※増田が犯罪者っぽいですが、他意というか、含むところというか、そういうのはありません。

blind summer fish 77

 人手不足は少しだけ解消された。
 東方司令部を統括する御仁に例によって例の如く呼び出しを受けたロイは、チェスの相手を命じられたが、それは表向きの理由で、用件は地下道の一件だった。
 30年前、地下の震動、地盤の沈下、診療所のある地域、破られた下水道の地図。
 これらが指し示すのはただ一つ。
 あの診療所の建つ地域一帯で、大規模な地下工事が行われたのだ。何者かによって。
「それが軍によるものだと考えてるんだね?」
 司令官はいつもの椅子に腰掛け、地図の上に身を乗り出して眉を顰めた。やだねえ、老眼というのは、などとぼやくのを聞くと、どうやら地図が細かくて見づらいらしい。早々に地図を放り投げてしまう。
 ロイはかまわず、さらに話を続けた。
「ひとつ気になることがあります」
 クローズの件だ。どうも誘導されているような気がする、と告げると老人は、ふっと笑うように口端を上げる。
「ネズミ云々のときも気づいていたと見える」
「おそらくは。しかし、取っ掛かりになったのには間違いありません。このまま乗ってみようと思いますが」
「報告は怠らないように」
 その一言で、許可が出たも同然だった。
 盤上を眺めた将軍はぽそりとつぶやいた。
「チェックメイトまでは遠いねえ。そもそもキングがどこにあるかわからない」
 ロイは目の前の老人よりもずっと拙い一手を打ち、異論を唱えた。
「わからずともキングは必ずいます」
「マス目の決まっている盤上のようにはいかないよ」
「やれるところまでやるしかありません。私はチェスは素人ですから、自分の身動きが取れなくなるまで負けを認められないんです」
 老人はロイの手を軽くいなし、一人の人物の名をあげた。
 ヴァトー・ファルマン。階級は曹長。
 彼の能力はきっと君の役に立つ、と老人は言う。
「手が足りんのだろう? ファルマンのいる中隊のマイヤー中佐に話を通した。彼自身はおっとりしすぎていて出世欲はないが、それだけに薬の流通に手を染めるような男ではない。君に協力してくれる研究所の先生の警護にはそちらから人を回せばいい」
「ありがたいことですが、あの先生は注文が多いんです」
 ロイは常道をあえて無視し、悪手に走る。
「君の駒は相当優秀なようだね。助手さえ次々とクビにする彼の相手がつとまるなど、なかなか無いことだ」
 ロイの悪手に乗った老人は「そんなに不満そうにするな」と苦笑する。
「例えだ、マスタング中佐。ただの例えだよ」
「わかっています。……して、その中佐のところのファルマンとはどのような人物ですか?」
「会えばわかる」と言って、相手はファルマンについてそれ以上教えてくれることはなかった。
 地方とはいえ、司令官の地位にいるものが、一曹長の名を知っているとは、よほどそのファルマンという人物が優秀なのか、扱い難いひと癖あるタイプなのか。しかしそのどちらかというのならロイの耳にも入っていていいはずだ。
 それとも、将軍の血縁かそれに準ずる関係にあって、彼の能力とやらを知っている、とか。
 考えても仕方がないが、どうしても思考にとらわれる。ロイの脳内を反映してか、盤上は早くも混沌としはじめた。先日一勝をもぎとったとはいえ、まだまだ腕は釣り合わないのだから、相当に集中しないとこの老人には勝てないというのに。
「駒の方は時に駒として扱われる方が楽な場合もある」
「……そうしているつもりです」
 割り切ることは必要なのだから。しかし老人はそんなロイを一蹴する。
「つもり、にすぎないな、君の場合は。ナイトを大事にしすぎてキングがとられては意味がないだろう」
「キングなどいません。この国には、一人しか」
 人生の先達は一つ、大きくため息をつくと、駒を動かした。
「戦場に赴いたものの中には、君のようになる者が多くいる。そして戦場から帰ってきて短い間に、自らの理想に押しつぶされ、辞めていく。特にイシュヴァールはそうだった。だから君のような人間は自然と淘汰されていくんだ」
 何を言ったものか迷ったロイは、結局そのまま口をつぐんだ。
 対戦はしばらく無言で続けられ、いっそう不利になっていく。
 劣勢のまま勝敗はつき、老将軍は盤面を眺め、困ったように微笑んだ。
「君の本質は守ることにあるようだね」
 あまり固執するな、という助言を受けとるべきか否かは迷うところだった。


 その日は夢を見た。
 何もかもが赤く、辺りに立ち込める”もの”が焦げるにおい。
 守らなければ。守るためだから、まだ耐えられる。
 守らなければ。……何を守るというんだ。人の生活を、命を踏みにじって。
 もはや流す涙もなく、吐き出す胃液もない。腹が減れば乾燥した肉を見て、肉汁のしたたるステーキを食べたいと欲し、逃げるイシュヴァールの女をそっと見逃しながら、抱きたいと思った。そう思った時期はわずかではあったが、確かにあった。そして時期が過ぎれば残るのは後悔。
 一刻でも早く、終わらせるために殺す。焼く。
 生殺与奪の権利を握っている仄暗い喜び。快感。悔恨。衝動。あるかわからない創造のために破壊を。壊す喜び。興奮。深い後悔。戦場の正義。理想。快感。自虐。歓喜。諦観。沈静。そして、後悔。
 早く。少しでも早く。
 早く終わって。早く。誰か。止めて――。


 目の前に幼いこどもが立っていた。
 呆然と立ち尽くす己を前に、『どうしたの?』と首をかしげている。
 敵か? 何も持っている様子はない。
 住民はすべて避難させたはず。
 では、”これ”は誰だ。――断罪者か。己の罪を裁くもの。
 手をのばせば、片手でもあっさりひねられるような細い首。
 細く、白く、やわらかな、あたたかい――こどもの、エドワードの首。
 少し力をこめれば折れてしまう、儚いこどものからだ。
 手折ってしまえばいい。
 楽になれる。己を終わらせるために。衝動のままに。
 全身が後ろ暗い喜びに支配され、覚えのある快感が背筋を這い上がる。
 さあ。そっと、いつくしむように、力を込めて。さあ。
「ロイ?」
 目を開けるとエドワードがじっと見つめていた。
 病院の、エドワードがいる病室で、一晩つきそっているうちに眠ってしまったのだろう。
「だいじょうぶ? うなされてたけど。前みたいにわるいゆめ見たのか?」
「なんでもないよ。少し疲れていただけだ。大丈夫。心配しないでいい」
 そう、君を殺そうとしただけだから。
 ベッドに上がり、まだ心配そうなエドワードを抱きしめて、ロイは目を閉じた。体温の高いエドワードのあたたかさに満たされて、すべては薄れていく。感じた衝動も、快感も、すべて。
 殺そうとした、記憶すらも。

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