blind summer fish 74


 ジャン・ハボックはようやくベッドで眠れる喜びをひしひしと噛み締めながら、硬いベッドに倒れこんだ。が、即同僚に叩き起こされた。
 エドワードが病院に運ばれたと聞いても、さしあたってハボックに出来ることは何もなかった。病院にかけつけても医者のように処置出来るわけではない。心配してそばについているのはロイやホークアイのすることで――彼らにはその権利と義務がある――放り出された仕事はおそらくホークアイが別の人間にまわるように手配してあるはずだ。念の為、別の士官に聞いてみたらしっかりと良いように取り計らってあった。
 小さなこどものことは心配だが、本当にどうしようもない。無事という連絡を貰うまで何も手につかない、というほどエドワードに心を傾けているわけではなかった。ハボックはそんな自分を薄情かとは思っても嫌いではない。多かれ少なかれ、どこかで線引きは必要だ。
 とりあえず後はブレダに任せたし、エドワードの入院でロイにどのような影響がもたらされるかわからないので、今後のためにももう一度睡眠を取っておこうと考え、ハボックは仮眠室に戻ろうとしたが、誰かに呼び止められた。
「すみません、ハボック准尉」
 振り返るとそこにいたのはハボックより階級がいくつか下の青年だった。確かブレダがなかなかいいやつだと評していた覚えがある。
「資料室が、マスタング中佐が出て行かれてそのままになっているんですが、どうしましょうか」
 准尉の関わっていらっしゃる案件かと思ったので、と続ける青年にハボックは、資料の見張りがてら執務室のソファで寝かせてもらおうと算段し「俺がやるよ」と請け負った。
「中佐は鍵はかけてったのかな」
「いえ、開いたままで、ついでに中佐が鍵をお持ちです」
「しょうがねえなあ」
 それだけ慌てていたのだからまあ仕方がないだろう。それにしても一応許可を取らなければ立ち入れない資料室に鍵をかけていないのは無用心だ。
 東方司令部に資料室はいくつかあるが、ハボックたち尉官が自由に入れるところとそうでないものがある。ロイが利用したのはさっきハボックが使ったのとは別の部屋で、そちらにはロイかそれ以上の階級を持つ者の許可が無ければ入れないことになっている。そもそも鍵を持っているのが彼らと図書館の司書だけだ。
 資料を持ち出したら司書に頼んでかけてもらおうと考え、ハボックは青年に礼を言って歩き出したがまたも呼び止められた。
「あの、資料室でクローズ中佐が待っていらっしゃるんです。鍵をかけてくださるそうで。それで自分が資料の片付けをするようにと言われたんですが、どうしたものかと思って准尉に――」
「クローズ中佐が?」
 クローズといえば近々セントラルに戻るとかいう、中央とのパイプの太い人物だ。ロイのことが気に食わないのか、事あるごとにちくちく嫌味を言うのをハボックも目にしたことがある。当然自身に嫌な感情を向けられれば腹の立つロイもクローズを良くは思っていない。これは今抱えている案件について探りを入れられるか何かされるはずだ。こういうときこそブレダに任せたいが、交代する時間がない。上官をあまり待たせるわけにはいかないだろう。
 資料室に向かって一緒に歩きながら青年が言う。
「何かあったら連絡するようにとマスタング中佐に言われていたので、息子さんのことで病院から電話が来て自分が伝えに行ったんですが、中佐はとてもお急ぎでそのままにして行かれて、困っていたらクローズ中佐がちょうど通られたんです」
 タイミングが悪いというか、ありがた迷惑というか。
 しゃきしゃきと歩く青年はハボックより頭一つ分小さいが歩幅が広く、ハボックと歩くスピードはたいして変わらない。誰かに似ているなあと思って頭に浮かんだのはフュリー軍曹だった。彼と違って髪は茶色いが、30を過ぎてもきっとこの顔立ちのままなんだろうなあと予想のつく童顔だ。といってもまだ若いのだけれど。
 ちょうどそのフュリー軍曹もクローズが指揮する系統に所属している。手駒が少ないともらしていたホークアイの眼鏡にもかなった軍曹はクローズの下でも同じように真面目に働いているのだろう。そうだ、その話をしていたときにさりげなく告白して振られて、おまけに「私のどこがいいの?」と聞かれたのだった。振った相手にすぐ聞くか!と脱力したやら自分が情けないやらでしばらく落ち込んだことまで思い出して、ハボックはげんなりとした。睡眠不足で頭はぐらぐらしているうえに、過去の失恋の思い出が重なって、これではクローズの前でいらぬことまで喋ってしまいそうだ。
 いけないと思いつつも、深呼吸して顔をぱんぱんと両手で叩いて気を引き締めたつもりでも所詮つもりにすぎず、あくびまで出た。そんな状態で資料室に着いたが、驚いたことにクローズは特に嫌味を言うでもなく、ハボックが資料をまとめて出てくるとさっさと鍵をかけ、「最近の利用者は本をあったところに戻さないで困る。閉架から持ち出した分は閉架に返せ、とマスタングに言っておけ」と普通の愚痴のようにこぼした。


という一連の流れを、ハボックはホークアイに振られただとか連絡してくれた青年が童顔だとかいう余計なことは一切端折り、クローズに資料を少し見られたかもしれないことに絞ってロイに伝えた。
 上司の顔は昨日の朝よりも少し明るい。エドワードの容態も良好らしい。ハボックもまとまった睡眠を取れたので、頭も体も気持ちもすっきりとしている。執務室が空いていなかったので資料を持ってタガートの研究室に押しかけ、ソファを陣取って寝こけた。タガートには怒られたが、寝るときにはかかっていなかった毛布が起きたときにはしっかりかけられていた。口で言うより親切な御仁である。
 ハボックの分もコーヒーを入れてくれた上司は、机の上の資料を眺めた。
「多かれ少なかれ、下水道を調査することは知られただろうな。……ん? クローズは閉架と言ったのか?」
「ええ。俺の記憶違いでなければの話ですが」
「つまりこの中には元々資料室にあったわけではない本があるということだな……そうか、閉架か!」
「どうしたんすか。ガッツポーズまでして」
「調査書の類はすべて資料室にあるものだと思い込んでいたんだ。図書館にあるのは学術書の類が多いからな。私としたことが、とんだ阿呆だ!」
 上司は勢いよく立ち上がり、資料をどさどさと机の引き出しに放り込んで鍵をかけた。そして「行くぞ、着いて来い」とハボックに命令する。
 びしっとしたその姿に触発され、ハボックは素早く後を追った。

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