上野戦争
慶応四(1868)年五月十五日

〜武士の誇りを打ち砕き、新たな時代を切り開いた大村益次郎の智謀〜

江戸城無血開城と彰義隊の誕生

 鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍を破った新政府軍は、山陽・山陰・四国・九州の西国を平定後、東海道・東山道・北陸道の三方から江戸に向かい進撃を開始しましたが、その目標は徳川幕府の根拠地である江戸の制圧と、前将軍の徳川慶喜(大政奉還を行った為)討伐でした。
 これに対し徳川慶喜は大阪から江戸に帰還した当初こそ小栗忠順等が主張する抗戦論を支持しつつ、一方で新政府内の松平春嶽徳川慶勝といった公議政体派の諸侯と連携を取り自己の権力の保持を狙いました。しかし時が経つにつれた聡明な慶喜の頭脳は幾ら小栗の戦略が優れていても、太平の世に慣れきってすっかり惰弱となった旗本が、果たして薩長の精鋭を主力とした新政府軍に勝てるのかと言う疑問が生じ始めました。元々徳川幕府が幕府歩兵隊を創設したのは、惰弱なくせにプライドだけは高い旗本は西洋軍事訓練が進まないので、町人・農民・博徒等を訓練して西洋化された幕府歩兵隊を作ったのですが、その西洋軍隊の幕府歩兵隊をもってしても新政府軍に勝てなかったのですから、その幕府歩兵隊の力を熟知していた慶喜としては、旗本を幾ら集めても新政府軍に勝てないと判断するに至ります。また公議政体派との連携も、鳥羽伏見の戦いまでは新政府内で主流派だった公議政体派も、鳥羽伏見の戦いで勝利を収めた事により主流派になった倒幕派に権力を奪われた事により発言力が低下し、もはや公議政体派には慶喜を弁護するだけの力はなく、公議政体派との連携により自己の権力保持を狙った慶喜の思惑も水泡に帰するのです。
 こうして硬軟双方の思惑が敗れた慶喜は遂に新政府軍に恭順する事を決意し、それまで支持していた小栗を更迭して代わりに恭順派の勝海舟を登用し新政府に恭順の姿勢を取るようになります。この変わり身の早い対応こそ聡明で明敏なものの胆力が無いと言われる慶喜の人間を表していると思います。元々慶喜と勝は不仲だった為、慶喜は長い間勝を冷遇していたのですが、旗本では新政府軍に勝てないと判断すると、徳川家の安泰と何よりも自身の命の保証を得る為に、掌を返してそれまで冷遇していた勝を登用して新政府軍との折衝に当たらせます。
 ところで一般的にはこれ以降は慶喜は勝に全権を任せて恭順の姿勢を取ったと伝えられていますが、慶喜と勝の間には実は大きな相違があった模様で、勝が徳川家の安泰を目指したのに対して、慶喜が願ったのは自分の身の安全ただ一つだった為、一般的に勝を首班にしたと言われる最後の幕閣には勝の下に慶喜の腹心である一橋家家臣が多数入閣しました。


 このような慶喜と勝の間で駆け引きがされていたものの、基本的に徳川家の方針は新政府軍への恭順に決まり、その過程で小栗等主戦論者は半ば江戸城から追放され、また近藤勇古屋作左衛門などの主戦派を上手く操り江戸周辺から退去させます(近藤勇の甲陽鎮撫隊について詳しくはこちら)。その一方で、後に江戸城無血開城後も榎本武揚率いる幕府艦隊や大鳥圭介率いる幕府伝習隊のような強大な勢力は、新政府軍と交渉する手駒として温存しています。
 そしてこの上野戦争で新政府軍と戦った彰義隊もまた、勝が新政府軍に対する交渉の手駒として温存した戦力でした。

 さて、その彰義隊の発足ですが、そもそもは慶喜が勝との駆け引きで敗れニ月十二日に上野東叡山寛永寺(徳川家が比叡山に対抗して江戸に作った徳川家の菩提寺)で謹慎に入ったのが始まりです。この慶喜の謹慎に対して慶喜の側近である一橋家系旧幕臣本多敏三郎伴門五郎以下17名の一橋系旧幕臣が江戸の料亭に集合し、慶喜の名誉を挽回しようとの会合を行います。この本多と伴門が設けた会合が後の彰義隊の母体となったのですが、ここで注意するのは本多と伴門が目指したのはあくまで慶喜の名誉挽回であり、後の彰義隊が行った「徳川幕府の恩義に報いる為に新政府軍と一戦を交える」と言うのは、全く彼等の思う所では無かったと言う事です。
 では何故後の彰義隊が好戦的な集団になったかと言えば、再度同志を集めて集合した十七日の会合で、前回より多い30人余が集まったとは言え、まだまだ人数が少ないと感じた彼等は、これまでの一橋系旧幕臣だけではなく、全ての旧幕臣の中から同志を募集する事にしたので、二十三日の会合に天野八郎渋沢成一郎という後の彰義隊の運命を決する二名が参加しました。
 この内渋沢は農民出身ながら才覚で立身し、最終的には慶喜の秘書官まで出世した一橋系旧幕臣で、本多や伴門等の一ツ橋系旧幕臣は支持し彼等の頭取に推挙します。
 一方の天野についてですが、天野もまた渋沢と同じく農民出身ながら強烈な個性で立身し、旗本の身分を手にした男でした。天野には際立った才覚は無いものの、胆力だけは他を圧倒するものがあったらしく、これが一橋系じゃない参加者の支持を集めた模様で、渋沢に続く副頭取に推挙されます(本多と伴門は天野に続く幹事に)。こうして二十三日の会合で頭取渋沢・副頭取天野の人事が決定し、集団名も今までの「尊王恭順有志会」から「彰義隊」に改め、ここに後に新政府軍と江戸の上野で一大決戦を行う彰義隊が誕生したのです。


勝海舟の策略と誤算

 かくして最後の幕閣(この時期徳川幕府は消滅していますが、便宜上こう呼びます)の事実上の首班となった勝(役職は陸軍総裁)は、東海道を東海道軍(東海道先鋒総督府)と共に進軍する大総督府と交渉に入ります。この勝や幕臣山岡鉄舟と大総督府参謀西郷隆盛との交渉は有名なので、ここでは割愛させて頂きますが、この交渉により東海道軍による江戸城攻撃は回避され、四月十一日に江戸城は無血開城されます。一方上野寛永寺で謹慎していた前将軍慶喜は江戸城無血開城と同じ日の朝、故郷である水戸に旅立ち、その地で謹慎する事になります。
 こうして無血開城された江戸城に無事入城した新政府の東海道軍と西郷隆盛等の大総督府ですが、策士勝の策略はこの江戸城無血開城後から始まります。

 まず新政府軍と徳川家の間で結ばれた江戸城開城における協定には、徳川家が保有する小銃・大砲・弾薬・軍艦等の武器は全て新政府軍に提出する事になっていましたが、江戸城無血開城の前夜に元歩兵奉行の大鳥圭介が伝習隊等の幕府歩兵隊を率いて江戸から脱走、また品川沖に停泊する榎本武揚率いる幕府艦隊もまた品川沖から出向して館山湾方面に向かいます。この大鳥と榎本の脱走は、徳川家所有の武器を新政府軍に提出するのを拒んだ行動と言われていますが、幕府陸軍にしろ幕府艦隊にしろ数十人単位の脱走ではなく、大鳥率いる幕府陸軍に至っては総勢1千人ないし2千人の大軍と言われ、その大軍が一糸乱れず徳川家の霊山たる日光方面に進軍したと言うのは、これはとても脱走とは言えず大鳥が何らかの指示を受け幕府陸軍を率いて進軍したと考えるのが自然でしょう。更にこの幕府陸軍は小銃・大砲を装備して、その弾薬を満載して進軍したのですから、これはもう大鳥は勝の指令で幕府陸軍を温存するために動いていたとしか思えません(もっとも数回の戦いを経過すると、すぐに慢性的な弾薬不足に陥りましたが)。
 こうして脱走した幕府陸軍と幕府艦隊ですが、江戸城に入城した新政府軍(東海道軍)にはこれを追撃する余力はなく、この大鳥と榎本の行動を傍観するしか出来ませんでした。これは東海道軍が戦力不足だったため(これは私見ですが、新政府軍は小栗忠順の「東海道を進軍する新政府軍を箱根の天険で迎撃して、幕府艦隊でその側面を砲撃する」の戦略を警戒して、主力軍を東山道を進軍させたので、結果的に東海道軍の戦力はさほど多くなかったのでは思っています)、また江戸周辺の地理に不案内だったため、脱走した幕府陸軍と幕府艦隊になすすべもなかったと思われます。

 このように幕府陸軍と幕府艦隊になすすべの無かった江戸城の新政府軍に対して、勝は幕府艦隊を呼び戻し、幕府艦隊の一部の軍艦を新政府軍に引き渡します(ただし主力艦は以前榎本の元に)。これにより江戸城の新政府軍、主に薩摩人の勝への評価は上がり、西郷や東海道軍参謀の海江田信義は勝と深く交流し勝への信頼を深め、遂には勝に江戸の治安維持を委譲する事になります。そして薩摩陣営を軟化させる事に成功した勝は、この新政府軍から委譲された江戸の治安維持権を彰義隊に任せます。

 渋沢と天野の連立体制になった彰義隊ですが、渋沢と天野が権力闘争をするに従い両人が自陣営を増やす為に次々に隊士を募集した為、隊士数は爆発的に増え、遂には当初陣営にしていた浅草本願寺では手狭となります。この頃丁度江戸城無血開城となり、慶喜が上野寛永寺から退去し慶喜の護衛隊も退去したので、彰義隊は代わりにその上野寛永寺に入山して、ここを本拠にする事にします。
 しかし、この上野寛永寺に入山する頃には渋沢と天野の対立は決定的となり、慶喜が水戸に退去した以上江戸に留まるつもりは無い渋沢は分派し、上野から去ります。こうして彰義隊は天野が独裁権を持つ事になるのですが(名目上の頭取は別に居ました)、天野は彰義隊に委譲された治安維持活動を積極的に行ったので、江戸市民からの人気は高くなり、これに伴い彰義隊への志願者は益々増加し(もっとも遊女からもてたい為に志願したお調子者や、「彰義隊に参加しない武士は武士ではない」と言う風潮に負け、泣く泣く入隊した者も多かった模様ですが)、遂には彰義隊は3千を超える大勢力となりました。

 こうして大勢力となった彰義隊を勝は幕府歩兵隊と幕府海軍に続く第三の手駒として新政府軍に対して圧力を加えます、上記の様に兵力不足と地理不案内の新政府軍の勢力範囲は江戸城と東海道周辺のみに留まり、また治安維持権を彰義隊に委譲した事もあり、新政府軍の兵士はする事も無く士気も低くなっていました。一方で江戸市中こそ彰義隊により治安が維持されていましたが、東山道軍と大鳥率いる江戸脱走旧幕府軍(大鳥脱走軍)が宇都宮城周辺で激戦を繰り返し、房総でも徳川義軍府を名乗る幕府歩兵隊を主力とした軍勢が策動する状況に西郷始めとした大総督府は危機感を募らせるものの、決定的な対抗策を持てないでいました。
 こうして江戸で孤立する大総督府に対して勝は、「水戸で謹慎する前将軍慶喜を江戸に復帰させれば、江戸周辺の治安は回復する」と説得し、大総督府もまたこの勝の説得に傾くようになります。これこそが策士勝が練りに練った策略で、慶喜を江戸に復帰させ、その慶喜に江戸で100万石を保有するのを新政府に認めさせ、これに新政府に対する発言権を徳川家に持たせると言う物でした。
 この勝の策略に必要な手駒が大鳥率いる江戸脱走旧幕府軍であり、榎本率いる幕府艦隊であり、そして上野寛永寺に割拠する彰義隊だったのです。

 この勝の策略は順調に進んでいた模様ですが、軍略の天才大村益次郎が東下する事により破綻し、上野戦争によりその機会は永遠に失われますが、そのきっかけとなったのが彰義隊の過激化です。
 大所帯となり上野寛永寺に移住した彰義隊ですが、この上野寛永寺で彰義隊の若い隊士達に大きな影響を与えたのが寛永寺の別当職覚王院義観です。この義観も渋沢と天野同様農民出身ながら上野寛永寺の最高位とも言える別当職まで成り上がった乱世の申し子です。農民ながら別当職まで成り上がっただけあって義観はかなりの才覚の持ち主だったと思えますが、それ以上に特徴的なのが激しい気性でした。実は江戸無血開城に先立つ三月に義観は輪王寺宮に従って東海道を進軍してくる新政府軍と折衝したのですが、その時新政府軍に粗略に扱われて以来義観は大の新政府嫌いとなり、上野寛永寺境内に暮すようになった彰義隊の若い隊士達に新政府への敵意を扇動する事により彰義隊は急速に反新政府軍の過激派勢力に生まれ変わり始めるのです。
 上野寛永寺に移る前は彰義隊の実質的な指導者は天野でしたが、上野に移った以降は胆力は優れるものの統率力の無い天野よりも、煽動家として優れかつ金銭的に彰義隊を援助した義観に彰義隊の若い隊士達の人望は集まったように思われ、彼の言うままに新政府軍に対しての敵意を募らせ、かつ彼の言う根拠の無い新政府軍に対しての必勝戦略を信じ新政府軍との戦いを望むようになります。

 このように彰義隊が露骨に新政府軍に対する敵意を見せ、かつ江戸市中を歩く新政府軍の兵士達の袖章を奪い、更には殺傷するなどの暴挙を行うようになっても未だ勝と友好関係を続ける大総督府に対して、中央政権の明治新政府は不信感の募らせますが、当時の大総督府の権限は新政府すら統制出来ない強大なものだったので新政府の官僚たちは臍を噛んでいました。しかし江戸の実情を把握する為に派遣した佐賀藩の江藤新平等をから、勝の策略と大総督府が勝に篭絡されている事を知った新政府は彰義隊の討伐及び、既に戦端を開いた奥羽越列藩同盟との戦いを指揮する為に軍略の天才大村を派遣する事を決意、これにより軍防事務局判事の肩書きを持った大村が東下し、勝の策略は泡と化したのです。
 この勝の政略で勝利寸前まで持ち込んだものの、手駒の暴発によりその政略は敗れたと言うのは、奇しくも主君慶喜の鳥羽伏見の開戦前と全く同じと言うのは歴史の皮肉と言うべきなのでしょうか・・・。


大村益次郎の東下と戦争準備

 かくして四月二十七日軍防事務局判事に任命された大村は江戸に向かって出発し翌閏四月四日江戸に到着しますが、大総督の幹部達は中央政権の新政府から派遣された大村を快く思わず、江戸到着後暫くは大村は江戸城の中で孤立していたのです。しかしこのような大村の孤立も、閏四月二十四日に京から大監察使三条実美が派遣された事により解消される事になります。三条自身には何の才覚もありませんでしたが、公家の大物である三条が後ろ盾になった事により大村の権限は大きくなり、大村は大総督府の幹部達を無視して自分一人で彰義隊討伐の作戦を作成し始めます。もっとも大村自身は彰義隊を烏合の衆としか見ていなかったらしく(事実その通りですが)、大村の智謀をもってすれば烏合の衆の彰義隊の殲滅など雑作もない事でしたが、大村は彰義隊の殲滅を単なる戦術的勝利には留まらず戦略的勝利に繋げる気でした。
 つまり彰義隊を大々的に壊滅させて、勝の目論見である慶喜を水戸から呼び戻して江戸に100万石を与えると言う勝の策略をも彰義隊と一緒に葬り去るつもりでした。実際勝が頼みとする三勢力の内、大鳥率いる大鳥脱走軍は伊地知正治板垣退助両参謀の率いる東山道軍に追われて日光方面に退いているので、未だ有力な勢力と言えども以前のように新政府にとっての脅威とは言えない存在になっていました。またもう1つの勢力である幕府艦隊には、確かに未だ新政府軍には手を出せませんが、直接的には攻撃出来なくても、補給港さえ封鎖すれば幾ら強力とは言え艦隊はいずれジリ貧に陥るので(後日榎本が蝦夷を目指したのも、新政府の支配下にはない補給港を欲したと言うのが大きかったと思われます)、大村は以前ほど幕府艦隊を脅威と思っていないように思われます。この為今や彰義隊さえ叩き潰せば勝の策略は水泡と消える状況となっていました。稀代の策士と言われた勝ですが、軍略の天才と呼ばれた大村からすれば赤子同然だったのかもしれません。
 また大村は勝だけでなく、江戸の旗本にも彰義隊討伐を見せつける気でいました。江戸城無血開城後旗本の多くは新政府軍に恭順していましたが、新政府軍を快く思っていない者が大半で、このまま彰義隊の暴挙を放置しておけば、その内彰義隊に同調して決起する恐れがありましたし、直接的な行動に出なくても新政府軍に対しての妨害工作をする可能性は十分有るので、その反新政府な旗本にも大々的な彰義隊討伐を見せつけて、新政府に対しての敵対心を消沈させるつもりもありました。
 そしてこの大々的な彰義隊討伐は江戸の市民に新政府軍の威信を見せつける意味と、江戸の市民に徳川の時代が終わり、新たな時代が始まった事を知らせる意味もありました。江戸城無血開城のおかげで江戸の町が戦火に焼かれる事はありませんでしたが、その為江戸の市民は新政府軍を征服者と思う気持ちが無く、また自分達が被征服者との自覚が薄かったので、大村は彼等江戸の市民が熱狂的に応援支持する彰義隊を大々的に壊滅させる事により、一気に江戸の市民の意識改革を行う腹づもりもありました。

 このように彰義隊との戦いを戦術的な勝利だけではなく、戦略的な勝利に繋げようとする大村に対して、元々江戸に居た大総督府及び東海道軍の将校達は彰義隊との戦いに次々と反対します。特に大総督府参謀の林玖十郎と東海道軍参謀の海江田は「彰義隊の討伐には2万以上が必要」と猛反対しますが、大村はこの2人の反対を退け、1人で黙々と作戦を立案します。余談ですが、この時の大村の態度が海江田の恨みを買い、これが後の大村の身に起こった悲劇に繋がるのです。
 かくして作戦立案に没頭する大村ですが、「戦うにしても、せめて夜戦を」と言う声を無視して、ひたすら白昼の攻撃に固執します。これは上記の通り勝を始めとする幕臣や江戸の市民に彰義隊の討伐を見せつけると言う意味と、夜戦を行った場合、夜陰に紛れた彰義隊が江戸の町に火を放つのを恐れたと思われます。折角江戸城無血開城で無傷で手に入れた江戸の町なのですから、これを焼かれたら今後の奥羽諸藩との戦いの後方拠点として使えないだけでなく、新政府軍の威信も地に落ちるので、何としても彰義隊の放火だけは阻止するためにも白昼の攻撃に拘ったと伝えられます。
 ただ白昼の攻撃を行うにしろ、彰義隊が放火を行う可能性は十分あるので、大村は過去の大火の焼失状況を調べるなど、江戸の町を彰義隊の放火から守る為の方法に専念します。実際烏合の衆の彰義隊の討伐よりも、この防火対策の方に大村は苦心したと伝えられます。
 また大村は単に作戦立案だけでなく、彰義隊討伐に関する幾多の諸準備を自分1人で行っていました。林や海江田の言う「彰義隊討伐には2万の兵が必要」と言うのは大げさにしろ、東海道軍の戦力だけでは広大な彰義隊包囲網の実地は不可能なので、当時奥羽や越後の各戦線からひっきりなしに援軍要請が来る中、各地に援軍を送りつつも、佐賀・熊本・久留米・徳島等の西国勢を彰義隊討伐の為に江戸に呼び寄せ、またこれらの新兵の大半は実戦経験はないので、東山道軍から河田景与(河田左久馬)率いる歴戦の鳥取藩兵を呼び寄せるなど、彰義隊討伐の軍編成を作戦立案と共に着実に実地していきます。
 そんな諸準備の中大村が最も苦心したのは戦費調達だったと伝えられます、幾ら大村の作戦が素晴らしくても実際に軍隊を動かすには大金が必要で、大村が立案した作戦を実地するには50万両もの大金が必要だったと伝えられ、流石の大村もこれだけの大金の調達には苦心します。この調達の為に大村は米国より軍艦ストンウォールジャクソン号購入の為の資金25万両を交渉役の大隈重信から分捕り、更に江戸城内の徳川家の財宝を外国商人に売り払い、最終的には新政府の会計をつかさどる由利公正に掻き集めさせた20万両を併せて何とか50万両を揃え、これにより作戦実地に必要な銃砲弾その他の物資を揃えていよいよ作戦実地に入ります。
 また作戦実地に先立ち、大村は徳川家に委任した江戸の治安維持権を剥奪する事を布告、これは治安維持に当たっている彰義隊に対しての事実上の宣戦布告で、これにより江戸の市中には一気に緊張感が走ります。

 このように作戦の全てを1人で立案した大村ですが、作戦に参加する新政府軍将兵に作戦計画を伝える前に、まずは彰義隊討伐の作戦計画を西郷1人にだけ見せます(この大村と西郷の会談の正確な日時は判りませんが、戦費が整ったのが五月六日以降ですので、それ以降の上野戦争開戦まで一週間以内だったと思われます)。 この時大村が西郷に見せた作戦配置は以下の通りです。

〇実戦部隊
主攻撃部隊(広小路・御徒町より上野寛永寺南方の黒門口を攻撃する)
 薩摩藩兵4個中隊相当(城下士小銃一番隊・同三番隊・遊撃隊一番隊・兵具隊一番隊)及び一番砲兵隊(7門)
 鳥取藩兵2個小隊(山国隊・支藩兵1小隊)及び佐分利鉄次郎砲兵隊(砲数不明)、後に援軍として近藤類蔵砲兵隊(砲2門)
 熊本藩兵5個小隊(木造左門隊・和田権五朗隊・大槻権九朗隊・吉田源左衛門隊・柏原兼人隊)及び砲兵隊(砲数不明)、後に援軍として2個小隊(寺本兵右衛門隊・堀十左衛門隊)

助攻撃部隊(団子坂・根津より上野寛永寺北西の天王寺及び谷中門口を攻撃する)
 長州藩兵1個中隊と2個小隊(鋭武隊1個中隊・施条銃足軽一番大隊四番中隊一番小隊・同中間四番大隊一番中隊一番小隊)
 大村藩兵1個小隊、佐土原藩兵1個小隊及び臼砲1門、佐賀藩兵(*注1)、岡山藩兵(*注2)、尾張藩1個小隊(中西真之助隊)及び仏製砲2門
 *途中より援軍として:津藩兵(*注3)、福岡藩兵3個小隊(郡右馬允隊・根本源五左衛門隊・大野十郎太夫隊)

砲撃部隊(本郷台より不忍池越に直接上野寛永寺を砲撃する)
 佐賀藩砲兵隊(アームストロング砲2門)、岡山藩砲兵隊(臼砲3門・米製砲2門*注2)、津藩砲兵隊(臼砲2門*注3)

*注1(佐賀藩兵):小銃隊100人、内役20名が黒門口への後詰、残りが助攻撃軍に参加。
*注2(岡山藩兵):森川追分宿場に向かった小銃隊100名の内一部が助攻撃に参加、また途中より砲兵隊半隊(米製砲2門?)も助攻撃軍に参加。
*注3:(津藩兵)王子宿場に向かった小銃隊100名の内、まずは斥候1個小隊が助攻撃に参加、後に残り全兵も助攻撃軍に参加。後に本郷台で砲撃していた臼砲2門も助攻撃軍に参加。

〇警戒部隊
 神田川水道橋:徳島藩2個小隊(上田友秦隊・梯克好隊)、同和泉橋・同昌平橋:津藩兵、同神田橋:新発田藩兵
 隅田川両国橋:久留米藩兵、同吾妻橋:紀州藩兵、同千住大橋:鳥取藩兵
 森川追分宿場進駐:岡山藩兵、王子宿場進駐:福岡藩兵・芸州藩兵・津藩兵、戸田宿場進駐:岡山藩兵、川口宿場進駐:幕臣大久保氏の手勢
 川越藩監視:福岡藩兵、忍藩監視:芸州藩兵、古河藩監視:佐賀藩兵


 この作戦計画の特徴は、全軍を実戦部隊と警戒部隊の2つに分けて配置している事でした。この内まず実戦部隊は上野寛永寺南方の黒門口を攻撃する主攻撃部隊と、北西の天王寺及び谷中門口を攻撃する助攻撃部隊、そして不忍池越に直接寛永寺を砲撃する砲撃部隊の三方よりの攻撃計画でした。ただしこの実戦部隊の配置では、意図的に北東の根岸方面には部隊を配置せず、逃げ道を作る事により彰義隊に玉砕覚悟の徹底抗戦をさせない計画でした。
 このように敢えて逃げ道を開けた実戦部隊の配置ですが、これはあくまで上野で徹底抗戦させない為の配置で、決して彰義隊を見逃そうなどと言う甘いものではなく、上野山中から逃げ出した彰義隊を江戸府中に入れない為に神田川と隅田川に掛かる橋に警戒部隊を配置します。更に北東に逃走した彰義隊を再起させない為にも重要な宿場に警戒兵を配置し、また新政府軍に恭順したものの、佐幕色の強い川越・古河・忍等の諸藩に監視兵を送るなど徹底したものでした。

 ところで、この配置図を見せられた西郷は城で言うと大手門に当たる黒門口の攻撃に、薩摩藩兵が当てられているのを見て「薩摩兵を皆殺しにするつもりか」と大村に問い、これに対し大村が「さよう」と言ったと言われる有名な逸話がありますが真意は不明です。もっとも大村からすれば黒門口の攻防が激戦になるからこそ、指揮下の戦力で最強の薩摩藩兵に任せたと言うのがあったのでしょう。この上野戦争に投入された長州藩兵は鋭武隊と第一大隊・第四大隊と、越後戦線に投入された奇兵隊・報国隊と比べると見劣りしますし、指揮官も越後戦線の指揮官と比べると上野戦争の指揮官は見劣りするので、黒門口が重要だからこそ大村は歴戦の薩摩藩兵に黒門口を任せたと言えると思われます。
 また薩摩軍の他にこの黒門口を任されたのは、かつて幕長戦争小倉口の戦いで長州藩兵最強の奇兵隊や報国隊と互角以上の戦いを演じた熊本藩兵と、東山道軍として甲州柏尾や下野で幾多の戦いを経験した歴戦の鳥取藩兵の二藩兵が薩摩藩兵と共に黒門口の担当に任じられます。この薩摩藩兵・熊本藩兵・鳥取藩兵の三藩兵の顔ぶれを見ると、大村は指揮下の部隊の中でも選りすぐりの精鋭部隊を黒門口に投入したと言えると思います。

 このように着実に彰義隊との戦争準備を進めていた大村は、遂に五月十三日に作戦に参加する諸藩兵に戦闘準備をするように布告し、自らが作成した作戦図を配布します。続いて攻撃前日の十四日には江戸の市中に十五日に彰義隊を討伐するので外出を控えるように布告するのと共に、十五日から三日間は河川の船の往来を禁止と宿場人夫の使用を禁止します。言うまでもなくこれは彰義隊が逃走するのを防ぐための処置です。
 また同じく攻撃前日の十四日には徳川家にも翌日彰義隊討伐を実行するので、上野寛永寺に保存している徳川家の財宝を今日中に持ち出すようにと連絡します。大村は江戸の真中に巨大な徳川家の菩提寺があるのは目障りなので、この彰義隊討伐のついでに寛永寺を焼き払うつもりだった模様で、予め徳川家に財宝を持ち出すように伝えたと思われます。
 もっともこれを聞いた勝は、財宝を持ち出す以前に何としても上野戦争を回避すべく、山岡に託して義観に書状を送り上野山内から彰義隊を去らせるように懇願します。勝としては自分の策略が敗れ、逆に自分の策略が逆手に取られ、彰義隊討伐の責任を徳川家が取らされ、慶喜の江戸復活どころか、このまま上野戦争が起これば徳川家が江戸から追い出されるのは明白なので、それだけは何としても避けたい勝として義観に考えを改めるように求めます。誕生当時の数百程度の彰義隊なら、勝の才覚をもってすれば簡単に解散出来るでしょうが、今や3千となった彰義隊は勝でさえもコントロールする事は出来ず、義観に頼らざるを得なかったのですが、理解に苦しむ事ですが義観自身は新政府軍との戦闘の勝利を信じていたらしく(後述しますが、会津藩兵が江戸まで援軍を送ってくると信じていた模様です)、勝の要請を退け、断固徹底抗戦の姿勢を取りました。


彰義隊の戦闘準備

 上記のように新政府軍との徹底抗戦姿勢を取る義観ですが、肝心の彰義隊は開戦前日の十四日の時点でもろくに戦闘準備が出来ていないお粗末な状況でした。その上野の山内に割拠する彰義隊の戦力ですが、まず純粋な彰義隊が一番隊から十八番隊までの18個小隊、これは1小隊50人の定員だと伝えられていますが、実際にはその定員を満たしていた隊は殆ど無かったと思われます。この彰義隊本隊とは別に、当時の上野山内には多数の反新政府諸隊が駐留していましたが、詳細が判っているのは次の通りです。
 遊撃隊(鳥羽伏見の戦いにも参加した剣士部隊)・幕府歩兵隊第八連隊(鳥羽伏見の戦いには参加せず)・臥竜隊(幕府歩兵隊の残党か)・菜葉隊(神奈川防衛の幕府歩兵隊)・水心隊(藩主自らが率いる結城藩の脱藩佐幕部隊)・神木隊(高田藩脱藩の佐幕部隊)・卍隊(関宿藩脱藩の佐幕部隊)・松石隊(明石藩脱藩の佐幕部隊)・活気隊(小浜藩脱藩の佐幕部隊)・高勝隊(高崎藩脱藩の佐幕部隊)・純忠隊(前述の部隊には含まれない、各地の脱藩佐幕派による混成部隊)・他に砲兵隊
 他にも幾つもの部隊名が記述されていますが、確証のある12隊のみ記述しました。

 その彰義隊と応援諸隊の装備ですが、彰義隊本隊は多少の銃隊は居た模様ですが、大多数は刀鎗部隊だったと思われます。応援諸隊の方は脱藩左幕部隊は刀鎗部隊が多かった模様で、小銃を持っていても良くてゲベール銃悪くて火縄銃程度で、施条銃は所有してなかった模様です。しかし幕府歩兵隊第8連隊等の幕府歩兵隊残党は、ミニェー銃やエンフィールド銃等の前装銃を装備してた模様です。また砲数は不明ですが砲兵隊が存在し、特に山王台からの砲撃に新政府軍は苦しめられます。
 余談ですが対する新政府軍の装備ですが、上記の通り全兵が銃隊の新政府軍は前装施条銃のミニェー銃ないしエンフィールド銃を装備していて、後述しますが長州藩兵はスナイドル銃、佐賀藩兵はスペンサー銃の後装銃を装備していました。
 以上のように決して刀鎗部隊の集団では無かった彰義隊ですが、軍令により銃隊と砲兵隊以外の従軍を許さなかった新政府軍(*注1)と比べると、やはり兵装の面では新政府軍に劣ったと思われます。
 *注1:西国を平定し、新政府軍が東海道・東山道・北陸道の三方から江戸に進軍を開始した際、新政府は諸藩に「禄の高い者を(安易に)指揮官に任命しない」・「銃隊と砲兵隊以外の参加は禁止する(刀鎗部隊は禁止)」・「不必要な衣装は禁止(実質甲冑の禁止)」の三つを厳命します。

 以上の彰義隊18個小隊と12隊以上の諸隊が上野山内に駐留していて、その戦力は最盛期には3千を超えていたと言われています。その彰義隊(以降は彰義隊と諸隊と合わせて「彰義隊」と記述します)も、大村が十四日に布告した「翌日彰義隊を討伐する」と言う布告を見て多くが逃げ出し、上野戦争当日に山内に布陣したのは1千程度と言われています。この集団脱走の裏には、上記した通り彰義隊への参加の理由が女にもてたいが為のお調子者や、本心は参加したくないのに外圧に負けていやいや参加したのが多かったのが主因だと思われます。また参加当時は本気で新政府軍と戦うつもりだったものの、いざ戦闘が明日と聞いて怖気づいて逃げ出したのも、かなりの人数に上ったと思われます。実際この攻撃前日に逃げ出した者の中には元結城藩藩主の水心隊隊長の水野勝知や、彰義隊の生みの親である本多敏三郎までもが含まれている次第ですので、一般隊士が逃げ出したのも当然かもしれません。
 恐らく大村は攻撃日時を布告すれば、烏合の衆である彰義隊からかなりの脱落者が出ると計算しての攻撃日時の布告だったのでしょうが、3千居た兵力が1千足らずまで減少したのですから、大村にとって彰義隊はやはり敵ではなかったと言うのが、戦う前に判明していたと言えます。
 また彰義隊の稚拙さは、この攻撃前日の集団脱走だけではなく、戦闘に先立っての陣地構築を殆ど行っていない事からも現れていると思われます。本気で上野山内で新政府軍を迎え撃つ気があるのなら、陣地構築をすべきなのに、実際には徳川贔屓の侠客新門辰五郎の一派が上野山を囲む柵を築いた他は、畳や土嚢を積み上げた程度の陣地構築とは呼べない程のお粗末な対処しかしていませんでした。
 しかし彰義隊の最大の失策は、新政府軍に対しての戦略を全く立てていなかった事です。一応彰義隊には彰義隊なりの戦略はあったのですが、それは義観が唱えた会津藩や旗本の援軍が来るまで、上野に立てこもって防戦すると言う現実感の乏しいものでした。義観はこの会津と旗本の援軍が本気で来ると信じていたようですが、会津藩はこの頃自領を守る事が戦略の最優先課題で、江戸に遠征する意思など会津藩首脳部には全く無かったのに、何故義観が会津藩兵が長駆遠征してまで援軍に駆けつけると信じていたのか理解に苦しみます。また旗本の援軍にしろ、大村が万が一を考えて神田川と隅田川に掛かる橋を封鎖し、重要な各宿場に監視兵を配置すると言う壮大な戦略の前では、旗本が援軍に駆けつけるなどと言う希望観測を信じる義観の考えは、戦略と呼ぶにはあまりにも自己中心的で希望的観測に基づいたものでした。そう言う意味では彰義隊には徳川家の為に、そして武士の誇りを守る為に新政府軍と一戦を交える情熱はあったのでしょうが、どのように戦うのかと言う思慮は無かったと思われます。
 また肝心の彰義隊の上野山内の布陣ですが、これまた詳細が判りません。どうやら彰義隊本隊は天野の指揮下にありましたが、応援の諸隊に対しては指揮権が無かった模様で、またこの諸隊を纏める指揮官も居なかった模様なので、どうやら諸隊に関しては上野戦争当日は各自が勝手に戦った模様です。このように戦闘準備はおろか、明確な指揮権が確立しない状況のまま、彰義隊は軍略の天才大村益次郎が率いる新政府軍の攻撃を迎える事になるのです。


開戦、上野戦争

 かくして攻撃当日の五月十五日未明から三時に掛けて江戸城大下馬(二重橋)に攻撃参加部隊が集結、そこで簡単な説明を受けた諸藩兵は五時から六時に掛けて逐次進軍を開始、六時半から七時に掛けて所定の部署に到着した諸藩兵は七時から七時半に掛けて攻撃を開始します。

黒門口の戦闘開始
 黒門口攻撃担当の主攻撃部隊の薩摩・熊本・鳥取の各藩兵は湯島天神を経由して(湯島天神に彰義隊が駐屯してると言う情報があったため、結局は不在)広小路に到着、早速攻撃を開始します。当時彰義隊は黒門から出て忍川に掛かる三枚橋に簡易陣地を設けていましたが、この簡易陣地に新政府軍は攻撃を開始します。もっともこの簡易陣地は畳と俵を積んだ程度の規模でしたので、薩摩一番砲兵隊が砲撃を開始すると、あっけなく破れ、残存兵は黒門内に逃げ込みます。これを追って薩摩藩城下士小銃一番隊と同三番半隊がこれを追って広小路を北上し黒門に攻撃を開始します。また続いて遊撃隊一番隊や兵具隊一番隊もこれに続いた為、広小路には薩摩藩兵が殺到し、同じく黒門口担当の熊本藩兵と鳥取藩兵が展開する余裕はありませんでした。
 この為熊本藩兵と鳥取藩兵は広小路を横断し御徒町通りに移動、この御徒町通りを北上し、黒門口を正面から攻撃する薩摩藩兵を援護する為、黒門口を側面から銃撃します(薩摩藩一番砲兵隊半隊や、その他の広小路に展開出来ない薩摩藩兵の一部も御徒町通りに展開します)。

 このように黒門に追い込まれ、そこに広小路と御徒町通りから殺到する新政府軍の攻撃を受けた彰義隊ですが、この黒門口で意外な善戦を行います。前哨戦の三枚橋の簡易陣地の攻防では、薩摩藩砲兵隊の砲撃力で完勝しましたが、黒門の攻防では今度は彰義隊の砲撃が効果を発揮します。彰義隊は上野山内の山王台(現在西郷像が在る辺り)に砲台を築き(7門?)、ここから黒門を攻撃する新政府軍に砲撃を開始します。薩摩藩兵も熊本藩兵も鳥取藩兵も砲を有していたので、砲門の数では新政府軍の方が上回っていたのですが、如何せん高地から低地を砲撃する彰義隊に比べると、低地から高地を砲撃しなくてはいけない新政府軍の砲兵隊は威力を発揮出来ず、広小路と御徒町通りから黒門に進軍した新政府軍は、この山王台からの砲撃と黒門内からの銃撃(幕府歩兵隊か?)に阻まれ、中々黒門に迫れないでいました。

 一方の彰義隊も黒門口に攻めかかる新政府軍に対して、広小路及び御徒町周辺の民家に放火して、新政府軍の攻撃を遮ろうと試みますが、前日に降った雨の為思うように火が広がらず彰義隊の思惑は頓挫します。これもあえて雨季を攻撃実地日に選んだ大村の智謀の前に、彰義隊の策謀は敗れたのです。

      

左:現在の黒門口、黒門は現在撤去されて円通寺に移築されています。
中・右:円通寺に移築された黒門、無数の弾痕が当時の激戦を物語っています。

   

左:山王台跡から広小路方面を見下ろして。
右:現在の山王台の風景。

天王寺・谷中門口の戦闘開始
 一方の天王寺・谷中門口の戦闘ですが、こちらも長州・佐賀・大村・佐土原・岡山・尾張の各藩兵は団子坂を進軍し天王寺・谷中門口に攻撃を開始します。この方面には黒門程の強固な防御施設はありませんが、団子坂通りを通って天王寺と谷中門に達するまでに無数の寺院が在るのが特徴的でした。
 元来城下町を構築する際は、防御の弱い個所に多数の寺院を構築して砦の代わりとしていましたが、この方面の戦いでも彰義隊はこれらの寺院の影から銃撃を行い、進軍する新政府軍を悩ませました。しかも新政府軍が攻撃を行い、彰義隊の篭る寺院を奪取しても、彰義隊は次の寺院に篭ってまたそこから攻撃したので、言わばこの方面の戦いは建物を1つづつ占拠して前進しなくてはならない市街戦の様相を示していました。
 更にこの上野戦争に先立つ大雨のせいで小川が増水し氾濫していたため、これにも新政府軍は攻撃を阻まれ、この方面の新政府軍の攻撃は遅々として進みませんでした。
 ところで長州藩兵はこの戦いに先立ち新鋭銃のスナイドル銃が配布されていました、このスナイドル銃は他の新政府軍や彰義隊が装備する前装銃のゲベール・ミニェー・エンフィールドとは違い、銃身後方から銃弾を装填出来ました。この為前装銃と違い装填時間が短く連続発射が容易なのが特徴的なのですが、滑稽な話ですが長州藩兵はこのスナイドル銃を配備されても十分な訓練を受けていなかった為、この高性能銃の扱いに慣れていず、この戦闘中に一旦後退してスナイドル銃の訓練を行うという失態を演じます。
 この方面軍の主力は長州藩兵でしたが、その長州藩兵が後退したのですから、この方面の戦線は崩壊しても不思議ではないのに、新政府軍が攻撃を持続できたのは私見ですが佐賀藩兵の力が大きかったと思います。上野戦争の佐賀藩兵と言えば後述の砲兵隊の活躍が有名ですが、小銃隊もまた薩長に見劣りしない、むしろ上回る強兵でした。先ほど長州藩兵が新鋭銃のスナイドル銃を配布されたと書きましたが、佐賀藩兵が装備するのはそれを超える性能の最新鋭銃のスペンサー銃でした。このスペンサー銃は後装銃なのはもちろんですが、ボルトアクションにより最大7発連続発射が可能でした。この7発連続発射により佐賀藩兵は弾幕(現在の機関銃・突撃銃と比べると見劣りしますが)を張る事が可能になり、長岡藩の持つガトリング砲を除けば、この当時弾幕を張る事が出来た唯一の軍勢でした。
 この佐賀藩兵の猛射撃のおかげで、新政府軍は長州藩兵が戻ってくるまで持ちこたえ、再び長州藩兵も加わり新政府軍は前進を再開し、再び寺院を1つづつ攻略し始めます。こうして戦線に復活した長州藩兵ですが、連続発射が可能だから弾丸の消耗が激しいのか今度は弾薬補充の為後退し、代わりに津藩兵が戦線に参加します。また佐土原藩兵もまた弾薬不足に陥り、福岡藩兵と交代します。

黒門口突破と天王寺陥落
 上記のように新政府軍の攻撃に対して善戦する彰義隊ですが、これはあくまで個々の兵士達の奮戦によるもので、一方の彰義隊首脳部達の働きはお粗末の一言に尽きるものでした。何せ事実上の総指揮官の天野は攻撃当日の朝、のん気に上野山内を共を連れ巡邏していて、薩摩藩兵・熊本藩兵・鳥取藩兵による黒門口への攻撃が開始された銃砲撃音を聞いて初めて新政府軍の攻撃を知り、慌てて本陣である寒松院に駆け込むと言う体たらくでした。
 この本陣に戻った天野は各門に徹底抗戦を指令し、その後谷中門守備の兵(幕府歩兵隊第八連隊?)を引き連れ黒門への援軍に向かい、自らは山王台の砲を操り新政府軍を撃退したと自伝で自画自賛していますが、仮にも総指揮官たる者は大村のように全軍を掌握すべきもので、最前線で戦うなど総指揮官として恥ずべき事なのですが、その行為を自画自賛してるようでは天野の才覚の程を物語っていると思われます。

 このように黒門口と天王寺・谷中門口とも戦線は膠着しましたが、その均衡を破ったのは本郷台に砲台を構える佐賀藩砲兵隊でした。佐賀藩砲兵隊の持つアームストロング砲は当時最新鋭でしたが、そのアームストロング砲を持ってしても不忍池を越える事は出来ませんでした。しかし佐賀藩兵の優れた所はアームストロング砲を所有してる事ではなく、弾着点の修正技術でした。佐賀藩砲兵隊はこの技術で徐々に弾着点を修正していき、遂に正午頃には山内に弾着させる事に成功、その後はその砲撃技術で次々に山内に弾丸を撃ち込み、山内の吉祥閣や中堂を次々に炎上させていきます。
 これを受けた彰義隊の兵士達の中には動揺し脱走する者が相次ぎ、中には応援諸隊である松石隊のように隊長自らが命令して隊単位で脱走する者が出る始末でしたが、中でも動揺したのは他でもない義観でした。あれだけ彰義隊の若い隊士達を煽り、彰義隊の必勝を論じた義観ですが、いざ自分が住居する近くの吉祥閣や中堂が炎上し始めると怖気づき、命惜しさに同じく恐怖に慄く輪王寺宮を伴って、自分の言葉を信じて彰義隊の兵士達が未だに戦ってる中、彼等を見捨てて逃走します。
 このように佐賀藩砲兵隊の砲撃が始まってから徐々に彰義隊の逃走が始まりましたが、彼等は大村がわざと包囲網を開けた根岸方面に逃走していきました。彼等は新政府軍の包囲網の綻びを見つけて脱出に成功したつもりでしたが、実際には大村の計画通りに動いていたのです。

 こうして佐賀藩砲兵隊による砲撃により山内が混乱し始めたのを見た主攻撃部隊は、これを機に黒門の突破を試みますが、その突破口となったのが河田率いる鳥取藩兵でした。山王台からの砲撃に苦しむ鳥取藩兵は、山王台を狙撃出来る場所を探していましたが、そんな中鳥取藩兵の兵士達がとある商家の2階に登ると山王台の様子が手に取るように見えたので、鳥取藩兵は商家より山王台に銃撃を開始します。よもや山王台が直接射撃されるとは思っていなかった彰義隊の砲手達は次々に被弾し、山王台の砲撃力は弱まります。この機会を見逃さなかった御徒町通りの薩摩藩遊撃隊一番隊(隊長小倉壮九郎)や熊本藩兵の和田権五朗隊と堀十左衛門隊、そして鳥取藩兵所属の山国隊が決死隊として山王台脇の崖(現在階段が在る辺り)を攀じ登り山王台突入を試みます。これに気づいた彰義隊兵士達は妨害しますが、決死隊はこれに怯まず攻撃を続け、遂に山国隊が一番乗りで山王台に乗り込み、その後激戦の末遂に山王台を占拠します。
 こうして山王台が陥落したのを察した広小路の薩摩藩城下士小銃隊三番隊隊長の篠原国幹は、薩摩藩兵を率いる西郷に突撃する許可を要請、西郷がこれを許可したので城下士小銃隊一番隊(隊長鈴木武五郎)と同三番隊は黒門に突撃します。山王台が陥落したとは言え、黒門内からは彰義隊が激しく銃撃をするのにも関わらず、両隊は勇敢にもこれをものともせず黒門に突撃し、遂にこれを破り黒門を突破します。これに続き残りの薩摩藩兵具隊一番隊(隊長川路利良)や熊本藩兵も黒門から山内に突入します。
 またこの薩摩藩兵の黒門への突撃に呼応した別の軍勢(鳥取藩兵か?)が不忍池の方に回り、勇敢にも佐賀藩砲兵隊が砲撃する弾道の下を潜り穴稲荷門を攻め、これを破って(神木隊が守備?)薩摩藩兵の黒門突入に続き、穴稲荷門の突破にも成功しました。

      

左:現在の不忍池。
中:現在の中堂が在った辺りの風景、佐賀藩砲兵隊の砲撃により中堂は焼失したので、中堂の在った辺りは現在噴水広場になっています。
右:山王台に建つ彰義隊隊士達の墓

 一方の助攻撃軍ですが、弾薬補給の為一旦退いていた長州藩兵と佐土原藩兵も戦線に復帰し、更に兵力不足から王子宿場から残りの津藩兵全兵が駆けつけ、佐賀藩兵・長州藩兵・大村藩兵・佐土原藩兵・岡山藩兵・尾張藩兵・福岡藩兵・津藩兵の全軍により寺院を一つづつ攻め落とし、遂に上野寛永寺最大の支城と言うべき天王寺に攻め寄せます。この天王寺にはかなりの数の彰義隊が篭り(兵力不明)防戦しましたが、佐賀藩兵と長州藩兵の猛射撃を始め諸藩兵が攻めよせ、遂に天王寺を攻め落とし天王寺境内に火を放ちます。
 この天王寺を攻め落とした助攻撃軍は一旦団子坂に退くのですが、私見ですがこれは谷中門に攻め寄せる前に一旦団子坂に退いて弾薬補充と再編成を行なったのではないかと推測します。

   

左・右:現在の天王寺、当時の建物は長州・佐賀等の助攻撃部隊の攻撃により大半が焼失したので、現在は殆ど残っていません。

上野陥落
 このように黒門が破られ、天王寺が陥落したのを知った天野は(どうやらこの頃本陣の寒松院に戻っていた模様)、黒門への援軍として小川斜三郎率いる幕府歩兵隊1個小隊(詳細不明)を率いて駆けつけますが、黒門を突破して突進してくる薩摩藩兵を前にして振り向くと、小川以下幕府歩兵隊は1人残らず逃走していました。またこの時元幕府大目付の大久保忠宜が「東照大権現」の旗を掲げ手勢を率いて薩摩藩兵に突進しますが、薩摩藩兵の銃撃を受けあえなく戦死、そして大久保が戦死するとその手勢は蜘蛛の子を散らすように逃走します。
 このように黒門突破後は各地で彰義隊兵士の逃走が相次ぎ、この集団逃走の空気が流れる中、何と彰義隊の事実上の総帥の天野までもが命惜しさに上野から逃走します。この首脳部の逃走は天野だけでは無く、この黒門の突破以降彰義隊の首脳部の逃走が相次ぐのですが、黒門が突破された以上上野の陥落は避けられないので、上野からの脱出は恥ずべき事はないのですが、天野達の驚くべき所は未だ山内で彰義隊の兵士達が戦っているのに関わらず、彼等に「山内から脱出せよ」と命令せずに、自分達だけ逃走したのです。


 このように天野等の卑怯者が自分の命惜しさに上野山内から逃走する中、徳川家への忠誠心に燃える彰義隊の若い隊士等は絶望的な状況にも屈せず健気にも薩摩藩兵・熊本藩兵・鳥取藩兵の諸藩兵に挑み、一人一人次々と戦死していきます。余談ですが、この彰義隊の若い隊士達の奮戦には、「上野山内で耐えていれば、いずれ会津藩の援軍が来る」と言う義観の妄言を信じていた者も多かったらしく、中には黒煙の中から現れた新政府軍の兵士達を会津藩兵と勘違いし、近づいて射殺される者も居た模様です。
 このように必死に抵抗する彰義隊の若い隊士達を薩摩藩兵・熊本藩兵・鳥取藩兵の諸藩兵が次々に駆逐していき、更に徳川家の権力の象徴を消滅させるべく、上野寛永寺境内の各寺院に次々と火を放ち、これにより上野の山内は火の海と化します。この新政府軍の放火は遂には本堂である御本坊まで焼き尽くし(輪王寺宮と義観は命惜しさに既に逃走済み)、未だ彰義隊兵士達の抵抗は若干続いていましたが、この御本坊の焼失により上野寛永寺は事実上陥落し、これ以降は「攻防戦」ではなく「掃討戦」となったのです。その掃討戦も夕方には終わり、早朝から始まった上野戦争は夕暮れには終結したのです。

      

左:輪王寺に移築された御本坊の門、この門以外の建物は主攻撃軍の攻撃により焼失した模様です。
中・右、門に今も残る弾痕、薩摩・熊本・鳥取の精鋭部隊による弾痕だと思われますが、これにより御本坊まで主攻撃軍が攻め込んだと言うのが判ります。

 一方のこの作戦を指揮した大村ですが、彼は佐賀藩砲兵隊の砲撃が上野山内に着弾し始めた正午頃から、江戸城富士見櫓に移って戦況を見守っていたのですが、正午になっても戦況が一進一退なのを見たこの上野攻撃に反対だった林や海江田らが大村に抗議に訪れますが、砲兵隊の砲撃が着弾し始めた以上いずれ黒門と谷中門を突破すると確信していた大村は懐中から時計を取り出し、「もうすぐ上野は落ちる心配は無用です」と彼等に言い放ちます。
 この言葉に納得できない林や海江田らは尚も食い下がりますが、やがて上野の方向から黒煙があがり、それが猛火に代わると大村は「これで戦いは終わりました、我等官軍の勝利です」と言い、それに呼応するように伝令が到着し、上野が陥落した旨を伝えると江戸城内は歓声に沸き返り、悉く大村の智謀に喝采するのです。・・・ただ一人海江田を除いては・・・。

   

左・右:靖国神社境内に建つ大村益次郎の像、この像は上野戦争時の大村の姿を描いているらしく、その鋭い視線は今も上野の山を睨みつけています。

 余談ですが上記のように主攻撃部隊の活躍により上野は陥落しましたが、一方の助攻撃部隊がどうしてたかと言いますと、主攻撃部隊が黒門を突破した時刻辺りは団子坂に退き戦列の立て直しと休憩を行っていた模様です。私見ですが助攻撃部隊はこの戦列の立て直しと休憩が終わり次第、谷中門口への突撃を計っていたのですが、彼等助攻撃部隊が攻撃を行う前に主攻撃部隊の突撃により上野が陥落したので、彼等助攻撃部隊が谷中門を突破する前に上野戦争が終結したと言う所ではないでしょうか。


上野戦争後の戦後処理

 以上のように上野は陥落しましたが、彰義隊の多くは大村がわざと包囲網を開けておいた根岸方面に逃走し、天野を始め多くの者は再起するつもりでした。しかし根岸方面に脱出出来たのは大村がわざと包囲網を開けていたからで、そこに脱出出来た後は、各重要な宿場に監視兵が配置される大村の壮大な包囲網の前にそれ以上は進めず、次々に各地を守る新政府軍に束縛及び捕殺されていきます。
 更に上野戦争の翌日の16日になると大村は彰義隊の残党掃討作戦を発令、新たに以下の配置を命じて彰義隊の敗残兵狩りを指令します。

広小路周辺:薩摩藩・熊本藩・鳥取藩
本郷・駒込・根津周辺:長州藩・佐賀藩・佐土原藩・大村藩・岡山藩
道灌山・谷中・王子周辺:芸州藩・津藩・久留米藩
浅草・蔵前周辺:福岡藩・尾張藩

 また先日陥落させた上野山内の警備は河田率いる鳥取藩兵に命じ、上野山内の索敵及び万が一に備え守りを固めます。他にも芸州藩兵を甲州街道を甲府目指し進発させ、彰義隊残党が甲州を目指すのに備えさせます。このように綿密な包囲網を新たに設けた新政府軍の前に、この日多くの彰義隊残党が捕まり、再起を計ると言う彰義隊残党の思いは大村の戦略の前に前日に続き敗れ去るのです。
 ちなみに上野から逃げ出した天野と義観のその後ですが、天野は江戸に潜伏して再起を計りますが、結局警戒兵に捕らわれ獄中で病死します。また義観はその凄まじい新政府軍への恨みから奥羽まで逃げ延びて、今度は奥羽諸藩に新政府軍への恨みの言葉を語りますが、結局奥羽越列藩同盟が敗れた後に捕らわれ、獄中で新政府軍への恨みから憤死します。
 このような彰義隊残党への包囲網を作成する一方で、大村は勝の自宅に家宅捜索を送り込みますが、これは大村の勝に対する明確な警告で、これ以降勝は新政府軍に対してひたすら恭順する事になります。
 こうして彰義隊残党の掃討戦が続く中、上野戦争が終わって四日後の五月十九日新政府は江戸鎮台を創設して、江戸における行政権と裁判権を徳川家から完全に奪い取り、以降江戸は新政府の完全な管理化に置かれます。
 そして上野戦争終結から九日後の五月二十四日、徳川家に対して駿河70万石に移封する事を通告します。かつては江戸に100万石を安堵させ、更に慶喜まで復帰させるつもりだった勝からすれば、この駿河70万石と言うのは比べ物にならない酷な処分ですが、彰義隊が討伐される様を目の当たりにした勝や他の幕臣達には、この通告に反発する気力ももはや無く、ただ唯々諾々とこの新政府軍の「命令」に従わざるを得ませんでした。


上野戦争の意義

 こうして終了した上野戦争ですが、原口清氏は上野戦争の意義について「上野彰義隊を掃滅する事によって、これまで関東地方やその周辺地域において遊撃戦を行なってきた反政府勢力に決定的な打撃を与え、その勢力を一挙に弱体化するとともに政府軍のこの地域における威信を回復する事が出来たのである」「奥羽越列藩同盟軍に対し新たな圧力を加え、その優位を確立する事が出来たのである」「従来表面的な政府に忠誠を装いながらも、なお二心的態度を続けてきた東海・甲信・関東諸藩の動向を完全に決定させた。上野戦争以後、嫌疑諸藩に対する政府の督責は厳しく行なわれ、これら諸藩は藩内の反政府分子の処分その他、政府に従属する体制を整えてゆくことを余儀なくされる」と述べており、これについては私も全面賛成です。ただ個人的に上野戦争の意義については原口氏の説に加えて「上野戦争の勝利により、後の戊辰戦争は大総督府の指導ではなく、中央政権の新政府の指導により行なわれる事になる」「新政府軍に平潟口方面軍が編成される」の二点も追加させて頂きたいと思います。
 まず「上野戦争の勝利により、後の戊辰戦争は大総督府の指導ではなく、中央政権の新政府の指導により行なわれる事になる」については、上記の通り上野戦争が起きるまでは大総督府は半ば新政府から独立した存在でしたが、江戸開城後の不手際と大村の独断による上野戦争の勝利は大総督の権威を失墜させ、これ以降の戊辰戦争の指揮は大総督府ではなく、中央政権である新政府の軍事官僚である大村の指導下に行なわれる事になります。そしてこの事は、以降の戊辰戦争が文民統制で行なわれる事を意味したのです。
 また「新政府軍に平潟口方面軍が編成される」については、上記の通り軍略の天才と呼ばれた大村が以降の戊辰戦争を指導する事により、これまで戦略的な行動を取れなかった新政府軍もようやく戦略的な行動を取る事が可能になります。まず大村はどのように用いるのかが注目された上野戦争の勝利によって余剰になった戦力を、江戸城の多くの将兵は白河口や越後口に援軍として送る事を具申する中で、寡兵で奮戦する会津追討白河口総督府軍(旧東山道軍)に一部を援軍に送る一方で、残りの兵で新たに上野戦争で活躍した河田や渡辺清等を参謀とした会津追討平潟口総督府軍を新たに編成し、海路平潟を突かせる事を発表します。この頃の奥羽戦線は白河口と日光周辺で新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が激戦を繰り返していましたが、この平潟軍が海路平潟に上陸した事により、この浜通り方面の警戒を怠っていた同盟軍は側面を突かれ、特に同盟盟主の仙台藩兵を大いに敗走させる事に成功します。これにより白河方面への同盟軍の圧力は弱くなり、逆に白河の新政府軍が以降北上を開始し同盟軍との戦いを有利に進める事になるのです。

 この様に上野戦争の勝利は政治的には未だ不安定だった新政府の権威を確立させ、徳川幕府に代わる政権だというのを内外に知らしめる事になったと言えましょう。また軍事的には大村益次郎が新政府軍の指揮権を掌握した事により、それまではどことなく志士的な要素を持っていた新政府軍の組織が、純粋な軍事組織に脱皮して、実質戊辰戦争の本格的な戦いとなる奥羽越列藩同盟軍との戦いに勝利する下地になったと言えましょう。以上の様に戊辰戦争の中でも上野戦争は政治的にも軍事的にも重要な戦いだったのは間違い無く、「戊辰戦争中鳥羽伏見戦争に継いで大きな意義を持っている」との原口氏の主張に全面的な賛意を示させて頂きたいと思います。


主な参考文献

「戊辰役戦史」:大山柏著、時事通信社
「復古記 11巻」:内外書籍
「戊辰戦争」:原口清著、壇選書
「戊辰戦争論」:石井孝著、吉川弘文館
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書
「三百藩戊辰戦争辞典」:新人物往来社

「薩藩出軍戦状 1・2」:日本史籍協会
「防長回天史 第6編上」:末松春彦著
「大村益次郎〜幕末維新の兵制改革〜」:絲屋寿雄著、中公新書
「鳥取藩史 第1巻」:鳥取県立図書館
「鳥取県史」:鳥取県
「鳥取県郷土史」:名著出版
「鳥取市史」:鳥取市役所
「丹波山国隊史」:水口民次郎著
「山国隊」:仲村研著、中公文庫


参考にさせて頂いたサイト
隼人物語様内「戊辰侍連隊」
幕末ヤ撃団様内「戊辰戦争兵器辞典」

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