春日山城登城記

 米沢藩藩祖の上杉謙信公、米沢藩初代藩主である上杉景勝公の居城だったのが、越後春日山城です。戊辰戦争の際に米沢藩兵は越後に出兵しましたが、それに対して故石井孝を始め多くの人が「米沢藩は故地である越後奪回を目指していた」と主張していますが、私としてはこの主張には史料的根拠が無いと否定しています(詳しくはこちらを参照下さい)。ただ米沢藩兵に越後奪回の野望は無かったとしても、米沢藩が属する奥羽越列藩同盟の作戦目標が「高田の新政府軍本営の撃破」だったので、もし同盟軍が中越戦線の戦いに勝利すれば、米沢藩兵が春日山城に270年ぶりに凱旋した可能性はあったかと思います。
 そのような春日山城ですが、私がデジカメを使うようになったのは戊辰戦争を調べるようになった1998年以降で、以降春日山城址に訪問した事が無かったので、今回初めてデジカメを持っての春日山城址訪問となりました。

   

 左:春日山城城址の遠景。
 右:復元された大手道の入り口付近。春日山駅から徒歩一時間弱で、この場所に到着します。

   

 左:復元された旧大手道
 右:番所跡と春日山城址山頂の遠景。中央のこんもりした小山が番所跡で、その奥に見えるのが、春日山城の山頂です。

   

左:南三の丸に繋がる旧大手道。
右:南三の丸から見た、旧大手道の入口。右側の隘路が旧大手道です。

   

 左:柿崎和泉守屋敷跡に繋がる旧大手道。
 右:柿崎和泉守屋敷跡から上杉景勝屋敷跡に繋がる道。

   

 左:上杉景勝屋敷跡。名前のとおり景勝公の住居と、景勝公の家臣団(上田長尾衆)の住居が在ったと伝えられます。
 右:井戸曲輪に今も残る大井戸。覗いたら今も水が沸いていました。

   

 左:三の丸の上杉景虎屋敷跡。創作作品(フィクション)の影響で、上杉景虎の人気は高いらしく、この上杉景虎屋敷跡の説明版にも「美男子」とか「多くの女性ファンが訪れている」と書かれていたのには驚きました。
 右:三の丸の米蔵横の土塁。この土塁は復元された物ではなく、当時の土塁が現存した物だそうです。

   

 左:千貫門跡、直江屋敷跡間の虎口付近。
 右:千貫門跡付近の空堀跡

   

 左:直江屋敷跡。
 右:虎口から二の丸に繋がる小道。

   

 左:二の丸跡から見た、山頂の本丸跡。前述の三の丸は、二の丸の真下に位置します。御館の乱の開戦時に、景勝公の軍勢は本丸から、三の丸の上杉景虎屋敷に射撃したと言われます。
 右:直江屋敷跡から本丸跡に至る途中に復元された、毘沙門堂。昭和六年に復元された物と書かれています。

   

 左:本丸跡に建つ、春日山城址の石碑。
 右:本丸跡から直江津方面と日本海を見て。
 多くの方がご存知のとおり、直江津から入る貿易による莫大な利益が、謙信公の遠征を支えていました。その上杉家にとって重要な資金源である直江津を、春日山城が押さえていると言うのを実感して頂けると思います。またこの直江津内に後述する御館が存在していました。

   

 左:天守台跡。当たり前ですが、天守台と言っても春日山城に天守閣が在った訳ではありません。
 右:春日山城跡入口に建つ、謙信公の像。

 上記のとおり、戊辰戦争時の際に米沢藩兵が越後に出兵したのは、巷に言われているような越後奪回と言うようなものではなかったものの、中越戦争で勝利すれば、春日山城に米沢藩兵が凱旋した可能性はあったかと思います。もし米沢藩兵が春日山城に凱旋したら、かつて謙信公・景勝公に従って関東・信州・北陸に出兵した上杉軍の子孫達は、どのような想いを抱いたのだろうと思いながら、春日山城址を後にしました。


番外編@:御館跡

 御館の乱時に上杉景虎の拠点となった事で有名な御館跡ですが、現在は公園内に御館跡だった事を示す石碑が建ってあるだけで、遺構は何も残っていません。春日山城跡から御館跡までは僅か4〜5キロしかなく、徒歩で一時間足らずで到着します。このような至近距離で景勝公の軍勢と、景虎の軍勢が一年近くも対陣していたと言うのは驚きです。


番外編A:魚津城跡

 春日山城とは関係ありませんが、画像数が少ないので、魚津城跡の画像もこちらに掲載させて頂きます。魚津城は越中と越後の国境付近に位置する、越中内の城であり、上杉家の越中支配の拠点である松倉城の、有力な支城の一つでした。
 魚津城が歴史上最もクローズアップされたのは天正十年(1582年)の魚津城の戦いでしょう。柴田勝家率いる織田家の北陸方面軍は、越後目指して進軍する中、上杉家にとって越後国境防衛の最後の拠点である魚津城を巡り激戦が繰り広げられます。柴田勝家軍だけではなく、信濃からは森長可勢が、上野からは滝川一益勢も越後国境に迫る状況に追い込まれた上杉家当主である景勝公は、この時に滅亡を覚悟した程の危機に陥り、柴田勢に囲まれた魚津城に救援に向かう事も出来ず、遂に天正十年六月三日に魚津城は落城し、城兵は尽く玉砕しました。
 しかし魚津城落城の前日の六月二日に、史上有名な本能寺の変で織田信長が横死した事により、織田勢は尽く国許に撤退した為、上杉家は滅亡の危機から脱する事が出来ました。もし魚津城の奮戦が無ければ、柴田勝家軍の越後進入を許し、本能寺の変を待つ事無く上杉家は滅亡したかもしれないので、後の上杉家米沢藩の成立に魚津城の果たした役割は大きかったと言えましょう。その功績を称えられたのかは判りませんが、玉砕した魚津城城将の中条景泰、竹俣慶綱、山本寺景長、若林家吉等の家系は、後の米沢藩内で優遇されています。

   

 左:魚津城跡の碑。
 右:越中進軍中に謙信公が読んだ詩の歌碑。
 そのような米沢藩成立において重要な役割を果たした魚津城ですが、訪れたのは今回が初めてです。大町小学校の敷地内に石碑がある為、かつては訪れるのも大変だったみたいですが、2009年放映のNHK大河ドラマ『天地人』の影響で一般解放され、今回普通に見る事が出来ました。正直『天地人』には比叡的なイメージしか持っていませんでしたが、この魚津城跡の開放をしてくれた事に関しては感謝しています。

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