幕末時の諸藩の軍の近代化
その1で戊辰戦争時の部隊編成と戊辰戦争で使用された小銃について書かせて頂きました。しかし、小銃を持たせて小隊編成にすれば近代軍隊になる訳ではなく、そこから訓練を行って、ようやく近代軍と呼べるようになります。ところが、この西洋流の訓練を施すのが諸藩にとっては一苦労でした。当時の日本政府だった幕府は、外国から軍事顧問を招いて、訓練を行なうことにより西洋軍制化を目指しました。ところが、このように外国から士官を招くというのは、諸藩には不可能であり、諸藩は独自に西洋軍制の方法を模索せざるを得ませんでした。
独自に西洋軍制を目指す事となった諸藩だったものの、この西洋軍制の進み具合については西南諸藩で高く、東国諸藩では低いというのが実情でした。これは西南諸藩では外国の脅威を認識しやすいため、その危機感か西洋軍制化への意欲も高く、また西洋の脅威が高い反面、西洋から軍事理論を導入し易いとの利点もあるため、東国の諸藩より西洋軍制化に有利だったと言えると思います。また、東国諸藩は気候から西南諸藩に比べて豊かではなかったので、軍の近代化を行なう経済的余裕がなかったというのも、東国諸藩が西南諸藩より西洋軍制化が遅れた大きな理由だと思います。
このため、東国諸藩には小隊編成を取っていても、実際には戦国以来の身分による部隊編成をただ名前だけ小隊と呼称していた藩が多かったというのが実情でした。これは仙台藩・米沢藩・秋田藩・加賀藩等の戦国以来の藩に見られる傾向です。
戊辰戦争時の軍の運用について
散兵戦術について
当時の軍事先進国である欧州で、軍事の近代化から生み出された戦術が散兵戦術です。戊辰戦争でも西洋軍制化が成功した藩は、この散兵戦術を用いて戦いました。
その1の「戊辰戦争で使用された小銃について」で解説したように、滑腔銃の火縄銃を使っていた戦国時代は、その火縄銃の命中率の悪さを鉄砲隊を密集させて射撃する事により、その欠点を補っていました。しかし命中率の高い施条銃が輸入されるようになると、個々の兵士が狙撃可能になり密集して射撃する必要がなくなります。また密集した射撃は命中率の低さを補う一方で、密集して射撃する為逆に反撃を受けると一度に多数の犠牲が出るという欠点も有していました。
このため、施条銃を持った近代歩兵は密集射撃の戦術から、個々の兵士が散開して、それぞれ狙撃を行なう散兵戦術が用いられるようになります。この散兵戦術は個々の兵士が散開して攻撃するため、一度の反撃による損害も少ないというリスク分散の意味でも効果が大きい画期的な戦術でした。
効果的な散兵戦術だったものの、この散兵戦術は兵士に施条銃を持たせて小隊編成にすれば実行可能になるという訳ではなく、西洋流の軍事訓練を行なって初めて可能な戦術でした。ですので散兵戦術が可能だったかどうかがで、その藩の西洋軍制化についての指針になると言えましょう。
行軍方法及び戦闘展開
その1でも記述したように、当時の日本の道路網の整備は未発達でした。このため、一部の主要街道を除けばどの道も幅が狭く、行軍時は2〜4列程度の縦隊となり行軍せざるを得ませんでした。このように行軍時は縦隊編成で進軍する事となったものの、数十人ならともかく百人以上の縦隊となると、歩調を合わせて行軍しないと行軍速度も遅くなるので、歩調を合わせる手段として太鼓が用いられる事になります。よく戊辰戦争を扱ったドラマや映画で新政府軍が太鼓を打ち鳴らしながら行軍してるシーンがありますが、あれは別に伊達や酔狂で鳴らしているのではなく、歩調を合わせるための重要な手段でした。余談ですが、この太鼓を打つ鼓手も専門技術が必要なため、他藩の人間を雇い入れる場合もありました。
また、この行軍時の太鼓を必要以上に大きく打ち鳴らす事により、相手の注意を惹かせて陽動を試みるなどの策も用いられ、これは反新政府軍(奥羽越列藩同盟軍)の米沢藩が行なった記録が残っています。
こうして行軍時は縦隊編成で進んでいるものの、縦隊編成では射撃や突撃を行なえないため、一度戦闘となると射撃や突撃を行なえるように縦隊編成を崩して広がって布陣し、道路外に兵士が入れる余裕があれば道路外にも広がって布陣します。このように行軍態勢から戦闘態勢に移行する事を「展開」と呼びます。
ところで行軍態勢から戦闘展開する合図としてラッパを用いる軍勢もいたものの、ラッパを用いる軍勢は太鼓のみしか用いていない軍勢よりも、より西洋軍制化された軍隊と言えましょう。
戊辰戦争時の兵站
戊辰戦争時には近代軍隊の様に、総司令部の下に兵站組織が置かれるという事はなく、各諸藩が自前で兵站を実行していました。これは新政府軍も反新政府軍も同じで、食料や草鞋等の日用品に関しては各藩の担当が自藩から輸送ないし現金を用いて現地調達するという形でした(ただし新政府軍については、後日経費が支払われました)。また武器弾薬等は、佐賀藩の様に自藩で生産する能力が無い限りは輸入頼りとなり、前線に近い後方拠点に補給港があれば良いものの、そうではない限りは遠い後方から輸送する事となります。
その輸送方法は陸送と海上輸送の2種類があり、陸上輸送はその名の通り自藩ないし補給港から人足を雇って運びます。また海上輸送は自藩ないし補給港から船で運ぶのですが、一旦その戦線の後方拠点に近い補給港に陸揚げし、そこから後方拠点、更にその後方拠点から前線に陸送する事となります。この様に陸上輸送にしろ海上輸送にしろ、前線に送るには最終的には陸送するのですが、戦国時代の頃の軍隊は小荷駄隊といった輸送部隊を持っていましたが、戊辰の際は小荷駄隊を有していた藩は少なく、新政府軍・反新政府軍問わず各宿場に居る人足を雇うか、付近に人足が居ない場合は、周囲の農民や町民を徴発して物資を運ばせる事になります。
ところで、上記したように基本的に兵站は各藩の自己負担だったものの、新政府軍は時には後方の大藩や、降伏した藩に物資を供出させ、その物資を前線に配布する事もありました。
以上の様に戊辰戦争時の兵站の負担は諸藩が自己負担していましたが、大鳥圭介率いる大鳥軍のような故郷を持たない流浪の軍勢は、常に補給に悩む事になります。
*戊辰戦争時の兵站については、保谷徹著「戊辰戦争」が詳しいので、興味がある方はご参照ください。
戊辰戦争時の陣地構築
戊辰戦争の各戦いの多くは短期決戦で終わる事が多かったので(これは城郭攻防戦も同じ)、両軍が陣地に篭り長期間対陣するという事は少なく、戊辰戦争時の陣地構築は塹壕を掘って、その掘った土で塹壕の手前に胸壁を築くという程度が大半でした。
この塹壕は人が丸々隠れられる近代形式の塹壕とは違い、腰までの深さしか無く奥行きも兵士が交差する事は出来ない、近代形式の塹壕と比べれば小規模な塹壕でした。この腰までしか隠れない塹壕に入り、胸から顔までの高さに築かれた胸壁に隠れて射撃するというのが、戊辰戦争時の陣地戦でした。また市街戦では畳や米俵を積んで胸壁代わりする簡易陣地が設けられ、この簡易陣地を用いた陣地戦が行なわれました。
元々専用の工兵がほぼ皆無だった戊辰戦争時では、このような小規模な陣地や簡易陣地が大半だったものの、北越戦争や箱館戦争では本格的な陣地を構築して対陣した前線もありました。この陣地構築でも西洋軍事訓練を学んでいたかどうかは大きかった要素らしく、北越戦争で新政府軍の陣地を奪った同盟軍の兵士の、西洋流の新政府軍の陣地を見て感心した記述が残っています(同盟軍は農民を徴発して陣地を構築)。
新政府軍の組織及び役職について
「大総督府」や「東山道先鋒総督府」等の組織、「総督」や「参謀」等の役職がある新政府軍ですが、この新政府軍の組織及び役職について簡単にですが説明させて頂きます。ただし、この新政府軍の役職については曖昧な所もあり、私が勉強不足な事もあり、それぞれの上下関係について曖昧な所もありますが御容赦下さい。
はじめに戊辰戦争時の新政府軍の組織について説明させて頂きます、鳥羽伏見の戦いで思わぬ大勝利を得た新政府は、中国地方・四国・九州の西国を平定後に江戸の制圧を目指し東征軍を進発させます。この東征軍の最高司令部となったのが、大総督府(東征大総督府)であり、この大総督府の指揮下に各地域の制圧を目指した東海道・東山道・北陸道・奥羽担当の各総督府が入ります。
各総督府の戦力は、朝廷自身は十津川藩士による御親兵や、諸藩から差し出された徴兵隊以外は自前の軍事力を所有しないため、各総督府の軍勢は担当諸藩の軍勢により構成されていました。そして各総督府の指揮下に入った諸藩兵を、有力藩から選出された参謀や軍監(後述)が率いて戊辰戦争を戦う事になります。
総督
各総督府に一名のみ任命される、各総督府の最高指揮官で公家から選出される。ただし名目上の指揮官に過ぎず、実際の軍務は諸藩から選抜された「参謀」が握っています。
副総督
基本的に各総督府に一名のみ任命されますけれども、総督府によっては副総督が任命されない総督府もありました。総督と同じく公家から選ばれたものの、総督と同じくお飾りに過ぎなかった。
参謀
公家、または諸藩の藩士から複数が選出される、ただし公家出身の参謀は総督や副総督と同じく、ただのお飾りに過ぎず、実質各総督府の指揮権は諸藩から選出された参謀が握っていました。この参謀は名目的には出身藩から独立した存在で、超藩的な立場から諸藩兵に対する絶対的な命令権を持っていました。
内参謀・仮参謀・参謀心得
正規の参謀が朝廷任命だったのに対して、各総督府が独自に任命した参謀が、内参謀と呼ばれました。これに対して、(正規の)参謀が不在時に、その軍務を代行していた者が、仮参謀と呼ばれました。なお、内参謀と仮参謀以外にも、参謀心得との役職もありますが、具体的な権限は不明です。
軍監
本来の役目は各総督府指揮下の諸藩兵の督戦の筈ですけれども、実際には参謀と同じく諸藩兵に対する指揮権を持っており、各戦場では諸藩兵を率いて戦っています。朝廷任命の役職ですが、大軍監と小軍監が居たと書かれている文献もあり、詳しい事は現在調査中です。
新政府軍が西国諸藩に発した軍令
鳥羽伏見の戦い後、九州・四国・中国地方の西国を平定した新政府軍は、これら西国諸藩の兵を指揮下に入れて東海道・東山道・北陸道の三道から江戸制圧を目指して進軍を開始するのですけれども、その際指揮下に入った西国諸藩兵に以下の軍令を発します(自分なりに現代語に訳しているので原文とは異なります)。
1:銃隊と砲兵隊以外の参加は禁止(刀鎗部隊の禁止)
2:禄の高い者を指揮官に任命しない(禄高や家格ではなく、能力で指揮官を選ぶ事)
3:不必要な華美な衣装や装飾品の禁止(戦国以来の甲冑や旗指物の禁止)
この内「2」が守られたかは疑わしいものの、色々な史料を読む限り「1」と「3」は守られた模様です。上記の様に行軍を開始した新政府軍は、多数の歩兵と少数の砲兵によって構成された近代軍として各地で戦闘を行なう事になります。
ただし、この軍令はあくまで江戸進軍を前にして発せられた軍令なので、新政府軍が進軍後に恭順した藩にはこの軍令の拘束力が及ばなかったらしく、後に新政府軍に恭順した北関東の諸藩などは、甲冑姿の刀鎗部隊を新政府軍に参加させています。そのため、北関東ではこの甲冑姿の刀鎗部隊による新政府軍を、大鳥圭介率いるフランス式軍制による幕府歩兵隊を中核とした大鳥軍が撃破して、遂にはこの旧式軍制新政府軍が篭る宇都宮城を、西洋軍制の大鳥軍が奪取する事態が発生します。
この北関東の戦況こそ新政府軍が出した軍令が正しかった事を証明すると共に、旧来の軍制に対する西洋軍制の優位性を証明する一つの事例なのではないでしょうか。