〜奥羽戦争の帰趨を決したみちのくの関門の攻防戦〜
奥羽鎮撫総督の到着と、奥羽越列藩同盟の成立
奥羽鎮撫総督府の仙台藩到着
慶応四(1868)年正月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は東征を決意し、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸を目指す一方で、奥羽諸藩を恭順させ新政府に敵対する会津藩の討伐を目的とした奥羽鎮撫総督府の派遣も決定します。この奥羽鎮撫総督府の参謀には当初薩摩藩の黒田清隆と長州藩の品川弥二郎が任命されていたのですが、出発直前の三月に組織変更が行なわれ、黒田と品川に代わり薩摩の大山格之助と世良修蔵が参謀に任命されます。厳密に言うと世良と大山は「下参謀」なのですが、これは同じ参謀に公家の醍醐忠敬が就任していたので、公家と藩士が同じ地位に就くのは憚れるという事で世良と大山は「下参謀」となりましたが、職務は醍醐と互角、というより奥羽鎮撫総督府の実権は世良が握っていました。
このように出発前に組織変更で混乱があった奥羽鎮撫総督府ですが、三月十日に軍艦に乗り込み三月十八日には仙台藩領寒風沢に到着します。この後の世良は多くの傍若無人な行為を行なったと言われていますが、大半が史料的な根拠の無い「小説家」による想像に過ぎない事を明言させて頂きます。しかし世良が奥羽諸藩に強硬な態度を取ったのは史実らしく、これに対して近代史研究家の原口清氏は著書である「戊辰戦争」の中で以下の様に述べています。
「これ(世良修蔵の態度)は東北諸藩贔屓の戊辰戦争史家がしばしば言うような、「無理解」や「非道」「傲頑」といったものではなく、維新政府の取っていた基本方針の確認である。(中略)彼(世良)は総督が嘆願書を受け取った以上、その回答は出さなければならないが、その場合も名義を失わないよう「朝敵不可入天地ノ罪人ニ付、不被為及御沙汰、早々討入可奏成功」とう断固たる回答を与え、彼等が不満として反論する場合は、適当にごまかしてその場を切り抜け総督は早く白河城に転陣すること、世良自身は「奥羽皆敵ト見テ逆襲ノ大策」をたてるため、急遽江戸の大総督府の西郷参謀と相談し、更に大阪にもゆき、「大挙奥羽ヘ皇威ノ赫然到候様」にしたい。「(会津を)此歎願通ニテ被相免候時ハ、奥羽ハニ三年ノ内ニハ朝廷ノ為ニアラヌ様可相成、何共仙米俗論朝廷ヲ軽スルノ心低、片時モ難図奴に御座候。右大挙ニ相成候時ハ、払底ノ軍艦ニテモ酒田沖ヘ一ニ艘廻シ、人数モ相増、前後挟撃ノ手段ニ到候他到方無」と。ここには奥羽列藩と真っ向から対立する態度がしめされている。
以上、少々長い引用になってしまいましたが、原口氏は本書の中で諸藩から新政府に出仕した藩士達が、戊辰戦争が進む中で絶対主義官僚化した(これには当然世良も含まれますが)と説明し、個別領有権を否定する絶対主義権力による政権を成立させる為には、個別領有権を認める封建諸侯の全てを屈服させなくてはならず、最大の封建諸侯である徳川氏を屈服させた以上、残る敵対勢力は会津藩であり、新政府に対する全面恭順を拒む会津藩と妥協する事は、封建主義を存続させる事になり、絶対主義権力により国内を統一するという使命感を持つ世良としては、会津藩・仙台藩を代表する封建主義勢力と妥協は出来なかったと説明しています。これは革新派の絶対主義官僚である世良と、保守派の封建主義権力である奥羽諸藩との対立で、個別領有権と身分差別により成り立つ封建主義を守ろうとする奥羽諸藩としては、封建主義を否定しようとする世良を許す事は出来なかったのでしょう。この様に世良が非妥協的な態度を取るのに対し、一方の会津藩もまた謝罪はするが処分(藩主の厳罰、領土の削減等)を受け入れないと言う強硬姿勢を取っていた以上、奥羽鎮撫総督の方から譲歩する訳にはいきませんでした。東北及び会津贔屓の人からは、世良の非妥協的な姿勢を非難する声は多いですが、会津藩の強硬姿勢を指摘する声が皆無なのは個人的には理解し難いです。
ただ一方で世良にも非難されるべき点があったのも間違いありません。まずこの奥羽鎮撫総督府時代の世良は「軍事参謀」としての職務には忠実でしたが、「政治参謀」の職務は疎かにしていたと言わざるを得ません。世良の軍事指揮官としての手腕は今まで書いてきた通りですし、総督以下の公家は無能無才で同僚の大山も軍事的才能は無いので、世良が奥羽鎮撫総督府の軍事を一手に握るのは言わば当然だったと思います。そして軍事参謀として世良は、上記で引用した通り庄内藩へ海路別働隊を派遣すべきという案や、会津藩への攻め口の選定や白河城への戦力集中の建言など、その職務を十分に果たしていました。
しかしこの時世良に求められていたのは「政治参謀」としての手腕で、残念ながらこの時の世良には「政治参謀」としての職務は不十分だったと指摘せざるを得ません。極論すれば奥羽諸藩を欺いたり、嘘の譲歩を提言するなどの政治的謀略が要求されていたのに、絶対主義権力官僚としての使命感から世良はあまりにも「生真面目」に自分の職務である会津藩征討に忠実だったと言わざるを得ません。
実際世良自身も奥羽諸藩に非妥協的な立場を取り続ければ、我が身に危険が及ぶのを覚悟していたらしく、閏四月十日には阿月の友人に「一筋におもいこんだる国のため、我が身はたとへみやぎの名にうもれて死すとも、こころはよしや名取川」との歌を送っています。このように自分の身に危険が及ぶ危険性を感じていたものの、世良は自分の命よりも絶対主義権力による国内統一という使命感を重視して、封建主義を守ろうとする奥羽諸藩に対して非妥協的な態度を取り続けたのです。
世良修蔵の死
この様に絶対主義官僚の使命感から奥羽諸藩に非妥協的な態度で臨む世良に対して最も憎しみを募らせていたのは仙台藩でした、万事事なかれ主義の仙台藩は新政府の敵になるのも嫌だが会津と戦うのも嫌だと、のらりくらりとした態度をとっていたので、奥羽鎮撫総督府を実質率いる世良はこの仙台藩の対応に不満を抱いていました。一方の仙台藩も大藩特有のプライドの高さから世良を見下し、両者の関係は急激に悪化し始めます。このような雰囲気を察した世良は、阿月村に住む知人に「自分はこの奥羽で死ぬかもしれない」と覚悟を込めた詩を手紙として送ります。
かくして仙台藩や他の奥羽諸藩の兵を用いての会津討伐は不可能と判断した世良は、上記で引用した通り奥羽鎮撫総督府を奥州の玄関口の白河城に後退させ、ここで新政府軍の援軍を待ち、奥羽諸藩の兵では無く新政府軍の兵力を以って会津藩と庄内藩を討伐する作戦を立案し、それを相談する為の手紙を閏四月十九日に秋田方面に向かった大山に送ります。この手紙自体は戦況を理解した適切な内容だったと思いますが、このような重要な手紙を他藩である福島藩士に任せたのは軽率な判断だったと言わざるを得ません。
結局この手紙は福島藩から仙台藩に渡ってしまい、本文中に「奥羽諸藩はもはや皆敵だ」と書かれているのを見ると仙台藩士は激昂錯乱し、元々身分差別による封建主義権力を守る為に世良の殺害を止むを得ないとしていた仙台藩家老の但木土佐から世良殺害の許可を得ていた瀬上主膳・姉歯武之進率いる二十余名は翌二十日未明、福島城城下町の金沢屋の二階で就寝していた世良を急襲します。この急襲に対し世良も抵抗しますが、庭に脱出しようと二階から飛び降りた際に着地に失敗し庭の置石に頭部を強打し意識不明の重傷に陥ってしまいます。瀬上等も世良の捕縛を実行しましたが、その場で殺害はせず形式的な裁判を行い処刑するつもりでしたが、世良の出血を見て長くないと判断すると急遽意識不明の世良を阿武隈川河原に引き連れて、世良の意識が回復しないままこの地で世良を処刑した事により、国内を絶対主義権力により統一するという使命感を持っていた世良修蔵は故郷大島から遥か離れた奥羽の地で34歳の生涯を終えたのです
尚、世良が処刑される際に命乞いをしたという話が残っていますが、上記の通り世良は処刑される際も意識が回復してなかったのですから、そのような話は「小説家」の作り話と断言せざるを得ません。もっとも世良を貶すのと一方で処刑される際に世良は堂々と時世の句を読んだと伝えられる事もありますが、これも処刑される際に世良の意識が無かった事を考えれば、世良を英雄視する為の作り話と言わざるを得ません。
また斬首された世良の首は仙台藩士が持ち帰り白石の地で葬られますが、胴体の方は阿武隈川の河原に無造作に埋められて、後日大雨の際に流されて行方不明になったそうです。
奥羽越列藩同盟の成立
話は遡り、奥羽鎮撫総督府から会津藩追討を命じられた仙台藩は、何とか事を穏便に進めるために、同じく奥州の大藩である米沢藩と止戦工作を始めます。仙台藩と米沢藩は数で圧力を掛けることこそ、奥羽鎮撫総督府に対する最良の対抗策と考えて、奥羽諸藩に呼びかけて「奥羽諸藩の総意」として総督府に、会津藩に寛大な処分をするように求めます。しかし上記の通り、絶対主義官僚である世良はこの要求を拒否した為、仙台藩に謀殺されました。この世良の謀殺の報が仙台藩内に広まると藩内は湧き上がり、封建主義支配を守る為に新政府軍との交戦を決意します。こうして新政府軍との抗戦を決意した仙台藩兵の手引きにより、世良が謀殺された正にその日である閏四月二十日に白河城が会津藩兵によって占領されると(第一次白河城攻防戦)、この仙台藩と米沢藩が他の奥羽諸藩に呼びかけ(実質仙台・米沢・会津・庄内の奥羽の大藩による他の奥羽諸藩への恫喝)た為、本来会津藩を救済する為に成立した白石列藩会議は、奥羽諸藩が新政府軍に対抗するための軍事同盟である奥羽列藩同盟に変化を遂げる事になるのです(後に長岡藩等の越後の諸藩も加わり奥羽越列藩同盟に)。
左:白河城復元三重櫓、本物の三重櫓はこの第三次白河城攻防戦で焼失します。
中:白河城本丸跡の石垣
右:白河城の特徴と言うべき二段構造の石垣
新政府軍と同盟軍それぞれの動向
新政府軍の動向
話は遡り、まだ白河城が新政府軍の勢力下だった白河城に滞陣していた世良修蔵は、仙台藩の動向に不審を感じ、宇都宮城に滞陣する東山道軍参謀の伊知地正治に援軍を要請した事により、伊地知が援軍を率いて大田原城に進出を試みている時期でありました。
●伊地知が世良の要請を受けて、白河城へ援軍に向かった事に関しては、『伊地知正治日記』に「初め奥羽総督之参謀長州人世良修蔵度々白川口へ応援致呉候様申来候得共」との記述があります。
これは奥羽諸藩の圧力を受けていた世良が、奥州の玄関口である白河城に東山道軍の援軍を受け入れる事により、反撃の足がかりにするつもりだったものの、前述の通り閏四月二十日未明、東山道軍に援軍を要請していた世良が福島藩城下にて仙台藩藩士の急襲を受けて謀殺されます。更にこの世良の謀殺と時を同じくして同日二十日、会津藩と仙台藩の連合軍が白河城に殺到し、白河城の奪取に成功します(第一次白河城攻防戦)。
かくして白河城に対する援軍として出発した伊地知隊は、白河城の奪回を目指す事となり、手持ちの若干の兵力で白河城奪回を試みますが、圧倒的多数の奥羽列藩同盟軍(同盟軍)に撃退されてしまい閏四月二十五日の一回目の攻撃は失敗します(第二次白河城攻防戦)。
この敗戦に懲りた伊知地は、戦力的には余裕の無い東山道軍から出来る限りの兵を集め戦力を増強しつつ、斥候を放って白河の地形と同盟軍の配置を調べ「自軍を三つに分け、中央軍を主力だと偽装させることにより、同盟軍の注意を中央軍に向けさせて、その隙に左右の迂回軍によって同盟軍の後方を遮断、及び白河城に突入させる」と言う作戦を立案し、五月一日早朝ついにその作戦を実行するのです。
この時伊地知が率いた兵力は薩摩藩兵3個中隊相当:城下士小銃隊二番隊(隊長村田新八)・同四番隊(隊長川村純義)・同五番隊(隊長野津静雄)、 長州藩兵1個中隊と2個小隊:施条銃足軽第一大隊二番中隊(隊長楢崎頼三)・同第一大隊四番中隊ニ番小隊(隊長口羽兵部)・施条銃中間第四大隊一番中隊二番小隊(隊長原田良八)、大垣藩兵2個中隊、忍藩兵1個小隊であり、その総数は約700名でした。
同盟軍の動向
一方の同盟軍ですが、白河城は堅固な作りとは言え全般的に小規模な城の為、簡単に包囲される危険性を持っていました。また白河城自身あくまで仮想敵を仙台藩伊達家としていたので、北方に向けての防御は堅いものの、南方の防御は稲荷山・雷神山・立石山等の小山に頼っていたので、白河城に篭る同盟軍の将兵の中には、白河城から出て広く布陣させる事を進言する者もいました。しかし実戦経験を持たない会津藩白河口総督を勤める会津藩家老西郷頼母はこの進言を退け、戦力の大半を白河城に篭らせ、残る戦力を稲荷山・雷神山・立石山に布陣させます。
こうして幕僚の進言を退けた西郷の自信の根拠は圧倒的とも言える同盟軍の戦力であり、その詳細は以下の通りと思われます。
会津藩兵5個中隊相当と2個小隊及び1砲兵隊:朱雀士中一番隊(隊長小森一貫斎)・朱雀足軽一番隊(隊長日向茂太郎)・朱雀寄合一番隊(隊長一柳四郎左衛門)・青龍士中一番隊(隊長鈴木作右衛門)・青龍足軽一番隊(隊長杉田兵庫)・義集隊(隊長龍野源左衛門)・会義隊(隊長野田進)・砲兵隊(隊長樋口久吉)
仙台藩兵3個大隊相当と3個小隊及び1砲兵隊:瀬上主膳大隊(5個小隊と1砲兵隊)・佐藤宮内大隊(3個小隊と1砲兵隊)・真田喜平太大隊(詳細不明)、他に司令部直属の3個小隊と1砲兵隊
その他二本松藩兵6個小隊、棚倉藩兵1個小隊、会幕連合軍第四大隊の一部(純義隊:隊長小池周吾)、新選組(隊長代理斉藤一)
以上の軍勢が白河城及びその周辺に布陣していており、その兵力は伊地知隊の三倍以上となる2500名の大軍でした。
第三次白河城攻防戦:五月一日
新政府軍の攻撃計画
白河城奪回を目指す伊地知隊は閏四月二十八日に、奥州街道白河宿の一つ手前の宿場町である白坂宿を占領し、この地を本営として五月一日払暁遂に白河城の奪回を目指して進軍を開始します。まず川村純義が率いる薩摩藩城下士小銃二番隊と同四番隊の右翼軍が午前四時に出発し、白河城南東に位置する雷神山目指して進軍を開始しました。続いて野津鎮雄率いる薩摩藩城下士小銃五番隊・大垣藩兵1個中隊・長州藩施条銃足軽第一大隊二番中隊・同第一大隊四番中隊ニ番小隊・大砲三門等の左翼軍が午前六時に出発し、白河城南西に位置する立石山目指して進軍を開始します。そして最後に伊地知自らが率いる囮の大垣藩兵1個中隊、長州藩施条銃中間第四大隊一番中隊二番小隊・忍藩1個小隊、大砲六門等の中央軍が午前六時に出発し、同盟軍の主力が陣する奥羽街道を見下ろす要所の稲荷山目指して進軍を開始します。
稲荷山方面の戦い
伊知地としては同盟軍に囮に引っかかってもらわなくてはいけないので、中央軍に派手な行動を取らせます。まず稲荷山から僅か1キロ弱の近さの小丸山を守備する若干の同盟軍守備隊を蹴散らすと、この小丸山に多数の軍旗を掲げて、いかにも大軍が小丸山に集結した見せたのです。更に伊知地は手持ちの大砲で稲荷山目掛けて砲撃を開始、これにより同盟軍(会津藩兵・仙台藩兵・棚倉藩兵・旧幕府軍)は小丸山に新政府軍の主力が居ると勘違いし、同盟軍の方も手持ちの大砲六門で砲撃を開始、かくしてわずか一キロ弱しか離れてない稲荷山と小丸山の間で壮絶な砲撃戦が開始される事になります。
緒戦は稲荷山山頂からの同盟軍の砲撃の前に、伊知地率いる中央軍は徐々に押され、戦況は同盟軍優勢で進みます。しかし大垣藩兵と長州藩兵の砲兵に援護射撃援護の元、薩摩藩兵の砲兵隊が前進し、稲荷山を射程内に捕らえた猛砲撃を行った為、曲射砲撃を受けた同盟軍稲荷山守備隊は後退を始めます。この状況を見た会津藩副総督の横山主税が、崩れる自軍を叱咤激励しようと稲荷山山頂に駆け上がったものの、長州藩兵と大垣藩兵の銃撃を受け戦死しました。横山の戦死を聞いた白河口総督の西郷頼母は横山の死に驚きつつも、白河城や雷神山の守備兵を次々に稲荷山に投入させて伊知地の中央軍に対抗します。しかしこれは伊地知の罠に見事に引っ掛かった事となり、稲荷山の守備兵力は増強されたものの、他の戦線の戦力は減少する事になったのです。
左:稲荷山外観、見て頂ければ判ると思いますが、さほど高い山ではありません。
中:当時同盟軍の本陣が有った稲荷山山頂、現在は公園となっています。
右:伊知地率いる中央軍が本陣を置いた小丸山。
左:稲荷山山頂から見た小丸山、この稲荷山から小丸山を結ぶ回廊上で新政府軍と同盟軍は激戦を繰り広げました。
中:小丸山から稲荷山に向かう奥州街道の回廊脇に建てられた会津藩兵戦死者の墓。
右:同じく回廊脇に設けられた長州藩大垣藩戦死六名墓。
雷神山方面の戦い
こうして同盟軍が稲荷山にばかり注目していた正にその時、稲荷山防衛のため兵を割かれた雷神山に川村率いる右翼軍が襲い掛かり、見事雷神山を占領します。
「雷神山陥落」の報に驚いた白河城の西郷は、慌てて白河城の守備兵を雷神山奪回に向かわせたものの、川村率いる右翼軍は山頂からの射撃でこれを易々と撃退します。更に川村は右翼軍を二つに分け、一方は雷神山から尾根伝いに米山越に向かわせて稲荷山にに陣する同盟軍の退路の遮断を計ります。またもう一方の軍は敗走する同盟軍を追撃しつつ城下町に突入させます、この追撃戦で右翼軍は白河城と雷神山の間に流れる谷津田川の河原で、捕らえた同盟軍の兵士を次々に斬首したので谷津田川の水が赤く染まったと伝えられます。
やがて米山越に向かった右翼軍の一部が米山越から稲荷山の同盟軍へ砲撃を開始すると、稲荷山は前方の小丸山方面の中央軍と後方の米山越の右翼軍に狭撃される事になり、稲荷山の同盟軍主力は大混乱に陥ります。更にこの状況になるともっぱら砲撃をしていた中央軍も、積極的に長州藩兵や大垣藩兵に攻撃させたので稲荷山の麓で激戦が繰り広げられます。
左:白河城の東南にそびえる雷神山の外観、この雷神山は棚倉街道を見下ろす戦略上の要所でした。
中:雷神山の山頂、現在は公園となっています。
右:雷神山山頂から米山越に至る尾根道、右翼軍の一部はこの尾根道を進軍して同盟軍主力の背後から襲いかかります。
左:雷神山から見下ろした白河の町。
中:白河城の城下町と雷神山の間に流れる谷津田川。
右:白河城本丸南側から見た米山越、米山越の左端の山が雷神山。
立石山方面の戦い
またこの時期になると、野津率いる左翼軍が立石山を攻撃して激戦の末にこれを奪取し、防戦の指揮を取っていた会津藩朱雀足軽一番隊隊長の日向茂太郎が戦死させました。この苦戦を見た仙台藩参謀の坂本大炒は手勢を率いて立石山方面に向かうものの、野津率いる左翼軍の銃撃を受け戦死します。また世良修蔵暗殺実行犯の一人姉歯武之進もまた戦死し、その屍を白河の地に晒す事になります。
こうして立石山周辺を完全に占拠した野津率いる左翼軍は、白河城に向かい進軍を開始します。
左:白河城西方にそびえる立石山。
中:立石山から見下ろした白河の町。小さいので見にくいですが、ゴルフ屋の右上にかすかに白河城が見えます。
右:逆に白河城から見た立石山。
白河城陥落
かくして稲荷山・雷神山・立石山で敗れた同盟軍は総崩れとなり白河城目指し敗走したものの、白河城に至る奥州街道は米山越の右翼軍と、立石山から進出した左翼軍によって封鎖されていた為、多くの兵は阿武隈川を渡り北方に敗走します。また白河城に篭る守備兵も、会津藩総督の西郷が伊地知の作戦に引っかかり次々に稲荷山方面に戦力の大半を投入してしまったので、白河城を守るのに必要な兵力も無かったと見え、新政府軍が迫ると遂に白河城を放棄して全兵北方に逃走します。
かくして2500もの大軍を要し、かつ白河城を確保している同盟軍は、自軍の三分の一近くの700の新政府軍に、しかもその三分の一の戦力の新政府軍に三方から包囲殲滅されると言う戦史上みても稀な惨敗をするのです。この敗戦に関しては指揮官の力量不足、同盟軍の合同作戦の稚拙さ・兵器の性能の差など原因は色々考えるものの、この後占拠された白河城の再奪取を目指して同盟軍は七度にも渡り攻撃を仕掛けますけれども、三倍の兵力をもってしても伊知地率いる新政府軍に勝てなかった同盟軍が、白河城に篭城する伊知地に勝てるわけが無く、白河城に同盟軍の旗が翻る事は二度とありませんでした。
第三次白河城攻防戦の意義
絶対主義権力による国内統一を掲げる新政府に対抗して、個別領有権を認める封建主義による支配を守る為に発足した奥羽越列藩同盟ですが、その発足した矢先(厳密に言えば奥羽越列藩同盟が正式に発足したのは第三次白河城攻防戦の後ですが)に、同盟軍の戦略の根本となる白河城を失いその戦略は発足早々破綻する事になります。奥羽越列藩同盟の発足時に立案された作戦は白河城を拠点として立案されていたため、開戦早々白河城を奪取されてしまったので、この白河方面の同盟軍は主体性を失う事になります。
奥州街道は白河を通ってから奥州に入るので、白河城を確保している限り奥州街道からの新政府軍の侵攻を食い止める事が出来ましたし、この周囲では奥州街道以外に奥州に侵攻するルートは無かったので、同盟軍は安心して白河に戦力を集中する事が出来ました。しかし白河城が新政府軍に奪取された事により、奥州の諸藩は直接新政府軍の脅威に晒される事になります。例えば会津藩は白河城が同盟軍に確保されている間は、会津藩に至る侵攻ルートは白河のみだったので安心して白河城に戦力を集中する事が出来たのですが、白河城が新政府軍に奪取された事により、勢至堂口・大平口・御霊櫃口等の侵攻ルートが解放されてしまった為、会津藩はそれぞれの侵攻ルートに守備兵を配置せざるを得なくなり、必然的に会津藩は戦力の分散配置を強いられる事になります。
しかし会津藩などはまだ戦力を分散配置を強いられるだけで済みましたが、三春藩・守山藩・棚倉藩などは新政府軍の脅威に直接晒される事になります。これらの諸藩は会津藩や仙台藩と違って新政府に対する明確な敵対心は持っていなく、白河城が同盟軍によって確保されている時こそ同盟に従っていましたが、白河城が新政府軍に奪取された今となっては彼等の動向は流動的なものとなり、実際にその後守山藩と三春藩は新政府軍に恭順する事になるのです。
この様に白河城が奪取された事が同盟軍の戦略の破綻の要因となり、最終的には同盟崩壊へと繋がるのです。正しく第三次白河城攻防戦は奥羽戊辰戦争の帰趨を決した戦いだったと言えましょう。
以上の様に第三次白河城攻防戦は同盟軍にとって最も重要な戦いだったと言えますが、新政府軍にとっても重要な戦いでした。当時の新政府軍を指揮するのは大総督府でしたが、大総督府は志士的要素が強く戦略的な戦争指導が出来ないでいました。またこの第三次白河城攻防戦が行なわれていた時点では野州では大鳥脱走軍と新政府軍の東山道軍が戦闘を繰り広げていていましたし、房総半島も徳川義軍府を撃退してまだ日が浅いなど、関東の制圧が未だ済んでいない情況でしたし、何より江戸城と目と鼻の先の上野に割拠する彰義隊に手も足も出せないなど、当時の新政府軍の勢力は未だ確立していませんでした。
この様な状況下での奥羽越列藩同盟の成立は、例え同盟が能動的な封建諸侯連合だったとしても未だ勢力の確定しない新政府軍にとっては十分脅威であり、もし白河城から同盟軍が南下するような事があれば野州の戦略バランスが崩れる危険性が十分ありました。
しかし第三次白河城攻防戦で白河城を奪取する事により、同盟軍をこの地に拘束するのに成功し、その間に新政府軍は大鳥脱走軍を野州から追い出し、上野戦争の勝利により関東の制圧する事に成功したのです。こうして上野戦争を勝利により余剰戦力を得て、また大村益次郎が指揮を取るようになった新政府軍は、この白河に援軍を送る一方で平潟口に別働隊を送る事により奥羽戊辰戦争を勝利に導くのです。
この様な意味でも第三次白河城攻防戦の勝利は、同盟軍と戦闘する準備が未だ整っていなかった新政府軍が、その戦闘準備を整える貴重な時間稼ぎとなったのです。
主な参考文献
「戊辰役戦史 上」:大山柏著、時事通信社
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「会津戊辰戦史」:会津戊辰戦史編纂会編
参考にさせて頂いたサイト
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」