北越戦争関連地図
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〜第三次長岡城攻防戦 同盟軍の戦線崩壊す〜
*日付は第二次長岡城後の長岡城周辺の戦いから同盟軍の戦線が崩壊するまでの日にちです。
同盟軍の長岡城入城と長岡周辺の諸戦闘:七月二十五日〜二十六日
同盟軍の長岡城入城
奇襲により第二次長岡城攻防戦で長岡城を奪回する事に成功した長岡藩兵でしたが、頼みの綱である米沢藩兵が八丁沖西部戦線に展開する薩摩藩兵7個中隊相当(城下士小銃七番隊・同十番隊・同十三番隊・同十四番隊・外城二番隊・同四番隊・番兵二番隊)を主力とした新政府軍に撃退された為、長岡藩兵は敵中に孤立し新政府軍の反撃を受ける事になり、この為長岡城奪還の立役者である河井継之助が重傷を負う事になります。
河井の負傷後も長岡藩兵は必死の防戦を続けますが、夜半になると信濃川西岸の丘陵地帯である関原と、長岡南方の妙見高地に撤退せよと言うこの方面の新政府軍を率いる山県有朋の命令が長岡城周辺で各地の新政府軍に伝わった為、長岡城周辺で交戦していた新政府軍も関原ないし妙見方面に撤退を開始し、これにより二十四日深夜から修羅の如く奮戦を続けた長岡藩兵もようやく休息する事が出来ました。
しかし休息する事が出来たといえ、長岡藩兵は渡辺進と篠原伊左衛門の2人の小隊長が戦死、大川市左衛門・奥山七郎左衛門・小野田伊織・稲垣林四朗の4人の小隊長が重傷になり、更に多数の兵士が死傷しその戦力は著しく消耗してしまったのです。これに加えて総督の河井が重傷となった長岡藩兵は、長岡城は奪回したものの、もはや長岡藩兵単独での戦闘能力を失っていたと言わざるを得なかったでしょう。
またこの指令は八丁沖西部戦線で米沢藩兵を撃退した薩摩藩兵を主力とした部隊にも伝わり、信濃川を渡河して関原に転進します。この薩摩藩兵を主力とした部隊の転進を見附方面の米沢藩兵も二十五日夜半には察知しましたが、手痛い敗北を喫したばかりの米沢藩兵には夜間前進する度胸は無く、夜が明けた二十六日になってようやく米沢藩兵は前進し、総督の千坂高雅と参謀の甘粕継成以下、大隊長大井田修平・横山与一の率いる6個小隊(大橋繁太郎隊・小島茂左衛門隊・外村与一郎隊・舟田善右衛門隊・浅羽徳太郎隊・桐生源作隊)が長岡城に到着します。また同じく二十六日には信濃川東岸に展開する会津藩兵の事実上の司令官である佐川官兵衛も(朱雀寄合二番隊と朱雀足軽四番隊、そして若干の農兵隊?)も率いて長岡城に到着した為、改めて長岡城で今後の対応を軍議を行う事になるのですが、その軍議の場にはこの長岡城奪回を成功させた河井継之助の姿はありませんでした・・・。
ところで新政府軍の撤退により長岡城及び長岡の市内には、新政府軍の軍需物資が大量に遺棄されており、奥羽越列藩同盟軍(以下「同盟軍と略)は長岡に到着次第これの物資を鹵獲します。この同盟軍が鹵獲した物資の量については、『会津戊辰戦史』に「大砲120門・弾薬2500箱、更に多量の小銃に食料に日常物資」と記されています。仮に話半分だとしても相当量の軍需物資を同盟軍が鹵獲したのは間違い無く、こと物資面に関しては新政府軍が膨大な損害を受けたのは紛れもない事実でした。
しかし同盟軍がこれらの軍需物資を鹵獲して戦力が増強されたかと言うと、決してそうではなく、食料や草履等の日常物資は問題無く同盟軍も使用出来ましたが、小銃や大砲それらの弾丸は各藩によって装備している小銃がまちまちなので、新政府軍の弾丸を鹵獲してからと言って、それを同盟軍が使用出来るとは限りませんでした。また弾丸を共有出来ないからと言って新政府軍の遺棄した小銃や大砲を使用するとしても、新しい装備に慣れるには相応の時間が掛かりますので、折角鹵獲した装備の威力を後の第三次長岡城攻防戦で発揮する事は出来なかったと思われます。
実際米沢藩参謀の斉藤篤信が見附本営に送った書状に「弾薬不足」と書いている所を見ると、やはり弾薬の鹵獲については新政府軍にとっては確かに痛手になりましたが、だからと言って決して同盟軍にとってプラスになったとは思えません。
栃窪・荷頃周辺の戦い:七月二十五日
話は遡りまして長岡藩兵の奇襲を援護する助攻撃としては、米沢藩兵の八丁沖西部戦線への攻撃だけではなく、栃尾から米沢藩兵・会津藩兵・仙台藩兵の合同部隊が半蔵金方面に展開する新政府軍に攻撃を開始します。当時栃尾周辺には確認出来るだけでも米沢藩兵11個小隊(朝岡俊次隊・北村重助隊・矢尾坂忠右衛門隊・石井次郎右衛門隊・須田右近隊・楠川織右衛門隊・戸沢又八隊・本間大力隊・小越平兵衛隊・桜孫左衛門隊・高野広次隊・済民隊)、会津藩兵1個中隊相当と1個小隊(朱雀足軽4番隊・結義隊)・仙台藩兵5個小隊(牧野某隊・猪狩某隊・白幡某隊・黒沢某隊・石井某隊)・村松藩兵2個小隊(速水某隊・山村某隊)及び衝鋒隊等の同盟軍が展開していました。これらの戦力で半蔵金方面の攻撃部隊が編成され、米沢藩仮参謀の斉藤篤信が指揮を取り、八丁沖西部戦線に攻撃を開始した同盟軍と同様、長岡藩兵の奇襲成功の合図を知ると同時に半蔵金方面に進軍を開始します。
ただ進軍を開始したと言っても、平野部を進軍する八丁沖西部戦線の部隊と違い、山間部を進軍するこの栃尾方面軍は長岡藩兵の奇襲成功の合図と共に進軍したと言っても、半蔵金北部の栃窪・荷頃周辺に展開する新政府軍に攻撃を開始出来たのは夜が明けた二十五日午前若しくは昼頃だと思われます。この時間では夜襲も期待出来ず、更に長岡城の危機を知った新政府軍も警戒していた所に攻撃を行なった事になりますし、何と言ってもこの半蔵金北部に展開していた新政府軍も八丁沖西部戦線に展開していた薩摩藩兵7個中隊相当を主力とした新政府軍と同様に、翌日に栃尾への攻撃を控えていた長州藩兵7個小隊(奇兵隊三番隊・六番隊・振武隊一番隊・同二番隊・同三番隊・同四番隊・千城隊四番隊)を主力とした精鋭部隊だった為、同盟軍の攻撃を正面から撃退し敗走させます。
このように長岡城を奪回する事に成功した同盟軍でしたが、信濃川東岸の平野部の新政府軍は駆逐したものの、栃尾南部の半蔵金方面及び八丁沖東部戦線にはまだ有力な新政府軍が展開してる状態でした。
同盟軍の攻撃作戦
さて二十六日にようやく長岡城に入城した同盟軍ですが、同盟軍参謀である甘粕継成や栃尾に留まる米沢藩参謀の斉藤篤信は、かつて河井継之助が主張した長岡城奇襲によって混乱した新政府軍を追撃して壊滅させると言う電撃戦を主張します。確かに奇襲によって長岡城を奪還した同盟軍ですが、この奇襲ではあくまで長岡と言う拠点を奪う事しか出来ず、新政府軍の戦力自体の撃破には失敗したのです。
そもそもこの奇襲を立案した河井継之助自身が、この作戦の目標を単に長岡城奪回だけに留まらず、奇襲によって混乱した新政府軍を追撃し新政府軍の機動戦力を壊滅させ、更に信濃川西岸の関原と妙見方面の南方高地地帯を奪取すると言う「電撃戦」により、この越後方面の戦いを終結させるつもりの正しく乾坤一擲の大勝負でした。しかし実際には河井自身の負傷により「奇襲」には成功したものの、「電撃戦」を実行する事は出来ませんでした。
つまりこの時甘粕や斉藤が主張したのは、河井が行おうとした電撃戦だったのですが、同盟軍の総督たる千坂高雅はこの甘粕と斉藤の進言を退けます。これは巷に伝えられている通り千坂の将才の無さと度胸の無さが主な原因ですが、八丁沖東部戦線と半蔵金方面と言う後方に有力な戦力が展開していると言う状況では、とても攻勢に出る事は出来ないと言うもっともな理由がありました。
かくして新政府軍主力の追撃には難色を示した千坂ですが、長岡の後方の安全を確保するための攻撃には賛成し、翌日26日に八丁沖東部戦線と半蔵金方面に対する攻撃が行われます。
八丁沖東部戦線及び半蔵金方面の戦い:七月二十六日
上記の様に新政府軍の追撃を躊躇した千坂高雅でしたが、長岡の後方の安全を確保するための八丁沖東部戦線及び半蔵金方面への攻撃は承認したので、二十六日改めて前日攻略に失敗した半蔵金方面と八丁沖東部戦線への攻撃を再び行ないます。
この攻撃に対して半蔵金北部及び八丁沖東部戦線に展開していた新政府軍は、半蔵金北部に上記の通り長州藩兵7個小隊(奇兵隊三番隊・同六番隊・振武隊一番隊・同二番隊・同三番隊・同四番隊・千城隊四番隊)・松代藩一番小隊(隊長蟻川賢之助)・大垣藩兵約三個小隊・加賀藩兵三個中隊相当(?)・他にも御親兵隊(十津川郷士等により編成)1個小隊・松本藩兵2個小隊等の大軍が展開し、八丁沖東部戦線にも亀崎と浦瀬の2つの陣地に松代藩三番小隊(隊長吉村左織)と四番小隊(隊長代理小宮山三吉)と大垣藩兵1個小隊半が布陣していました。
上記の布陣に再び同盟軍は攻撃を開始したのですが、申し訳ありませんが、この日の同盟軍の攻撃の詳細は判りません。半蔵金方面に向った軍を米沢藩の斉藤篤信が、亀崎陣地・浦瀬陣地に向った軍を同じく米沢藩の柿崎家教がそれぞれ率いたは推測されるのですが、申し訳ありませんがその規模は判りません。
ただこの二十六日には半蔵金方面及び八丁沖東部戦線に展開する新政府軍にも後退の指令が届いていたので、同盟軍の攻撃を受けると無理をせずに後退し、両軍共半蔵金目指して撤退します。かくして同盟軍は八丁沖西部戦線に続いて東部戦線も占領して、更に栃尾周辺も半蔵金を除けば新政府軍を駆逐する事に成功したので、この日の攻撃は局地的に見れば同盟軍の大勝利に終わりました。
しかし大局的に見れば、確かに同盟軍は八丁沖東部戦線と半蔵金北部の栃窪・荷頃周辺の占領に成功しましたが、これらの地を守っていた新政府軍の補足殲滅には失敗した為、これらの土地を守っていた新政府軍は無傷で半蔵金に集結するのを許してしまいました。この為土地を占領したとはいえ、同盟軍の兵力は山間部の集落に分散されてしまったので、後の戦いでは戦力の集中が不可能となったのです。
一方土地を失ったとはいえ新政府軍は、土地と引き換えに半蔵金に戦力の集中が出来たので、いつでも反撃出来る体制が整っていたのです。更にこの半蔵金に展開する新政府軍は集結した事により、半蔵金を守るには余剰になった戦力を妙見方面の南方高地地帯に転進させた為(後述)、この戦力が後の第三次長岡城攻防戦における強力な打撃力になった事を考えると、大局的に見れば、この日の八丁沖東部戦線及び半蔵金北部の戦いは、新政府軍の遅滞戦術による戦略的勝利と言って良いと思います。
新政府軍の反撃作戦
話は遡って第二次長岡城攻防戦で敗れた山県有朋は、長岡周辺に展開していた新政府軍に長岡南方の妙見高地地帯への撤退を命じましたが、実際にはこの命令は全軍には届かず、長岡周辺に展開していた新政府軍は南方の妙見方面と信濃川対岸の関原のそれぞれに分かれて撤退しました。
この第二次長岡城攻防戦の敗北は新政府軍首脳部は相当の衝撃だったらしく、強気の薩摩藩の吉井友実でさえ柏崎への撤退を主張した程でしたが、しかし山県はこの吉井等の主張を退けて「三日以内に長岡を奪還する」と広言します。もっとも幾ら三日以内に長岡を奪還する事を決意したとは言え、江戸の大総督府に長岡城陥落を知らせる使者を送るのを辞めさせて、自分の失策が大総督府に知られるのを阻止するなど、この時の山県には強気と姑息さと言う二律背反の面が見られます。
しかし本来堅実で無理の無い用兵を好む筈の山県は、この逆境の中その用心深さからは考えられない手腕を発揮します。まず山県は夜が明けた二十六日に撤退した妙見(本営は小千谷か?)から関原に移動して本営を関原に移します、そしてその関原に撤退して来た加賀藩兵等に対して、長岡の信濃川対岸の川沿いに陣地を設ける事を命じます。この関原西岸への陣地構築は二十六日の昼頃には完成したと見られ、そう言う意味では河井継之助が目指して、後に甘粕継成と斉藤篤信が主張した電撃戦はこの信濃川西岸に陣地が構築された時点で、その成功の機会は永久に失われたのかもしれません。
余談ですが、山県が移動した後の妙見方面の新政府軍の指揮は、長州藩兵が主力になっていた事からして三好重臣が取ったのではないかと推測します(あるいは福原和勝か?)。
またこれまで芸の無い「平攻め」で後世からも批判される山県でしたが、来るべき第三次長岡城攻防戦では薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵の三藩兵による精鋭部隊を主力とした一点集中突破を試みます。これは前述の通り平攻めを好んだ山県からすれば大胆な方針転換で、それだけ薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵の三藩兵の事を信頼していたのと同時に、この長岡城を奪回された後の動揺する新政府軍の中では、この三藩兵くらいしか使い物にならなかったと言う厳しい台所事情もあったのではないかと思います。
このように動揺する新政府軍を鎮め、反撃作戦を着々と進める山県にとって吉報となったのが、二十七日夜に太夫浜への上陸作戦を率いた山田顕義が柏崎に帰港して関原に帰還した事です。元々長岡城を奪回されたと言う不利な状況にも関らず、山県が撤退をせずに反撃作戦を主調したのは、この山田顕義と黒田清隆による海上別働作戦が成功すれば、たとえ長岡城を奪回されても同盟軍を挟撃する事が十分可能と判断した為と思われますので、そのような判断をした山県からすれば上陸作戦を成功させた山田の帰還は百万の味方を得た気分だったでしょう。
この山田の帰還で、海上別働作戦成功の報告を聞き勇気を得た山県は反撃作戦を着々と進めましたが、山県の「三日以内に長岡を奪還する」と言う目論みは実現しませんでした。これは長岡退却時に妙見と関原に撤退を指示し、その後も同盟軍の反撃を阻止する為に陣地構築を指示し、その後に薩摩藩・長州藩・松代藩に主力を絞った反撃作戦を立案すると言う優れた手腕を発揮した山県でしたが、第二次長岡城攻防戦の敗戦時に多数の軍需物資を遺棄した為、反撃作戦を行なう為の物資が欠乏して三日以内に反撃作戦を実行したくても実行出来なくなってしまったのです。
この軍需物資不足を解決する為に、山県は反撃作戦に戦力としては期待出来ない加賀藩等から小銃銃弾60万発、施條大砲とその砲弾数万発等の莫大な量の軍需物資を供出させ、装備の優れている薩摩藩には長州藩の軍需物資を分配します。こうしてとりあえず当座の反撃作戦に必要な物資を掻き集めた山県は、目論みからは一日遅れになってしまいましたが、遂に七月二十九日に新政府軍の反撃作戦を開始するのです。
同盟軍の動揺
再び話は二十六日まで遡ります、半蔵金北部の新政府軍を駆逐して、大事な拠点である栃尾の安全を確保する事に成功した同盟軍首脳部はこの頃「新発田藩裏切り」の情報を入手したと思われます。
米沢藩に関して言えば、まず二十五日に当時新潟在中の軍監の大滝新蔵より「新政府軍太夫浜に上陸」、続いて「新発田藩裏切り」の書状が発せられ、まずは当時米沢藩の後方拠点だった加茂に駐在する木滑要人や堀尾保助がこの書状を受取り、この堀尾等から長岡城の米沢藩総督の千坂高雅や参謀の甘粕継成、また見附本営の米沢藩参謀斉藤篤信等に書状が送られたと思われます。しかし千坂達は二十五日夜半から長岡城奪回の助攻撃を行なっていたので、実際に千坂等が受け取ったのは二十六日だったのではと推測します。
この千坂達が「新発田藩裏切り」を知ったと思われる二十六日と同じ日に、先日の第二次長岡城攻防戦で同盟軍として新政府軍と戦った新発田藩兵4個小隊が、「領内に新政府軍が上陸したため、これを迎撃する」と言う名目で、長岡城から本拠新発田藩領に撤退します。しかしこれは新政府軍に寝返る事を決意した新発田藩の詭弁に過ぎず、また千坂等も今までの動向から新発田藩の真意は読んでいたものの、今の状況で新発田藩に手を出す訳にはいかず、憤りを覚えつつも新発田藩4個小隊の撤退を黙認せざるを得ませんでした。
そしてこの新発田藩4個小隊が撤退した翌日の二十七日には、前線の兵士達もこの「新発田藩裏切り」を知り、兵士達は激昂し「新発田討つべし!」と言う声があちこちで挙がります。このように前線の兵士達は「新発田討つべし!」と叫ぶ事が出来ましたが、同盟軍上層部はこの新発田藩の裏切りにより窮地に陥った事に愕然とします。
例えば当時米沢藩の補給線は本国から下関を介して越後に入り、更に新発田藩領を通って加茂を通り、そして見附や栃尾の前線に物資を送っていたのですが、これが新発田藩が裏切った事により米沢藩の補給線は分断され、米沢藩兵は実質戦争継続能力を失ってしまったのです。確かにこの時点では新潟は健在でしたが、新潟港はあくまで兵器の補給港で食料等の生活物資の入手は困難なので、かつて甘粕が懸念した通り新発田藩が裏切った時点で米沢藩の敗北は決定的となってしまったのです。
これは他の会津藩や仙台藩や庄内藩も同様で、会津藩の主用補給線の津川口は新発田藩が裏切ったと言っても分断される事はありませんでしたが、その津川口も新発田藩が裏切った事で側面を脅威に晒されたのです。仙台藩に至ってはまず米沢藩領や会津藩領を介しての派兵なので、この両藩の補給線が分断ないし脅威に晒された以上、同じく戦争継続能力を消失したのです。また庄内藩は米沢藩同様に新発田藩領を介しての補給線だった為、新発田藩が裏切った以上補給線は元より会津藩を経由しないと本国に撤退する事すら出来ない状況に陥ってしまったのです。
このように長岡城を奪回した同盟軍でしたが、新発田藩の裏切りにより一転して窮地に陥ります。一時は主戦派(甘粕か?)により二十八日に関原攻略を目指して渡河攻撃を行なおうと言う主調が軍議で優性となりますが、結局は新発田藩裏切りによる補給線の不安と、未だ半蔵金方面に展開する新政府軍を警戒して攻勢は行なう事はなく、翌日の二十九日の第三次長岡城攻防戦まで陣地防御に徹する事になります。しかし補給線が分断ないし脅威に晒された以上、長期戦になれば却って不利になるのは同盟軍の方なので、この場合同盟軍が取るべき戦略は「物資が十分にある内に敵である新政府軍の主力部隊と決戦してこれを撃破する」か、「奪回した長岡城を捨てる覚悟で遅滞戦術を行ない、その隙に主力部隊は反転して北上し、裏切った新発田藩と新政府軍別働隊を撃破して、補給線を確保してから再び南下する」のどちらかだったと思いますが、残念ながら同盟軍首脳部には攻勢に出る勇気も撤退する勇気もありませんでした。
それでも一応一部の兵力を南方に進軍させ、十日町村・村松村等の集落を占拠しますが、基本的には現在所有してる土地で守勢を取ると言う最悪の選択をしてしまったのです。
一節によれば、長岡城を奪回した後に千坂や会津藩の佐川官兵衛が、西郷隆盛から山県有朋宛てに送られた「自分が薩摩藩兵1個大隊を率いて海路越後に向う」と言う書状を見つけて戦意を失ったと書かれた物がありますが、同盟軍が守勢を取ったのは新発田藩の裏切りが最大の理由だったと推測します。
かくして同盟軍が長岡城を奪回し、一時は新政府軍の方に敗戦の危機が訪れた北越戦争の戦況は、第二次長岡城攻防戦で河井継之助が負傷し、その後新政府軍の太夫浜上陸と新発田藩の裏切りにより一転し、守勢に回った同盟軍はその状況のまま、敗北の混乱から立ち直った新政府軍による攻撃を向える事になるのです。
余談ですが、新発田藩裏切りを知った米沢藩本庁は急遽新発田藩討伐軍を派遣し、これにより下越地方で米沢藩兵と新政府軍と交戦する事になるのですが、これら下越地方の戦いについては第六章で書かせて頂きたいと思います。
第三次長岡城攻防戦:七月二十九日
第三次長岡城攻防戦時の新政府軍の布陣
このように新政府軍と同盟軍双方の思惑が交錯する中、ついに七月二十九日払暁に山県有朋の指揮の元新政府軍の反撃作戦が開始されます、この新政府軍の反撃作戦は上記の通り薩摩藩・長州藩・松代藩の3藩兵を主力として、妙見と関原から長岡目指し進軍を開始します。またそれとは別に半蔵金からも別働隊が進軍を開始しますが、この別働隊は長岡よりも栃尾攻撃を目指したと思われます。
まず新政府軍のそれぞれの方面部隊の編成から書かせて頂きます。
妙見方面軍(平野部と信濃川沿いの二手に分かれて南方より長岡を攻撃する)
薩摩藩兵3個中隊相当:城下士小銃隊七番隊・同十番隊・同十四番隊
長州藩兵6個小隊:奇兵隊八番隊・千城隊一番隊・同三番隊・同四番隊・同五番隊・長府藩報国隊一番隊
松代藩兵3個小隊:六番狙撃隊・八番狙撃隊・三番小隊及び砲1門
その他:高田藩兵・大垣藩兵・尾張藩兵・竜岡藩兵等
妙見方面軍別働隊(東部山地を行軍して南東より長岡を攻撃する)
長州藩兵1個小隊:振武隊一番隊
御親兵4個小隊:一番〜四番隊
その他:尾張藩兵
関原方面軍(信濃川を渡河して西方より長岡を攻撃する)
薩摩藩兵3個中隊相当:城下士小銃十三番隊・外城二番隊・番兵二番隊半隊及び四番砲兵隊半隊
長州藩兵1個小隊:奇兵隊一番隊
加賀藩兵2個中隊相当:津田玄蕃隊と今枝民部隊か?
その他:御親兵隊・高田藩兵・岩村田藩兵・富山藩兵等
半蔵金方面軍(南方より栃尾を攻撃する)
長州藩兵3個小隊半:千城隊二番隊・同六番隊・振武隊三番隊・同六番隊半隊
その他:加賀藩1個中隊相当(青地半四郎隊)・尾張藩兵
上記の編成で新政府軍は攻撃を開始します、この内妙見方面軍は平野部を進軍する部隊と信濃川沿い進軍する部隊に分かれ、関原方面軍は長岡城の下流(中島)に上陸する部隊と上流(左近)に上陸する部隊とにそれぞれ分かれていたのですが、これがどちらに属していたかと言うのが資料毎にまちまちなので、当サイトでは単に妙見方面軍と関原方面軍とのみ表記させて頂いています。ただし松代藩兵のみは六番狙撃隊と八番狙撃隊が川沿いに進軍し、三番小隊と十四番砲兵隊が平野部を進軍(共に妙見方面軍に所属)していたのがはっきりしています。
*米沢藩士徳間久三郎隊の日記によると、上記の部隊とは別に与板方面の新政府軍も信濃川対岸から攻撃を行ったそうです。
第三次長岡城攻防戦時の同盟軍の布陣
これに対する同盟軍の布陣は、長岡南方約3キロの十日町に長岡藩花輪彦左衛門隊と会津藩朱雀足軽四番隊とが布陣し、長岡北方の下条に米沢藩大隊長香坂勘解由率いる数小隊(第二次長岡城攻防戦時に十二潟攻撃に向かった8個小隊が向かったと思われますが、確認出来るのは大津英助隊・鈴木源五郎隊・桐生源作隊・松本幾之進隊・大国大作隊の5個小隊のみ)が配置されていましたが、上記の通り殆どの兵力は長岡周辺に展開すると言う消極的な布陣でした。
これは本来長岡防衛の主力となるべき長岡藩兵は上記の通り総督の河井継之助が重傷、小隊長の内2人は戦死(渡辺進・篠原伊左衛門)、4人が重傷(大川市左衛門・奥山七郎左衛門・小野田伊織・稲垣林四朗)を始めとして多くの将兵が傷つき倒れていたため戦力が半減以下になっていた為、最前線を任せれたのが花輪彦左衛門隊しかなかったと言うのが実情だったのではないかと思われます。
また長岡藩兵と同じく同盟軍の主力だった米沢藩兵は下条とは別に、長呂から中島までの信濃川沿いに数小隊川辺を配置していましたが詳細は不明です(長呂には村松藩兵も布陣していましたが、こちらも詳細は不明)。しかしその他の大半の戦力は長岡城周辺と後方の見付等に展開していました、これは「新発田藩裏切り」の報を聞いた為後方ばかりを警戒してしまい、この為最前線に回す戦力が少数になってしまたのだと推測できます。
そして長岡藩兵と米沢藩兵と共に同盟軍の主力だった会津藩兵ですが、前線の長岡に送ったのは朱雀隊寄合二番隊と朱雀隊足軽四番隊と若干の農兵隊のみで、大半の兵力は後方の水原及び信濃川西岸の与板方面に展開していました。更にその長岡に派兵した兵の中でも、最前線に送ったのは朱雀隊足軽四番隊のみで、その他の戦力は米沢藩同様に新発田藩の裏切りを警戒して長岡周辺に展開していました。
このように長岡藩兵は戦力が半減以下、米沢藩兵と会津藩兵は背後の新発田藩を警戒して最前線への派兵は及び腰になっていたため、長岡城を死守しなくてはいけないと言う状況だったのにも関わらず、同盟軍の布陣は心もとないものでした。
新政府軍妙見方面軍の攻撃開始
このような新政府軍と同盟軍の陣容の元ついに新政府軍の攻撃が開始されました。この日の長岡平野は前夜深夜から霧が発生していたのと、同盟軍の索敵が不徹底だった為、新政府軍の攻撃は同盟軍には察知されず完全な奇襲となります。
妙見方面軍は上記の通り平野部と川沿いの二手に分かれて同盟軍陣地に攻撃を開始します、この妙見方面軍を迎え撃つ同盟軍は浄土川を外堀にしてその北岸に陣地を設けていた為、奇襲を受けたとは言えすかさず迎撃を開始します。特に花輪彦左衛門隊の奮戦は目覚しく、圧倒的に優勢な新政府軍妙見方面軍に果敢に挑みます。しかし結局は多勢に無勢、しかも攻め寄せる新政府軍は薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵を主力とした精鋭部隊でしたので、花輪隊を瞬く間に突き崩し、その乱戦の中で隊長の花輪も銃弾を受けた為倒れます。銃弾を受けた花輪は息子に介錯をさせ自刃しますが、この隊長の死を受けた花輪隊は壊走します。また花輪隊と一緒に十日町を守っていた会津藩朱雀足軽四番隊も、花輪隊の壊走とほぼ同時に撤退したと思われます。
現在の浄土川、新政府軍の妙見方面軍と長岡藩兵花輪隊はこの浄土川の周辺で激突します。
新政府軍関原方面軍の攻撃開始
一方関原方面の新政府軍も妙見方面軍の進軍と同時に信濃川の渡河を開始します、関原方面軍はこの信濃川の渡河を同盟軍に察知されなかった為、信濃川東岸の蔵王・中島方面に布陣する長岡藩兵3個小隊(小島久馬右衛門隊と小隊長が倒れた渡辺進隊と奥山七郎左衛門隊)と、下条方面に布陣する香坂率いる米沢藩兵を瞬く間に駆逐して、一気に長岡城に攻め寄せます。
このように妙見方面軍と関原方面軍の攻撃を知った同盟軍首脳部は、米沢藩総督であり同盟軍総督でもある千坂高雅がまず動揺して、前方と後方を新政府軍に挟撃されたこの状況では最早勝ち目はないと米沢藩兵の総退却を命令します。これに対して同藩参謀の甘粕継成は必死に再考を願いますが、新政府軍が攻めて来る中千坂の戦意はすっかり消沈し、甘粕の反対を振り切り栃尾に向かい撤退を命令します。この千坂の命令により、長岡周辺に展開する米沢藩兵も見附方面に撤退を開始します。
長岡城再陥落す
このように米沢藩兵は撤退してしまいましたが、長岡藩家老である山本帯刀は花輪隊を収容する為と新政府軍妙見方面軍を迎撃するために数小隊(詳細不明)を率いて、開戦時(榎峠攻撃前)の本営であった光福寺がある摂田屋に向かいます。この山本隊の奮戦により一時は新政府軍の撃退に成功しますが、次々に現れる新政府軍の前に遂に山本隊も撃破され長岡城目指し撤退します。
やがて正午になると妙見方面の別働隊も加わり、関原方面軍が西方から、妙見方面軍が南方から、そして妙見方面軍別働隊が南東よりそれぞれ長岡城への侵攻を開始します。この新政府軍の三方からの侵攻と自軍の損害の多さ(小隊長だけでも花輪が戦死し、内藤直記と横田大助の2人が重傷)から、牧野図書等の長岡藩首脳部もこれ以上の抗戦を諦め、会津藩で再挙しようと米沢藩兵に続いて栃尾目指して総退却を開始します。
そして長岡城放棄に際して長岡藩兵は、城内に保管していた第二次長岡城攻防戦の際に新政府軍から鹵獲した膨大の弾薬に火を放ちます。これにより弾薬は爆発し、その爆風で長岡城の外郭の一部が吹っ飛んだと伝えられている事からも、この爆発は相当の規模だったと言うのが推察されます。
また同盟軍首脳部部の長岡城撤退後も長岡城周辺で戦闘を続けていた同盟軍も、この爆発を見ると長岡城が落城したと知り、それ以上の抗戦を諦め見付方面若しくは栃尾方面にそれぞれ落ちていったのです。
やがて新政府軍は同盟軍の敗走後のもはやほぼ廃墟と化した長岡城に入城し、四日ぶりに同盟軍に奪われた長岡城を奪回する事に成功したのです。
かつて第二次長岡城攻防戦の際に河井継之助は単に長岡城奪回に留まらず、長岡城奪回により混乱した新政府軍を追撃して、機動力により敵軍の指揮系統を分断し撃破する「電撃戦」を目指しましたが、兵力の消耗と自身の負傷により河井の「電撃戦」は幻に終わってしまったのです。しかし今回は第二次長岡城攻防戦終了時と違い新政府軍は山県以下指揮官は皆健在でしたし、兵士達もさほど消耗してはいませんでした。このため長岡城再奪取したからと言って山県は攻撃の手を緩める事はせず、長岡城再落城により混乱し退却する同盟軍への追撃を命じます。
かくしてかつて河井が目指した「電撃戦」を山県が指揮する事になり、第三次長岡城攻防戦終了後そのまま事実上北越戦争の最後の戦いとなる「中越電撃戦」が始まるのです・・・。
左:長岡市南東の悠久山内に建つ河井継之助と山本帯刀の墓
中・右:同じく悠久山内に建つ長岡藩士達の墓
新政府軍の追撃、同盟軍の戦線崩壊す 〜中越電撃戦〜:七月二十九日〜八月四日
七月二十九日の戦況
七月二十九日長岡藩兵が決死の覚悟で奪回した長岡城も、僅か四日で新政府軍に再奪取されたのですが、この第三次長岡城攻防戦が過去二回の長岡城攻防戦と違ったのは、過去二回の戦いでは新政府軍も同盟軍も長岡城の奪取で力を使い果たし、その後の敵軍を追撃しなかった(出来なかった)のに対して、この日の新政府軍の攻撃は長岡城再奪取後も十分な余力を残していたので、長岡城再奪取しても攻撃の手を緩めずに、そのまま撤退する同盟軍の追撃に移ったのです。
この日の新政府軍の長岡城の攻撃は薩摩藩兵・長州藩兵(支藩の長府藩含む)・松代藩兵の三藩による精鋭部隊を主力して行なわれましたが、相手の抵抗が皆無な追撃戦になると、加賀藩兵・高田藩兵・尾張藩兵、そして松代藩以外の信州諸藩の山県から戦力とは見られていなかった弱兵が途端に勇猛になり、先行する薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵の強兵を追い抜き、撤退する同盟軍に襲い掛かるのです。
一方長岡城を再奪取された同盟軍ですが、長岡城を再奪取され、かつ背後に新政府軍の別働隊が上陸し、新発田藩が寝返った事により多くの藩兵が退路を遮断された状況になり、もはや互いに協力する余裕は無くなり各藩が独自に勝手に撤退を開始します。
本来なら名目上とはいえ、同盟軍の総督である米沢藩の千坂高雅が混乱する同盟軍を纏めて、秩序ある撤退を指揮して、その後体制を整え反撃の指揮を取るべき立場なのですが、新政府軍の反撃を受け恐怖に駆られた千坂は僅かな側近を連れいち早く逃走していたためその任を果たす事は出来ませんでした。もし同盟軍の中にその任を果たせれる人物が居るとしたら、それは実質上の同盟軍の司令官であり、新政府軍と互角の戦いを演じた長岡藩の河井継之助だったのですが、そもそもその河井が重傷になり指揮を取れなくなったのが、第三次長岡城攻防戦の敗因の一つなのですから、河井が敗走する同盟軍を纏める事もまた出来ませんでした。かくして敗軍を掌握する人物の居ない同盟軍は、各自が勝手に撤退を行なう事になるのです。
同盟軍の撤退
まず長岡藩兵ですが、前述の通り第二次長岡城攻防戦で修羅の如き奮戦をして長岡城を奪回した長岡藩兵も、その際の損害と第三次長岡城攻防戦での損害ですっかり消耗し、もはや軍勢としての機能を失っていたのに等しい状況でした。しかも長岡城を再奪取された事により故郷を完全に失った事になり、もはや絶望により集団しての行動が出来なくなっても不思議ではないのですが、河井によって鍛えられた長岡藩兵は、このような絶望的な状況にも関わらず再集結を試みます。まず軍事掛である三間市之進は長岡城北部の新町辺りで敗軍を掌握しようと試みたみたいですが、想像以上に新政府軍の追撃が激しい為、一気に集結ラインを引き下げ、福井村での集結を計ります(第一次長岡城攻防戦での敗北の際は森立峠を介して栃尾に撤退しましたが、新政府軍の半蔵金方面軍により森立峠は遮断されていた為、見附方面に撤退せざるを得ませんでした)。
これは八町沖西部戦線で新政府軍と一進一退の攻防戦を演じた際に、福井村の陣地は強固な陣地に強化されていたので、この福井村の陣地で長岡藩兵を集結させようと意図したと思われます。また隣の米沢藩兵の本営だった押切陣地には、大隊長の香坂勘解由が指揮下の大隊を集結を始めていたので、米沢藩兵と協力してこの押切〜福井のラインで敗兵を収容し、新政府軍への反撃の根拠地とするのを狙っていたと思われます。そんな三間の目論見通り、押切・福井の各陣地に立つ長岡藩の軍旗を見て、長岡藩兵が続々と集まってきました。しかし敗兵の収容には成功しましたが、まだ再編成が終わっていない午後十時頃には新政府軍が押切・福井陣地に攻め寄せていたため、まだ再編成の終えていない米沢藩兵と長岡藩兵にこれを防ぐすべはなく、押切・福井の両陣地を放棄して撤退、この日の夜は見附周辺で野営します。
ところで敗走した兵士の掌握は三間が行ないましたが、一方で花輪求馬と安田多善は栃尾防衛の為に健在な2小隊(小島久馬右衛門隊・稲葉又兵衛隊)を率いて、この日の夜は杉沢村に布陣して野営します。この花輪達の行動は、詳しい時刻は判りませんが二十九日の夜には長岡藩兵も会津への撤退を決めていたらしく(河井は反対していた)、その逃走経路を確保する為の杉沢村布陣だと思われます。
続いて長岡藩兵と同じく同盟の主力だった米沢藩兵の撤退ですが、上記の通り第二次長岡城攻防戦が始まり早々と千坂や米沢藩参謀の甘粕継成、そして一部の部隊は長岡城から撤退し、森立峠を介して栃尾に逃げ込むのに成功しましたが、大半の米沢藩兵は長岡城周辺で新政府軍と戦闘中だった為、千坂からの撤退命令は届いたものの、既に森立峠は新政府軍の半蔵金方面軍により遮断されていた為栃尾への直接撤退は出来ず、長岡藩兵同様北方の見附・今町方面に撤退を開始します。ところで同じ北方に撤退した長岡藩兵は、故郷を失ったとはいえ三間や花輪、他にも山本帯刀や川島億二郎と言った家老クラスの軍上層部が戦場に踏み止まり、兵士と共に撤退したので、絶望的な状況下では考えられない程秩序のある撤退を行ないました。しかし米沢藩兵の場合は総督である千坂が真っ先に逃げ返り、参謀の甘粕もそれに続いてしまった為、言わば家老クラスの軍上層部は兵士達を置き去りに逃げてしまった状況になったため、米沢藩兵の撤退は長岡藩兵と違い、現場サイドの大隊長や小隊長により撤退作戦を行なう事になるのです。その中でも抜群の手腕を見せ兵士達の信頼を一身に集めたのが大隊長の1人である香坂勘解由です。
香坂はまず、下条方面から敗走してきた大津英助隊・鈴木源五郎隊・桐生源作隊等の大井田修平の大隊を収容し、押切陣地に入ります。その後松木幾之進隊・大国大作隊等や徳間久三郎隊等の長呂を守っていた自らの大隊と合流したものの、上記の通り午後十時頃に受けた新政府軍の攻撃により押切陣地を放棄し、追撃を避ける為に今町大橋を焼き落とし見附方面に撤退します。その後も早川新右衛門隊等の栃尾目指し撤退する米沢藩兵を収容し、この日の夜は栃尾防衛の為、収容した軍勢を二手に分けを小貫村と杉沢村に布陣して野営します。
余談ながら仙台藩・山形藩・村松藩の各藩兵は千坂等に従い、早々と森立峠を介して栃尾に入り、そこから葎谷・吉ヶ平のルートで会津藩領に入って、そこから各自自藩に戻ります(村松藩は栃尾から自藩に戻ります)。また会津藩兵の撤退については後述します。
新政府軍の追撃開始
一方の長岡城を再奪取した新政府軍ですが、上記の通り長岡城再奪取では飽き足らず一気に追撃戦に移ったため、七月二十四日以前の勢力ラインに押し戻しただけでは留まらず、妙見方面軍は八丁沖西部戦線での同盟軍の拠点だった大口・押切・福井等の諸陣地を攻め落とし、関原方面軍は信濃川東岸の下条・長呂等の諸陣地を攻め落とし、更に進み今町まで攻め落とします。もっともこれは両軍が明確に分かれてそれぞれを攻め落としたというわけではなく、それぞれの方面軍が入り乱れて攻め落とした拠点もあれば、各方面軍が単独で攻め落とした拠点もありと、完全な混戦でした。そもそもこの追撃戦の際は攻める新政府軍が同盟軍を追い抜いてしまう場面も多々あるという完全な戦場のモザイク化が起きており、正に乱戦と言って良い状況でした。実際妙見方面軍別働隊所属の御親兵二番小隊と関原方面軍所属の高田藩榊原若狭大隊が協力して、八丁沖東部戦線の浦瀬・桂沢陣地を攻め落すなど、追撃する新政府軍の方も完全な混戦状態でした。
またこの日の半蔵金方面軍は、長岡城攻撃にこそ参加していませんが、正午過ぎには森立峠を攻め落とし、同盟軍の退路を遮断するのに成功します。
そんな追撃も夜半には終了し、戦線を整理し今町-大口-押切-福井-浦瀬-森立峠のラインでそれぞれの軍勢は野営します。
新政府軍海上別働隊の進軍
話は少し遡りますが、七月二十五日に太夫浜に上陸した黒田清隆率いる新政府軍海上別働隊は二手に分かれ、黒田率いる本隊は新発田藩を降伏させ、新潟攻撃部隊は新潟を制圧したのは四章で書かせて頂いた通りですが、その後の別働隊の動きを書かせて頂きます。
二十五日夕刻には新発田藩を完全に屈服させた黒田は、かつては同盟軍と新政府軍を手玉に取ろうとしたものの、今や黒田の家臣同様となった新発田藩家老溝口半兵衛に物資の提出を命じて次の作戦準備に入ります。黒田としては新発田藩を屈服させた以上、当初の目的である同盟軍を新政府軍の本隊と挟撃する為に南下しようと、まずは本来は幕府直轄領なものの、今や会津藩越後派遣軍の重要な後方拠点になっている水原と笹岡を制圧する事を決め、26日を準備期間に当て、夜半遂に水原・笹岡制圧の為に出撃します。
まず水原攻撃には薩摩藩遊撃二番隊(隊長大迫喜右衞門)・四番砲兵隊半隊・芸洲藩遊撃隊(隊長大橋織衛)・明石藩1個小隊が向い、笹岡攻撃には長州藩奇兵隊五番隊(隊長野村三千三)・薩摩藩四番砲兵隊半隊・徴兵隊五番隊(隊長南条熊之丞)・芸洲藩兵1個小隊(隊長永原繁人)、そして先日新政府軍に恭順したばかりの新発田藩兵2個小隊(朝倉勇次隊・佐分利雄吉隊)を先鋒として使います。この2隊は両軍とも二十七日早朝にもそれぞれ水原・笹岡に到着し、それぞれ攻撃を開始します。
水原・笹岡陥落
前述の様に水原は会津藩にとっては重要な拠点だったのですが、この時水原を守っていたのは水原府鎮将隊(隊長官野右兵衛)の一部のみだったので、新政府軍の攻撃の前に戦闘らしい戦闘は出来ず、鎧袖一触で撃退され水原から敗走します。この敗走の際会津藩兵は集落に火を放った為、この水原の地でもまた会津藩は民衆から憎しみを持たれる事になります。
また笹岡も水原同様脆弱な戦力しか居なかったため、新政府軍の攻撃の前に鎧袖一触で敗走した為、新政府軍は難なくこの二つの重要な拠点の占領に成功します。また黒田は戦闘終了後に新発田藩兵に命じて笹岡東南の陣ヶ峰に陣地を構築させ、その陣地を守らせます。
保田陥落
黒田率いる新政府軍別働隊本軍は、水原と笹岡攻略の翌日の二十八日、阿賀野川沿いの集落の保田攻撃に向います。この津川からの阿賀野川沿いのルートは会津藩の補給路だったので、その補給路に在る集落の保田は水原・笹岡以上に会津藩兵にとっては重要な戦略拠点だったのですが、前日水原・笹岡で惨敗した会津藩兵にここを守る余力は無く、ほぼ無抵抗で新政府軍に制圧されます。この保田の陥落により、会津藩兵の補給路は遮断されたも同然になったのです。
八月一日の戦況
米沢藩兵・長岡藩兵の撤退
上記の追撃戦が行われた翌日の八月一日(この年は閏年なので、七月二十九日の翌日が八月一日となります)は夜明け前から大雨でしたので、撤退する同盟軍にとっては最悪の天候でした。栃尾を目指す長岡藩兵や米沢藩兵でしたが、彼らの目標は栃尾で終わりではなく、栃尾から険悪な山道を通って葎谷・吉ヶ平の集落を抜け、名高い険路の八十里峠を通って会津藩領に入るのが目標だったのですが、ただでさえ険路のこの経路を負傷兵や長岡藩兵に至っては住民を伴って進まなくてはいけないのに、それに加えて大雨により道はぬかるみ滑るのですから、彼らにとっては最早悪夢と言って良い逃避行になりました。
実際米沢藩兵の方は香坂達の奮戦でこの日の内に、栃尾・葎谷・吉ヶ平を介して八十里峠に入り、無事に全藩兵が会津藩領に入る事に成功します。しかし前述の通り負傷兵や難民を多く抱えた長岡藩兵は、栃尾こそ通過する事が出来ましたが、この日は大半の兵は葎谷に入るのがやっとの状況でした。しかしこの葎谷で見附方面から撤退してきた三間率いる敗残兵も収容出来たので、長岡藩兵もこの葎谷で集結する事が出来ました。
しかしこの栃尾から同盟軍が撤退した一日に、栃尾もまた新政府軍半蔵金方面軍に占領されたので、正に間一髪で同盟軍は逃れる事が出来たと言えます。
会津藩兵の撤退
ところで、米沢藩兵と長岡藩兵ともう一つの同盟軍の主力だった会津藩兵の退却は、米沢藩兵と長岡藩兵の撤退とは違う経路を取っていました。第三次長岡城攻防戦の際に最前線に布陣していた朱雀足軽四番隊等は、千坂等と同様に森立峠を介して栃尾に撤退しましたが、この信濃川東岸に布陣する会津藩兵の実質上の司令官だった佐川官兵衛は、自らが隊長を勤める朱雀士中四番隊等を率いて見附より更に北方の三条・加茂目指し撤退していました。佐川も背後の新発田藩領に新政府軍別働隊が上陸しているのは認識しているので、その新発田に近い三条・加茂に向かう危険は承知していましたが、まず信濃川西岸に展開する会津藩兵(この中には越後に派遣されている会津藩兵全軍の総督である一之瀬要人が居ました)との合流を目指したのと、実際はこの時既に陥落していた水原を守る為に、栃尾には向わずに三条・加茂を目指し撤退したと思われます。
新政府軍の追撃部隊編成
一方の新政府軍も、大雨の中で前日各自勝手にばらばらに追撃した新政府軍を編成しつつ、見附・杉沢に進み同盟軍の残敵掃討作戦を行ないます。その際見附でそれまで同盟軍として戦っていた新発田藩兵7個小隊が恭順を求めてきたため、これを許し新政府軍に組み入れます。こうして見附・栃尾も占領して、三条・加茂を除けば中越地方をあらかた制圧したので、ここで一旦軍を休息させます。その一方で三条・加茂制圧を目的にした部隊を編成します。
薩摩藩兵3個中隊相当:城下士小銃七番隊(隊長新納軍八)・外城二番隊(隊長土持雄四郎)・番兵二番隊(隊長中村源右衞門)
長州藩兵4個小隊:奇兵隊一番隊(隊長滋野謙太郎)・振武隊四番隊(隊長不明)・長府藩報国隊一番隊(隊長下田恂介)・他1個小隊
松代藩兵3個小隊:六番狙撃隊(隊長代理中村勝右衛門)・八番狙撃隊(隊長小幡助市)・三番小隊(隊長吉村左織)
御親兵:四番隊
他:先鋒として新発田藩兵3個小隊(林文左衛門隊・加藤友左衛門隊・五十嵐考次郎隊)
以上の大隊規模の軍勢で、指揮官は確証はありませんが、薩摩の淵辺群平と長府の福原和勝が勤めたと思われます。この追撃部隊は編成後に見附から進軍を開始し、かつて同盟軍が見附・赤坂方面に攻勢を仕掛けていた際に米沢藩兵が本陣にしていた、見附と三条の中間地点である月岡村に入り宿陣し、翌日の三条攻撃に備えます。
信濃川西岸の戦況
ところで当サイトでは今まで触れていませんでしたが、同盟軍の加茂集結以来信濃川東岸の地域でも新政府軍と同盟軍の戦闘が続いていたのですが、この地域では同盟軍の主力だった桑名藩兵と庄内藩兵の勇戦のおかげで、寡兵にも関わらず常に同盟軍優勢の戦況が続いていました。実際第二次長岡城攻防戦後の勝利後、新政府軍の動きを警戒して動かない長岡城周辺の同盟軍を見た信濃川西岸の同盟軍は、長岡周辺の同盟軍が動かないのなら自分達で関原を攻め落そうとするなどの高い戦意を誇っていました。
しかし信濃川西岸に展開する同盟軍が関原に攻撃を仕掛ける前に、二十九日に長岡城が再奪取された事が伝わると、それまで優勢だった信濃川西岸同盟軍内にも動揺が走り、水戸脱走軍・村上藩兵・上山藩兵・米沢藩兵等の諸藩兵は次々に撤退を始めたので、残るのは桑名藩兵・庄内藩兵・会津藩兵のみとなりました。しかし翌八月一日早朝に桑名・庄内・会津の三藩兵にも退却命令が伝わると、遂に三藩兵とも退却する事にし、桑名藩雷神隊(隊長立見鑑三郎)と庄内藩栗原友右衛門隊を殿にして地蔵堂目指し撤退を開始します。
一方の新政府軍ですが、同盟軍の総反撃を命じた山県有朋としては、今までの信濃川西岸の新政府軍の不甲斐なさに不満を持っていたらしく、この同盟軍の総反撃作戦に信濃川西岸の新政府軍を参加させようと、総反撃作戦に先立ち信頼出来る長年の同志である福田侠平達を急遽派遣して信濃川西岸の新政府軍の指揮を取らせます。しかし福田達としてもいきなり派遣されても信濃川西岸の新政府軍を把握する事は出来ず、結局福田達が信濃川西岸の新政府軍を把握して、信濃川西岸に展開する同盟軍への攻撃を開始したのは、新政府軍の主力部隊の反撃開始に一日遅れる事の八月一日になっての事でした。
この福田達の指揮下に入った信濃川西岸の新政府軍の戦力は以下と思われます。
薩摩藩兵2個中隊相当:城下士小銃八番隊(隊長野本助八)・外城四番隊(隊長中村源助)
長州藩兵2個小隊:奇兵隊二番隊(隊長久我四郎)・奇兵隊六番隊(隊長山根辰三)
松代藩兵5個小隊:五番狙撃隊(隊長祢津丈三郎)・七番狙撃隊(隊長前島七郎)・二番小隊(隊長金児友太郎)・五番小隊(隊長牧野大右衛門)・六番小隊(隊長柘植彦四郎)及び砲3門
加賀藩兵3個中隊相当(杉浦善左衛門隊・田辺仙三郎隊・中西太郎兵衛隊)
その他:尾張藩兵・福井藩兵・高田藩兵・高遠藩兵・飯山藩兵・与板藩兵・大垣藩兵
以上の大兵力で、一日遅れとは言え福田達はこの大兵力を率いて一斉に攻撃を開始します。この信濃川西岸の新政府軍の攻勢は一日遅れとはいえ、海岸方面では寺泊等の拠点を次々に攻め落したので、この攻撃により海岸方面の同盟軍はほぼ駆逐されました。
しかし与板方面に関しては、薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵等の精鋭部隊を投入したのにも関わらず、桑名藩雷神隊と庄内藩栗原友右衛門隊の木ノ芽峠における巧みな遅滞戦術に阻まれ、五十嵐川西岸の地域の制圧には成功しましたが、同盟軍の機動戦力そのものの捕捉には失敗し、ほぼ無傷で地蔵堂・三条までの撤退を許す事になりました。
同盟軍三条に布陣
こうして夕方には地蔵堂に到着した同盟軍ですが、ここで佐川官兵衛率いる長岡から撤退してきた会津藩兵と合流し、更に三条に向かい撤退を始め、午後九時頃には三条に到着します。この後庄内藩兵の大半が自藩に向かい撤退したので、この時点で三条に集結した同盟軍の戦力は以下と思われます。
会津藩兵3個中隊相当と2個小隊:朱雀士中四番隊(隊長町野源之助)・朱雀寄合二番隊(隊長土屋総蔵)・青龍士中三番隊(隊長木本慎吾)・新遊撃隊(隊長佐藤織之進)・結義隊(隊長渡辺英次郎)及び砲兵隊
桑名藩兵3個小隊:雷神隊(隊長立見鑑三郎)・致人隊(隊長松浦秀八)・神風隊(隊長町田老之丞)
庄内藩兵2個小隊:中村七郎右衛門隊・栗原友右衛門隊
上記以外にも三条には若干の水戸脱走軍と村上藩兵が居たらしいですが、この二藩兵は新政府軍の接近を知るといち早く尻尾を巻いて逃げ出したので、戦力としては考えられません。
*佐川官兵衛はこの日「若年寄」に任命されたので、それまで率いていた朱雀士中四番隊の指揮を町野源之助に引き継ぎます。
八月二日の戦況
三条攻防戦
上記のように三条に野営した同盟軍でしたが、朝の軍議でこの地で新政府軍を迎撃するよりも、後退して加茂で迎撃した方が地形的に有利との結論に落ち着き、軍議後順次加茂に向け後退を始めました。しかし昼頃に月岡より新政府軍の追撃大隊が現れた為、ここで三条攻防戦が始まります。
この三条攻防戦攻防戦では、ただでさえ同盟軍の戦力が少ないのに、それに加え加茂に後退中だった為、この時点で戦闘に参加出来たのは会津藩兵2個
中隊相当と1個小隊(朱雀士中四番隊・朱雀寄合二番隊・新遊撃隊)・桑名藩兵1個小隊(神風隊)・庄内藩兵2個隊(中村七郎右衛門隊・栗原友右衛門隊)のみだったのに関わらず、薩摩藩兵・長州藩兵・松代藩兵等の精鋭部隊が中核の新政府軍の攻撃を猛射撃で防ぎ、遂に五十嵐川を渡河するのを阻止します。特に桑名藩兵と庄内藩兵の守りは堅く、五十嵐川を強行渡河しようとした薩摩藩番兵二番隊を撃退し、番兵二番隊軍監西郷吉次郎始め多くの死傷者を出す事になります(西郷吉次郎は西郷隆盛の弟)。
しかし同盟軍の方も三条に固執しては、いずれ新政府軍に突き崩されると承知していたので、夜になると暗闇に紛れて全軍加茂に退却します。
長岡藩兵の撤退
一方栃尾北部の葎谷では、長岡藩兵が敗兵と難民を無事会津藩領に送る為の殿部隊を編成します、この殿部隊は山本帯刀と川島億二郎が指揮官となり、健在な千本木林吉隊と新たに編成した2個小隊(雨宮敬一郎隊・倉沢弥五兵衛隊)による計3個小隊による部隊でした。この殿部隊は追撃してくる新政府軍に比べれば余りにも脆弱な戦力ですが、山本と川島の巧みな指揮と、兵士達の驚異的な忍耐力により負傷者と難民を無事会津に送り、更に殆ど犠牲者も出さずにこの殿部隊もまた会津に入るのです。
実際この日も栃尾から新政府軍の追撃部隊が出撃しますが、山本と川島の巧みな指揮によりこの殿部隊を捕捉する事も出来ず、長岡藩兵は無事吉ヶ平に入る事に成功します。
弥彦陥落・三根山藩降伏
福田達が率いる信濃川西岸の新政府軍は、この日海岸地域の完全な制圧を目指し、先日寺泊を制圧した出雲崎の部隊が進軍を開始し、この日には弥彦を制圧します。また太夫浜に上陸した部隊の内、新潟を制圧した薩摩藩外城一番隊長村田経芳達が率いる部隊は、その後も海岸線沿いに南下し、この日海岸沿いの三根山藩を降伏させます。これにより福田達率いる部隊と村田達が率いた部隊が合同したので、これにより新政府軍は海岸線沿いの制圧に成功します。
八月三日の戦況
新政府軍三条を占領、同盟軍加茂に布陣
前日夜半三条から同盟軍が撤退したのを知った新政府軍の追撃部隊は、この日三条を占拠しこの地で後続の援軍を待つ事になります。これにより薩摩藩城下士小銃十三番隊(隊長有馬雄之介)、長州藩千城隊二番隊(隊長平岡来三郎)・同六番隊(隊長児玉七十朗)等が新たに追撃部隊に加わります。
一方前日夜半に三条から撤退した同盟軍は、加茂で迎撃すべく各部署に布陣し陣地の構築に入ります。幸い新政府軍の追撃部隊が三条で進軍を中止した為、丸一日を陣地の構築と休息に当てれた同盟軍は万全の体制で新政府軍を迎え撃つ事になります。
その配置は詳細は不明ですが、桑名藩兵は雷神隊が加茂南東の黒水に、致人隊と神風隊が加茂南西の街道を見下ろす下条高地に布陣します。会津藩兵は朱雀寄合二番隊が加茂北西の加茂新田に、加茂南西の下保内に新遊撃隊が布陣します。そして庄内藩兵が加茂北東の羽生田(加茂と村松を繋ぐ街道上の集落)に布陣し、その他の軍勢は加茂村内に布陣したかと思います。
しかしこの加茂に布陣してる際に、前述の黒田清隆率いる新政府軍別働隊の本軍が五泉まで迫り、村松城が風前の灯火との情報が入った為会津藩越後派遣軍総督の一之瀬は、青竜士中三番隊と結義隊と砲兵隊を率いて村松藩救援に向かいます。しかしこれにより加茂防衛の会津藩兵の戦力は著しく低下し、これが結果的に加茂攻防戦での会津藩兵の敗退に繋がります。
余談ですが、その際今までの戦いで弾薬を使い果たし、もはや根拠地を失った桑名藩兵は会津藩兵より銃弾六千発の供給を受けます。
八月四日の戦況
加茂攻防戦
先日戦力を増強した新政府軍の追撃部隊はこの日の朝三条を出発、同盟軍が布陣する加茂の制圧に向います。新政府軍はこの増強された大軍を、本道を進み直接加茂を突く左翼軍と、加茂南部の高地地帯を迂回攻撃する右翼軍に分け進軍を開始します。尚、左翼軍と右翼軍の参加部隊を下記に記させて頂きます。またこの左翼・右直両軍に参加していない部隊は予備戦力だったと思われます。
左翼軍:薩摩藩城下士小銃七番隊・同十三番隊・二番砲兵隊半隊・長州藩千城隊六番隊・振武隊四番隊・同藩斥候隊・松代藩十二番大砲・御親兵二番隊・新発田藩兵3個小隊(窪田喜右衛門隊・里村縫殿隊・服部吉左衛門隊)
右翼軍:薩摩藩外城二番隊・番兵二番隊・長州藩奇兵隊六番隊・千城隊二番隊・御親兵四番隊・新発田藩兵1個小隊(林文左衛門隊)
この二手に分かれた新政府軍の攻撃は凄まじく、左翼軍は佐川率いる会津藩兵を鎧袖一触で粉砕し、猛将と言われた佐川も命からがら逃げ出すという猛攻でした。
左翼軍が会津藩兵を粉砕した後、今度は右翼軍が高地を守る桑名藩兵に攻撃を開始しますが、流石は庄内藩兵と並んで同盟軍最強と謳われた桑名藩兵、兵数で圧倒的に上回る新政府軍に攻撃を受けたというのに、桑名藩兵は全く動じず猛射撃でこの新政府軍の猛攻に応えます。桑名藩兵の頑強ぶりに左翼軍も攻撃に加わりますが、遂に半日に渡る激戦の末にこの新政府軍の猛攻を撃退するのです。この桑名藩兵の鬼神の如き奮戦は、正に「事実は小説より奇なり」そのもので、常識で考えれば新政府軍の猛攻を桑名藩兵が耐えれる筈がないのですが、桑名藩兵はその有り得ない事をやってのけたのです。
最終的に新政府軍の猛攻を耐え抜いた桑名藩兵も夜半には加茂から撤退し、この加茂攻防戦が桑名藩兵にとって越後最後の戦いとなったのですが、この越後戦線にてこれまで無敗を誇ってきた桑名藩兵の最後の戦いに相応しい、見事な防御戦でした。
その後桑名藩兵は黒水にて、雷神隊・致人隊・神風隊の3隊が合流し、会津に向かい撤退します。
長岡藩兵の撤退
葎谷で負傷兵と難民の収容に当たっていた山本と川島率いる長岡藩兵の殿部隊も、遂にこの日四日葎谷を撤収し、吉ヶ平を介して八十里峠に入ります。しかし山本達は八十里峠に入ってもすぐに会津には向わず、峠入り口の鞍掛峠に布陣して長岡勢の背後を守るのと、負傷者や難民を1人でも多く受け入れる為にここを守ります。八十里峠を越えて長岡藩兵が鶴ヶ城に集結するようになると、指揮官を欲した為八月十日には川島が呼ばれ、以降山本が1人でこの鞍掛峠守備隊を率います。
この後山本は補給も厳しいこの地を八月二十五日まで守り抜き、多くの長岡勢を会津藩領に避難させる事に成功するのです。
新政府軍別働隊の前進、五泉の遭遇戦
七月二十八日に保田を陥落させた黒田率いる新政府軍別働隊本軍は、更に信濃川沿いに南下し、その後八月一日に阿賀野川沿いの赤坂を陥落させ、津川からの会津藩兵の反撃を防ぐ拠点を築いた後、再び阿賀野川沿いに北上し、阿賀野川を渡河して四日に五泉を制圧します。この五泉は元々沼津藩領だったのですが、北越戦争第二章でも書きましたが、開戦早々に甘粕継成率いる米沢藩兵の進駐を受けて以来、同盟軍に属していていました。しかし新政府軍の別働隊の上陸を知ると、新発田藩同様裏切りの機会を狙っていたのですが、黒田率いる上陸軍本軍の接近を知り恭順したのです。
こうして五泉を制圧した新政府軍は更に五泉南部の村松藩攻略目指し南下を開始します、一方前述の一之瀬率いる会津藩兵(青竜士中三番隊・結義隊・砲兵隊)が村松藩の安全を確保する為に五泉目指して進軍してきたので、この両軍が激突します。しかしこの戦闘では黒田と一之瀬指揮官の器量の差、兵士達の士気連度装備においてもいずれも新政府軍が勝っていたので、一之瀬率いる会津藩兵を正面から粉砕し、そのまま村松城に攻め寄せます。
村松藩の状況と、村松城落城
村松藩は他の小藩が皆そうだったよう尊王派と佐幕派に分かれての内部抗争がありましたが、戊辰戦争が始まる一年前に尊王派を粛清して以来、佐幕派の立場を取り北越戦争でも同盟軍に参加します。しかし同盟軍に参加したと言っても内部にぐらつきがあり、かつ見るべき人材の居ない村松藩兵は弱兵として同盟軍の中でも軽視され、重要な戦線に配備される事はありませんでした。
そんな村松藩は長岡城が新政府軍に再奪取された翌日の八月一日になると、もはや村松藩を単独で保つのは不可能と、藩主堀直賀と家老堀右衛門と斎藤久七等家臣一行は米沢藩に亡命する事を決意して、村松城を自焼した上で放棄して米沢に向います。一方藩主一行が亡命すると、かつて粛清された尊王派の残党が前藩主異母弟を掲げて挙兵します。そのような村松藩が分裂する状況下で、黒田率いる新政府軍別働隊本軍が到着し、半ば焼け落ちた村松城を接収します。
余談ですが、この後村松藩尊王派が新政府軍に恭順するのですが、新政府軍にツテがない村松藩尊王派はかつて同盟軍として新政府軍と戦った、彼らから見て佐幕派だった吉川寅吉に頼って新政府軍に恭順します(吉川は長州藩に顔見知りが多かった)。かくして八月五日に福原和勝が村松城に訪れ、尊王派の嘆願書を受け取り降伏を許可します。
中越地方の制圧、新政府軍の新たなる進軍
かくして加茂が陥落し村松藩が降伏した事により、長岡城を再奪取した新政府軍本軍と、信濃川西岸に展開していた新政府軍、そして太夫浜に上陸後南下した新政府軍別働隊が村松・新発田・五泉等で合同し、中越地方の同盟軍の拠点は悉く陥落した事により下越地方以外の越後は新政府軍に制圧される事になります。
この新政府軍の再集結後、山県は新政府軍を以下に再編成します。本来の北陸道軍の目的通り阿賀野川沿いに南下し、会津藩兵の守る津川口を突破して会津藩領に攻め込む会津方面軍、これは山県有朋自身が率います。次は下関から米沢街道を進み米沢藩領に攻め込む米沢方面軍、これは別働隊を率いた黒田清隆が率います。そして最後は海岸沿いに進軍し、村上藩を降し庄内藩領に攻め込む庄内方面軍、これは信濃川西岸の新政府軍を率いた福田侠平達が率います。
以上三つの方面軍がそれぞれの方面に進軍した事により、北越戦争は最終段階に入る事になります。この三方面軍の内山県率いる会津方面軍に関しては多くの人が書かれているので、当サイトでは次回六章で黒田率いる米沢方面軍と米沢藩兵の戦いを書いていきたいと思います。
追記:河井継之助会津にて死す
第三次長岡城攻防戦で長岡城が新政府軍に再奪取された七月二十九日、河井継之助は家人の松蔵や知己の外山修造等が支える籠に乗り長岡城を脱出、見附に向かいます。この籠は松蔵が作った河井専用の物で、左足を負傷した河井の為に、第二次長岡城攻防戦で新政府軍から鹵獲した毛布を何十にも布いたり、排便用の仕掛けがされてるなど、松蔵の河井に対する忠誠心が感じられます。
しかし回りの者の心配とは裏腹に、河井自身は会津藩への退避を嫌い、翌日八月一日見附から杉沢を通り葎谷に到着した際、これ以上進むのを拒みます。河井としてはもはや形勢の挽回を図るのは不可能と判断していたので、このまま会津鶴ヶ城に行っても、先に鶴ヶ城に避難している長岡藩主親子に顔を合わせる事が出来ないという思いと、河井自身が「頼るなら庄内だ」と言ってる所からも、会津藩に向うのは不本意だったので抵抗したと思われます。
しかし翌日二日に、敗兵を纏めて見附方面から撤退してきた三間市之進と村松忠冶右衛門が葎谷に到着すると、村松が懸命に河井を説得し、この説得を受け入れようやく河井一行は葎谷を出発します。翌日三日に吉ヶ平に到着し、いよいよ八十里峠に入り、遂に会津藩領に入ります。この八十里峠を進んでいる際に河井が自嘲を込めて詠んだのが有名な「八十里こしぬけ武士の越す峠」です。その後五日に河井一行は会津藩入り口の只見村叶津番所に到着したものの、この地で症状が悪化した為しばらく留まる事になります。この河井の症状の悪化を知った会津藩は、鶴ヶ城城下で野戦病院を開いていた名医松本良順を派遣、この松本が九日に只見に到着します。
只見に到着した松本は早速河井を診療しますが、松本が診た際既に河井の傷は化膿しきっており、助かるのは左足を切断するしかないと判断し、河井に鶴ヶ城に来る事を進めます。しかし既に生への執着を捨てていた河井はこれを断り、また会津が不利な戦況に窮して指揮官としての自分を必要にしてるのを知って、「会津も化けの皮を剥がれたのかな」と愉快そうに笑ったと伝えられます。
結局河井は松本の提言を入れる事にして、行ける所までは行こうと十二日に只見を出発しますが、すぐに症状が悪化し同日塩沢村の医師矢沢家に泊まる事になります。しかし河井の症状が回復する事はなく、十五日夜に松蔵を呼び自分の棺を作り、「自分の遺体は必ず荼毘にして、いつか長岡に持ち帰るように」と命じます。松蔵は泣きながら自分が敬愛する主人の棺と骨箱を徹夜で作ります。
そして翌16日出来上がった自分の棺と骨箱を見た河井は満足げに微笑み、その後昼寝に昏倒し夜八時、その強烈な個性と鬼才により良くも悪くも北越戦争の主役だった河井継之助は42年の生涯を閉じるのです。
左・中:八十里峠を越えて会津藩領の入り口の只見村に建つ吐津番所
右:松蔵が拾いきれなかった遺骨を埋葬した医王寺に建つ河井継之助の墓所
余談ですが、河井の終焉の場所となった矢沢家は、ダム工事の為水没しましたが、福島県只見町塩沢に建つ河井継之助記念館内に建物ごと移築され、現在でもその終焉の地に訪れる事が出来ます。
左:会津鶴ヶ城城下小田山麓の建福寺に建つ河井継之助の墓
右:長岡市内の河井家の菩提寺栄涼寺に建つ河井家の墓、左の高い碑が継之助の墓
河井の遺骨は松蔵の手により会津鶴ヶ城城下まで持ち帰られ、一旦は後日新政府軍が鶴ヶ城攻略の為に陣を設けたこの小田山の麓の建福寺に埋葬されます。上記の通り河井は生前自分の遺骨箱の偽物を作らせており、新政府軍はその偽物を小田山占領後掘り出したと言われますが、死後も河井に翻弄された新政府軍にとっては痛恨の極みだったでしょう。そういう意味では、この偽物の遺骨箱こそ河井が新政府軍相手に仕掛けた最後の謀略だったも言えるとも思います。
主な参考文献(1章から6章まで通しで)
「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県
「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会
「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社
参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」