米沢藩における戊辰戦争の参戦経緯

始めに

 米沢藩の戊辰戦争参戦理由については、故石井孝が唱えた「米沢藩がこのように積極的な行動をとったのは、旧領の越後に勢力をのばそうとする野心があったからであるという(維新の内乱)」との意見が判り易い為、現在まで主流になっていると思います。一方で有名な宮島誠一郎の動向から、「米沢藩はハト派」とのイメージも強く、この両極端なイメージの間で揺れ動いて、米沢藩の戊辰戦争参戦理由についての研究は中々進んでいなかったのが実情でしょう。しかし2002年に上松俊弘氏が『歴史評論631巻』にて発表した「奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩」にて、米沢藩の戊辰戦争参戦理由に於いては軍務参謀である甘糟継成がキーパーソンとなり、彼が中心となった軍政府がリードして米沢藩は戊辰戦争に参加したとの指摘は、初めて米沢藩の参戦理由が本格的に研究された優れた見解だと思います。
 正直言いますと、上松氏の二番煎じになるのが嫌で、上松氏の指摘を覆す史料を探した事もありました。しかし色々な史料を読めば読むほど、「甘糟が主導して米沢藩は戊辰戦争に参戦した」との上松氏の見解に説得力を感じるようになり、上松説に賛同するようになりました。この為に本記事では「甘糟継成がキーパーソン」との上松氏の見解を踏まえつつ、軍務参謀と言っても中級藩士に過ぎない甘糟が藩論をリード出来た背景と、主戦派に対する和平派の反発と、そして最終的に和平派を挫折させた長岡城の落城の影響を考察したいと思います。


120万石から15万石へ 〜米沢藩の藩風の形成〜

 幕末の動乱時には藩規模の大小に関わらず、多くの藩で尊皇派と佐幕派による権力闘争に行われたのはご存知だと思います。これは確かに思想による対立もあったでしょうが、どちらかと言えば単に政争の具として利用された藩の方が多かったのではないでしょうか。藩内の与党的存在である門閥重臣派は今までの体制が続く方が、自分達の利権が継続するので幕府を支持して佐幕派になり、逆に重臣達により藩内の野党的存在に追いやられている軽輩達が、重臣達から権力奪取を目指して、尊王を掲げていたのが多かったように思います。
 しかし米沢藩は、中規模の藩にも関わらず、尊皇派と佐幕派の対立が無かったのが特徴でしょう。そしてこの尊皇派と佐幕派の対立が無かった事が、戊辰戦争終盤における米沢藩の不思議な人事に現れたと思います。こう書くと「米沢藩は奥羽越列藩同盟の盟主なのだから、佐幕派だろう」と思われる方も多いでしょうけれども、米沢藩はあくまで寛文年間に会津藩に危機を救ってもらった事(後述)を恩義に感じているのと、世子茂憲の正室が会津藩主松平容保の兄弟と言う関係から会津討伐に反対しただけで、決して佐幕派一本ではなかったと言えましょう。
 そもそも豊臣政権下で会津百二十万石だった上杉家を十五万石まで削封したのは、他でもない徳川家なのですから、上杉家が徳川家に恩義を感じる佐幕派だったと言うのは考え難いです。これは千坂高雅も『史談会速記録』にて恩義を感じていないとの証言しています( *1)。
 しかし三代藩主綱勝(景勝公の孫)が後継者を定めずに急死した際、本来なら御家断絶だった所を、当時の会津藩主保科正之によって助けられ、末期養子により領土を十五万石に半減されたものの藩の存続は実現した為、米沢藩はこの会津藩に対する恩義を終始忘れる事は無かったのは事実です。これは宮島誠一郎の日記からも伺えます( *2)。
 広く知られている通り、上杉家は百二十万石時代から十五万石まで削減された幕末まで家臣の数が殆ど変わっていません。この為に江戸時代を通じて終始慢性的な財政不足に苦しみ、名君と呼ばれる上杉鷹山の元で改革が行われたのですが、これは本稿とは関係ないので割愛します。とにかく関ヶ原直後から家臣数が殆ど変わらず幕末を迎えた事により、米沢藩には他藩では見られない妙な結束力があるように見え、これが戊辰戦争での米沢藩の特殊な人事に繋がっていると考えます。


米沢藩は本当に佐幕派だったのか

 米沢藩が尊皇派と佐幕派のどちらとも言えないとの根拠の一つに、文久・元治年間の米沢藩の動向が挙げられるでしょう。有名な文久三年の八月十八日の政変の際、米沢藩は鷹司家で対峙する薩摩藩と長州藩の間に入り、長州藩の退去を促します。また後日朝廷で行われた長州藩の処分をどうするかとの評議の際、鳥取藩や徳島藩と共に寛容な処置を求める(米沢市史第3巻)など、一見すると親長州派的な動きが見られます。一方で幕府から元治元年に藩主上杉斉憲が政治総裁に就任するに要請されるなど(結局は辞退「上杉家御年譜17」)、幕府との関係も決して悪くはありませんでした。このように幕末の米沢藩は、他の多くの藩がそうだったように尊攘派と佐幕派のどっちつかずの状態であり、良くも悪くも封建主義の下での個別領有権を何よりも大事に考える御家第一主義だったと言えましょう。
 しかしこの定見を持たない御家第一主義だった為に、王政復古のクーデター後に旧幕府と新政府の双方から自分の陣営に加わるように迫られてしまいます。それぞれ旧幕府からは「上阪」、新政府からは「上洛」を求められたのにも関わらず、藩首脳部の意見が二転三転して中々決断出来ずにいました。紆余曲折の末、年が明けた慶応四年一月一日に藩論を「上阪」と決定として、本庄昌長を大隊長とする先発隊を、旧幕府に味方する為に一月十三日に出発させます。先発隊の出発後一月十五日に本軍も米沢を出発するものの、福島宿に到着した際に鳥羽伏見の戦いの報を聞き、同時に新政府軍に旧幕府軍が敗北した事を知るのです。鳥羽伏見の敗戦を知った藩首脳部は慌てて「上阪」を中止して、全軍を米沢藩に引き返させます。この慶応四年になるまで藩の方針を決める事が出来ずに小田原評定を続けた事と、折角藩論を「旧幕府支持」に統一して出兵させた藩兵を、鳥羽伏見の敗戦を聞くと慌てて撤兵させた事は、米沢藩の権威を傷つける事となります( *3 )。
 また帰国後に、後に越後派遣軍の参謀を務めることになる斉藤篤信「薩長等之逆藩私党を語合其霊に乗、逆ニ去十二月九日之大変ニ立至し、彼等表ニハ尊王復古を口実といたし候得共、内実ハ専ら自国利害之私より凶邪を構へ(上杉文書)」と建白する事から、藩内に薩長を中核とする明治新政府に対する不信感が漂っていた事も伺えます。


戊辰戦争直前の米沢藩の動向

 朝敵となった旧幕府に味方をしようとした失態を挽回する為に、米沢藩首脳部は新進気鋭の奉行(米沢藩での家老の呼称)である千坂高雅(当時二十七歳)を京の新政府に派遣します。この千坂は「一藩皆兵、一家一兵、一兵一銃」をスローガンとする軍制改革を行うなど、旧態依然と化していた米沢藩兵の軍制を近代化(西洋化)を指導していた人物であり、その下には米沢藩の戊辰戦争に大きく関わることになる甘糟継成雲井龍雄宮島誠一郎などの俊英が集っていました。
 しかし京から離れた米沢の情勢とは裏腹に、既に京では新政府の権力が確立しており、米沢藩の京藩邸勘定頭真野寛助が、二月十ニ日に奥羽鎮撫総督府に招かれ、「討会ノ際米沢口ハ弊藩一手ニテ足ル、他藩ノ援助ニ要ナキ」と陳言する情勢でした(上杉家御年譜17 P630)。このような新政府の勢いを目の当たりにした上洛した千坂は、新政府に抗する不利を悟り、新政府より大隊旗を下賜され、速やかに国許に戻り、奥羽鎮撫総督に協力するようにと指示を受け米沢に帰る事になります(*4)。


米沢藩と仙台藩の周旋工作

 奥羽鎮撫総督府が仙台藩領に到着する以前の二月二十六日に、既に新政府より会津征討の内命を受けていた仙台藩より、安田竹之助玉虫左太夫の両藩士が米沢を訪れます。奉行の色部久長竹俣久綱、中老の若林秀秋、年寄の木滑要人大滝忠恕が応対し、この場で会津藩救済を協力して行う事が合意しました。この日の会合が、その後の仙台藩と米沢藩による会津藩救済の周旋の始まりとなるのです(上杉家御年譜 17)。この米沢藩が仙台藩と共に会津藩の救済周旋を始めた事をもって、米沢藩を純粋な佐幕派とみなす向きがありますが、新政府と会津藩間の争いに巻き込まれたくないと言う保身から、新政府と会津藩の周旋を行ったのが実情でしょう。ただし前述の通り米沢藩士の中には寛文年間に会津藩に御家断絶を助けられた恩義を感じている同情論が強く、会津藩に対して同情的だったのもまた事実でした。
 こうして米沢藩と仙台藩による会津藩救済の周旋が始まったものの、面子に拘る会津藩との周旋は中々進まず、その間の四月一日に奥羽鎮撫総督府から、四月十日までに会津藩征討の兵を出発させるようにとの命令が入ります。この命令に先立つ三月下旬に、前述の京から大隊旗を持った千坂が帰藩していました。会津藩に同情的な藩論の中、千坂は新政府の命に従い会津藩征討軍を出発すべきと建白を行います。これについて千坂は後年『史談会速記録』にて、自分が尊王精神を持っていたと述べていますが、他の米沢藩士同様に千坂にも明確な思想は無く、京で鳥羽伏見の勝利を得た新政府の勢いを見て、新政府に対抗しても米沢藩に不利益と判断したと考えるのが妥当でしょう


もう一つの米沢藩「軍政府」

 上記の千坂高雅の建白を聴いて感銘を受けた藩主は、四月五日に千坂を軍事総裁に任じて(上杉家御年譜17)、藩の軍事に関する権限を全て千坂に一任する事になります。また同日軍政府の参謀として甘糟継成が任命されました。
 軍政府の軍務総督に就任にした千坂は、西洋化がまだ不十分の米沢藩の軍制改革に着手します。元々米沢藩は他の奥羽諸藩と比べると、銃砲への取組みが進んでいました。当時多くの藩で「鉄砲は下賎の武器で、士分は持たぬ物」と言う認識が強く、特に奥羽諸藩では慢性的財政不安も絡まって、小銃を軽んじる風潮が強かったと言えましょう。しかし米沢藩は藩成立時から、当時の執政直江兼続が鉄砲鍛冶を優遇し、参勤交代から藩主が帰国した際に行われる観閲射撃の順番を巡って馬廻組と五十騎組が何度も争うなど、鉄砲の技術を誇りにする風潮がありました(上杉鉄砲物語)。
 ペリー来訪の前後には徐々に西洋銃も導入するようになり、文久二年には基本的に槍隊を廃し、全藩士を銃隊化し、藩兵の戦闘単位を大隊編成にするなどの軍制改革を行います(上杉家御年譜16)。上記のとおり、個々人が鉄砲の扱いに長けていた米沢藩では、全藩士を小銃隊とするのも決して抵抗が無かったので、これらの軍制改革が進んだと思われます。
 そして軍政府の軍務総督に就任した千坂は、この軍制改革を更に進め、全藩兵を8個大隊に再編成して、全藩士の西洋銃を装備した銃隊化を目指したのが特徴です(上杉家御年譜17)。
 元々慶応三年の末にはミニエー銃とゲベール銃を合わせて2500挺を購入していた米沢藩でしたが、千坂が軍務総督に就任した慶応四年四月には、更にミニエー銃1000挺、元込め銃(スターク銃?)を500挺購入するなど(海軍創設史)、遅ればせの感はあるものの、米沢藩は軍政府の主導で軍制改革を行っていました。
 軍政府の軍制改革が行われる一方で、奥羽鎮撫総督府の催促により、四月二十日には横山与一柿崎家教が率いる会津征討の第一陣が綱木口に出兵が決まるものの(上杉家御年譜17)、相変わらず藩内に残る会津に対する同情的な世論が強いのに対して、藩主斉憲が家中に討会出兵に従うように諭す事になります(*5)。
 このように千坂率いる軍政府が会津征討の準備を続ける中、一方で仙台藩と協力しての戦争回避も続けられており、また京に残留する宮島による戦争回避の工作も続けられていると言う二律背反的な姿勢を米沢藩は取っていたのです。


仙米両藩の周旋工作の頓挫

 軍政府が綱木口に出兵の準備を続ける一方で、藩政府の方は会津藩の周旋工作を続けており、四月二十日には藩主斉憲の従弟である上杉主水と中老若林秀秋を会津に派遣して最後の説得を試みます。しかし既に四月十日に庄内藩と軍事同盟を結んでいた会津藩は強気で、米沢藩の周旋を中々受け入れませんでした。これに業を煮やした米沢藩が夜半になり、周旋を打ち切ろうとすると会津藩側も慌てて、ようやく「藩主父子の城外謹慎」と「削封」をニ条件に米沢藩に周旋を依頼する事になるのです。
 これを受けた米沢藩は仙台藩に使者を送り、四月二十九日仙台藩領七ヶ宿街道の関宿にて、米沢藩の木滑要人大滝忠恕片山仁一郎、仙台藩の但木土佐坂英力真田喜平太泉田志摩、会津藩の梶原平馬等との間で、会津藩の恭順をどのように行うかの会議が開かれます。しかしこの期に及んでも、会津藩が鳥羽伏見の戦いの首謀者の首級差出を拒んだ為、これでは第一次長州征伐で三家老を切腹、四参謀を斬首した経緯のある長州藩は納得しないだろうと、仙台藩の但木が「一国皆死を以て守護すると一両人の首級を以て無事とするはいずれが得か」と発言。続いて真田が「これよりただちに帰藩して兵備をなすべし、吾等と戦場にて相見えん」と発言すると(山野田理夫著「東北戦争」)、遂に梶原も観念して、仙台藩と米沢藩に奥羽鎮撫総督府に対する周旋を依頼する事になります。
 こうして会津藩の謝罪恭順を取り付けた米沢藩と仙台藩だったものの、仙台米沢の両藩だけでは実質奥羽鎮撫総督府を率いる参謀世良修蔵を説得出来るか危ぶんでいました。実際世良は仙台藩と米沢藩の動向を察知して、両藩に対する督戦を強めています。世良の動きを見た但木は、米沢藩奉行の竹俣久綱と相談し、仙台と米沢の二藩だけではなく、会津藩救済を全奥羽諸藩の総意として奥羽鎮撫総督府に圧力を掛ける事を決定し、かくして閏四月十一日に両藩の呼び掛けを受けた奥羽諸藩の代表が、仙台藩領白石に集結します。
 どの奥羽諸藩も戦乱に巻き込まれたくは無い為、仙台藩と会津藩の掲げる会津藩救済に賛同する事になります。こうして奥羽諸藩の総意たる嘆願書が作成され、これが後の奥羽越列藩同盟に繋がる事になるのです。奥羽諸藩の総意を取り付けた翌日の十二日、仙台藩主伊達慶邦上杉斉憲の両藩主は、仙台藩領岩沼宿に宿陣している奥羽鎮撫総督府の九条道孝総督を尋ね、嘆願書を提出します。当初は嘆願書の受理に難色を示したと言われる九条ですが、所詮はお飾りに過ぎない公家、八時間にも及ぶ両藩主の強訴の前に遂に屈服し、「軍事参謀の意見も聴かずばならない(山野田理夫著「東北戦争」)」と前置きした上で、嘆願書を受け取る事になります。結局世良により、この嘆願書は却下される事になるものの、仙台藩は嘆願書提出後に突如変心し、まだ世良からの嘆願書却下の知らせが届く前に、世良の暗殺を計画するようになります。奥羽鎮撫総督府参謀である世良を暗殺すると言う事は、自らが和平を捨てて明治新政府との対決を決断したと言えましょう。言わば仙台藩は米沢藩と組んでの和平路線を捨て、会津藩と組んでの強硬路線に転向したと言えるでしょう。
 その仙台藩の強硬路線転換を示すように同十五日に、仙台藩の板英力から会津藩の梶原平馬宛に奥州の玄関口であり、現在新政府が保有している白河城を占領するように促す書状が届きます(*6)。
 これまでは仙台藩と米沢藩との連携で戦争回避が試みられていた奥羽情勢でしたが、これ以降は仙台藩と会津藩の連携により、明治新政府との全面戦争を目指す事となるのです。


米沢藩は本当にハト派だったのか

 こうして強硬路線に転じた仙台藩に対して、米沢藩は和平路線を模索し続けていたと一般的には言われています。これは宮島誠一郎の影響が大きいと思われますが、色々な史料を読んでいくと仙台藩のように能動的に明治新政府との交戦を望んだ訳ではないものの、後述するように「米沢側から先制攻撃を行うのは駄目だが、新政府軍から仕掛けられたらのならば、抗戦しても構わない」と定めるなど、決して徹底した和平路線では無かったと思います。
 しかしこの消極的な強硬路線も芯の通ったものではなく、誤報に対しての過剰反応の節と思われます。木滑要人の閏四月十七日の日記に「若生より御談判仕度儀御座候間、御重役方御初御一同、佐藤勇記宅迄御出被下度云々申來、夕刻より竹老(奉行竹股久綱)初メ我等大瀧片山相揃罷越仙より坂但二大夫若生罷出、官軍五六百人白川(ママ)城江今日到着之様子ニ相聞候由、報告有之候趣ニ而、此後の急務とする處評判有之」との記述がある。これは新政府軍の援軍5、600人が白河城に来援すると言う風説を伝えるものでしたが、この報告を得た木滑が動揺しているのが伝わってきます。尚、奇しくもこの白河城に対する援軍以来は、実際に世良から東山道軍参謀の伊知地正治に送られており(伊地知日記閏四月十一日「初め奥羽総督之参謀長人世良修蔵度々白川(ママ)口へ鷹援致呉候様申來候得共、先つ白川表難戦と至る譯にも無之内、別に総督も有之、奥羽に出先々断にて出兵不相成事故大総督府へ一先つ可伺出旨、総督岩倉殿より御沙汰に付」、同十九日「昨夜奥州之世良修蔵より、荻野省一を使にて会賊より米仙を頼にて嘆願有之、四藩連盟取次にて出す、勿論仙台人敷は白川へ総て引揚候云々」)、或いは世良の周辺から漏れた情報かもしれません。
 この白河城への援軍派遣の風説を受けたのか、木滑の翌十八日の日記に「最早手切レの事の破レニ至候譯ニ候得は此上者破裂ニ至候處之運ひ相附候處第一ニ付願書共早々御返しニ相成候方御都合ニ付、諸大夫之取計に面則此所ニ而、御返却ニ相成候様相成間敷哉之旨、仙候被迎間候處」との記述が見られます。前述の世良の嘆願書却下の方がいつ伝わったのかは諸説あるものの、仙台・米沢藩の二藩は白河城援軍を手切れ(交渉決裂)と感じており、世良への襲撃を前にして、既に仙米両藩は新政府軍との対決を覚悟したと言って良いでしょう。
 十八日には京にて和平交渉に当っていた宮島誠一朗が帰国します。宮島の京での外交活動は土佐・加賀・肥後といった大藩相手には見るべき成果は挙げられなかったものの、閏四月四日に会見した明治新政府参与である広沢真臣との会見では、有名な「依て会藩ハ徐々ト説得シ、自ラ其非ヲ悟リ翻然王化ニ帰スル様、精々尽力周旋ヲ相任ジ申スベキニ付、会藩ノ義ハ一ト先奥羽列藩ニ御任セ被下度、返ス返スモ深慮演算取尽サレ(戊辰日記 P138)」との言質を得ます。この言葉が広沢の個人的見解なのか、新政府内の意見の一つなのかは今では判らないものの、京での外交交渉に行き詰っていた宮島にとっては、僥倖と言うべき言葉であり、この言葉に望みを託して京を後にして、閏四月十八日に帰国したのです。そして奥羽鎮撫総督府との和平交渉に行き詰まりを感じていた米沢藩政府首脳部もまた、宮島からの報告に新たな活路を見出したと一般的には言われているものの、米沢藩政府の内情は前述のとおり決してそのような簡単な物ではありませんでした。
 翌十九日には、白石から帰国した木滑を迎えて、奉行色部久長千坂高雅毛利広業の三人、他に若林秀秋下条外記庄田総五郎等を交えた藩政府で会議が行われ、今後の方針が定まります。この日決定した五事項「@太政官江之御申立ハ、是非ニ早速無之而ハ、御實意不貫徹ニ行渉候間、猶仙藩ニ懇評早々被仰立候方。A澤三位殿江附属之薩長離し候計策同断。B名分大義不相立事ニ而ハ、天下之公論ニ不免事ニ付、此條者深ク仙ニ懇計之方。C先方手ヲ出サハ可應、此方より手を出候は不同意。D庄田留邸ハ上京之方ニ付、猶又我等引戻し候様被仰付(木滑要人日記)」は、@で書かれているように太政官への建白を早急に行うなど、従来伝えられるハト派の米沢藩を彷彿させる事項もあるものの、Aで書かれているように奥羽鎮撫総督府副総督の沢為量を薩長の兵から切り離すと言う、対薩長路線を明確にする事項もありました。何より決定的なのがCで書かれている「先方手ヲ出サハ可應、此方より手を出候は不同意(木滑要人日記)」の記述で、これは米沢藩側から先制攻撃をしなければ、新政府軍の攻撃に対して防戦するのは構わないと言う物で、米沢藩が新政府軍との抗戦を覚悟したと考えられます。ただし米沢藩の全てが受動的な抗戦派かと言えばそうではなく、この日の会議に出席した面々の中で、少なくとも色部と若林はその後の行動から和平派だったと言えましょう(後述)。
 和平派か受動的な抗戦派かは別として、広沢から得た言質を伝える為に、米沢藩政府は同十九日に白石の会議所に宮島を派遣します。会議所に着いた宮島は、会議所に詰める仙台藩首脳部に広沢の言葉を伝えるものの、米沢藩と違い能動的な強硬路線の仙台藩士達は、宮島の言葉に耳を傾ける事はありませんでした(*7)。
 そして宮島の説得が頓挫しかけている時に、遂に仙台藩士が世良修蔵を暗殺したとの報が入ります。これを受けた会議所詰めの仙台藩士達は「此報達スルヤ満座人皆万歳を唱エ、悪逆天誅愉快々々ノ声一斉不止(戊辰日記)」と狂喜乱舞したのです。
 朝廷に貢士として取り立てられ、奥羽鎮撫総督参謀に任命された世良を、いかなる理由があるにしろ殺害した以上、もはや明治新政府との交渉の余地はありませんでした。米沢藩の本意が和平だったにしろ、受動的抗戦派だったにしろ、明治新政府との全面戦争は避けられない状況となったのです。そして世良が暗殺された時、当初会津藩を救済する為に集合した白石会議は、仙台藩の暴走により一転して明治新政府に対しての攻守同盟となり、新政府軍との全面戦争を戦う為の奥羽越列藩同盟へと変化を遂げるのです。


奥羽列藩同盟の成立

 世良修蔵が暗殺された同日の閏四月二十日、前述の書状のとおり、仙台藩兵と会津藩兵が突如白河城に殺到、若干の死傷者は出たものの、白河城を守る二本松藩兵や三春藩兵はすぐに城外に脱出した為、仙台藩と会津藩は白河城の占拠に成功します。奥羽鎮撫総督府の参謀である世良を殺害したからには、新政府軍との全面戦争は避けられない以上、奥州の玄関口であり最重要戦略拠点である白河城を確保しようとするのは当然の考えなので、世良の暗殺と白河城の占拠背仙台藩の戦略の中で連動していたと考えるのが自然でしょう。
 同二十日、奥羽鎮撫総督の九条より米沢藩に、庄内藩討伐の為に新庄方面に出張している副総督である沢の応援に向かうように命令が下ります。「鎮撫総督ヨリ新庄表副総督御本陣御手薄ニ付 人数差出スヘキ旨白石表ニ於テ達アリ(上杉家御年譜17 P673)」これは一見すると文面のとおり、奥羽鎮撫総督府から米沢藩への命令のように見えるものの、後述するように、むしろ仙台・米沢の両藩の意向に従ったものであり、この時点で九条は仙台藩の管轄下になっていたと言えましょう。
 翌二十一日、白石の列藩会議は九条に対して、総督府を仙台城下に移動させる事を要請します。「白石ニ於テ列藩会議 総督府へ仙台表へ御帰陣ノ願書ヲ呈ス 仙台家老但木土佐岩沼ニ御詣リ之ヲ差出ス 即日仙台へ御帰陣アリ(上杉家御年譜17) P673」そして九条の仙台移送に前後して、総督府によって召集された会津討伐軍の解兵が決まります(奥羽越列藩同盟の基礎的研究)。奥羽諸藩にとっては、新政府による会津征討を思いとどませる為に集まった白石会議ですので、この征討軍の解兵が決まった事でその存在目的は遂げられた筈でした。しかし白河城を占拠した仙台兵はそのまま白石会議を、対明治新政府の攻守同盟にすり替え、他の奥羽諸藩に有無を言わさずに、その攻守同盟に引きずり込んだのです。尚、二十八日には会津藩に引き続き、庄内征討軍の解兵も発表されます。
 会津藩の救済会議から、対明治新政府の攻守同盟へと変化を遂げた奥羽列藩同盟ですが、その戦略と言うべき物が「奥羽同盟列藩軍議書」です。この軍議書は「白川(ママ)之処置」「庄内之処置」「北越之処置」「総括」の四項目によって構成されていますが、本記事では米沢藩に直接関係する「北越之処置」の全文と、「庄内之処置」の一部を転載させて頂きます。
 
北越之処置
 「一、薩長之兵千人江加州富山鷹援トシテ越地江進発会境江打入之報知有之依之総督ヨリ前同断に而進撃相控候様厳達有之若無法ニ押來リ候ハ米兵大舉先鋒ニ進ミ越地之諸藩を語ヒ迎戦致し尤庄内よりも大舉鷹援可致盡力事」
 「一、羽州連合之諸藩各出兵鷹援勿論之事 但傍観之輩前同断」
 「一、信州上州甲州迄も手を延し関東と?角鷹援之勢を張り見機窮間進取可致事」
 「一、加州紀州江使を馳せ連合致し官軍ノ勢力ヲ殺キ候手配専用之事」

庄内之処置
 「一、此際急ニ総督府江相窺許可之上米藩ヨリ沢殿護衛の兵ニ大隊モ繰出シ米国江迎入奉リ可然哉之事 但此沢殿モ帰陣之様尤米兵護衛有之方共ニ総督ヨリ御達之方」
 「一、薩長之兵士ハ総督府ヨリ御暇被成下速ニ帰国被命可然哉之事 但進退失度帰途難渋ニモ候者米兵護送越地瀬波ヨリ船ニ而帰帆為致可然哉之事」
 「一、若不承知ニ而万一暴動ニモ可相及形勢ニ候者米兵進撃並近辺之諸藩ヨリ出兵無ニ念打取可申事 但時宜ニ寄庄内ヨリ出兵応援勿論之事」

 以上『米澤藩戊辰文書』より引用


 この「奥羽同盟列藩軍議書」の作成時期については、『米沢藩戊辰文書』には五月上旬と記されているのに対して、佐々木克氏の『戊辰戦争』や、『奥羽越列藩同盟の基礎的研究』では、世良暗殺後の閏四月二十日付近ではないかと推測しています。実際その後の米沢藩の動向を見ていると、この「奥羽同盟列藩軍議書」に従っているように見えるので、やはり閏四月二十日の近辺に作成され、正式に発布されたのが五月上旬と言うのが妥当な所ではないでしょうか。


米沢藩の戦争準備

 この「奥羽同盟列藩軍議書」を受けてかは判らないものの、危機感を抱いた米沢藩は閏四月二十五日藩主上杉斉憲が後に越後に出兵する事になる大隊長や小隊長などの士官の多くを招いて訓示を行います(*8)。更に同日25日、斉憲は軍務総督の千坂高雅を招いて、これから起こるだろう不測の事態に備えて軍備を備える事を命じます(*9)。
 軍務総督の千坂はこれまでも前述のとおり、全藩士の銃隊化や、旧態依然だった藩兵を大隊編成にするなどの軍制改革を行ってきましたが、斉憲の訓示を受け、新たに米沢藩兵を六個大隊に以下のとおり再編成します。尚、実際には大隊長を大隊頭、小隊長を隊頭と呼称していますが、判り易くする為、「大隊長」「(小)隊長」の呼称で統一させて頂きます。

一之手大隊
大隊長:大井田修平
一番隊長:増岡孫次郎、二番隊長:古海勘左衛門、三番隊長:土肥伝右衛門、四番隊長:太田某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、五番隊長:戸狩左門、六番隊長:長右馬之助、七番隊長:関新右衛門、八番隊長:山下太郎兵衛、九番隊長:三俣九左衛門、十番隊長:種村半左衛門、砲一門司令官:石栗善左衛門、砲一門司令官:朝岡兵蔵、砲一門司令官:桐生源作

ニ之手大隊
大隊長:中条明資
一番隊長:香坂与三郎、二番隊長:関文次、三番隊長:山吉源右衛門、四番隊長:山崎貢、五番隊長:角善右衛門、六番隊長:大関武四郎、七番隊長:青木藤衛門、八番隊長:大熊左登美、九番隊長:小川源左衛門、十番隊長:岡田文内、砲一門司令官:三矢清蔵、砲一門司令官:新屋十次郎

三之手大隊
大隊長:江口縫殿右衛門
一番隊長:桐生丈右衛門、二番隊長:佐藤孫兵衛、三番隊長:山吉新八、四番隊長:安部清兵衛、五番隊長:登坂右衛門、六番隊長:上村九左衛門、七番隊長:高村三郎左衛門、八番隊長:山吉一郎左衛門、九番隊長:楠川織右衛門、十番隊長:三本左近、十一番隊長:大石与三郎、十二番隊長:宮政右衛門

五之手大隊
大隊長:桜井市兵衛
一番隊長:桜孫左衛門、二番隊長:温井弥五郎、三番隊長:小幡弥五右衛門、四番隊長:高野鉄右衛門、五番隊長:泉崎弥一郎、六番隊長:小田切兵衛、七番隊長:津田仁左衛門、八番隊長:船田善左衛門、九番隊長:近藤誠次郎:十番隊長:富沢小藤次、十一番隊長:斉藤新右衛門

御出馬隊(一之大隊?)
大隊長:上杉勝賢(桃之助、斉憲四男)
一番隊長:山崎理左衛門、二番隊長:徳間久三郎、三番隊長:斉藤篤信、四番隊長:早川新右衛門、五番隊長:佐藤久左衛門

ニ之大隊
大隊長:上杉勝応(主水、斉憲従兄弟)
一番隊長:直海新兵衛、二番隊長:野口久左衛門、三番隊長:飯田久右衛門、四番隊長:香坂勘解由、五番隊長:高橋弥左衛門、六番隊長:桃井清七郎、七番隊長:鈴木久左衛門、

三之大隊
大隊長:長尾権四郎
一番隊長:苅野鉄之助、二番隊長:鈴木健助、三番隊長:石川某(米沢藩慶応元年分限帳で発見出来ず)、四番隊長:小幡喜兵営、五番隊長:石井次郎右衛門、

 以上のとおり再編した上で、『上杉文書』収録の「慶応四年四月五軍押前行列」によれば、この六個大隊編成した上で城下を行軍(現代で言う軍事パレード)して士気を高めたと伝えられています。またこの六個大隊再編成時には軍装も統一されていたらしく、千坂高雅の回想によれば「米澤の兵隊ハ皆な眞ッ黒の扮装で筒袖の着物に皆な股引を穿かせた、それたから米澤の鳥と云ふ悪口を言はれた居つたような有様でした(史談会速記録第19巻P254)」との証言があります。また『上杉鉄砲物語』によれば、この行軍時かは定かではないものの、越後出兵時には士分はミニエー銃、卒(足軽)身分はゲベール銃を装備しており、少なくとも軍装装備に関しては、米沢藩兵は新政府軍と比べての遜色も無い状態だったと言えましょう。
 しかし幾ら装備軍装に関しては新政府軍に匹敵する物を揃えたものの、斉憲の訓示を受けた後で猛訓練を行った所で訓練不足の感は拭えません。言わば米沢藩は小隊編成にしましたが、薩長の様に散兵戦術を実施出来るようなレベルにまでは達してはいなく、ハードは揃えたものの、ソフトは不完全なままで戊辰戦争に突入したのです。


千坂高雅の最上出兵

 藩兵の再編成を終えた千坂高雅は、二十九日に最上方面への出張を命じられます。これは表向き二十日に九条に命じられた、大山綱良が実質率いる奥羽鎮撫総督の庄内征伐を目的とした別働隊への援軍でしたが、その実は前述の木滑要人の日記に書かれた、十九日に仙台藩との間に取り決められた「澤三位殿江附属之薩長離し候計策同断」の密約に従うものでした。実際に別働隊を率いる大山を排除して、お飾りの奥羽鎮撫副総督の沢を確保するのが目的だったのです。
 何故、仙台・米沢の両藩が奥羽鎮撫総督の九条と、副総督の沢の身柄確保を欲したのかと言うと、幾ら明治新政府との全面戦争を決意したとは言え、官軍である新政府軍と戦っては賊軍になってしまいます。しかし奥羽鎮撫総督の九条と、副総督の沢を掲げれば、奥羽列藩同盟も新政府軍と同じ官軍となり、官軍対官軍の図式にする事が出来るのです。だからこそ仙台と米沢は九条と沢の身柄確保に拘ったのですが、既に九条を確保した以上残るは沢であり、千坂は沢確保の為に五之手大隊を率いて最上方面に出兵したのです。尚、千坂は軍務総督である自分が米沢城下を留守にしては、軍政府のトップが不在になるので京家老だった島津利馬に後任を任せて(上杉家御年譜17)米沢城下を後にしました。
 余談ながら、沢の確保を目指した千坂だったものの、どこで情報を得たのかは判りませんが、大山は世良の暗殺の報を入手したらしく、千坂率いる米沢藩兵の接近を知ると、秋田藩領への脱出を図ります。木を倒して街道を封鎖するなどの妨害工作に阻まれた米沢藩兵は、結局新政府軍への接触をする事が出来ず、大山は脱出を成功させました。その後紆余曲折を得ますが、結果的に秋田藩が、その後の新政府軍の奥羽における反撃拠点になった事を考えれば、この沢の確保に失敗した千坂の出兵は、奥羽列藩同盟にとっての痛恨事と言えましょう。


米沢藩越後出兵の経緯

 そして千坂が最上に出兵した二十九日、急遽城内にて越後出兵が決定されます。この経緯について、実質越後出兵をリードしたと思える甘糟継成の「北越日記」が詳しいので全文引用したいと思います。「先日より余頻に政府詰之間に出てゝ論議を尽すと雖も、中老若林作兵衛秀秋固く拒て不従、又千坂総督も昨日已に最上へ出張、竹股大夫も又同段なれば、主として決断する人無之、其内一昨廿八日越後出張の倉崎七左衛門、及関ノ渡辺三左衛門等より官軍の勢甚盛にして、会兵と鯨波の切処にて頻に攻戦ふ内、去る廿六日不意に米山手の間道より遶て後いり攻立し故会兵大に敗れ柏崎迄引退く、是日又上州口より三国峠へ攻よせ居たる官軍も間道を遶て嶺上の会兵を破り、直ちに進て浅貝、三股の二宿を焼立つる故、此口の会兵も尽く破れて小千谷まて逃退く、是皆兼て会人越民に悪まれたるゆえ民窃に官軍に通し、間道抜路を教ゆる為の由、かゝれは今の内急に、人民に従て越地へ御出兵無之ては、人心尽く渙散して官軍に響応し、忽ち会米の境に迫られんこと時日を廻らすべからずと報告す、依之即夜急に於政府大会議有之、余例の通明日にも越地へ兵を出して民望を?くへき云々、極論鶏明に至て稍く、中条隊一手を玉川御境まで繰出して越地の民心を安んじ、且遙に会の声援を為すべきと決す(甘糟備後継成遺文 P179)」
 また後年『史談会速記録』にて千坂が以下の証言をしています。「私か國へ戻りまして見た所か意外にも國へ残つて居る重役色部長門、中条豊前、若林作兵衛、小林五兵衛、甘糟備後、斎藤主計此等乃連中は或は新発田からの催促があつたり、或ハ村上あたりが乱暴人があつて困ると言ひ来たり、又一方には曾津の暴人と浮浪人か合同して民間を苦めて困るといふことがあつて促かされて私等の留守中に人数を引ひ出発したのである(史談会速記録 第19巻P171)」
 この二つの史料を読むと、@米沢藩にとって藩の存亡を決めかねない重大事項の筈なのに、藩政府のトップである竹俣久綱も、軍政府のトップである千坂高雅も不在の状況で、越後出兵は決定された。また千坂の代理の筈の島津利馬も不在だったにも関わらず、軍事上の重大な決断がされた事になる。Aこの日の時点では越後出兵の目的は新政府軍との抗戦ではなく、先に越後に出兵している会津藩の略奪暴行により(詳しくはこちら)、越後の民衆の心がこのままでは新政府軍に傾くので、越後民衆の民心掌握と藩境防衛の為の出兵だった。以上の二点が判ると思います。
 まず@については、千坂の言う参加者の顔ぶれの後の動向を考えると、色部・若林・小林の三人は和平派なので、越後出兵に反対したと考えられます。残る中条・甘糟・斎藤の三人は何れも後の北越戦争で勇猛果敢に戦っているので、主戦派と言って良さそうですが、確実な文章で薩長に対する敵意を示しているのは甘糟と斉藤の二人なので、この二人が越後出兵を主張したと考えられます。しかし甘糟と斉藤が幾ら主戦派だったとしても、仮に言説が巧みだったとしても奉行でもない一介の藩士が、藩兵の出兵を決定出来たと言うのは理解し難いです。
 そこで再び注目したいのが軍政府の存在です。前述のとおり米沢藩は藩政府から軍事部門を切り離しました。つまり藩政府が戦争に繋がりかねない越後出兵を望まなくても、軍政府が出兵を決定すれば出兵が可能と言う危険な構造を為していたのです。そして軍政府のトップである千坂が不在の時は、千坂に次ぐ発言力を有する甘糟や斉藤が藩兵出兵を決定する事が可能だったのです。もっとも藩全体がもし戦争を嫌っていたら、幾ら軍政府の甘糟と斉藤が戦争を有していても出兵は不可能だったでしょう。しかし前述のとおり藩主斉憲が諭さなくてはいけない程藩内の反薩長感情は強かったですし、後述するように実際に越後に出兵した一藩士が新政府軍との交戦を欲していたのを考えると、当時の米沢藩で和平を望んでいたのは藩主斉憲と、斉憲の意思を直接に知る藩政府上層部だけで、多くの藩士は新政府軍との戦争を欲していたと過言でもない状況だったのではないでしょうか。そして軍政府の構造的問題があったとは言え、この藩風の後押しがあったからこそ、甘糟と斉藤の主導により越後出兵が決定したと考えます。
 Aについては越後出兵が決まったと言っても、二十九日の時点では甘糟も斉藤も流石に新政府軍との交戦を主張する事はなく、越後鎮撫と、藩境防衛を主張した事で和平派の色部や若林を承知させたと考えられます。しかし実際に翌五月一日に出兵した中条明資大隊所属の丸山亭四郎(斉藤篤信小隊半隊令司)の越後戦争日誌によれば、出兵した当日の五月一日の記述に「明日は敵地江向ふ身の夢は、さたかに結ぶまし」「五月雨のあやめもわかぬ大雨に、馴し御城を跡に見て、越後表の強敵を唯一戦に破らんと、猛き心に成嶋や鬼面の川橋打渡り」との新政府軍との交戦を想定している記述が見られるなど、「越後鎮撫」や「藩境防衛」は色部や若林に承知させる為の方便に過ぎず、越後出兵を決めた甘糟と斉藤も、そして実際に出兵した将兵達も皆交戦を覚悟していたと言えるのではないでしょうか。
 出兵した中条大隊は暫く藩境の玉川村に宿陣していたものの、「同八日政府より越地切迫に付民望に従ひ可押出旨命にて、同九日行列隊伍を揃へ玉川関門を押出す(甘糟備後継成遺文)」のとおり、九日には越後に入国し北陸道を南下しました。ところでこの出兵した中条大隊は閏四月二十五日に再編成したニ之手大隊とは陣容が違い、実に14個小隊もの大軍でした。その後各地に出兵した米沢藩兵も閏四月二十五日の編成とは違っており、各地の出兵を前に更なる再編成をした模様です。
 五月四日、会津藩の援軍要請を受けて桜井市兵衛率いる8個小隊が会津鶴ヶ城城下に出兵します。この頃には藩政府も新政府軍との交戦を覚悟していたとは思われますが、未だ自らが主導の新政府軍との交戦は躊躇していました。しかし六日には越後内六藩(長岡・新発田・村松・村上・黒川・三日市)も列藩同盟に参加した事により、奥羽列藩同盟は奥羽越列藩同盟と更に変化を遂げるのです( *10)。


長岡城落城の衝撃 〜開戦か和平か〜

 越後六藩の列藩同盟参加を受けてか、十日になり最上方面に出兵していた千坂高雅が米沢城下に帰還すると、越後方面の総督として色部久長が任命されます。「本日越地へ御出勢に付、奉行色部長門に総督命せらる(上杉家御年譜18 P3)」 翌11日には甘糟と大井田修平大隊の越後出兵が決定され、十三日に色部・甘糟・大井田が率いる第二陣が出兵します。
 一般的にはこの色部率いる部隊が出兵した事により、越後での全面戦争が始まったように言われています。しかし私としては、甘糟と大井田が第二陣の出兵を決め、この甘糟と大井田が新政府軍と独断で戦端を開くのを嫌った藩政府がお目付け役として色部を総督として付けた様に思えて仕方ありません。何故かと言うと、前述の越後六藩の列藩同盟参加の文にしても、千坂が『史談会速記録』での証言でも「さう云ふ話であれハ居なから亡びんより推し出して是非に一方を斬り抜けて此趣きを闕下に主人同道して上奏に及び、さうして何分の御沙汰を待たねばならぬと、ソウならバ薩長も必ず多少考へる所があらう、理屈はさうであれども一遍は力で争ふて道路の荊蕀を掃はねばならぬ、其精神を通さねば今日出兵の名義がない第19巻P174」と述べているとおり、藩上層部は越後出兵は、あくまで京の太政官に歎願書を提出するための上洛であり、未だ新政府軍との全面戦争を避けようとしている節があります。その為にも主戦派の甘糟が独断で戦端を開かないようにするお目付け役が必要だったのではないでしょうか。また色部自身の日記『越後之略記』を読んでも、また甘糟の日記に書かれた色部の姿からも、色部が戦争を欲していたとは考えられず、十三日に出兵した米沢藩兵主力は和平派の色部が総督を勤め、主戦派の甘糟が参謀を勤めると言う歪な形の首脳部で出兵する事になるのです。実際『史談会速記録』で「米澤の兵と官軍と衝突して互ひに砲発した、去りなから鎮撫に出た若林や小林は戦ひに出たものでないから早く引けと云ふのでドンドン引上げた、ところが若い者は私学校の生徒が西郷の命令を聴かぬやうなもので、兵隊は遂に衝突した以上は引くに引かれぬといふ結果を來たした(第19巻P172)」と書かれており、新政府軍と戦う為に藩兵を前進させたい甘糟と、戦争回避の為に藩兵を後退させたい色部や若林との駆け引きがあった事が察せられます。
 しかし、このような甘糟と色部の駆け引きの均衡は、五月十九日に新政府軍の攻撃により長岡城が落城すると崩れ去ります。甘糟が新政府軍との戦いに於いて、どのような戦略を抱いていたかは、彼自身が何も残していないので判りません。しかし列藩同盟に参加した、越後の五藩の中で対新政府軍の最前線に位置し、また三国街道が通い、北国街道(北陸道)も近い交通の要所である長岡藩を対新政府軍の戦略の要にしていたのは間違いないでしょう。その長岡藩の居城である長岡城を失った事は、甘糟が抱いていた戦略を破綻させ、危機感を覚えさせたと言うのは容易に推測出来ます。
 そして長岡城落城の衝撃は、和平派だった色部にも同じで、彼もまた危機感を覚えました。ただ和平派の色部が甘糟と違ったのは、長岡城の落城を受けて新政府軍との交戦を避けるように考えた事であり、援軍である米沢藩本国から越境したばかりの上杉勝応(藩主斉憲の従兄弟)大隊に対して、長岡城落城の翌々日の二十一日(これは恐らく長岡城落城の正確な情報が入った日)に米沢本国への帰還を進言します(*11)。余談ながら、この色部の指示に対して上杉勝応は不満を述べる書状を送っていますので(米澤藩戊辰文書)、上杉勝応も主戦派だったのかもしれません。
 一方新政府軍との全面戦争を望む甘糟もまた危機感を強めたのか、主戦派の大井田を伴い、奇しくも色部が上杉勝応に帰還進言を送った二十一日の夜に色部が宿陣する新津宿に乗り込みます。そしてこの地で主戦派の甘糟と大井田、和平派の色部・若林・小林の間で激論が交わされる事になり、激論の末に甘糟が色部達を屈服させ、遂に現場レベルでの新政府軍との開戦が決定されたのです*12)。
 色部達を議論で屈させた甘糟は、その後中条大隊と大井田大隊を率いて北陸道を進軍します。二十二日に桑名藩領の加茂宿に到着すると、同地に集合していた会津藩・桑名藩・長岡藩・村松藩・村上藩等の列藩同盟軍幹部達と軍議を開催。この会議で共同して新政府軍と交戦する旨が定まり、これにより遂に米沢藩は新政府軍との全面戦争に突入する事になるのです。
 余談ながら、新政府軍との開戦が決定された新津宿の会議後の五月二十六日に、軍政府所属の原三左衛門が藩政府に、色部や若林などの和平派の不手際を糾弾する建言書を送っています。原は軍政府の軍監であり、当然甘糟の部下となりますので、これは原個人の意見と言うより、軍政府の総意、ひいては甘糟の意見と考えます。しかも一介の下級藩士に過ぎない原が、仮にも家老の色部を「因循」と糾弾するのは異常事態と言って好いでしょう。そのような意味ではこの原の書状こそ、甘糟の長岡城落城と、それを招いた色部と若林の消極的姿勢に対する想いを代弁していると考えて良いのではないでしょうか(*13)。


降伏後に発揮した米沢藩独特の藩風

 こうして甘糟の思惑とおり、米沢藩は新政府軍との全面戦争に突入したものの、戦略の欠如・兵士の訓練不足・主に会津藩を始めとした友軍との意思疎通の齟齬、指揮権の不統一等の様々な問題から新政府軍に敗北し、最終的に九月十日に新政府軍に降伏する事になるのです。個々の北越戦争での米沢藩兵の動向については、当サイトの北越戦争の記事を参照して頂くとして、この新政府軍との北越戦争の中で唯一戦死した上級指揮官が、誰よりも和平を願っていた色部久長だったと言うのは歴史の皮肉と言うべきなのでしょうか・・・。 
 かくして矢折れ刀尽き新政府軍に降伏した米沢藩ですが、その独特な藩風が表れたのは新政府軍に降伏してからでした。普通の藩ならば、降伏後に主戦派の甘糟を処刑して、和平派によって藩首脳部が占められるものですが、米沢藩はそのような内部抗争は起きず、それどころか米沢藩を新政府軍との全面戦争に引きずり込んだ軍政府を降伏後も存続させたのです。何よりも驚きなのは、新政府軍に命じられて出兵した会津討伐軍と庄内討伐軍の指揮官に、かつて北越戦争で米沢藩兵を率いた諸将を任命した事です。会津討伐軍の参謀は、甘糟と共に越後出兵を主張した斉藤篤信であり、その旗下の大隊長には北越戦争で勇戦した大井田修平横山与一が任命されます。庄内討伐軍に至っては新政府軍からその首に懸賞金が賭けられた(甘糟継成遺文)と言う甘糟継成が任命されたのです。降伏後に内部粛清が無かったのはともかく、北越戦争で戦った指揮官が、そのまま新政府軍としての米沢藩の士官に任命されたのは、当時の状況から考えれば、もはや異常と言って良い状況でしょう。この異常と言って良い人事が、かつて関ヶ原敗戦時の削封と寛文の削封を受けても、藩士を会津百二十万石時代から殆ど召し放つ事がなかった故の、藩士達の団結力に基づくものではないかと思うのは私だけでしょうか。
 尚、この降伏後の人事についての詳細は、後日作成予定の米沢藩の終戦経緯にて書かせて頂きたいと思います。


総論

 以上の様に、決して米沢藩は完全なハト派の和平路線ではなく、むしろ一般藩士の多くは寛文の削封の時に助けてくれた会津藩に同情し、薩長を中核とした新政府軍に対する敵愾心を強めていました。しかし、だからと言って能動的な主戦派ではなく、攻撃されたら抗戦すると言う受動的な抗戦派と言うのが、当時の米沢藩の情勢を表すのに相応しい言葉でしょう。
 そしてその藩風を後押しにして、甘糟継成が事実上牛耳る軍政府が新政府軍との開戦を主導したものの、その決定には長岡城の落城の影響が大きかったと思われます。後世の私達は一度落城した長岡城を、河井が奪回した事を知っているので、第一次長岡城攻防戦での長岡城落城を軽視している嫌いがあるかと思います。しかし太平の世が続いた幕末の人々からすれば城が落城すると言うのは驚愕の事態であり、この長岡城の落城が周辺諸藩に与えた影響をもっと重視しなくてはいけないでしょう。
 幾ら甘糟達が新政府軍との開戦を望んでいたとしても、それだけでは藩内の和平派を納得させる事は出来ず、最終的に米沢藩首脳部に開戦を決断させたのが長岡城の落城だったのだろうと言うのが私の見解です。そのような意味では米沢藩は、開戦を決断する段階になっても受動的な抗戦派の立場からは脱する事が出来なかったと言えましょう。


引用全文
 *1
「全体上杉が徳川に對しては関ヶ原戦争以来百二十万石を追々十五万石にされ、其の昔の時の士族は多く付属しドウにか斯うにか貧究に暮しを立てたと云ふのは宵い悪るく言へば事あれば勤王を表して、徳川の跋扈を制御したいと云ふ観念が上杉藩の君臣の状態でござります(史談会速記録 第19巻P40)」
 *2
「実ハ弊藩ハ御存モ有之通リ先代将絶ノ血食モ会藩ノ徳ヲ以僅々ナリトモ相続、其以来闔国別テ致懇親、殊ニ若主人ノ室ハ先会候ニハ親敷ク妹ニ有之候得バ、別テ近来ハ親睦の情深ク有之候上ニシテ、一旦忽チ干戈ヲ以相見ルノ事ニ及候得バ闔藩ノ人情当惑ノ次第ニ御座候(宮島誠一郎 戊辰日記 P78)」 
 *3
「御引戻ト申モ、御上阪ト申モ夢中ノ夢ニテ誠ニ以テ軽挙妄動ノ御仕事ト嘆息ニ不堪次第ニ奉存候。此ノ一挙ニ天下ノ笑ト相成首鼡両端不信実ノ国ト後世呼バレンモ口惜敷事ニ非ズ哉。嗚呼米沢モ最早有為人材ハ無之哉。御先祖様ノ御武威、モ鷹山公ノ相尽御文徳キ候哉。嗚呼、返スモ君上ノ如何計御痛慮被成候事ト実ニ残念至極ニ不堪。嗚呼嗚呼(宮島誠一郎 戊辰日記 P39)」
 *4
「九條、澤、醍醐の三卿は既に大阪から出発になったと云ふ、それで唯々慓悍事を誤るあろうが吾々の言って居る事を半信半疑の間に置いては大變である、戻って藩論を一定せねばならぬ、随行の若いものはドウしても行くな、朝廷の囚人になっても西京を去らぬが宜いと云ふ論であったけれども藩知事父子、父母妻子憤墓のある所で成るたけ國を誤りたくないと云ふので帰国する事に致しました、御暇乞に出ると特別大隊旗を下さると云ふ御達を受けて早追ひで二十五人ばかりで山吉盛典を同行して走りました(史談会速記録 第19巻P42)」
 *5
「王命ニ従ハサル者ハ忽絶祠滅国ニ及候事目前ニ候得ハ誠ニ年来之御隣交ヲ被為ニハ不被為忍候得共社稷御廃絶之重キニ易ヘサラルヘキニ無之候故不得止先鋒御請被遊タル事ニ候此軽重順逆之境ヨクヨク相考ヘ形勢ノ止事ヲ不得ヲ察シ此節決而嗷々議論等不致各斉粛シテ上意ヲ奉載致候様頭々懇ニ組下相論置候ヘトノ事ニ候(上杉家御年譜17 P642)」
 *6
「向暑ノ節ニ御座候得得共彌御C穆ノ御事ト奉賀候然者御依頼ノ周旋万一旦総督府ニテ御受取相成居候ヘトモ御聞御聞済ノ模様ハ更に見詰相立不申甚困却之至リ此上ハ過日拝話致シ置候通ノ御処置相成候外穏座アル間敷何分御尽力可被成候将タ江戸ヨリ千五百人ノ兵卒早速罷越候様白河口ヨリ世良修蔵差配リヲ以テ早打相起候事ニ相聞ヘ申候間可相成ハ右口ヨリ不迫内御払被成候ハ、可然ト存候(会津戊辰戦史 P248)」
 *7
「会議畢テ但木土佐、坂英力両家老、京阪ノ形勢承知致度云々ニ付、別室ニ於テ京師表長州参与広沢兵助意見等逐一相話シ、其席エ若年寄真田喜平太、増田歴次モ出席。春以来参謀世良、大山等の暴行醜態ヲ飽迄説明ニ相成候テ、已に鎮撫ハ名而已、其実ハ地方ノ騒擾スル為メノ下向ニ相違無之、然ラバ京師ノ事情モ決シテ信用スルニ不足。是皆甘言怠人ノ策ニテ足下輩恐ラクハ其術中ニ陥落無之歟ト申聞ナリ(戊辰日記)」
 *8
「奥羽諸藩ト会議総督府へ御届之上諸方出兵之分尽ク解兵セシメ候右ニ付而ハ此上何変難計片時モ不可弓断昼夜練兵相励候儀勿論ニ候(上杉家御年譜17 P676)。
*9
「仰出候誰然解兵御届ニ付而ハ如何成変動モ難計且又四隣日々切迫之勢何レモ見聞ノ通付片時無油断昼夜寝食ヲ忘レ練兵相励候儀勿論之儀ト被(上杉家御年譜17 P676)」
 *10
「当六日新発田ニ於テ集曾に付、役人出張、奥羽諸侯振合ニテ、歎願書差出呉候様ョ入之旨申聞、委細承知、尚六日談判可承旨申達ス。(中略)此度奥羽各藩同盟、曾津御赦罪歎願書被差出候ニ付、越後各藩モ?テ同盟罷在候事故、同様歎願、官軍御出先へ差出、御取上無御座候ハ、太政官迄願立候事ニ決著、願書出來、新発田ニテ引請差出候手筈、尤長岡ハ切迫ニ相成、出席モ無之始末故、若右歎願書御採用無之、御討入モ難計、左候ハ、防御の兵隊備へ置、再三歎願可仕旨、乍併不得止暴発ニ相成候ハ、眞ノ官軍ニハ有之間敷、薩長の私意ト被存候間、無是非次第、可及一戦之旨申談(復古記第12巻 P37)。
*11
「以飛札奉拜啓候當表為鎮撫出張仰罷出居候處長岡表一昨十九日焼打ニ相成終ニ落城之模様ニ相聞申候諸藩鷹援之兵も無之且ツ地之利も不辧事ニ而何分當或之至右之都合ニ御座候處形勢亦大ニ變しいまた始終之見詰も不相立候處断然越地へ御乗込相成候而ハ不都合も難計御座候ニ付暫小國表ニ御滞陣當表模様次第尚又御案内仕候心得ニ罷在候間御一左右申上次第御進退被成下度奉願候此段申上度長尾小太郎を以寸簡奉拜呈候當地形成義ハ同人より被仰聞上皮成下度奉存候頓首敬白(米澤藩戊辰文書 P33)」
*12
「中老若林作兵衛、勘定頭々取小林五兵衛、水原より新津本陣に来り、堅く兵を加茂へ進むることを不同意、本陣を五十公野、笹岡辺まて退くることを議す、是時主水様已に左翼隊を率て、関まて御出張の由の処、是又急に御引返の方可申越旨を持論す、衆論多く左胆す、我独り水原にて会桑の大夫と約ある云々、長岡陥り賊勢強きに恐れて退くことにては、天下の笑となるへき云々を公論して不屈、遂に色大夫及中老等は総督付の三隊(潟上徳間高野)を率ひて、阿賀を超へて笹岡まて退き、余は仮に総督の心得にて、散兵二退及大井田の七小隊、中条手の十小隊を指揮して新津に止まり、機を見て加茂へ進軍の方に決す(甘糟備後継成遺文 P205)」
*13
「此度北越騒憂大兵御差出ニ総督之全総督之全総督之全総督之全付色部長門權御委任被仰付出陣仕へり若林作兵衛小林五兵衛軍人ニ無之候得共同ク越地罷越総督ニ付添専ラ参謀罷在ナカラ先日長岡危急援兵願出ニ付高山與太郎山吉左久馬早追ヲ以総督府エ罷出長岡切迫手後レニ相成ハ、機ヲ失ヒ見す敗亡ニ至ルヘキ間至急援兵御差出被成下度旨促候得共因循逼撓時日程引候内果シテ去ル十九日落城情兵ハ畏レ候得共勇奮之士ハ罷在罷在罷在罷在長岡曾藩之勢妙見候内前後相通シ進撃致シ度存念罷在候ニ付一鼓シテ氣ヲ起シ勇戦仕リ城ヲ取カヘシ前恥ヲ雪クノ手配総督エ参謀可仕處返而新津邊曠原平野地形ヲ不得候ニ退テ地理ヲ占メ一戦可致トノ説ヲ主張致シ全ク此所迄退テ此場ニテ可戦ト申定論モ無之徒ニ諸軍ノ勇気沮撓致シ長岡ヲ見殺ニ仕リ進テ殊死戦之勇気ヲ失ヒ自分ハ早駕籠ニテ迄御進発關歸國主水様之處総督之御用状ヲ以小国迄御退軍之様申上夫ヨリ歸國仕リ候處御國論乍チ變し
御出馬御延引被仰出三軍之勇気相撓ミ候而已ナラス曾藩エ森三郎左衛門罷越申合候新発田一件如何御處置被遊候ヤ以テノ外之義ト奉存候幸ニシテ作兵衛発途後越地出先兵士奮激仕三條迄相漸軍威振リ申模様昨夜窪島多七歸國之上相分少ハ安心トハニ殺申條始長岡見仕リ逼撓不進他國ノ援兵ヲ頼ミ候次第曾津長岡ハ無申迄奥羽之列藩ニ對シ御信義ヲ被為失御國家ノ御武名ヲ奉辱諸藩ノ嘲ヲ受候儀此度庄内ノ越地ニ不出之断ニテモ相分リ申候嘆息之至奉存畢竟総督因循作兵衛五兵衛参謀致居機曾ヲ失沮撓故ノ儀ト奉存右様之大事件打捨差置カレ候而者御軍律不相立娯軍政御引立可被遊様無御座御儀ト奉存候依之前三人早速御取糺被 仰付候様被遊度御儀ト奉存候且又 廟謨難計候得共昨日難有御文意ヲ以御出馬被 仰出今日ハ御延引各 御趣意之程不奉辨動?仕リ越地出先ニテモ囂然可有之ト奉存候
御先代様百戦經テ御鴻業モ御保全被遊候御儀 御危ヒト申因循論ハ御用無之様奉懇願候此度無止 御出馬御延引之儀ニ候ハ暫ク 駿河守様御名代トシテ 御出陣総督エ御示談諸軍ヲ御勵シ矢口を犯シ御督戦被遊候ハ、信勝敗運ニアリ可也ヲ列藩ニ伸ヘ前恥ヲ雪クニ足リ可申ト奉存候重役當路ノ人ヲ申上ヶ且 
廟儀エ異論申上ヶ候儀恐入奉存候得共御國家至急之御場合ニ付役職柄不願前後奉言上候書不盡言諒察ヲ奉願候誠惶誠恐再拜敬具(米澤藩戊辰文章 P53)


参考文献
「復古記 第12巻」:内外書籍
「史談会速記録」:史談会、原書房
「奥羽越列藩同盟の基礎的研究」:工藤威著、岩田書院
「戊辰戦争〜敗者の明治維新〜」:佐々木克著、中公新書

「上杉家御年譜 17巻」:米沢温故会
「米沢藩戊辰文書」:日本史籍協会編、東京大学出版会
「戊辰紀事」:伊佐早謙編、上杉文書収録
「慶応四年四月五軍押前行列」:上杉文書収録
「甘糟備後継成遺文」:甘糟勇雄編
「木滑要人日記」:山縣県史第四巻収録
「米沢市史 第2〜4巻」:米沢市史編纂委員会編
「戊辰戦役関係史料」米沢市史編集資料第5号:米沢市史編纂委員会編
「戊辰日記」米沢市編集資料第28号:米沢市編纂委員会編
「戊辰の役と米沢」:置賜史談会
「上杉鉄砲物語」:近江雅和著、国書刊行会
「新潟県史通史編6」
「新潟市史通史編3」
「新潟市史 資料編5」
「新発田市史下」
「津南町史通史編」
「水原町編年史第一巻」
「村松町史上」
「中之島村史」
「見附市史上巻」
「小千谷市史下」
「十日町市史通史編3」

「奥羽越列藩同盟の成立と米沢藩」:上松敏弘、『歴史評論631巻』収録
「戊辰戦争と民衆」:溝口敏麿、『新潟県の百年と民衆』収録
「米沢藩からみた北越戊辰戦争」:溝口敏麿、『幕末維新と民衆社会』収録
「米沢藩の諸藩連携構想と「奥羽越」列藩同盟」:栗原伸一郎、『歴史107巻』収録
「幕末維新期における米沢藩の軍備の近代化と軍制改革」:佐藤昌介、『洋学史論考』収録

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