戊辰戦争時の軍事基礎知識その1
戊辰戦争時の部隊編成と戊辰戦争に使用された小銃

幕末の西洋軍事の導入と、部隊編成の変化

 幕末までの諸藩の部隊編成は、戦国以来の「〜衆」と言った部隊編成が主流でした。ところが幕末に馬関攘夷戦争と薩英戦争の二つの諸外国との戦いや、また幕長戦争で西洋軍制事の強さを経験すると、好むと好まざるに関わらず、諸藩も西洋軍制を受け入れざるを得なくなりました(幕府に関しては、いち早く西洋軍制を受け入れています)。これに従い幕府も諸藩も、部隊編成を西洋軍制の歩兵隊(小銃隊)を主力とした小隊・中隊・大隊と言った部隊単位となり、戊辰戦争もこの歩兵を主力とした部隊編成で戦いが行なわれる事になりました。ここではその部隊単位の規模について、簡単に説明させて頂きます。
 なお、この部隊編成はあくまで戊辰戦争当時の部隊編成ですので、現代の近代軍隊の部隊編成とは規模がやや異なる場合もありますが御了承下さい。
 また、西洋軍制の本家本元の欧州では当時「歩兵」「騎兵」「砲兵」の3つの兵科がありましたが、平野が多く道路網も整備された欧州とは違い、山岳地帯が多く道路網も未整備の多い当時の日本では騎兵と砲兵は運用が不向きのため、発達しませんでした。この地形の問題と、新政府軍が西国諸藩に出した軍令(後述)により、基本的に戊辰戦争は多数の歩兵(小銃隊)と少数の砲兵(注)の兵科で戦いが行なわれる事となります。
 注:砲兵が発達しなかった理由としては他にも「砲術の専門家の不在」「高額な維持費が必要」等が挙げれます、また逆説的な説明になりますが、大々的に砲兵を編成しようとしても、当時の貧弱な補給体制(そもそも兵站の概念が無かった)では少数の砲兵隊しか維持出来なかったでしょう。


戊辰戦争時の歩兵(小銃隊)の部隊単位

 まず、戊辰戦争時の歩兵(小銃隊)の基本部隊単位となったのが小隊で、藩によって構成人数は違いますが基本的に30人〜50人程で1個小隊が構成されていました。また藩によってはこの小隊を2つに分け、半小隊として運用した藩もありました。
 続いて中隊は、一般的には2個小隊によって構成されます。ただ、戊辰戦争時は部隊単位の基準が曖昧なため、藩によって薩摩藩や会津藩の様に実質中隊規模の編成(2個小隊規模)なのに小隊と呼称していた藩もありました。このため、当サイトでは中隊規模の小隊編成をしていた藩の兵は「中隊相当」と表記させて頂いています。
 次の大隊は近代軍隊では2〜6個中隊を以って構成されるのが通常です。ただ、戊辰戦争の際に、このような小隊・中隊・大隊と明確な部隊編成をしていたのは幕府歩兵くらいでした。幕府歩兵は2個小隊で1中隊を構成し、4個中隊で1個大隊を構成しています(「歩兵程式 大鳥圭介訳」より)。実際には小隊の次に大きな部隊単位を大隊としていた藩が多く、その際には藩により大隊の規模はまちまちですが、数小隊から十数小隊の範囲で1個大隊を構成していました。
 また近代軍隊では3〜4個の大隊により連隊が構成されるのですが、戊辰戦争で連隊編成がされたのは幕府歩兵のみしか存在せず、その幕府歩兵でも2個大隊で1連隊を構成するなど、近代軍隊の部隊編成とは異なっています。

 ちなみに近代軍隊では連隊より大きい部隊単位は旅団・師団・軍団・軍・軍集団の順で続くのですが、江戸城開城後に江戸を脱走した大鳥圭介率いる大鳥軍は、最盛期には前述の旅団規模(約三千人)の集団と言えましょう。

 基本的に戊辰戦争では、上記のように小隊・中隊・大隊の部隊編成で戦いが行なわれました。この小隊・中隊・大隊の部隊規模を把握して頂ければ、各戦いの動員兵力を大まかには把握して頂けると思います。


戊辰戦争で使用された小銃

 開国した事により、幕末には西洋流の部隊編成というソフトの軍事技術が国内に入ってきました。しかし幕末に国内に入ってきたのはソフトの軍事技術だけではなく、ハードの軍事技術である大量の西洋小銃も、大量に国内に流入してきました。この幕末の時期は世界史的にナポレオン戦争や南北戦争など世界的に戦争が頻発していた時期だったので、これらの戦いで使われて不要になった大量の小銃が世界の市場で飽和状態になっており、開国した日本に市場を求め、てこれらの大量の西洋小銃が日本に流入して来たのです。

 このため戊辰戦争では多種多様の西洋小銃が用いられて戦いが行なわれる事になりました。それらの西洋小銃について簡単に説明をさせて頂きます。

 まず戊辰戦争で使用された西洋小銃を分類すると、「前装滑腔銃」「前装施条銃」「後装施条銃」の三つに分けられ、後になるほど高性能の銃となります。
 まず前装滑腔銃は、火縄銃と同じく、筒状の銃身から球形の弾丸を発射する構造です。実際戊辰戦争でも、東国では未だ火縄銃を使う藩が存在したものの、戊辰戦争で使われた滑腔銃ではゲベール銃が一番多かった模様です。

ゲベール銃
 ゲベール銃は内側に溝の切られていない(ライフリングされていない)筒状の銃身で、銃口から球形弾を装填しました。初期のタイプは火打ち石で、後期のタイプは雷管で点火した炎が、銃身内の火薬に着火して発射する構造でした。ただの筒から球形弾を発射するので、弾丸が直進しない事も多く、命中精度は高くなかった模様です。
 また、雷管で点火するタイプは不発も少なく、火縄銃とは違い、風が強くても発射出来ますが、銃口から弾丸と、むき出しの火薬を装填する構造のため、降雨時の使用は困難でした。


実際のゲベール弾

雷管について
 金属製のキャップの中に、衝撃を与えると発火する化合物である「雷酸水銀」を詰められた物。銃身内に繋がる穴が空いた部分に装着して使用します。前装銃は弾丸と火薬、そしてこの雷管が無いと使用出来ません

実際の雷管


 続いては、戊辰戦争で最も多く使用された前装施条銃です。前装施条銃が前装滑腔銃と決定的に違うのは、銃身に溝(ライフル)を切っている事です。発射された弾丸は、この溝により進行方向に横回転を加えられて飛行するので、発射後は滑腔銃と比べて安定(直進)した弾道を描きます。これにより相手を狙って狙撃する事が可能な、画期的な発明となりました。
 よく戦国時代を描いたテレビドラマで、鉄砲隊が横一列に並んで射撃しているシーンはあります。これは火縄銃が発射後弾丸が直進しない場合が多いので、この欠点を鉄砲隊を密集させて射撃することにより命中率の悪さを数で補っていました。しかし、前装施条銃の発明により個々の兵士が狙撃することが可能となったので、兵士達が密集して射撃する必要がなくなり、個々の兵士が分散して射撃を行なう「散兵戦術」という新しい戦術が誕生したのです(その2で後述します)
 このように、前装施条銃の誕生により新たな戦術が生まれたのですが、球形弾を溝を切った銃身に装填するのは難しく、この球形弾を発射する前装施条銃は国内ではあまり普及しなかった模様です。余談ながら、この球形弾を発射する前装施条銃の代表格であるヤーゲル銃を会津藩は多数装備していました。

ミニエー銃 
 戊辰戦争の標準装備と呼べる小銃。前述のヤーゲル銃は銃身に溝(ライフル)を切った前装施条銃の誕生は画期的でしたが、装填しづらいという欠点がありました。この装填が困難との欠点を克服したのが、ミニエー銃です。内側に溝の切られた(ライフリングされた)銃身で、銃口から、銃口よやや小さい椎の実状の尖頭弾を装填する。尾部がスカート状になっており、ここに圧力栓と呼ぶべき栓がはめられていたのが特徴。後期のゲベールと同じく、雷管により点火した炎が、発射用の火薬に着火、爆発すると、この爆破の圧力により、圧力栓が弾丸内に押し込まれ、結果尾部のスカートが広がった状態で押し出される。そしてこの広がったスカートが、銃身内の溝に食い込み回転しながら発射されるので、球形弾のゲベールとは違い直進性の高い飛行をしました。このため有効射程距離も約400mと長く、また狙撃可能な距離も約100mと画期的な小銃でした。
 ただし銃口から、むき出しの銃弾と火薬を装填するのは、ゲベール銃と同じなので、降雨時の使用は、やはり困難でした。

 この使い勝手のミニエー弾の前装施条銃は、新政府軍・反新政府軍問わず両軍の主要小銃となり、戊辰戦争で最も多く使用されました。なお、当サイトではミニエー弾を発射するエンフィールド銃も、ミニエー銃と記述していますので、ご了承下さい。

   
左:実際のミニエー弾
右:ミニエー弾のスカート部に、装着された圧力栓


 こうして戊辰戦争の主要銃となったミニエー銃だったものの、戊辰戦争が進むに従い後装施条銃を装備する藩が増えてきます。

スナイドル銃
ゲベール銃にしろ、ミニエー銃にしろ、銃口からむき出しの火薬と弾丸を装填するのは火縄銃と同じでした。この為に降雨時の使用が難しいと言うのが、前装銃の欠点でした。これに対してスナイドル銃は弾丸・火薬・雷管が一つにパッケージング化されており、このパッケージング化された銃弾を、銃身の後方から装填しました。銃身の後方、つまり手元で銃弾を、それもパッケージングされた弾丸を装填する為、装填速度がミニエーよりも段違いに早いのが特徴です。また伏せなが銃弾を装填が可能だった事から、生存性も高い特徴を持っています。更に火薬がパッケージングされている為、降雨時にも使用出来る画期的な小銃でした。会津戊辰戦争の戸ノ口原の戦いは、雨上がりで行なわれましたが、前装滑腔銃を装備する白虎隊を、スナイドル銃を装備した薩摩藩兵が圧倒している事からも、後装施条銃の優位性が判ります。

   
左:実際のシャスポー弾と紙薬莢
右:実際のスナイドル弾

 ところで、戊辰戦争について書かれた史料を読むと銃の前に「二ツバンド」「三ツバンド」と書かれている場合があります。これは同じ小銃でも銃身の短い、馬上用の二ツバンドの騎兵銃と、銃身の長い三ツバンドの歩兵銃を表しています。性能的には銃身の長い三ツバンドの歩兵銃の方が命中精度が高いものの、自分自身でニツバンドと三ツバンドを持った感想としては、当時の日本人の体系から考えて銃身の短いニツバンドタイプの方が使い易かったのではないかと推測します。

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