blind summer fish 67

 落ち着いた?と気遣わしげなメリッサの声が室内に響く。
「はい。あの……すみません、ありがとうございます」
 借りたハンカチは洗って返すと申し出たが、メリッサはそのままでいいからと微笑んでホークアイの手の中からハンカチを受け取った。泣いたのは久しぶりだ。こんなにも疲れるものだったとは。一日中、眠る以外には乳を飲むか泣くかしている赤ん坊など、いったいどれだけ疲労するのだろう。泣いて疲れるから眠るのか。
 疲れはしたがひざの上の重みは心地よかった。離れようとしないアルフォンスを抱いてソファーに座っていると、少しもしないうちにお茶のいい匂いがしてきた。
 メリッサが来る前は、この家でお茶を飲んだことなどないような気がする。そもそも上官の家に来るのは朝夕か緊急の場合は夜中の送迎のときだけで、玄関口で迎え、玄関口まで送り届けて終わり。家の中に入ることも滅多に無い。入ったとしてもゆっくりと話す必要があるわけでなし、お茶を飲むような状況になることがまず無いのだ。
 そう考えると、こどもたちが来てからというもの、この家自体が劇的に変わった。庭に花が咲き、埃っぽさはぬぐわれ、いつ来ても温かい明かりが迎えてくれる。単なる入れ物だったハウスがホームになった。今は、少し重苦しい空気に包まれているけれど。
「アルフォンスが貴女に何かを言ったのね」
「あの、もしかして聞こえ――」
「聞こえてはいないわ。ただ、貴女が泣いていたから。貴女は何も無いのに泣くような人ではないし、その場にいたのは他にアルフォンスだけですもの」
「アルフォンスくんのせいじゃありません!私が……!」
「わかっています。アルフォンスのせいではないわ。そして、貴女が悪いわけでもない」
 不運が重なっただけなの、とメリッサは痛ましげに目を細めた。
「誰が悪いわけでもない、けれど一方では人災なのよ。貴女がここに来てからの経緯は予想がつきます。何を聞かれたのか」
「メリッサさん、その話はもう、ここでは……」
「大丈夫よ、アルフォンスは眠ったみたいだから」
 わずかに増した重みをメリッサは目敏く感じたようだった。遅れてホークアイも気づいた。目を閉じて、とても小さな寝息を立てている。
 ベッドに運んだほうがいいかと思ったが、部屋にはエドワードがいる。それに下手に動いて起こしてしまったら。迷ったホークアイにメリッサはゆっくりと首を振った。
「そのままがいいわ。しばらく抱いていてあげてちょうだい」
 眠ると人は重くなる。起きている間はどんなに力を抜こうとも、どこかでバランスを取ろうとして力が入る。けれど眠れば地球に引かれてすべての重みがそのまま伝わる。
 これがアルフォンスの重み。
 温かな重みだった。
 生きている人間の。
 眠っている生きた人間と死者とはまた違う。死者の体はあの場ではもはや単なる物体だった。人ではない。地面を占める荷物。積み重ねられて山になり、埋められて、のちに味方には黙祷が捧げられた。隊によってはこっそり、イシュヴァールの民たちも埋葬したと聞いた。  偽善だと嘲う気持ちは起こらなかった。後から何をしようとも、あの瞬間に背負った敵味方の重さは変わることがないのだから。
 圧し掛かる冷たい重さに比して、生きている人間はなんと温かいのだろう。赤ん坊を抱くと幸せな気持ちに包まれるのは、赤ん坊がすべてを委ねてくれるからだ。守らなければ、という感情が自然に湧き起こる。アルフォンスはそれと同じだ。今、すべてを委ねてくれている。
 腕の中のこどもが、本当に愛しかった。
「こどもは宝物、と最初に言った人は偉大ね。いつの世も、それは普遍だわ」
 メリッサの言葉にホークアイは深く頷いた。本当に。


 目が腫れているわ、と冷えた濡れタオルを渡され、ありがたく受け取った。片手でアルフォンスがずり落ちないように支え、空いた手で顔の上半分を覆う。ちょうどそのとき、時刻を告げる鐘の音が鳴った。
「そういえば、この時間はまだ学校の時間ではありませんか」
 けれどアルフォンスはここにいるし、エドワードも二階にいる。昨日あったらしきことは学校で起こったのだろうか。
「あんなことがあった後ですもの、休ませました。エドワードは行くと言ったのだけれどね、心配ですから」
 やはりメリッサは事情をよく知っているらしい。
「あの……昨日何があったのですか?」
 ホークアイが聞くと、メリッサは目を見開き、それから彼女にしては珍しく、腹立たしげなため息を漏らした。
「本当に……殿方はこれだから」
 怒りの矛先はマスタング中佐とヒューズ大尉だろうが、ホークアイはおとなしく待った。しばらくしてため息をおさめたメリッサが話し出した。
「私も事情は先生から電話で伺ったの」
 学校から帰って来た二人の様子がおかしかったのでヒューズ大尉に聞こうとしたら避けられたのだそうだ。気を揉んでいたところに担任の教師から電話が入って、一部始終を教えてもらったのだという。夜になって大尉から事情を聞いたらしい中佐から朝には話があるはず、と思っていたら中佐は逃げるようにして出勤していったとメリッサは何かを諦めたような口ぶりで言った。
「結局、マスタング中佐もヒューズ大尉もご自分たちの口からは話してはくださらなかったわ」
 エドワードは部屋にこもりきりで、アルフォンスは所在なげに家の中をうろうろしていた。メリッサは余程自分から何か伝えようと考えたが、そのたびに思いとどまったのだそうだ。
「ヒューズ大尉はともかく、中佐はあの子たちの親です。話す責任は中佐にありますからね、横から他人が口を挟んでいい問題ではないもの」
 でも、と彼女は眠るアルフォンスを見、ホークアイに視線を移した。
「まさか、理由もいわずにあなたをここに来させるなんて」
 彼女の目には、憤りと労わりの感情が入り混じっていた。
 学校で起こったことがメリッサの口から語られたあと、ホークアイの心に浮かんだのは、怒りと、憐憫の情と、圧倒的な悲しみだった。

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