北越戦争 第六章
慶応四(1868)年七月二十九日〜九月十日

〜中条・梨ノ木峠・榎峠攻防戦、米沢藩降伏す「毘」の軍旗が敗れる時〜

*日付は米沢藩の新発田藩討伐軍の編成から、米沢藩が新政府軍に降伏するまでの日にちです。


米沢藩の新発田藩討伐軍の編成

 話は新政府軍と奥羽越列藩同盟軍(以下「同盟軍と略)が八丁沖戦線及び栃尾戦線で睨み合っていた七月半ばに遡ります、越後戦線に多数の軍勢を送っていた米沢藩は、重要な後方拠点の下関村の安全を確保する為に、米沢藩の直轄領もある下越地方の岩船郡に飯田与総右衛門率いる警戒部隊を送ります。この警戒部隊の目的は海軍力に勝る新政府軍が、一気に海上を迂回して岩船郡に上陸攻撃を仕掛けてくる事に対する警戒でした。
 しかし米沢藩の思惑を裏切り、山田顕義黒田清隆率いる新政府別働隊は七月二十五日に新発田藩領の太夫浜に上陸します。これに伴い新発田藩は新政府軍に寝返った為、米沢藩の水際で新政府軍の別働隊を叩くと言う戦略は破綻します。
 この新政府軍別働隊の太夫浜上陸と、これに伴う新発田藩の裏切りを知った米沢藩庁は、戦略を改め新発田藩討伐を決意、飯田率いる岩船郡警戒部隊を始めとした下越地方に展開する米沢藩兵に下関に引き揚げる事を命令し、更に米沢藩から出撃した諸隊も随時下関に進軍した為、続々と下関に米沢藩兵が集結します。
 かくして七月二十九日には参謀飯田与総右衛門、大隊長長尾権四郎、軍監登坂右膳、同小川源太郎率いる19個小隊(豊野金七隊・浅間伊左衛門隊・細谷十左衛門隊・田村熊五郎隊・川野与右衛門隊・梅津直人隊・加藤運吉隊・中津川又四郎隊・福王寺松次郎隊・山下桂助隊・泉沢伝右衛門隊・小野里四郎隊・遠藤勇助隊・丹秀太郎隊・丹龍蔵隊・村田武左衛門隊・米野源蔵隊・山岸哲蔵隊・猪苗代隊)による新発田藩討伐軍が下関にて編成されます。
 この米沢藩による新発田藩討伐軍は19個小隊と一見すると大軍ですが、その実は中越戦線に投入された米沢藩兵の1個小隊が平均30〜40名で編成されていたのに対し、この新発田藩討伐軍の米沢藩兵は1個小隊平均10〜20名で編成されているので(中には10名未満の分隊規模の小隊も複数ありました)、小隊の数程の戦力ではありませんでした。また最終的には敗北したとは言え、中越戦線に投入された米沢藩兵は出陣時からの精鋭部隊だった上に、戦場に到着後も新政府軍と数多くの戦いを繰り広げた為、将兵共に歴戦の持ち主だったのに対して、新発田藩討伐軍の米沢兵は言わば予備兵力の二線部隊だった上に、戦闘経験を持つ者は将兵共に僅かでした。また装備にしても中越戦線に投入された軍勢は基本的にミニェー銃、部隊によってはスペンサー銃を装備していたのに対し、この新発田討伐軍は後述しますが村上藩から提供された弾丸を使っていた事からも、良くてゲベール銃、最悪火縄銃を装備していたと思われます。またこの新発田藩討伐軍は「紙砲」なる砲を装備していました、この紙砲なる兵器がどのような物かは勉強不足の為判りませんが、名前からしてとてもまともな兵器とは思えないので、この様な紙砲なる兵器を装備していた事からも新発田藩討伐軍の質が読み取れると思います。このように新発田藩討伐軍は戦力としては非常に脆弱な軍勢でした。
 しかし新政府軍の太夫浜上陸と新発田藩の裏切りにより危機に陥った米沢藩は、この劣勢な戦力で黒田清隆率いる米沢方面新政府軍との戦いを余儀なくされるのです。


米沢方面新政府軍の動向

 上記のように米沢藩が新発田藩討伐の準備を進めていた最中の八月三日、新政府は米沢藩藩主上杉斉憲の官位剥奪を発表します。これにより米沢藩は正式な朝敵となり、この米沢藩を討伐する為に向かったのが、新発田藩領太夫浜に上陸した黒田清隆率いる新政府軍海上別働隊です。
 しかし、この上杉斉憲の官位剥奪が発表された八月三日の時点では、黒田率いる海上別働隊の大半は新潟方面と水原・五泉の二方面に分かれて進軍していた為、米沢藩討伐に回せる纏まった戦力は無く、とりあえず新発田藩領に駐留する芸州藩兵半小隊(隊長川村常之進)と新発田藩兵1個小隊(隊長大西孫右衛門)と半小隊(隊長湯浅弥一左衛門)及び大砲二門を中条に進軍させ、米沢藩兵が撤退した中条を占拠します。また新発田から下関に向かう間道(後日戦いが行われる坪穴・梨ノ木峠はこの間道沿いにあります)にも芸州藩兵半小隊及び大砲一門と新発田藩兵半小隊を北進させ菅谷の集落を占拠します。
 この警戒部隊を北進させた後、黒田率いる別働隊は八月六日に他の新政府軍と合同した後に、正式に米沢藩討伐の任を受けて反転北上を開始します。これにより今後黒田率いる別働隊を米沢方面新政府軍(今後「米沢方面軍」と略)と呼称します。

 この米沢方面軍の陣容は「戊辰役戦史」に書かれているように、海上別働隊が基本的な戦力になっていますが、幾つかの部隊は他の会津方面軍や村上・庄内方面軍に編入されていたので、米沢方面軍の陣容は下記の通りだと思われます。

薩摩藩兵:外城一番隊(隊長村田経芳)・同三番隊(隊長有馬誠之丞
長州藩兵:千城隊七番隊(隊長岡部富太朗)・同八番隊(隊長山中梅二郎
岩国藩兵:建尚隊一番隊・同四番隊 *8月5日新潟に到着
徴兵隊十二番隊(隊長岡村喜兵衛:鳥取藩兵)
芸州藩兵:3個小隊(?)
*他にも高鍋藩兵や福知山藩兵も途中までは同行していましたが、途中から村上・庄内方面軍に編入された模様なので、ここでは省きました。

 以上の兵力に降伏した新発田藩兵6個小隊(大西孫右衛門隊・今井幸吉隊・猿子小源太隊・君忠右衛門隊・石川士朗隊・小川太郎隊)を加えたのが米沢方面軍の戦力です、他の戦線に転出した戦力を新発田藩兵で補った形ですが、歴戦の薩摩藩遊撃二番隊や長州藩奇兵隊五番隊の代わりを新発田藩兵が勤めれてたとは思えず、下越地方に集結した米沢藩兵と同じく、新政府軍の米沢方面軍もまた万全とは言えない戦力で米沢藩兵と戦わざるを得なかったのです。
 *新発田藩兵は米沢方面軍だけではなく、会津方面軍にも12個小隊、庄内方面軍にも6個小隊の派兵を新政府軍に命じられています。


中条攻防戦:八月七日

 話は遡り黒田清隆率いる海上別働隊が新発田藩領太夫浜に上陸し、新発田藩を恭順させた後、新発田藩を通じて近隣の下越地方の藩に恭順を求める書状を送ります。この書状は越後最北の藩である村上藩にも届くのですが、多くの藩と同様確固たる決意からではなく、成り行きで奥羽越列藩同盟に参加した村上藩はこの書状を受け取り動揺します。しかし北の庄内藩、東の米沢藩と言う大藩に挟まれた村上藩では新発田藩の様に新政府軍に寝返る事も出来ず、庄内藩に援軍を求めます。
 しかし、この村上藩の動揺を察知した米沢藩は、八月二日に村上藩に長尾小太郎等の使者を送り村上藩を詰問します。この使者に村上藩は弁明し、小銃や弾丸を提供する事で米沢藩の疑心をようやく晴らす事が出来ました。この頃村上藩の求めに応じ庄内藩の酒井正太郎隊(2個小隊)が到着していましたが、それとは別に中越戦線の敗北を知らない庄内藩庁が、中越戦線に派兵していた服部十郎右衛門隊との交換要員として派兵した中村次郎兵衛率いる農兵隊も村上藩に到着します。そして八月四日にこの中村と村上藩士平井伴右衛門が米沢藩の下関本営に来訪し、三藩兵による中条への夜襲と言う共同作戦を提案し、米沢藩もこの提案を受諾します。
 またこの日、坪穴の守備隊より新政府軍接近(上記の菅谷集落の占拠)の報があったのを受け、軍監登坂右膳が数小隊(詳細不明)を率いて坪穴・梨ノ木峠に向かい、陣地構築を行います。

 かくして八月五日、下関の米沢藩本営より軍監小川源太郎率いる5個小隊(豊野金七隊・福王寺松次郎隊・山下桂助隊・加藤運吉隊・山岸哲蔵隊)が出撃し、庄内軍の中村隊と村上藩兵(兵力不明)と合流し、新発田藩討伐の橋頭堡となる中条攻撃に向かいます。
 この中条には上記の通り、新発田より進軍してきた芸州藩兵半小隊(隊長川村常之進)と新発田藩兵1個小隊(隊長大西孫右衛門)と半小隊(隊長湯浅弥一左衛門)が駐留し、町の北部に陣地を構築して守っていましたが、この芸州藩兵と新発田藩兵による新政府軍が守る中条に米沢藩兵・庄内藩兵・村上藩兵による同盟軍が進軍します。
 こうして八月七日払暁前、同盟軍は中条に攻撃を開始します。まず先陣として豊野隊を先鋒とした米沢藩兵が攻撃を開始しますが、大筒しか持たない米沢藩兵は新発田藩兵の持つ砲二門を攻めあぐね、やがて戦闘に疲労した米沢藩兵は後退します。しかし米沢藩兵が後退すると、今度は庄内藩兵と村上藩兵が前進し芸州藩兵と新発田藩兵が篭る陣地に攻撃を開始し、また一部の兵が背後に回り中条の町に火を放つと、善戦を続けた芸州藩兵と新発田藩藩兵も動揺し、米沢藩兵が再び攻撃に加わると、まず新発田藩兵が崩れ敗走します。それでも芸州藩兵は僅か半小隊でこの猛攻に耐え抜きますが、同盟軍の三方からの猛攻の前に遂に芸州藩兵も陣地を捨て中条の町に後退します。
 しかし同盟軍はこの中条に後退した芸州藩兵と新発田藩藩兵を追って市街戦に突入、数に物を言わせた力攻めににより、新政府軍の宿営地となっていた大輪寺を奪取するなどの猛攻を見せます。この同盟軍の猛攻により芸州藩兵と新発田藩藩兵は、芸州藩半隊長の川村始め多数の死傷者を出して三日市目指し敗走します。
 しかし芸州藩兵・新発田藩兵を破ったとはいえ、同盟軍に追撃する余力は無く、芸州藩兵と新発田藩兵が残した砲二門を鹵獲すると、折角奪取した中条に火を放ち退却します。
 このように追撃をしなかった為中途半端な勝利となった同盟軍ですが、この中条攻防戦は越後戦線での同盟軍最後の勝利であり、米沢藩にとっては戊辰戦争通しての最後の勝利となったのです。実際小川はこの勝利を大々的に報じる書状を米沢藩庁に送るなど、久々の勝利に沸き返るのです。

 しかし小川が進軍した八月五日の夜には長岡城が新政府軍に再奪取され、中越地方の同盟軍が総崩れになった事と、新潟港が陥落し米沢藩総督の色部長門が戦死した旨が下関本営に伝わると、米沢藩兵は戦意を失い藩境防衛の為に4個小隊(丹秀太郎隊・丹龍蔵隊・村田武左衛門隊・米野源蔵隊)を米沢藩領小国に後退させます。
 また中越戦線の総敗北を知った事により、米沢藩兵はもはや新発田藩を討伐すると言う当初の目的を不可能と判断し、戦略を今までの新発田藩討伐から米沢藩境の防衛に改めるのです。

   

左:中条市街より同盟軍が進軍してきた北東方面を旧街道沿いから見て
右:新政府軍の宿営地となった大輪寺、当時の建物はこの戦いで焼失したそうです。


坪穴・夏井、梨ノ木峠攻防戦:八月十日

 中条で先鋒の芸州藩兵と新発田藩兵が同盟軍に敗北した新政府軍の米沢方面軍ですが、米沢藩討伐の命を受けて反転北上を開始した本軍が新発田に到着すると、正式に米沢藩討伐の為に米沢街道沿いに中条・佐々木・花立・貝附を経て下関に向かう米沢街道軍と、米沢街道の間道である菅谷道沿いに菅谷・鼓岡・坪穴・梨ノ木峠を経て下関に向かう菅谷道軍に分かれて進軍する事を軍議で決め、新発田から進軍を開始して、9日に三日市より米沢街道沿いと菅谷道沿いの二手に分かれ進軍します。
 しかしこの米沢街道軍と菅谷道軍の編成は史料によってまちまちですので、当サイトでは防長回天史に書かれている編成を書かせて頂きます。

米沢街道軍
 第一陣:新発田藩兵1個小隊・芸州藩兵2個小隊半
 第二陣:薩摩藩外城一番隊半隊・長州藩千城隊1個小隊
菅谷道軍
 第一陣:新発田藩兵1個小隊・高鍋藩兵1個小隊
 第二陣:徴兵隊十二番隊・岩国藩建尚隊一番隊

 防長回天史には以上の編成が書かれているのですが、翌日の戦いでは米沢街道軍所属の薩摩藩外城一番隊が菅谷道軍に合流して戦っていたり、菅谷道軍として進軍していた高鍋藩兵が庄内方面軍に編入されているなど判りにくいので、以下に翌日の坪穴・梨ノ木峠攻防戦に参加した新政府軍の編成を書かせて頂きます。

 先鋒:岩国藩建尚隊一番隊 徴兵隊十二番隊(隊長岡村喜兵衛)・新発田藩兵1個小隊(今井幸吉隊)
 二陣:薩摩藩外城一番隊(隊長村田経芳、黒川から来援)・長州藩千城隊七番隊(隊長岡部富太朗)・同八番隊(隊長山中梅二郎

 以上の部隊が翌日坪穴・梨ノ木峠攻撃に向かいます。


 一方の米沢藩兵ですが、上記の通り中越戦線の総敗北と新潟陥落を知った下関の米沢藩本営は、それまでの新発田藩討伐から米沢藩境防衛に戦略を改めます。米沢藩としては中越戦線から離脱した主力部隊が帰国して、再編成を終えて再度前線に出兵出来るまでの時間を、下越戦線に展開する米沢藩兵によって稼ごうと言う遅滞戦術に決します。指揮官も兵士の質も装備も悪い下越戦線に展開する米沢藩兵ですが、主力軍が帰還するまでの時間を稼げれば、主力軍で十分藩境を守る事が出来ると言う思惑からの決断でした。
 この為新発田から下関に向かう間道上の坪穴・夏井の集落や梨ノ木峠等の要所に、上記した通り軍監登坂右膳が率いる部隊が布陣していました。この時登坂が率いて兵力は、八日に援軍として4個小隊が来援に来たので、4個小隊以上なのは間違いないですが正確な兵力は不明です。登坂はこの兵力を胎内川対岸の集落の坪穴村や夏井村、その北部の間道沿いの要所梨ノ木峠、そして梨ノ木峠南方の集落の黒俣村にそれぞれに陣地を築いて布陣させます。この登坂が率いる米沢藩兵が布陣する陣地に新政府軍は攻撃を開始するのです。

 かくして八月十日朝、米沢方面軍の菅谷道軍は宿営地である鼓岡を出発し午後2時頃には胎内川に到着し、対岸に布陣する米沢藩兵に対して右翼軍:岩国藩建尚隊一番隊、中央軍:徴兵十二番隊、左翼軍新発田藩兵1個小隊の布陣で攻撃を開始します。これに対し守りに有利な陣地を守る米沢藩兵は善戦しますが、右翼軍の岩国藩兵と中央軍から援軍に来た徴兵十二番隊の半隊が一気に胎内川を渡河攻撃を仕掛けると、まず夏井村の陣地が陥落、続いて中央軍の徴兵十二番隊半隊も胎内川を渡河して対岸を占拠します。こうして夏井村が占拠されると、左翼軍の新発田藩兵も渡河攻撃を開始します、これに対し大筒隊を率いる山岸哲蔵は自ら先頭に立ち新発田藩兵に挑みますが、反撃を受けて戦死します。この山岸の戦死により隊長を失った山岸隊も梨ノ木峠に敗走したため、遂に坪穴の陣地も陥落します。

      

左:胎内川南岸より見た夏井村方面
中:胎内川南岸より見た坪井村方面
右:胎内川南岸より見た梨ノ木峠

 こうして坪穴・夏井で敗れた米沢藩兵ですが、梨ノ木峠の陣地に集結してこの地で新政府軍を防ぐために布陣します。もしこの梨ノ木峠が敗れれば、米沢藩兵の本営であり重要な後方拠点である下関村まで緩やかな下り坂が続き、新政府軍の進撃を阻むような地形が無いため、下関を守る為には何が何でも梨ノ木峠を守らなくてはならず、不退転の決意で梨ノ木峠に布陣します。
 これに対し胎内川対岸の要地を占拠した新政府軍は部隊を入れ替え、それまで戦った岩国藩兵・徴兵隊・新発田藩兵に替わって長州藩千城隊七番隊・同八番隊、そして黒川から援軍に来た薩摩藩外城一番隊が梨ノ木峠攻撃に向かいます。
 下関村を守るために不退転の決意で梨ノ木峠に布陣した米沢藩兵でしたが、いざ薩長両藩兵の攻撃が始まると、薩長の精鋭部隊の攻撃の前に抵抗らしい抵抗も出来ずに敗走し、下関を守るための絶対防衛ラインである梨ノ木峠はあっけなく陥落し午後四時頃には戦闘は終了します。米沢藩の史料である「戊辰軍記」には樽ヶ橋からの砲撃により梨ノ木峠の守備隊は大混乱に陥ったと書かれていますが、薩摩藩外城一番隊は砲を3門装備していたので、米沢藩兵を大混乱に陥れた砲撃はこの外城一番隊によって行われたと思われます。またこの砲撃の後の外城一番隊の突撃により梨ノ木峠は陥落したので、米沢藩兵による絶対防衛ラインは勇将村田経芳に率いられた薩摩藩外城一番隊によって破られたと言えましょう。

      

左:梨ノ木峠頂上より南方(胎内川方面)を見て
中:同じく北方(下関村方面)を見て。みてもらえば判りますが、峠と言っても緩やかな坂道です。
右:梨ノ木峠古戦場の標柱

      

左:樽ヶ橋付近より梨ノ木峠を見て。薩摩藩外城一番隊はこの付近より砲撃したと思われますが、この距離では間接照準射撃を行ったと思いますが、詳細は不明です。
中:坪穴村に在る、米沢藩兵の戦死者を供養する「米沢様」
右:梨ノ木峠攻防戦での戦死者”千人”がその下に埋められていると言う千人塚。実際には両軍合わせて多く見積もっても30人程しか戦死者のいない梨ノ木峠攻防戦で何故このような伝説が生まれたのか不思議です。

鍬江集落に建つ米蔵、新政府軍(薩摩藩外城一番隊?)は、この蔵に書かれている「米」と言う字を見て、ここが米沢藩の陣地と勘違いして、この蔵を攻撃しようとしたそうです。

 またこの頃福田侠平達が率いる庄内方面軍も、海岸線沿いに順調に進軍して村上藩攻撃に向かっていたのですが、これに加えて梨ノ木峠が陥落した同じ十日には、米沢方面軍の本道軍も前進し、村上と下関村の中間に位置する交通の要所の貝附や花立を陥落させ、米沢藩と庄内藩・村上藩を分断する事に成功します。
 かくして先日同盟軍最後の勝利を挙げた米沢・庄内・村上の三藩兵は分断され、米沢藩は新政府軍の米沢方面軍、庄内藩・村上藩は新政府軍の庄内方面軍とそれぞれの攻撃を受ける事になるのです。


下関陥落:八月十一日

 まずは下関村在住の豪商であり米沢藩の御用達商人でもある渡辺家について再度説明させて頂きます、米沢から越後に至る米沢街道上に在る下関村は米沢〜越後間の流通の拠点であり、渡辺家はこの米沢藩の流通を一手に引き受けていました。しかし渡辺家はただ米沢藩の流通を一手に引き受けるだけでなく、私費を投じて米沢藩にとっての生命線である米沢街道を整備するなど米沢藩に尽くします。まあ米沢街道が繁栄すれば下関村も潤うので、自己の利益の為にも渡辺家は代々米沢藩に尽くしていました。
 そして幕末になると、ご多分に漏れず米沢藩も財政危機に陥りますが、その際にも渡辺家は米沢藩に莫大な献金を行い、これで米沢藩の財政は持ち直すなど、幕末になっても米沢藩と渡辺家の密接な関係は続きます。
 更に戊辰北越戦争が始まると軍事的後進国だった米沢藩の為に、ミニェー銃やスペンサー銃と言った新政府軍に対抗出来るだけの小銃を揃えたり、実際に米沢藩兵が進軍すると下関村に宿営した際に将帥だけでなく一兵卒に至るまで歓待するします。その後中越戦線で新政府軍と一進一退の攻防戦を繰り広げると、米沢藩兵の後方拠点として機能し、米沢藩から送られた物資を前線に送る為の中継基地になるなど、米沢藩兵が新政府軍と三ヶ月近くも戦えたのは、この渡辺家の助力があってこそと断言して良いかと思います。

 このように軍事的にもそうですが、何より経済的に米沢藩と密接な関係のある渡辺家の存在は、米沢藩が藩として存続するには不可欠で、もし渡辺家と米沢藩の関係が断たれたら、米沢藩の経済が破綻するのは明白でした。
 この為米沢藩にとっては渡辺家の在る下関を守るのは戦略の要だったのですが、一方で下関村は平地が続き守るには難しい土地だったので、この下関を守るには下関に至る要所を固めて、下関への進軍を阻止するしかなかったのですが、下関村東方の貝附村と下関南東の梨ノ木峠が陥落した今、米沢藩の生命線である下関は丸裸にされてしまったのです。

 実は梨ノ木峠攻防戦が行われる前の八月六日に中越戦線総敗北と新潟陥落の報、そして二本松城陥落の報に浮き足立った米沢藩兵を率いる飯田与総右衛門長尾権四郎は、下関を放棄して沼村(下関南東、米沢街道沿いの藩境付近の集落)に後退しようとしますが、米沢藩と関係の深い渡辺家は直接米沢藩庁に下関を守ってくれるように直訴したため、これを受けた家老竹俣美作は飯田や長尾に下関村から後退しないように指示した為、この時は飯田達は下関に留まります。
 しかし十日に貝附や梨ノ木峠が陥落したのを知った飯田達は、「我らが弱軍では新政府軍には勝てない、ならば徒に人命を危険に晒さずに、要害の地に篭るべし」と逃げ口上を残し(「戊辰軍記」より管理人訳)、翌日十一日の暁に全部隊を率いて下関村を捨て本陣を沼村に後退、その沼村と下関村の中間に位置する榎峠や鷹ノ巣峠に兵を布陣させます。

 一方の新政府軍の米沢方面軍ですが米沢街道軍と菅谷道軍と共に十一日午前六時頃より前進を開始、大島村付近で両軍合流し米沢街道沿いに前進を続けて下関村を占領します。米沢藩兵が総撤退した下関村は無血開城したのですが、これまで米沢藩の為尽力した渡辺家は本家宅は薩摩藩の本陣に、分家宅が芸州藩の本陣に接収されます。
 その後米沢方面軍は更に大石川のラインまで前進し、対岸の鷹ノ巣峠に布陣する米沢藩兵に対峙します。こうして戊辰北越戦争が始まって以降米沢藩の本営が置かれ続けた下関は、この後米沢方面新政府軍の本営が置かれる事になるのです。

 かくして米沢藩の重要な拠点である下関は新政府軍に占拠されました、確かに戦術的には守り難い下関村を放棄した米沢藩兵の判断は遅滞戦術の面からも正しかったかもしれません。しかし経済的な面から見た下関村の重要度を考えれば、下関村と渡辺家を失った米沢藩は、仮にこの後新政府軍の進行を防げたとしても藩として存在する事は出来ないのですから、下関村を放棄した事は米沢藩にとって自殺行為だったと言えましょう。

      

左・中:展示公開されている渡辺家の内観。戊辰北越戦争の前半は米沢藩兵が本営として色部長門や甘粕継成や斉藤篤信が、後半は薩摩藩兵の本陣として黒田清隆や村田経芳がこの家を宿陣地としました。
右:薩摩藩兵の本陣にされた時期に、酔っぱらい暴挙に及んだ薩摩藩士によって柱についた刀傷。


榎峠攻防戦:八月十二日

 米沢藩にとって重要な下関村を捨て沼村方面に撤退した米沢藩兵は、下関村と沼村の中間に位置する難所の榎峠・鷹ノ巣峠に布陣します。ここまで連戦連敗の米沢藩兵ですが、この榎峠を突破されれば米沢藩領への侵入を許してしまうと、必死の思いで布陣します。また榎峠攻防戦に備えて米沢本国から3個小隊(斉藤新右衛門隊・山崎貢隊・関谷忠右衛門隊)が援軍として到着します、実はこの頃米沢藩本国では中越戦線から撤退していた米沢藩兵の主力部隊を再編成し、各藩境防衛の為に再度出兵させていたのですが、この3個小隊はその先発隊だったと思われます。

 話は脱線しますが、ここで七月二十九日の第三次長岡城攻防戦で敗退した後の米沢藩兵主力部隊のその後を書かせて頂きます。七月二十九日の第三次長岡城攻防戦で敗れ、また新政府軍別働隊の太夫浜上陸を知った米沢藩兵主力は、越後出兵時の米沢街道を介した米沢本国への撤退は不可能と判断し、友軍を見捨て会津藩領に通じる八十里峠に入ります。八十里峠に入った米沢藩兵主力は傷病兵など一部を除けば、盟友として中越戦線で共に戦いながらも、米沢藩兵に援軍を要求し続けて自分達は殆ど前線に出兵しなかった会津藩の鶴ヶ城城下町には立ち寄らず、一目散に米沢本国目指し撤退します。
 この強行軍の甲斐あってか、八月六日から七日に掛けて米沢藩兵主力は米沢城城下に到着します。この城下到着後、米沢藩本庁は一旦各部隊を解散させ、兵士達をそれぞれの家に帰宅させ英気を養わせます。
 こうして兵士達を帰宅させた米沢藩庁でしたが、その間にも米沢藩にとって悲観的な報告が次々に入ってきました。まず再び長岡城が新政府軍に奪回され、中越戦線が崩壊した日と同じ二十九日に同盟軍にとって重要な武器補給地であった新潟が陥落し、米沢藩総督の色部長門が戦死した報告が入ります。更に同じ二十九日に新政府軍の白河口軍と平潟口軍の攻撃により二本松城が陥落した報告が入ります、これにより米沢藩と隣接の福島藩が、かつて仙台藩と共謀し新政府軍参謀の世良修蔵を謀殺した事で新政府軍に報復される事を恐れたのか、動揺した福島藩藩主一向は米沢藩に亡命して来たのです。
 かくして越後方面だけではなく、福島方面にも危機が迫ったと判断した米沢藩庁は帰国した主力部隊を再編成し、藩境防衛の為に越後方面と福島方面に出兵させる事を決意し、越後方面軍は八月十四日、福島方面軍は八月十七日に出兵します。

 このような援軍の情報は沼・榎峠に布陣する米沢藩兵にも伝わっていたと思われ、この援軍が来援するまで榎峠のラインで新政府軍を防ぐ為に布陣します。実際榎峠が最終防衛ラインと言うのは前より決まっていたらしく、榎峠山頂付近の断崖絶壁に本道を側面射撃出来るように構築された陣地が築かれていました。
 かくして榎峠等に布陣した米沢藩兵ですが、その陣容は榎峠には山崎貢隊と泉沢伝右衛門隊が、榎峠東方で沼本陣の北東の片貝に斉藤新右衛門隊が、藩境の八ヶ谷に細谷十左衛門隊と豊野金七隊が布陣します。また詳細は不明ですが沼村の本陣にも数小隊が布陣していました。

 このように榎峠等を最終防衛ラインとして布陣した米沢藩兵でしたが、新政府軍の米沢方面軍は八月十二日払暁から攻撃を開始します。新政府軍はこの攻撃でまず米沢街道を進軍して榎峠を攻撃する本道軍と、榎峠を南方に迂回して沼村本陣の後方を遮断する右翼軍、そして荒川を渡河して荒川沿いに東進し片貝の対岸まで出る左翼軍の三つに分かれ進軍します。更にその本道軍は榎峠と言う山道では大兵力を展開出来ないので、本道軍を第一陣・第二陣・予備隊の三段階に分けて攻撃を行う事に決します。
 この新政府軍の攻撃の布陣は以下の通りです。
〇本道軍
 第一陣:徴兵十二番隊・芸州藩兵2個小隊と大砲2門・新発田藩兵1個小隊
 第二陣:薩摩藩外城一番隊半隊・長州藩千城隊七番隊半隊
 予備隊:薩摩藩外城一番隊半隊・長州藩千城隊七番隊半隊
〇右翼軍
 芸州藩遊撃隊半小隊・岩国藩建尚隊1番隊半小隊(綿貫小平次指揮)
〇左翼軍
 芸州藩遊撃隊半小隊・岩国藩建尚隊1番隊半小隊(栗原主計指揮)

 以上の編成で新政府軍は攻撃を開始します、右翼軍と左翼軍は荒川を渡河したり山間部を突破するなど難所越えをしないといけない為、まず米沢街道を進軍する本道軍が鷹ノ巣峠を超えた後に米沢藩兵と接触します。榎峠に到着した本道軍第一陣の徴兵隊・芸州藩兵・新発田藩兵は米沢藩兵に攻撃を開始しますが、この地を死守しようとする米沢藩兵は小銃に大筒果ては石までまで投げつけて防戦した為、山道を進まないといけない第一陣はこの米沢藩兵の攻撃に難儀し、中々突破する事は出来ませんでした。特に芸州藩の大砲の砲手が不在だった為、折角の砲撃力を生かせなかったのが突破できない要因でした。
 この戦況に憤慨した薩摩藩外城一番隊隊長の村田経芳は、外城一番隊を前進させると共に自ら芸州藩の大砲を操り支援砲撃を開始します。これまで善戦を続けていた米沢藩兵ですが、これは新政府軍からの砲撃が無かった為、高所を押さえる米沢藩兵が有利な戦いが出来たからなのですが、村田が大砲を操り砲撃を開始するとその優位は崩れ始めます。
 更に外城一番隊や千城隊七番隊は山道を進まずに直接坂を登り山頂を目指します、山頂の陣地で勇戦していた米沢藩兵でしたが、犠牲を恐れず人海戦術で道無き坂からも攻め登ってくる新政府軍の攻撃を支えきれず、遂に陣地を放棄して敗走します。
 こうして榎峠山頂を占拠した新政府軍ですが、それに満足せずに一気に坂を駆け下りてそのまま追撃を開始します。この新政府軍の追撃は凄まじく、榎峠から降りても追撃を辞めずに沼村の米沢藩兵本陣に攻めかかります。この沼村本陣の危機を知った片貝の斉藤新右衛門は、自分の率いる小隊を率いて沼本陣に駆けつけ新政府軍と交戦します。この斉藤の小隊は装備の劣悪な他の下越戦線の部隊と違い、全兵ミニェー銃装備の優良な装備の部隊でしたが、新政府軍の猛攻を食い止める事は出来ず、遂に隊長の斉藤は討ち死にし沼村の本陣も陥落します。更に新政府軍は追撃を続け片貝も攻め落とした為、米沢藩兵は八ヶ谷を超えて米沢藩領に逃げ込みます。
 このように本道軍の猛攻によって米沢藩兵の防衛ラインを突破した新政府軍ですが、本道軍の猛攻に対して難所を進軍する右翼軍と左翼軍は両軍とも戦闘には間に合いませんでした。この右翼軍と左翼軍が間に合わなかった事に対して次のような逸話があります。
 戦闘に間に合わなかった事に対し村田が岩国藩兵の隊長(綿貫か栗原かは不明)に対し、何故遅れたのかを尋ねた所、その隊長は「進軍していたら巨大な蜂の巣が有り、これを迂回していた為遅れた」と答え、皆で確かに米沢兵より蜂の方が怖いと笑いあったと言う逸話があるのですが、成否はともかく新政府軍の米沢方面軍が米沢藩兵をどう見ていたのかの参考になるかと思います。

      

左:大石川対岸から見た鷹ノ巣峠
中:榎峠山頂に米沢藩兵によって構築されたと思われる陣地跡
右:榎峠途中に建つ米沢藩兵戦死者の「無名戦士の墓」

 かくして新発田藩の裏切りを知ってから、藩境防衛の為に主力軍が来援するまでに下越地方に展開する米沢藩兵が行ってきた遅滞戦術は悉く敗戦し、最終防衛ラインとした榎峠も陥落し、遂に米沢藩藩境まで追い込まれる状況となりました。この榎峠とその周辺の戦いが事実上米沢藩上杉家の最後の戦いとなったのです。
 このように藩境に追い込まれ、その藩境に黒田清隆率いる新政府軍の米沢方面軍が迫ると言う絶望的な状況となった米沢藩ですが、一つ光明があったのは前述の通り中越戦線から撤退してきた米沢藩の主力軍が再編成を終えて、越後方面に出兵してきたのです。
 この越後方面軍の参謀は甘粕継成斉藤篤信、かつて中越戦線で新政府軍と三ヶ月近くも激戦を交わした歴戦の将二人が再び指揮を取る為に来着しました。更にこの二人の旗下の大隊長として横山与一香坂勘解由のこれまた中越戦線で戦った歴戦の勇将が入ります。確かに斉藤や甘粕も率いて部隊も中越戦線で敗北しましたが、戦歴では下越戦線に展開した将兵とは比べ物にならない豊富な軍勢だったので、榎峠攻防戦に敗れて遅きに失した感はありますが、以降はこの甘粕と斉藤率いる軍勢が藩境防衛の為に布陣します。


米沢藩降伏す 〜毘の軍旗が敗れる時〜

 榎峠攻防戦で敗れ、遂に藩境まで追い詰められた米沢藩ですが、藩境である大里峠から藩内に入った最初の集落である玉川村に藩境防衛の為の本陣(米沢藩は「軍政府」と称していました)を設け、その主将に元々下関本営で新政府軍と戦った長尾権四朗を命じ、上記の通り中越戦線から帰還した斉藤篤信甘粕継成を参謀に命じます(実際に玉川本陣を運営してたのは斉藤と甘粕の模様)。かくして長尾・斉藤・甘粕の三人が率いる玉川本陣が開設され、大里峠に陣地を設け藩境防衛の体制を取ります。
 この玉川軍政府がいつ開設されたか詳しい日にちは判りませんが、八月十七日には大里峠を守る大隊長香坂勘解由から陣地構築についての進言が玉川本陣にされているので、最低でも十七日には玉川本陣は運営されていたと思われます。
 ところで米沢藩の藩境防衛は玉川本陣の越後方面だけではなく、七月二十九日に二本松城が陥落、これを受け福島藩藩主が米沢藩に逃げ込んで来た事もあり、新たに福島方面にも出兵する事を決意、宮島三河率いる大隊が派遣され、藩境を越えた最初の集落である庭坂村にも本陣を設けます。

 このように越後方面と福島方面の守りを固めた米沢藩ですが、この頃から新政府軍は米沢藩を恭順させる工作を始めます。
 まず八月一八日に白河から二本松に総督府を移した会津追討白河口総督府(東山道先鋒総督府)の谷千城片岡健吉伴権太夫の土佐藩幹部三人の連盟による米沢藩に恭順を勧める書状が、土佐藩士沢本守也により庭坂本陣に届けれます。米沢藩と土佐藩が婚戚関係と言う事もあり、この谷を始めとした土佐藩幹部三人の恭順を進める書状は米沢藩首脳部の心を揺さぶったと見え、越後奪回の野望が費え、戦況が絶望的になった事もあり、この書状により米沢藩は新政府軍への恭順へ傾き始めたと思われます。
 こうして新政府軍への恭順に傾いた米沢藩庁は、まずは共に奥羽越列藩同盟の盟主である仙台藩に相談する為に、八月二十日参政木骨要人と役所堀尾保助を仙台藩に派遣します。木骨等は二十三日に仙台藩領に到着すると執政坂英力等と会談し、二十六日に坂と共に仙台城を訪れ、執政石母田田島遠藤主税と会談し、米沢藩が新政府軍への恭順に傾いてる旨を伝え仙台藩もこれを了承します。仙台藩の理解を得た木骨等は帰国しますが、この米沢藩が新政府軍への恭順を考えていると知った仙台藩もこの頃から新政府軍への恭順に傾き、後日新政府軍に恭順する事となります。
 このように仙台藩へ使者を送った翌日の二十日、二本松総督府(会津追討白河口軍と会津追討平潟口軍の一部の合同部隊)の新政府軍は板垣退助伊地知正治両参謀の指揮の元、会津藩境の母成峠に進軍を開始、大鳥圭介率いる守備軍を撃破すると、そのまま会津藩領に侵攻します。この板垣と伊地知両参謀率いる新政府軍の勢いは凄まじく、母成峠から鶴ヶ城城下へ至る要所の猪苗代城を守る会津藩兵は、この勢いの前に抗戦する事無く猪苗代城を放棄して逃走します。
 この母成峠陥落と猪苗代城自落の報は、会津藩境集落の網木の庄屋大川孫四朗により二十二日には米沢藩庁に伝えられ、米沢藩庁に動揺が走ります。実際翌日の二十三日には米沢藩庁の千坂高雅から玉川本陣の長尾・甘粕・斉藤に書状が届けられるのですが、その書状は「新政府軍が会津鶴ヶ城城下に殺到し、会津藩はもはや滅亡寸前」「会津と仙台に騙された、列藩同盟参加は失敗だった」「猪苗代城の陥落により藩境の網木に危機が迫ったので、玉川本陣の戦力を少しで良いから網木に送ってほしい」等の泣き言に溢れた内容でした。またこの書状で千坂は甘粕に米沢藩庁に帰還して欲しい旨を伝え、これを受け甘粕は玉川本陣から米沢藩庁に帰還します。
 また話は少し遡りますが、二本松から出撃した新政府軍が母成峠を突破した同じ二十一日に大里峠を守る横山与一の陣地に下関の豪商渡辺利左衛門が密使として訪れます。横山は渡辺を玉川本陣まで護送し、この地で待つ長尾・甘粕・斉藤に渡辺は芸州藩隊長寺本栄之助から託された恭順を勧める書状を渡します。上記しましたが利左衛門の自宅は芸州藩の本陣として接収されていたと言う縁もあり寺本と親交があった模様で、旧恩ある上杉家を救いたい利左衛門の心意気に打たれた寺本が、恭順を勧める書状を送ったと思われます。また同日同じく下関在陣の薩摩藩外城一番隊隊長の村田経芳からも恭順を勧める書状が玉川軍政府に届けられます。

 このように二本松方面の新政府軍と、下関方面の新政府軍の双方から恭順を勧めれた米沢藩庁は、甘粕も加えた二十四日の会議で正式に新政府軍への降伏を決定、同日大滝新蔵杉山盛之進の両名に恭順したい旨の書状を持たせ二本松の総督府へ向かわせます。これにより新政府軍とこれ以上無意味な戦闘を行わないよう玉川本陣に降伏に決した旨の書状を送ります。そして新政府軍に降伏すると決した米沢藩庁は、この日会津藩との藩境を封鎖、元桑名藩主松平定敬など例外を除けば、大鳥圭介や藩主を追ってきた桑名藩士等の入国を阻むようになります。
 翌二十五日の午後には市川と杉山は二本松に到着しますが、谷や片岡などの土佐藩幹部は会津鶴ヶ城攻撃に向かっており二本松には不在だったので、谷や片岡の土佐藩幹部に頼ろうとしていた市川と杉山は途方にくれます。しかし幸いにして米沢藩の遠縁に当たる高鍋藩の阪田潔岩村虎雄の二人が米沢藩に恭順を勧める為に二本松に来ていた為、二人の斡旋により参謀渡辺清と面会し、市川と杉山は渡辺に米沢藩の恭順を認めてほしい旨の嘆願書を差し出します。この面会で渡辺は米沢藩からの嘆願書を受け取り、米沢藩の意思を確認した上で太政官日誌二冊を二人に渡し米沢藩に帰藩させます。また阪田と岩村は米沢藩首脳部に恭順を勧める為に大滝と杉山に同行して米沢に向かいます。
 こうして阪田と岩村の二人と共に米沢に向かった大滝と杉山は翌二十六日には米沢藩に帰国し、渡辺からの助言があったかは判りませんが、下関に本営を置く新政府軍に恭順を求める使者を送り、二十八日に榎木峠攻防戦の際に米沢藩兵が本陣を置いた沼村で交渉を行うので出頭せよとの返事を返されたので、米沢藩庁の黒井小源太と玉川本陣の斉藤の両名が二十八日に沼村に出頭する事になります。

 かくして二十八日沼村に斉藤と黒井は出頭しますが、下関村の新政府軍はこの米沢藩からの恭順を求める書状を米沢藩からの謀略と疑っていたふしがあり、もし米沢藩が不穏な態度を見せたら一気に大里峠を突破して米沢藩領に攻め込む布陣をして沼村での会談に望みます。この二十八日の新政府軍の布陣は史料が少ないのですが、新発田藩の史料によると以下の通りです。

 本道軍先鋒:土佐藩兵1個小隊・新発田藩兵1個小隊・芸州藩大砲2門
 本道第二陣:徴兵隊十二番隊・長州藩千城隊七番隊・芸州藩兵1個小隊
 左翼軍先鋒:芸州藩兵2個小隊・新発田藩大砲2門(片貝まで進出)
 左翼軍二陣:土佐藩兵1個小隊(上川口まで進出)
 右翼軍先鋒:芸州藩兵1個小隊・新発田藩兵1個小隊・新発田藩大砲1門(上川口まで進出)
 右翼軍二陣:新発田藩兵1個小隊
 下関村待機:新発田藩兵1個小隊

 上記の布陣で会談に臨んだ模様の新政府軍ですが、実際には沼村には斉藤と黒井の二人だけで出頭してきたので、新政府軍から薩摩藩代表の村田と芸州藩代表の寺本、そして長州藩代表の奥平謙輔の三人が会談に臨み、その席で嘆願書を差し出した斉藤と黒井に対して村田・奥平・寺本の三人は、九月四日までに藩主父子いずれかの新発田総督府までの出頭と、藩境守備部隊の解散と藩境沿いの諸陣地の破却するように命じます。これを受けた黒井は米沢本庁に帰り、新政府軍の要求を伝えます。
 これを聞いた藩主上杉斉憲は九月一日に本丸を出て、支藩藩主の居住に使われていた三の丸に入り謹慎の姿勢を取ります。また斉憲は自分だけでなく、同じ一日に全藩士に謹慎するように命じます。
 そして二日、家老毛利上総・木骨要人・小川源太郎等は高鍋藩の阪田を伴って正式な降伏の使者として新発田の総督府に向かいますが、その途中の下関村で村田達と面会した際「藩主は出頭しないのか」と詰問されます。これに対し毛利と木骨は「藩主は他の奥羽列藩諸侯に、共に官軍に恭順するよう説得中なので、藩主父子の出頭には猶予を頂きたい」と弁明しますが、村田から「本気で謝罪する気があるなら七日までに出頭しろ」と一喝されたので、木骨は慌てて村田の伝言を伝える為に米沢藩藩庁に帰還します。こうして木骨は帰還しましたが、残りの一向はこの下関の地で新政府軍軍曹の岩村高俊(軍監から軍曹に降格)が加わり新発田総督へ向かいます。こうして三日に到着した毛利等は、同日新発田総督府に出頭し藩主斉憲からの嘆願書を提出します。
 一方帰還した木骨より村田からの叱責を知った米沢藩庁は、五日に世子の上杉茂憲が家老竹俣美作等を伴い新発田総督府に出発、八日に新発田に到着し総督府に謝罪を行い、翌十日に総督府に嘆願書を提出した事により、この十日に正式に米沢藩の降伏が総督府に認められたのです。

 こうして新政府軍に謝罪降伏した米沢藩ですが、降伏した米沢藩に対し新発田総督府は直ちに会津藩と庄内藩討伐の為の先鋒軍を出兵させる事を命令します。更に新発田総督府はこの米沢藩を会津藩及び庄内藩討伐の拠点にする為に、新発田総督府に駐留する戦力と、下関村等の米沢藩討伐の為に下越地方に展開する新政府軍に米沢藩への進軍を十日に命令したので、次々と新政府軍は米沢藩に向かい最終的には十二日までには、参謀の黒田率いる下記の戦力が米沢城城下に到着します。

薩摩藩兵9個中隊相当:城下士小銃十番隊・外城一番隊・同三番隊・番兵二番隊・兵具方二番隊・同三番隊・私領四番隊・遊撃隊二番隊・諸組遊撃隊及び砲兵隊
長州藩兵2個小隊:千城隊七番隊・同八番隊
土佐藩兵2個小隊
芸州藩兵3個小隊
徴兵隊十二番隊
尾張藩兵3個小隊
小倉藩兵3個小隊
新発田藩兵4個小隊

 かくして戦国の時代には川中島で武田信玄の軍勢と互角に戦い、北条氏庚を小田原城に追い詰め、天下布武に向かって突き進む織田信長とその軍勢を加賀手取川で完膚なきまで叩き潰すなど、常に周囲に武威を示し、関ヶ原の敗戦の時でさえも他国の兵を一度たりとも城下に足を踏み入れさせる事の無かった上杉家の城下に、明治元年九月十一日から十二日にかけて初めて他国の軍勢が足を踏み入れたのです。
 こうして幾多もの伝説を作った上杉家の象徴とも言える「毘の軍旗」は、明治新政府軍の前に敗れ去り、この日をもって米沢藩上杉家の戊辰戦争は事実上終わりを告げたのです・・・。


米沢藩のその後 〜会津藩・庄内藩討伐軍の進発と戦後処理、そして米沢藩の消滅〜

会津藩討伐軍の進発と、米沢藩の対会津藩降伏工作
 上記の通り九月十二日に米沢城下に到着した新政府軍の米沢方面軍を率いる黒田清隆ですが、到着後黒田はこの米沢方面軍を二つに分け、一方を会津鶴ヶ城を包囲する新政府軍(会津追討白河口軍・同平潟口軍・同越後口軍)の援軍に向かわせ、残りを庄内藩討伐に向かわせる事を米沢方面軍に指示します。これを受け十三日にまず会津藩討伐軍が米沢城下より会津鶴ヶ城に向け進軍を開始したのですが、その軍勢は以下の通りでした。

薩摩藩兵:外城一番隊・私領四番隊・諸組遊撃隊、以上3個中隊相当
長州藩兵:千城隊七番隊・同八番隊:以上2個小隊
土佐藩兵:2個小隊
芸州藩兵:3個小隊
徴兵隊十二番隊
尾張藩兵:2個小隊
小倉藩兵:3個小隊
新発田藩兵:2個小隊

 以上の軍勢が会津鶴ヶ城に向かったのですが、十四日の夜黒田は上記の軍勢が用いる十日分の食料及び草鞋七万五千足の供出を米沢藩に命じます。しかもこの期限は翌十五日までに用意しろとの命令だった為、武士町民に関わらず米沢城下の者は徹夜で草鞋を作ったと伝えられます。更に人夫1500人の供出も命じられるなど、米沢藩は恭順を許されたとは言え新政府軍の過酷な命令に晒される事になるのです。
 また物資の供出だけでなく、黒田は米沢藩に鶴ヶ城攻撃部隊の進軍を命令していたので、これを受け大井田修平横山与一の二人の大隊長率いる2個大隊が先鋒として十一日には鶴ヶ城に向け進軍を開始していました。尚、この2個大隊は斉藤篤信が参謀として指揮に当たりました。

 かくして白河口軍・平潟口軍・越後口軍に包囲される会津鶴ヶ城に、米沢方面軍及び米沢藩兵2個大隊も到着したのですが、恭順したばかりの米沢藩としては新政府への点数稼ぎの為にも功績を立てなくてはいけないので、斉藤は薩摩藩外城一番隊隊長の村田経芳に鶴ヶ城攻撃の先鋒を願い出ますが、既に会津鶴ヶ城落城は時間の問題でどこの藩も功績稼ぎの為にも必死に戦っている状況の中で、ついこの前降伏したばかりの米沢藩に功績の機会を譲るようなお人良しの藩は無く、また米沢藩兵の能力を評価していない村田はこの斉藤の申し出を却下します。このように先鋒としての功績を上げれなくなった以上、他に新政府への功績を上げる方法として斉藤は会津藩を恭順させる為の工作を開始します。
 このように鶴ヶ城城下に布陣しつつ会津藩への恭順工作を行う米沢藩兵でしたが、恭順工作を行う間にも米沢藩は新政府軍二本松総督府及び米沢方面軍より物資の供出を命じられます。この供出は米・味噌等の食料や草鞋等に留まらず、果ては野営の為の蝋燭まで及びます、ただでさえ自軍の出陣に米沢城下での物資供出で疲弊していた米沢藩ですが、この度重なる新政府軍からの物資供出命令は米沢藩に更なる負担を強いる事になります。新政府軍への降伏を許されたものの、米沢藩の苦難の道は続く事になります。

 一方の会津藩も開戦前こそ新政府軍を利根川の東岸に追い落とすと豪語していましたが、いざ戦火を交えてみたら連戦連敗、あげくの果てが油断を突かれ城下に新政府軍の侵入を許し、その際避難指示の不手際で婦女子や傷病者に多大なる犠牲者を出すなど良い所無しの状態で、しかも鶴ヶ城を十重二十重に新政府軍に包囲され、間断無しに砲撃を撃ち込まれるに至って、遂に会津藩も新政府軍に降伏する事を決意。こうして米沢藩と会津藩双方の利害が一致した事により、両者は交渉に入り始めます。
 元々会津藩が新政府軍への降伏を決意したのは、話を遡る九月上旬に会津藩が米沢藩に援軍を求める使者を送ったのが始まりで、その際既に米沢藩が新政府軍への恭順を決めたのを知り、もはや援軍を得る事が出来ないと認識したのが始まりと伝えられています。その後細々と会津藩と米沢藩の間で交渉が行われていましたが、鶴ヶ城が新政府軍に完全に包囲され日夜を問わず砲撃を行われるに至り藩主松平容保以下会津藩首脳部も遂に降伏を決意し、九月一八日に秋月悌次郎手代木直右衛門等の使者が米沢藩兵の本営を訪れ、斉藤に対し新政府軍への恭順の仲介を要請します。これを受けた斉藤は白河口参謀板垣退助に「会津藩が恭順の使者を送ってきた」旨を伝え、この後は会津藩−米沢藩−土佐藩のラインで交渉が続けられ二十二日正式に会津藩は新政府軍に降伏し、これにより一ヶ月近く続いた鶴ヶ城攻防戦は終わりを遂げたのです。


庄内藩討伐軍の進発と、米沢藩の対庄内藩降伏工作
 こうして、さしたる障害も無く会津藩の降伏工作は成功しましたが、もう1つの目標である庄内藩への降伏工作は難儀しました、これは会津藩と庄内藩の勢いの差が大きかった為でした。会津藩が開戦時の威勢こそ良かったものの、いざ戦争が始まると連戦連敗、良い所無しで最後は鶴ヶ城に追い込まれ、鶴ヶ城の防御力のおかげで一ヶ月近くは戦えたものの、最後は新政府軍に無条件降伏したのに対し、庄内藩は正規軍4個大隊と支藩及び同盟軍の3個大隊相当を加えた計7個大隊相当で新政府軍に逸早く恭順した秋田藩目指し侵攻を行い、新政府軍を何度も破った末に米沢藩が降伏した時点では秋田藩の居城久保田城まで20キロ余まで侵攻するなど、会津とは違い新政府軍に対して優勢な戦況だったので、鶴ヶ城に追い込まれた会津藩とは違い、とても米沢藩の恭順勧告を素直に受け入れる状況ではありませんでした。
 また庄内藩は会津藩と違い領民の支持を受けていたのも、この状況に拍車をかけていました。会津藩が自領他領問わず領民から搾取と略奪を欲しいままにしていた為、自領他領問わず民衆から憎まれていたのに対し、庄内藩は税が安かった事もあり領民から支持されていたのも、庄内藩が戦いに専念出来た理由の一つでもありました。しかもただ領民から支持されていただけではなく、農民町人問わず志願兵が殺到したので、これにより会津藩とは違い庄内藩は士気の高い農兵を得る事ができました。

 それでも米沢藩が正式に降伏する前より庄内藩に使者を送り新政府軍に恭順を勧め、これを受けた庄内藩の石原多門が米沢を訪問し、家老千坂高雅より米沢藩の降伏と新政府軍への恭順を告げられるに至って庄内藩首脳部も遂に新政府軍への降伏を決意します。今まで連戦連勝破竹の進撃を続けた庄内藩兵ですが、これは庄内藩の背後の安全が保たれていたからこそ主力部隊を惜しげも無く秋田方面に投入出来たのですが、越後全土が新政府軍の手に落ち、米沢藩も新政府軍に恭順した以上は庄内藩の背後の安全は崩壊し、とても主力部隊全軍を秋田方面に投入するなど不可能な状態となりました。また幾ら庄内藩が強兵と言っても庄内藩一つで日本全国を敵に回すなど不可能なので、米沢藩からの勧告を受け庄内藩首脳部もようやく降伏を決断したのです。
 このように新政府軍への恭順に決した庄内藩首脳部ですが、首脳部が降伏に決したと言ってもいざ前線で戦っている将兵達は新政府軍に対して優勢な戦いを行っていたので、庄内藩藩庁からの降伏指令などとても受け入れる事など出来ませんでした。この為庄内藩内の降伏工作は中々進みませんでしたが、秋田戦線の前線指揮官達も次第に戦況の変化を実感し始めていました。緒戦こそ弱兵の秋田藩兵や、戦上手の世良修蔵が死んだ為戦力の低下した奥羽鎮撫総督府軍別働隊相手に連戦連勝無敗を誇った庄内藩兵ですが、この米沢藩が降伏した頃は新政府軍も有力な援軍を秋田方面に送り、特に佐賀藩兵の働きもあって常勝軍である庄内藩兵の勢いをようやく防ぐ事に成功したのです。もっともこれは戦術で庄内藩兵を圧倒したのではなく、佐賀藩兵小銃隊のスペンサー銃による猛射撃と佐賀藩砲兵隊のアームストロング砲による猛砲撃、そして軍艦による艦砲射撃と正に銃砲弾を雨あられの如く叩き込んでようやく庄内藩兵の前進を阻んだのです。
 この佐賀藩兵を始めとした援軍により遂に前進を阻まれた庄内藩兵ですが、秋田久保田城の間近まで迫った庄内藩兵の士気は依然として高く、庄内藩庁からの帰還命令にも従いませんでした。しかし九月十五日の刈和野の戦いの際に奪った新政府軍の書状により、一番大隊長松平甚三郎と二番大隊長酒井玄蕃は米沢藩降伏を知ると、降伏した米沢藩に背後を襲われる危険性があると藩境防衛の為に全軍撤退を決意します。この辺の機を見るに敏さは庄内藩兵の指揮官達が単に猪突猛進な猪武者では無く、退く時には退く勇気のある優れた指揮官だと言うのを表していると思います。
 かくして全面撤退を決断した庄内藩兵でしたが、撤退前に新政府軍の追撃を防ぐ為に同十六日再び刈和野方面で新政府軍に攻勢を仕掛けます。この攻撃は庄内藩兵にとって決して満足のいく戦いではありませんでしたが、新政府軍の追撃を防ぐ事には成功し、これにより十七日未明より庄内藩兵は本国に向けて撤退を開始、新政府軍の追撃を受ける事無く本国に帰還したのです。

 かくして庄内藩兵の前線部隊が撤退した九月十七日の翌日の十八日、米沢城城下より黒田清隆率いる庄内藩討伐軍が庄内目指し進軍を開始します。この庄内討伐軍は庄内方面軍の内薩摩藩6個中隊相当(城下士小銃十番隊・外城三番隊・番兵二番隊・遊撃隊二番隊・兵具方二番隊・同三番隊)と砲兵隊の他は、米沢城下監視を命じられた尾張藩兵1個小隊と新発田藩兵2個小隊、そして先鋒隊として米沢藩兵(後述)と言う編成でしたが、薩摩藩藩の6個中隊相当を除けば会津方面に比べると小規模の軍勢なので、実質薩摩藩兵のみで庄内藩に攻め込む形で、ここからも薩摩藩の庄内藩に対する敵意の強さが伺えると思います。

 その庄内に向かった米沢藩兵の編成ですが、世子上杉茂憲率いる茂憲の親衛隊(馬廻集)と本庄昌長率いる1個大隊の混成部隊だったと思われます。またこの部隊の士官には参謀に甘粕継成、軍監には庄田総五郎が任じられます。
 尚、この米沢藩兵には軍監及び督戦隊として薩摩の宮川五郎と尾張藩1個小隊(隊長佐藤健三郎)が従軍しましたが、この宮川は相当傲慢な人間だったらしく、この宮川が行った傲慢な行為の数々が書状に記載されています。特に庄田から米沢藩庁の木滑要人充てに送られた書状には「世良(脩蔵)よりも(傲慢なのが)甚だしく」と書かれているからも、庄内討伐に向かう米沢藩兵の将兵が、この宮川に屈辱を与えられたのが伝わってきます。このように宮川に対する非難が書かれた書状が送られた一方で、尾張小隊の隊長佐藤に関しては「温厚な人物」と書かれ、また宮川と米沢藩兵の間にこの佐藤が入って調整していた旨も書かれた書状が送られていますが、これらの書状から庄内討伐に向かった米沢藩兵もまた、降伏を許されたとは言え苦労したのが伝わってきます。
 またこの庄内討伐軍の進発とは別に二十日、千坂高雅と大滝新蔵、そして高鍋藩士岩村虎雄(前月米沢藩に降伏を勧める為に米沢城下に来着以来、米沢城下に留まっていました)が庄内藩に降伏を勧告する為に出発します。

 このように硬軟両面で庄内藩に望んだ米沢藩兵と、その米沢藩兵が所属する米沢方面軍ですが、その成果は遅々として進みませんでした。上記の様に秋田戦線から主力部隊を撤退させた庄内藩首脳部ですが、未だ決定的な敗北を味わっていない庄内藩兵の将兵の士気は未だ高く、秋田戦線からの撤退もあくまで藩境防衛の為の撤退と捉えていたので、首脳部が降伏に決したと言っても将兵に納得するものは少なく、庄内藩の降伏工作もまた遅々として進みませんでした。
 また軍事行動の方もこれもまた目立った功績を挙げる事が出来ませんでした、米沢藩を通して庄内藩への降伏工作を進めていた黒田ですが、遺恨のある庄内藩を薩摩の手で討とうと薩摩藩6個中隊相当を率いて攻撃を仕掛けますが、強兵庄内藩兵と同じく強兵桑名藩兵(雷神隊・致人隊・神風隊の3隊は当時庄内藩に居ました)の守りを突破する事が出来ず、軍事行動の方も成果を挙げる事が出来ませんでした。

 こうして軍事・外交の両面で行き詰まった対庄内藩戦略に不満を持った黒田は、庄内藩への降伏工作を取りやめ、黒田率いる米沢方面軍、秋田の奥羽鎮撫総督府軍、そして越後から北上する福田侠平らが率いる庄内・村上方面軍による三面包囲攻撃により一気に庄内藩を攻め滅ぼそうと攻め滅ぼそうと画策しますが、大滝等米沢藩士達が庄内藩への説得工作を続ける事を懇願し、黒田もこの懇願を受け入れた為、米沢藩兵から庄内藩への降伏工作は続行されます。しかし米沢藩兵も新政府軍の庄内藩への一斉攻撃が行われた際に功績を挙げるために、会津討伐軍の指揮を取っていた参謀の斉藤篤信を庄内討伐軍に呼び、庄内討伐軍の指揮を取らせる事になります。かくして対庄内作戦の最終段階で甘粕と斉藤のコンビが復活し、大滝がその補佐に当たる事になります。
 このような新政府軍の一斉攻撃が行われる恐れのある中で米沢藩兵と庄内藩の間でギリギリの交渉が行われ、二十四日に大滝が庄内藩の居城鶴岡城に入り庄内藩首脳部と交渉を行い、翌二十五日遂に庄内藩は降伏に決します。大滝は庄内藩士を伴い同日黒田の元へ向かい、翌二十六日黒田の元に辿り着き庄内藩からの降伏の嘆願書恭順を差し出し、黒田がこれを受け入れた事により庄内藩の降伏が正式に認められます。
 この降伏の嘆願書を受理した黒田は旗下の部隊を率いて同日鶴岡城への進軍を開始、翌二十七日鶴岡城に到着し同地で藩主が黒田に謝罪し、同城を開城降伏した事により対庄内戦争は終結します。
 この後米沢藩兵は同二十九日に鶴岡城に到着し、戦後処理を終えた後米沢への帰還を開始し、十月二十日に米沢城下に到着、これにより長く続いた米沢藩の戊辰戦争は正式に終わりをつげたのです。


米沢藩の戦後処分
 この庄内藩降伏により奥羽戊辰戦争も終結し(厳密にはこの段階では南部藩の降伏交渉はまだ続いていましたが、戦闘そのものは終了していました)、戦乱の渦が遂に奥羽から去りました。しかし奥羽諸藩は戦争の恐怖からは開放されたものの、今度は明治新政府からの戦後処理の恐怖に晒される事になります。
 米沢藩は途中で新政府に恭順したため、会津や庄内や長岡の様に厳罰の心配はありませんでしたが、世評は徹底抗戦した会津や長岡や庄内には同情的だったものの、途中で新政府軍に恭順した新発田や秋田そして米沢には厳しかったので、米沢藩は宮島誠一郎等を東京(七月十八日に江戸から東京に名称変更)へ送り、明治新政府の動向を探らせます。長州の前原一誠や旧幕臣の勝海舟等の面識のあった宮島は「米沢藩の処罰は減封3万石が相当」との情報を得ますが、思ったより米沢藩への風当たりが強いのを知ります。この為宮島と家老中条豊前以下の在東京米沢藩士は協議の末、明治新政府に「奥羽諸藩の罪を一身に受けたい」と「箱館の榎本武揚脱走軍の追討軍参加を願いたい」の二点の建白書を明治新政府に提出する事を提案します。
 しかしこの二点の提案は米沢藩庁の甘粕継成等からは「奥羽戦争の疲弊も激しいのにまた出兵するなど無理だ」と不信感を表面され、奥羽戦争後も何かと米沢藩を助力してくれる高鍋藩・土佐藩の在東京藩士、更に勝海舟からも提出を考え直す様に助言されます。実際米沢藩が奥羽戦争の途中に新政府軍に恭順してすぐさま会津・庄内の討伐の軍を起こしたのは家名と所領の安堵を願ったからで、その米沢藩が今更「奥羽諸藩の罪を一身に受ける」と言うのは明らかに自己矛盾であり自己欺瞞に過ぎず、そんな見え透いた建白は辞めた方が良いと高鍋藩や土佐藩は助言したのですが、引っ込みがつかなくなった在東京米沢藩士は十二月四日に建白書を提出、しかしそんな建白書も空しく三日後の七日に新政府より米沢藩に「藩主斉憲の隠居、及び茂憲の家督相続」・「領土の内4万石の削封」、そして「反乱首謀者一名の処刑」を通告します。この処分は会津藩と長岡藩の「一旦領土没収」や仙台藩の「62万石から28万石に削封」に比べれば非常に軽い処分で、途中で新政府軍に降伏して会津と庄内に討伐軍を送った事を評価した戦後処分だと思われます。

 この新政府の処分に対し米沢藩の対応ですが、まず始めの「藩主斉憲の隠居、及び茂憲の家督相続」は問題なく実行し、続いての「領土の内4万石の削封」も当初米沢藩は僻地の献上を考えていたのに対し、新政府からは肥沃な下長井地方の削封を命じられた為藩内に不満が噴出しましたが、藩首脳部が何とか反論を纏め前述の二点の処理を進めました。しかし最後の「反乱首謀者一名の処刑」に関しては藩内は紛糾します。
 実は米沢藩は他の多くの奥羽諸藩で起こった藩内での尊王派対佐幕派と言った争いが無く、新政府軍との戦いを決めた際も主戦派のいざこざはありましたが、尊王派隊佐幕派と言った感情的対立はありませんでした。また新政府軍への恭順を決めた際も殆ど問題なく決まったと言う藩内で争いが無かった為、他の多くの奥羽諸藩のように戦後尊王派が佐幕派を処罰すると言う悲劇が起こらなかった反面、新政府から反乱首謀者を出せと言われても該当者を中々出せずに新政府から不信感を持たれる羽目になりました。当初は「反乱首謀者など居ない」と主張していた米沢藩ですが、新政府からの要求を拒否する事も出来ず一時は全権総督の千坂高雅を指名するかとの事態にもなりましたが、これまた高鍋藩士岩村虎雄の助言により既に新潟攻防戦で戦死した色部長門を反乱首謀者として報告することに決し、十二月二十二日に「該当者は既に死亡」と新政府に報告します。この報告を新政府も受理し色部家を家名断絶する事を命じて、これにより米沢藩の戦争処分は終了します。
 こうして米沢藩の戦後処分は終わりましたが、藩内には反乱首謀者とされた色部への同情が集まり、また藩主も申し訳ないと思った模様で、家名断絶となった色部の遺子が米沢藩の名家山浦家の養子となります。この山浦家は戦国時代に武田信玄に追われて越後に亡命してきた村上義清の遺子国清が養子に入った程の名家で、この名籍を遺子に継がせた事からも米沢藩上杉家が色部の犠牲により難を乗り切ったと言うのを藩主以下藩士の全てが実感していたと言うのが伝わってきます。

   

左:後年米沢城二の丸跡に建てられた色部長門の追念碑
右:米沢市窪田の千眼寺に在る色部家の墓所

米沢藩の戦後処理と版籍奉還
 こうして滅亡の危機を脱し、明治の世を生きる事となった米沢藩ですが、まだまだ苦難が訪れる事になります。何せ発足したばかりの明治新政府自体が「太政官と神祗官の並列による弊害」・「大蔵省の権力増大」・「皇族・公家・諸侯の政府からの追放」と試行錯誤と迷走を続けていた為、地方行政指示も一貫性が無かったので、朝敵藩としての汚名を返上しようと、明治新政府の動向を伺っていた米沢藩は藩政改革の出来ないまま明治2年の版籍奉還を迎える事になります。薩長土肥の建白に始まった版籍奉還ですが、米沢藩はこの版籍奉還を朝敵の汚名を返上する好機と捉え、この版籍奉還がそれまでの封建体制を崩すと自覚しつつも、藩主重臣会議の末に明治二年三月十四日版籍奉還を願い出ます。その後全ての諸藩から版籍奉還を受けた明治新政府は、政府が直接藩の政策及び人事に指示を出す「藩制」を十月から順次発布します。
 この版籍奉還と藩制を受け藩主は知藩事となり、藩の人事を大参事・権大参事・少参事・権大参事の簡略かつ能力重視とせよとの指示があったので人選を始めたものの、最も難航したのが大参事の人選でした。知藩事上杉茂憲以下米沢藩の要人達が大参事就任を願ったのは元家老千坂高雅だったのですが、北越戦争で自分の指導力の無さを自覚したのか大参事の就任を拒否、この千坂の拒否の為大参事の人選は揉めに揉め、ようやく元家老毛利上総(維新後は毛利安積と名乗ります)の就任に落ち着きます。こうして明治新政府の「藩制」の元で発足した米沢藩の人事は以下の通りです。

知藩事 :上杉茂憲
大参事 :毛利安積
権大参事:木滑要人・大滝新蔵・新保新
少参事 :庄田総五郎・小川源太郎・三猪清蔵・黒井繁邦・片山仁一郎・堀尾重興

 以上の顔ぶれに決した首脳部の元で組織を旧制を廃し、政治・民政・教育・会計・軍政・監察・聴訟・神祗等の各局を設けて藩政を運営します。また第二章でも書かせて頂いた米沢藩士の複雑な身分を、上士・下士・卒の3区分に簡略化します。これに伴い今まで複雑だった禄高を簡略するなど、米沢藩は新たな世を歩んで行く為の改革を行い、この藩体制で米沢藩は消滅の日まで歩む事になります。

 一方で戦中に活躍した甘粕継成斉藤篤信、そして戦後活躍した宮島誠一郎の三人は明治新政府の待詔院下局に勤める事になり、明治新政府の官員として新たな人生をスタートさせます。ただ甘粕は明治二年の暮れに若くして(38歳)病死し、その才覚を明治の世で発揮する事は出来ませんでした。また斉藤も後に米沢に帰り、米沢の地で郷土の師弟への教育者として晩年を過ごす事になります。こうして甘粕が病死し斉藤が米沢に帰る一方、米沢藩の大参事への就任を拒否した千坂は後に明治新政府に出仕し内務省で働く事になります。

 また維新後の米沢藩士の動向としては雲井龍雄の反乱未遂が挙げられます、これは明治新政府への敵対心を維新後も抱きつづけた雲井が、同じく明治新政府に恨みを抱く浪士達を政府の常備軍に入隊させ、入隊後政府から受理された武器を使って反乱を起こそうとしたものの、先に政府に察知され捕らわれの身となり、明治三年十二月二十六日に処刑された事件です。
 この雲井の反乱未遂については一部の会津贔屓の小説家等から「唯一米沢で士道を示したのは雲井だ」等の賞賛を浴びて、雲井が過大評価されている嫌いがありますが、この雲井を絶賛する人々は薩長土肥を中核とした明治政府に歪んだ怨念を抱いている会津観光史学の信徒達が殆どで、会津を倒した明治新政府を無条件に悪と決め付けているので、その悪の新政府に反乱を起こそうとした雲井を義挙の士と歪んだ歴史観でみなしている節があります。実際雲井の反乱未遂などは元治元年(1864年)の池田屋事変と同質の計画なのにも関わらず、雲井を絶賛する人々は雲井の計画は絶賛するものの、池田屋事変の尊攘派の志士達の計画は否定します。これは雲井の行動を支持する人があくまで薩長憎しの歪んだ歴史観から雲井の行動を絶賛してる何よりの証拠で、私としては雲井の計画など詩人の考えた稚拙なクーデター計画と明記せざるを得ません。詩人や煽動家としては確かに優れていた雲井ですが、失礼ながら実務的な才能には乏しかった様に思われます。

米沢市常安寺に建つ雲井龍雄の墓所

廃藩置県と米沢藩の消滅
 かくして明治政府の指導の元藩政改革を行い、新たな時代を歩み始めた米沢藩ですが、版籍奉還以降米沢藩は土佐藩の関係を益々強めていきます。最初は藩政改革について土佐藩の助言を仰いでいた米沢藩ですが、土佐藩が明治政府に対して意見を繰り返すようになり、それに伴い友藩と連携を強めるようになると、次第に土佐党とでも言うべき勢力が生まれるようになります。この土佐党とでも言うべき勢力は、土佐藩を筆頭に熊本藩・福井藩・徳島藩・彦根藩そして米沢藩と言った面々で、これら先進的な諸藩と深く交流する事により、米沢藩の藩政改革は進み、また廃藩への認識を持つようになります。この土佐党の勉強会を通じてもはや廃藩が避ける事の出来ないものと理解した米沢藩首脳部は、土佐党と共に明治四年五月十四日「朝権一定」と題した廃藩と政府改革要求の意見書を政府に提出します。その後も土佐党の連携は続き、「機密会」と称した会議を定期的に行う事になります。

 このように明治四年になると土佐党だけではなく、他の有識諸藩からも廃藩の意見が出るようになり、実際幾つかの藩が廃藩となるなど、時代は確実に廃藩に向かっていました。しかしこのような諸藩の連合勢力が求める廃藩案を、政府自体はあまり好ましく思っていなかったように思われます。発足当時こそ皇族や公家、諸侯などが影響力を持っていた明治政府ですが、大久保利通達の尽力により必要最低限以外の皇族や公家や諸侯は政府中枢部からは遠ざけられ、この明治四年の時点では薩長土肥を中核とした有能な藩士達が権力を握る超藩的な政府になっていました。その超藩的な政府としては未だ諸藩連合としての影響力を盾に主張する土佐党の廃藩案は好ましい物ではなかったでしょうし、斬新的の土佐党の廃藩案は受け入れ難かった模様です。
 そのようし有識の諸藩から廃藩の声が挙がる中、それらに先立とうとする政府より突如七月十四日廃藩置県が発表されます、土佐党が提案した廃藩案に比べて急進的な政府の廃藩案に米沢藩は不満を感じたでしょうが、土佐党諸藩との交流で廃藩がもはや避けれないと自覚していた米沢藩はこの廃藩置県を受け入れ、ここに米沢藩は長い歴史に終わりを告げ消滅したのです。
 こうして廃藩置県を受け入れた米沢藩は九月九日に前知藩事上杉茂憲が米沢を去って東京に向かいますが、その際多額の財産を払い下げして旧藩士達に残します。これは藩士一人づつに10両余もが行き渡る多額なもので、この他にも山林の払い下げ金17万両余で旧米沢藩士達の義社が設立され、その後の藩士たちの団結が強められる事になります。
 また在東京の宮島誠一郎等が大久保等の政府首脳部と懇意だった事もあり、廃藩後の米沢藩がそのまま置賜県になる事になります、当初は旧庄内藩と旧米沢藩の合併が政府の間で進んでいたので、この置賜県の成立は旧米沢藩士達にとっては喜ばしい事でした。更に初代置賜県令の高崎五郎、その後を継いだ本多親雄は共に宮島の知己で、県の官員も基本的に旧米沢藩士族を登用したので旧米沢藩士族は、他の諸藩の士族と比べれば穏やかな廃藩置県後を過ごせたと言えましょう。

 そして明治十一年四月旧米沢城の敷地内に斉藤篤信の筆による、戊辰戦争及び西南戦争で戦死した米沢藩士達を慰霊する招魂碑が建立されます。この招魂碑の建立は米沢藩参謀として米沢藩士達を率いて越後で転戦した斉藤の悲願だった模様で、この招魂碑の建立によってようやく斉藤の戊辰戦争は終わったのでしょう。そして当サイトの北越戦争の記事もこの招魂碑の建立で終わらせて頂きたいと思います。

      

左:米沢城跡に建つ、戊辰戦争と西南戦争で戦死した米沢藩士を慰霊する招魂碑
中:米沢市林泉寺に建つ戊辰(北越)戦争戦死者の墓碑
右:米沢市日朝寺に建つ、戊辰戦争で米沢藩総督を勤めた千坂高雅の墓碑

        

左:米沢市日朝寺に建つ、戊辰戦争で小隊長から参謀まで登りつめた斉藤篤信の墓碑
中:同じく米沢市常安寺に建つ、戊辰戦争で米沢藩参謀を勤めた甘粕継成の墓碑
右:米沢市照陽寺に建つ、米沢市照陽寺に建つ、戊辰戦争で米沢藩大隊長を勤めた大井田修平の墓碑


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主な参考文献(1章から6章まで通しで)

「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「復古記 第11〜14巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社
「新潟県史 資料編13」:新潟県

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「防長回天史 第6編上〜中」:末松春彦著
「山縣公遺稿 越の山風」:山県有朋著、東京大学出版会
「松代藩戊辰戦争記」:永井誠吉著
「芸藩志 第18巻」:橋本素助・川合鱗三編、文献出版
「加賀藩北越戦史」:千田登文編、北越戦役従軍者同志会

「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「甘粕備後継成遺文」:甘粕勇雄編
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「鬼大井田修平義真の戦歴」:赤井運次郎編
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「北越戦争史料集」:稲川明雄編、新人物往来社
「長岡藩戊辰戦争関係史料集」:長岡市史編集委員会編
「河井継之助の真実」:外川淳著、東洋経済
「幕府歩兵隊」:野口武彦著、中公新書
「戊辰庄内戦争録」:和田東蔵著
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「今町と戊辰戦争」:久保宗吉著、克誠堂書店
「新発田市史」:新発田市史編纂会編
「越後歴史考」:渡邊三省著、恒文社

参考にさせて頂いたサイト
越の山路様内「戦の地」
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

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