揃った長岡守備の新政府軍ですが、彼等は長岡周辺の地理が全く判らず、また出雲崎・与板等で戦っていた兵はともかく、大半の兵はまだ実戦経験が無い兵ばかりでした。
 そしてそのような新政府軍のいわば二線級の部隊に八丁沖を突破した長岡藩兵は怒涛の勢いで襲い掛かったのです、この際まず攻撃を受けたのは竜岡藩兵1個小隊(隊長大脇晋介)でした、他の2線部隊と比べれば練度も装備も良い竜岡藩兵ですが、突然の奇襲ですっかり混乱します。これは警戒は一応してたものの、前線ではない自分達は襲われるとは夢にも思っていなかった為すっかり混乱し、しかも地理感がない為どこに逃げれば良いのかも判らず狼狽し、すっかり烏合の衆になって敗走しました。
 こうして竜岡藩兵を破った長岡藩兵は一気に長岡城に向けて進軍を開始したのですが、長岡藩兵は攻撃する際に「長岡兵二千が来たぞ」と流言を飛ばしたので、これが新政府軍の混乱を助長して、長岡藩兵は逃げる新政府軍を追撃しながら一気に城下に殺到します。この長岡城城下は長岡藩兵にとっては先祖代々住み慣れた土地ですから、長岡藩兵はそれこそ次々に裏道に散開して追撃したので地理不案内の新政府軍にこれを止める術はなく、遂に長岡藩兵は二十五日早朝には長岡城下に突入します。

      
左:八丁沖を突破した長岡藩兵が上陸した富島付近に建てられた八丁沖古戦場の碑
中:長岡藩兵八丁沖突破の功労者であり、第二次長岡城攻防戦で戦死した鬼頭熊次郎の顕彰碑
右:富島から福島の集落を見て、当時の八丁沖は現在大半が水田になっています。

長岡藩兵の奇襲に対する新政府軍の対応
 この長岡藩兵の奇襲が行われた際、長岡の本営で睡眠していた山県は軍監の福田侠平にたたき起こされ、そこで初めて異常を知らされます。もっとも福田も長岡藩兵の奇襲だとは思わず、薩摩藩兵が主力の今町方面の新政府軍が勝手に攻撃を開始したのだと勘違いし、伝令を走らせた時に初めて長岡藩兵の奇襲を知る事になるのです。もしこの時福田が山県を起こさなかったら、後の陸軍元帥山県有朋は存在しなかったかもしれません。余談ですが前原一誠も、この長岡藩兵の奇襲を、薩摩藩兵が主力の今町方面の新政府軍が攻撃を開始したのだと勘違いして、山県と福田が外に出た時には近くの旅館の上に登り火の手を見て喜んでいたと言います。

 しかし山県と福田と前原は流石は歴戦の指揮官で、一時の混乱から立ち直ると、この混乱の中で頼りになる歴戦の長州藩奇兵隊一番隊(隊長滋野謙太郎)と八番隊(隊長三好六郎)に反撃を命じます。しかしこの混乱の中では流石の奇兵隊も役には立たず、一番隊は長岡藩兵が放った火により退路を断たれた為に信濃川の河原に追い込まれ、そこで夜を明かす事になり、八番隊に至っては道に迷い、迷走を続けた末ようやく船を見つけて信濃川を渡って関原に逃げ帰ります。歴戦の奇兵隊でさえこの有様なのですから加賀藩等の他の藩兵の狼狽ぶりについては語る必要もないでしょう。
 それでも八丁沖東部戦線の亀崎陣地を守っていた強兵の松代藩兵は、長岡城の急報を知ると、蔵王の石内極楽寺の本営を目指して松代藩六番狙撃隊(隊長海野寛男)と八番狙撃隊(隊長小幡助市)が急行し、持ち前の勇敢さを見せて長岡藩兵に勇敢に挑みますが、地理を知り尽くしてる長岡藩兵相手では流石の松代藩兵も防ぐ事が出来ず、六番狙撃隊長の海野を始め多くの戦死者を出して敗走します。

 このように反撃が失敗すると、山県達は長岡周辺の新政府軍に対し長岡からの撤退を命令すると同時に、長岡南方の妙見高地への集結を指示します。これは緒戦に河井が榎峠と朝日山の奪回を行なった事からも判るように、所詮平城の長岡城の防御力は低く、長岡南方の妙見高地を確保して初めて長岡城は安全と言えました。逆を言えばたとえ長岡城を奪回されても、妙見の南方高地さえ押さえていれば幾らでも長岡城は奪い返せるので、山県達は混乱の最中でも南方高地への集結を命令したのです。この山県達の行動に比べると、大参謀を勤める公家の西園寺公知の如きは命惜しさに部下を捨てて寝巻のまま信濃川を渡って関原へ逃走すると言ういかにも公家らしい醜態を見せました。
 こうしてまず吉井友実が関原に前原が妙見の南方高地に、それぞれ撤退する兵士たちを掌握する為に向います、そして最後に山県が報国隊軍監の福原和勝を伴なって妙見の南方高地地帯目指して撤退します。

米沢藩兵による八丁沖西部戦線に対する助攻撃
 また、この日は長岡藩兵だけではなく、米沢藩兵が長岡藩兵の奇襲を支援する為に、八丁沖西部戦線及び東部戦線にて七月二日以来の大攻勢を開始します(西部戦線に3個大隊、東部戦線に1個大隊を投入、詳しくは後述)。この攻撃では総督の千坂高雅、参謀の甘粕継成の指揮の元で総勢4個大隊の大軍が投入され、一斉に攻撃を開始します。

 八丁沖西部戦線では、まず中之島口の大隊長香坂勘解由率いる12個小隊(寺島太市隊・関新右衛門隊・佐藤久左衛門隊・徳間久三郎隊・古海勘左衛門隊・木村源右衛門隊・上村又作隊・本間伝兵衛隊・佐藤三之助隊・逢田新次郎隊・芋川大善隊・三矢清蔵隊30匁大筒隊)は二手に分かれて、古海隊を与板方面の新政府軍への警戒の為に残し、残りの11個小隊は八丁沖西部戦線西端の川辺村・品之木村方面への攻撃に向かいます。
 中興野口では大隊長大井田修平率いるの8個小隊(苅野鉄之助隊・鈴木源五郎隊・大国大作隊・大熊左登美隊・早川新右衛門隊・大津英助隊・松本幾之進隊・桐生源作隊及び大砲1門)及び、新発田藩2個小隊(里村縫殿隊・服部平左衛門隊及び大砲2門)は十二潟村方面への攻撃に向かいます。
 また押切口の大隊長横山与一率いる7個小隊(高野織右衛門隊・小幡弥右衛門隊・温井弥五郎隊・山本寺亀太郎隊・舟田善右衛門隊・小野里勘蔵隊・山崎貢隊)及び村松藩大砲隊は筒場村・池之島村方面への攻撃に向かいます。
 一方の八丁沖東部戦線では、田井口の大隊長柿崎家教率いる7個小隊(上野貞助隊・岩井源蔵隊・小倉伊勢隊・土肥伝右衛門隊・三股九左衛門隊・西堀源蔵隊・丸太右兵衛隊)が亀崎村への攻撃に向かいます。

 かくして上記の米沢藩兵は、長岡藩兵が八丁沖と突破後に放った炎を確認すると一斉に八丁沖西部東部の両戦線で攻撃を開始します。
 この日の米沢藩兵の攻撃は北越戦争始まって以来の最大規模の攻撃でしたが、八丁沖西部戦線に展開する新政府軍は万全の準備で待ち構え、米沢藩兵の猛攻を撃退します。これは上記しましたが長岡藩兵の奇襲が成功したのは八丁沖突破と言う作戦が新政府軍の裏をかいたのが大きいですが、それに加えて新政府軍の主力部隊が翌日の二十五日の攻撃に備えて最前線に移動して、長岡周辺には二線級部隊しか居なかったのも重要な要素でした。
 つまり米沢藩兵が攻撃を仕掛けたのは、翌日に総攻撃を控えた薩摩藩兵7個中隊相当(城下士小銃七番隊・同十番隊・同十三番隊・同十四番隊・外城二番隊・同四番隊・番兵二番隊)を主力とした精鋭部隊だったので、その精鋭部隊に正面から攻めかかったのですから、幾ら過去最大の戦力を投入したと言っても七月二日の戦いで主力部隊の将兵の多くを失った米沢藩兵には、薩摩藩兵7個中隊相当を主力とした新政府軍を突破する事は出来ず撃退され撤退します。

第二次長岡城攻防戦の終了と河井の負傷
 一方長岡藩兵の方は山県等が長岡城から撤収した事もあり、二十五日朝には遂に念願の長岡城奪回を果たして、65日ぶりに意気揚揚と長岡城に入城します。しかし河井の狙いは長岡城の奪回に留まらず、山県が撤収を指示した長岡南方の妙見高地も奪取して長岡城の安全を確保し、かつ信濃川を渡河して新政府軍の本営の関原も奪取すると言う「電撃戦」でした。しかしこれを行なうには長岡藩兵だけでは戦力は足らず、米沢藩兵を中心とする他の同盟軍の援軍があって初めて実行出来るものでした。しかし米沢藩兵は上記の通りこの頃まだ新政府軍の戦線を突破出来ずにいたのです。
 これに対し新政府軍は山県が妙見方面の南方高地と関原への撤退を指示しましたが、混乱の中で全兵士に命令が行き届いた訳ではないので、長岡周辺にはまだ抵抗を続ける新政府軍も多く、また米沢藩兵と交戦中の今町方面の新政府軍からは主力の薩摩藩兵が、また栃尾方面の新政府軍からは長州藩兵がそれぞれ長岡に援軍として向ったので、長岡藩兵は敵中に孤立する事となったのです。
 今まで書いてきましたが、長岡城はとても篭城戦に耐えれる城ではないのですが、ようやく奪回した長岡城を長岡藩兵は捨てる事は出来なかったので、長岡藩兵は孤立無援の中この城を守る為に新政府軍に対する防戦を行なう事になるのです。しかし圧倒的に兵力に劣る長岡藩兵が城を守り抜く為には文字通り全兵士が決死の奮戦をするしかなく、全兵士が城下の畳などで臨時の胸壁を作り抵抗しましたが、その中河井自らが新政府軍の攻撃を視察する為に城北部の新町に向ったのですが、その際流れ弾が河井の左膝下を貫き河井は転倒します。この自らが前線に出たのは後世色々批判されますが、河井自身の気性もあったかもしれませんが、兵力が絶対的に不足している長岡藩兵としては自らが視察に行かざるを得なかったのだろうとと言う面もあったのではないでしょうか。
 負傷した河井は自分の負傷が兵士に知られると士気が低下するのを恐れ、本格的な治療を受ける事を拒否します。実際ここまで長岡藩兵が戦えたのは正に気力としか思えず、その気力が果てたら新政府軍に押し潰されるのは自明の理でした。この為河井は病院に入らず城内で指揮を続けた為、遂に新政府軍も攻撃を諦め撤退した為、長岡藩兵は長岡城を守り抜く事に成功するのです。しかし無理を続けた河井は出血により消耗し、遂に顔面蒼白となり野戦病院の昌福寺に担ぎこまれ、以降長岡藩兵を指揮する事は出来なくなったのです。
 かくして長岡藩兵は河井継之助と言う英雄の奇才によって長岡城を奪回し、かつ守り抜く事に成功します。しかしその河井が負傷により指揮が出来なくなった事で、折角長岡城を奪回した長岡藩兵の兵士達の頭上には暗雲が漂い始めていたのです・・・。

      

左:第二次長岡城攻防戦の松代藩兵の宿陣地だった極楽寺、当時の建物は第二次長岡城攻防戦の際焼失した。
中:第二次長岡城攻防戦後に長岡藩の野戦病院となった昌福寺、河井も負傷後この寺に担ぎ込まれたと伝えられます。
右:長岡城城下町の北の外れに建つ新政府軍本営の地の碑、第一次長岡城攻防戦により長岡城の大半が焼け落ちた事を受けた新政府軍は、城下町の中心地から外れたこの地に本営を置いたと思われます。


北越戦争時の新潟の状況

 元々新潟は幕府直轄領で、新潟奉行所が統治していました。しかし新潟奉行だった白石千別は大政奉還を知って動揺し江戸に向って逃走した為、慶応四年に入ってからの新潟奉行所は組頭の田中廉太郎と松長長三郎等が運営していました。
 しかし徳川慶喜が新政府軍に無条件降伏すると、建前上は新潟は新政府の領地となったのですが、当時の新政府には新潟にまで手を伸ばすような余力は無く、うやむやのまま新潟奉行所の統治が続いていました。しかし軍事力を有しない奉行所の統治も越後に戦乱が近付くと無力となり、四月一日には会津藩の指示により衝鋒隊が、七日には同じく会津藩の指示により水戸脱走軍が新潟に進駐します。しかし進駐と言っても荒くれ者の衝鋒隊や、故郷を失い理性を失っている水戸脱走軍が大人しくしている筈もなく、すぐに略奪と暴虐の限りを尽くします。しかし上記の通り軍事力を有しない奉行所に、衝鋒隊や水戸脱走軍等の会津勢を追い払う力は無く、新潟の人々はただただ会津勢の恐怖に怯える事になります(新潟市史通史編3 P11〜P14)。
 こうして会津勢の暴虐に苦しんだ奉行所は、新潟の町民を救う為に長岡藩に救いを求める事とします。これを受け河井は単騎新潟に駆けつけて、衝鋒隊や水戸脱走軍を説得して新潟から退去させます。この河井の活躍で平穏を取り戻した新潟ですが、奉行所の田中や松長は軍事力を有しない自分達では新潟の治安は保てないと判断し、また外国船が来航ししきりに開港を要求したたため(前年幕府が諸外国に開港を約束し、またこの年新政府もうやむや気味ですが新潟開港を認めていたため)、どこか信頼できる大藩に新潟の統治権を託す事を決意します。しかし奉行所が新潟の統治権を託したのは、衝鋒隊や水戸脱走軍を送り出した会津藩でも無ければ河井の居る長岡藩でもなく、越後に向けて派遣軍を進発させたばかりの米沢藩でした。この奉行所の田中や松長が米沢藩に新潟を託した理由としては、やはり米沢藩上杉家が越後の人々に慕われていたのが大きかったと思われます(新潟市史通史編3 P15)。

 そんな米沢藩に新潟の統治権を託したいと思う新潟奉行所と米沢藩が接触したのは、話は遡る五月の事です。五月十三日に米沢を出陣した米沢藩総督の色部長門ですが、その色部が新津に滞陣している二十一日に初めて色部と奉行所の役人の増田勝八郎が接触します。ただ開港問題など何かと問題のある新潟を受け取るのを色部も簡単には承認せず、しばらく米沢サイドと奉行所サイドの交渉は続きます。この間の交渉がどのようなものだったかと言うのは、色部自身の日記にも一切書かれていないので判りませんが、恐らく新潟港の武器補給地としての重要さを考えて新潟奉行所の申し入れを了承したらしく、二十八日夕方に色部と色部の家臣達は米沢藩兵本隊と別れ、船で信濃川を降って新潟に向います。そして翌日の二十九日に色部は奉行所の田中と改めて会談を行い、この場で新潟の統治権が奉行所から米沢藩に移ったと思われます。

 かくして新潟の統治権を得た米沢藩ですが、あくまで米沢藩が代表と言う形で独占支配したのではなく、同盟軍の支配と言うことでかつての奉行所を同盟の会議所とします。また色部の到着と前後して米沢藩兵は旧幕臣の安田幹雄や馬場八郎、また会津藩軍事顧問の肩書きを持つヘンリー・スネル等の指導を受けて、新潟の民衆を徴発し新潟防衛の為の砲台の設営を開始します。この砲台は全部で5つないし4つが設営されたらしく、一番砲台が洲崎番所・二番砲台が本明寺裏・三番砲台が泉性寺裏・四番砲台が勝楽寺裏(スネルの宿泊地)・五番砲台が前新潟大学裏辺り?に築かれます(五番砲台には無かったとの説もあり)。これらの砲台は六月上旬辺りには完成したらしく、砲台完成後は米沢藩兵が前述の安田やスネル達から指導を受けて調練を行ないます。後日この砲台からの砲撃が新政府軍軍艦の摂津に命中弾を与えるなど、この米沢藩兵の調練は一定の成果を挙げました。
 こうして新潟の統治を始めた色部ですが、色部自身は町内の光林寺に宿泊し、そこから同盟会議所に通い会津藩家老梶原平馬・仙台家老芦名靭負・庄内藩家老石原倉右衛門らと会議して、武器の輸入及び蚕種紙の輸出の手配、また諸外国への同盟の主張を伝える文章の作成等を行います。もっとも前述の人間の中新潟に常駐していたのは色部だけで、実質色部が同盟軍の重要な後方拠点である新潟を運営していました。

 この色部等の努力により、新潟港は同盟軍の後方補給地として稼動し、西洋化の遅れている同盟軍に多数の小銃と弾丸を供給します。中でも米沢藩兵は七月十九日には前装ミニエー銃二千挺と元込銃(シャールプ銃?)一千挺、更にその各小銃の弾丸計150万発を入手する事に成功します。ただこの直後に新潟攻防戦が行なわれた為、この際購入した小銃は殆ど米沢藩兵の手に渡らなかったと思います。逆にエドワード・スネル(ヘンリーの弟)と面識がある河井継之助の長岡藩は五月下旬にスペンサー銃41挺を含む多くの小銃・弾丸を入手して、これらは後の長岡藩兵の戦いに大きく貢献しています。
 ところでスネル達が同盟軍に持ちかけた商談としては他に、海軍力に劣る同盟軍に当時江戸湾に在り、後に新政府軍海軍の主力軍艦として活躍した甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン)の購入を持ちかけます。この計画は旧幕府が既に40万ドルを支払っているので、残金10万ドルを払って入手すると言うものでしたが、長岡藩がこの案に反対するなど足並みが揃わず結局実現しませんでした。また他にも在サイゴンの外人部隊を呼び寄せると言う案もスネル側から出されましたが、余りに巨額を要求されたので実現しませんでした。
 とにかくこのように同盟軍の重要な後方拠点として稼動していた新潟ですが、その新潟目指して新政府軍の山田顕義率いる艦隊が迫っていたのです・・・。

      

   

上左:米沢藩兵の本営となった光林寺、色部長門の宿舎ともなりました。
上右:裏地に二番砲台が築かれた本明寺
下左:裏地に三番砲台が築かれた泉性寺
下右:裏地に四番砲台が築かれた勝楽寺、弟スネルの宿舎ともなりました。


大夫浜上陸作戦〜新潟攻防戦:七月二十五日〜二十九日

新政府軍太夫浜に上陸
 七月二十三日に出撃した山田顕義率いる新政府軍の艦隊ですが、直接新発田藩領太夫浜には向わず、一旦佐渡島の小木港に停泊し一夜を過ごします。これは一般的には天候不良による高波を避けた為と言われていますが、小木で多数の漁船を上陸艦艇用に徴発している所を見ると、漁船徴発の目的もあって小木に向ったのではないでしょうか。
 かくして上陸艦艇として多数の漁船を徴発した新政府軍艦隊は、翌日二十四日夜太夫浜目指して出航します。そして二十五日早朝軍艦摂津と第一丁卯、輸送艦の千別丸・大鵬丸・錫懐丸・万年丸、そして前述の輸送艦に牽引された多数の漁船は太夫浜沖に現れます。
 太夫浜沖に到着した新政府軍艦隊は早速上陸作戦を開始した、・・・と言いたい所ですが、実際には海岸に置かれたはさ木を大砲と誤認したり(越の山路様参照)、引き網が敷き詰められて真っ黒になった海岸を見て陣地が設営されてるのではと上陸を躊躇するなど決してすんなり上陸を開始した訳ではありませんでした。これを見て憤慨したのが薩摩藩外城一番隊隊長の村田経芳で、上陸を躊躇する友軍を尻目に、外城一番隊を叱咤激励して上陸用の漁船に乗りこませ、一斉に太夫浜に向わせます。それまで上陸を躊躇していた他の新政府軍も、外城一番隊が上陸を開始した以上これを傍観する訳にはいかず、慌てて後を追って上陸を開始します。結局新政府軍の懸念は杞憂に終わり、何の障害を受ける事無く上陸を行ないます。この際新政府軍は付近の住民を手当たり次第徴発し人夫として働かせ、太夫浜に簡易陣地を設営します。
 ところでこの日、前日弟スネルとの間で武器弾薬の購入の商談を纏めた庄内藩家老石原倉右衛門が報告の為庄内に向っていたのですが、これが運悪く上陸した新政府軍と遭遇してしまい、石倉の乗る籠を呼び止めた新政府軍は石原が庄内藩士と知ると問答無用で射殺したのです。
 余談ですが、軍監から軍曹に降格した新政府軍の岩村高俊は後年、「石倉の従者も石倉と一緒に殺されそうになったが自分が助けた」と自画自賛しますが、実際には石倉の従者達は自力で脱出したので、これは岩村が自分を美化する為にでっち上げた醜悪な行動でしかありません。

   

左:山田顕義率いる新政府軍艦隊が上陸した太夫浜
右:新政府軍上陸部隊と遭遇し射殺された庄内藩家老石原倉右衛門の慰霊碑

 これに対し新潟の色部長門は決して手をこまねいたわけではなく、新政府軍艦隊の出撃を知ると信濃川に浮砲台(詳細は不明)を設置したり、米沢藩兵と指揮下の新発田藩兵の合同部隊を本所や沼垂に送り守りを固めたり、偵察の為須藤美保吉・山口謹一郎・中沢雄次の3人を斥候として太夫浜に送ります。しかし新政府軍が上陸した太夫浜は新発田藩領の為、色部の状況把握は遅々として進みませんでした。
 また新発田藩の動向については、裏切りを新政府軍に打診したものの、実際には新政府軍が上陸したその日まで新政府軍と同盟軍のどちらに味方するべきかと言う評定をだらだら続けていました。しかしそんな風見鶏の新発田藩も新政府軍が太夫浜に上陸したと知ると、ようやく同盟軍を裏切って新政府軍に降伏する事を決意して、道案内として1個小隊を太夫浜に送り、新政府軍を城下に迎え入れる準備を始めます。

 さて上陸を完了した新政府軍陸上部隊は、司令の黒田清隆の指揮の元で、新発田藩接収の本隊と新潟攻撃の2つの部隊に分かれそれぞれ進軍を開始します。
 まず新発田に向う部隊は黒田自らが率いて薩摩藩外城三番隊(隊長有馬誠之丞)と遊撃隊二番隊(隊長大迫喜右衞門)・ 長州藩奇兵隊五番隊(隊長野村三千三)・ 徴兵隊五番隊(隊長南条熊之丞)・芸州藩兵5個小隊(津田友次郎隊・永原繁人隊・三村槌之丞隊・村井為次郎隊・大橋織衛隊)・長府藩報国隊三番隊(隊長諏訪好和)・明石藩兵(隊長友部久五郎)・福知山藩兵(隊長白井武勇)の編成で、その日の夜には新発田城下に到着します。新発田藩家老の溝口半兵衛は黒田隊が到着すると黒田の元に駆けつけて改めて新政府軍への恭順を誓います。
 この新発田藩の恭順を受け入れた黒田は、新発田周辺の平定の為に新発田北東の加治村や、会津藩の重要な拠点となっている新発田南西の水原村や笹岡村(元々は幕府直轄領)に次々に兵を送ります(5章で後述します)。この新発田周辺の出兵を受けた新発田藩は、忠誠心を示す為に各地に先鋒として兵を送り、また兵糧・弾丸、草鞋等の雑貨品の提出を命令され、これらの物資を供出します。こうして新発田藩は完全に新政府軍の指揮下に入り、以後は新政府軍としてそれまでの友軍だった同盟軍と戦う事になるのです。

   

左:新発田城二の丸跡
右:新発田城復元三の丸

 一方の新潟攻撃の部隊ですが、最終的に薩摩藩外城一番隊(隊長村田経芳)・長州藩千城隊七番隊(隊長岡部富太朗)と同八番隊(隊長山中梅二郎)・徴兵十二番隊(隊長岡村喜兵衛)・芸州藩兵1個小隊(隊長入澤初之進)及び砲2門・高鍋藩兵(隊長武藤東四郎)の編成で新潟攻略を目指し進軍を開始します。
 ところで私はこの新潟攻略部隊を率いていたのは能力からして山田顕義だと長い間思っていましたが、あくまで山田は海軍の参謀で上陸後も艦隊を率いているので、新潟攻略部隊を率いたのは山田ではありません。しかし山田でないとなると誰が率いたのかとなるのですが、次に戦上手として名が上がるのは同じく長州の白井小助ですが、「海軍周旋」の白井が陸上部隊を率いれたのかは疑問ですし、岩村は黒田に腰巾着として従ってますし、どうも明確な指揮官はいなく、薩摩藩外城一番隊長の村田や長州藩千城隊参謀の福原又市の合議体制で運営していたと思われます。

本所〜沼垂の戦い
 上記のように村田と福原の合同指揮になったと思われる新潟攻略軍は、上陸後すぐに阿賀野川東岸の松ヶ崎村まで進軍して1夜を明かします。この対岸の津島屋には米沢藩兵山田民弥隊が駐屯していましたが、新政府軍の接近を知り撤退します。翌日新潟攻略軍の内薩摩藩外城一番隊と長州藩千城隊七番隊と八番隊は、新政府軍となった新発田藩兵を道案内にして阿賀野川を渡河、津島屋村を占領します。この新潟攻略軍はその後沼垂に向い進軍する部隊と、南下して津島屋村南方の本所村に向う部隊に分かれます。この本所は米沢藩兵宮政右衛門隊と新発田藩兵1個小隊(隊長高久六郎左衛門)が守っていましたが、新政府軍の接近を知った高久は変心して宮隊に攻撃を指令します。それまで前方から迫る新政府軍にばかり気を取られていた米沢藩兵は、この「友軍」の攻撃にすっかり混乱し慌てて沼垂目指して敗走します。
 この沼垂には別の米沢藩兵1個小隊が守っていたので、これと協力して沼垂を守ろうと決意しますが、ここでも沼垂を守っていた新発田藩兵堀主計隊が裏切り米沢藩兵に攻撃を開始します。新潟の部隊と協力して新発田藩兵を撃退しようとした米沢藩兵ですが、その背後から薩長両藩兵を始めとした新政府軍本隊が迫っているのを知ると、遂に沼垂の固守を諦め、全軍信濃川を渡って新潟に撤退します。こうして二十六日夜には新潟攻略部隊は信濃川より東側を制圧する事に成功します。

新政府軍と同盟軍それぞれの動向
 こうして信濃川東岸を制圧した新潟攻略部隊は、沼垂に新潟攻撃の為の本営を置いて、その日の夜から新潟に向い信濃川越しの砲撃を開始します。ただこの時点では新潟攻略部隊唯一の砲兵隊である芸州藩砲兵隊がまだ沼垂に到着していなかったため、それまでは寝返った新発田藩兵の砲兵隊に命じて新潟への砲撃を行なわせます。しかし風見鶏の新発田藩兵はやはり信用出来なかったのか、新政府軍は新発田藩兵の砲兵隊に「大砲1門につき1日100発を撃つように」と厳命した為流石の風見鶏の新発田藩兵も手を抜く事が出来ず、連日新潟に向い猛砲撃を行ないます。
 余談ですが、この沼垂の集落は信濃川対岸の新潟と信濃川河川流通の利権を巡って何度も提訴を起こしていたのですが、その都度新潟に敗れて利権を独占されていたため、対岸の新潟に敵愾心を持っていたらしく、この新政府軍が沼垂を占拠して新潟に向い砲撃を開始すると喜んで協力したそうです。
 またこの砲撃とは別に、この新潟攻略部隊の政府軍も新発田藩兵に弾薬食料及び人夫の差し出しを命令します。新政府軍と同盟軍を手玉に取っていたと思い込んでいた新発田藩家老溝口半兵衛達は、このような過酷な要求を新政府軍に突きつけられて初めて自分達が新政府軍からすれば単なる「裏切り者の使い捨ての駒」に過ぎないと言う現実を実感するのです。

 一方の新潟を守る同盟軍の戦力は正確な人数は判りませんが、確認できる限りでは米沢藩兵8個小隊(関文次隊・山田民弥隊・下原彦三郎隊・宮政右衛門隊・桐生源三隊・佐藤忠次郎隊・山吉七郎右工門隊・岡田文内隊)と砲兵隊(片桐源蔵・坂田次郎指揮)・会津藩兵1個小隊(手代木直右衛門直属)・仙台藩兵1個小隊(牧野新兵衛隊)で全部で500名弱と言ったところの戦力だったと思われます。
 実は元々新潟には米沢藩兵だけで1000名近い軍勢が居たのですが、同盟軍の総督でもある米沢藩総督の千坂高雅からの度重ねる援軍要請に答える内に新潟守備の兵力がどんどん少なくなっていき、遂には新政府軍からの攻撃を控えた状況で500名にも満たない戦力になっていたのです。このような総督の下で戦わなくてはいけない、色部以下の同盟軍の兵士達の苦労が偲ばれます。
 しかしそんな状況下でも新潟を守る同盟軍は、沼垂が新政府軍に占拠されそこからの砲撃を開始されると、白山神社で軍議を行ないます。この軍議の席で会津藩兵と仙台藩兵が新潟放棄を主張する中、色部率いる米沢藩兵は新潟死守を主張し、遂に会津藩兵も仙台藩兵もこれに従う事になります。この新潟死守を主張した色部からすれば、同盟軍唯一の補給港である新潟港が新政府軍の手に落ちれば、いずれ同盟軍はジリ貧になって敗北すると言う危機感から新潟死守を決めたのでしょうが、確かにその見通しは正しいもの、新潟を守るにはその兵力は少なかったのです。また新潟死守を決意した色部の心意気は立派なものでしたが、軍事的な手腕としては色部の手腕は正直心もとないものがありました。

新潟攻防戦

 そんな沼垂からの新政府軍の砲撃が始まり、一方で同盟軍が新潟死守を決めた二十六日の夜が明けた二十七日に、二十五日に新政府軍を上陸させた新政府軍艦隊の軍艦攝津と第一丁卯が新潟沖に現れ、新潟に向い艦砲射撃を開始したため、新潟は川向こうからの新政府軍陸上部隊の砲撃と、海上の新政府軍軍艦からの砲撃に晒される事になります。
 しかし同盟軍も負けてはおらず歩兵隊を沼垂対岸に送り川越しに沼垂に銃撃させたり、片桐源蔵と坂田次郎率いる米沢藩砲兵隊は砲台から摂津と第一丁卯に向って砲撃を開始します。特に米沢藩砲兵隊の働きは目覚しく、幕臣安田幹雄や兄スネルから猛訓練を受けさせられた成果を見せ、何と摂津に向って直撃弾を命中させるのです。しかし米沢藩砲兵隊にとって不運だったのは、この摂津に命中した場所が喫水線の上だったため摂津は撃沈をま逃れて新政府軍の軍港の柏崎に撤退します。この後摂津は柏崎で応急修理を受け、二十九日の新潟攻防戦では再び新潟沖に現れ艦砲射撃を行ないます。もし喫水線の下に命中していれば摂津の撃沈は避けれなかったでしょうから、米沢藩砲兵隊にとっては不運としか言えません

 このように新政府軍と同盟軍は二十七日と二十八日の二日間は砲撃戦を行ないましたが、二十八日の夜長州藩千城隊の奥平謙輔が単騎信濃川を渡河して新潟に潜入、新潟守備の同盟軍を偵察して、沼垂の新政府軍の戦力のみで新潟攻略は可能と報告したため、二十八日深夜から遂に新政府軍は渡河作戦を開始します。
 この新潟攻略作戦では新政府軍は以下の編成で攻撃を行ないます。
 右翼軍:薩摩藩外城一番隊・長州藩千城隊八番隊・徴兵十二番隊右半隊(沼垂から渡河し新潟市街に突入する)
 中央軍:長州藩千城隊七番隊・高鍋藩兵半小隊・徴兵十二番隊左半分隊(関屋方面に渡河し白山方面を制圧する)
 支援隊:芸州藩砲二門(砲撃で新政府軍の攻撃を支援する)
 左翼軍:高鍋藩兵半小隊・徴兵十二番隊左半分隊(平島方面に渡河し同盟軍の退路を断つ)
 *この新潟攻撃部隊には芸州藩兵1個小隊(隊長入澤初之進)も参加したと伝えられますが、攻撃部隊に参加したとも(右翼軍)、支援隊の同藩大砲二門の警護に当たったとも言われていますが不明です。

 以上の編成で作戦を開始した新政府軍ですが、渡河作戦の開始時は同士討ちを避ける為新政府軍の砲兵隊は砲撃を一旦止めます。これを見た同盟軍は新政府軍が諦めたと思い、のんきにも休み始めました。この為二十九日払暁に新政府軍が渡河を終了して、それぞれが行軍を始めて時に初めて新政府軍の攻撃を知ると言う完全に後手に回ってしまったのです。この後手に回った事により完全に同盟軍は混乱し、満足に組織的に防戦する事が出来ず、それぞれの藩が独自の判断で戦闘をする事になりました。この為米沢も会津も仙台も新潟攻防戦に際して「我等は防戦したのに、他は勝手に逃げてしまった」とお互いを批判する事になるのですが、実際には米沢藩兵も会津藩兵も仙台藩兵もそれぞれは立派に戦っていたのです。これに関してはどこの藩が悪いと言うのではなく、全軍を束ねる色部の指導力が足りなかった事に責任があるでしょう。
 このように新政府軍の攻撃開始早々に指揮系統を寸断された同盟軍は、各隊がそれぞれ勝手に防戦をしたものの、三方から包囲攻撃をしてくる新政府軍に抗うすべはなく各地で各個撃破されていくのです。特に新政府軍右翼軍の進軍速度は目覚しく、新潟奉行所も開戦早々に制圧すると、先日摂津と第一丁卯に対して互角以上の戦いを見せた米沢藩砲兵隊も退路が遮断されてしまい、前方からは摂津と第一丁卯、後方からは新政府軍右翼軍の攻撃の前に遂に力尽き、米沢藩軍監大滝新蔵の指揮の元で砲台を放棄して撤退します。このように目障りだった同盟軍砲台が沈黙すると、摂津と第一丁卯は縦横無尽に海上から砲撃を行ない、同盟軍は海岸方面からは完全に駆逐されます。
 このような状況になると、流石の色部もこれ以上抵抗して部下を死なせる事に抵抗を覚え、遂に米沢藩兵に新潟放棄の命令を下すのですが、これが友軍の会津藩兵と仙台藩兵に一言の連絡も無く実行された事が後世批判される事になります。また色部が新潟放棄を決断するのは正直遅過ぎました、この時既に新政府軍艦隊の砲撃により海岸沿いは通行不能となり、また新政府軍中央軍と左翼軍により主用道路も寸断された以上、退却するには好むとも好まなくても新政府軍を突破するしかありませんでした。更に退却する後方からは新政府軍右翼軍が攻めかかってくるため、色部達も統一された退却行動をする事が出来ず、また色部を逃がす為各に米沢藩兵が留まったため、最終的には色部の周辺には色部自身の家臣が残るだけになりました。
 ところで軍事的手腕には問題のあった色部ですが、人の上に立つ人間としては真に立派で、そのまま自分だけ逃げれば良いものの、敗走する米沢藩兵の兵士達を収容する為に関屋に向い金針山に布陣します。しかし関屋には既に新政府軍中央軍が上陸しており、色部勢と新政府軍中央軍はこの金針山付近で交戦します。正直新潟攻防戦での指導には問題のあった色部ですが、この中央軍との戦いでは1人の戦士としてスペンサー銃を持ち立派な戦い、最後は中央軍に斬り込み高鍋藩兵の射撃に倒れました。高鍋藩兵の銃撃を受けた色部は助からないと判断すると部下に介錯させますが、色部にとってせめてもの救いだったのは、彼を討った高鍋藩は史上高名な上杉鷹山の実家、つまり主君の血筋の家の兵に討たれた事でしょう。

 こうして色部も戦死した頃には同盟軍は壊滅状態に陥っており、同盟軍の後方根拠地であり唯一の補給港である新潟は遂に陥落したのです。そして米沢藩始め同盟軍が輸入した西洋銃とその弾丸は新潟を攻略した新政府軍が接収する事になり、同盟軍がようやく手に入れた元込め銃を装備した新政府軍が同盟軍に攻めかかる事になるのです。
 余談ですが色部戦死後の米沢藩兵の敗残兵は大滝が率いて米沢藩に向かいます。

      
左:新政府軍右翼軍が渡河作戦を行なった沼垂方面から新潟市街を見て
中:色部長門の手勢と新政府軍中央軍が激突した金針山、現在は公園になっています。
右:新潟攻防戦で戦死した米沢藩家老色部長門の追念碑
      
新潟市護国寺境内に建つ新潟攻防戦戦死者の墓地と慰霊碑、新政府軍と同盟軍の兵士を同じ敷地内で弔っているのが印象的です。
左:左側が同盟軍戦死者の慰霊碑、右側が薩摩軍の慰霊碑。
中:高鍋藩兵の慰霊碑
右:新潟攻防戦で戦死した兵士達の慰霊碑

 かくして長い戦線膠着の後に行なわれた新政府軍と同盟軍の攻勢は共に成功しました、しかし同盟軍は長岡城を奪回したとは言え、後方の重要拠点の新潟が陥落し、良くも悪くもこれまで同盟軍を率いてきた河井継之助が倒れてしまったのです。
 一方の新政府軍は長岡城を奪回されたとはいえ、戦力的被害はさほど大きくなかったですし、同盟軍の後方補給地の新潟港を奪取し同盟軍を南北から挟撃出来る体制が整っていたのです。
 こうして三ヶ月に渡り激戦を交えてきた新政府軍と同盟軍の戦いもいよいよ最終局面に入る事になるのです・・・。

第三章に戻る  第五章に進む


主な参考文献(1章から6章まで通しで)

「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会

「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社

参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

前のページに戻る