川棚戦争遺跡探訪(上)

2008年10月13日


  平和委員会の仲間と川棚の戦争遺跡を訪ねました。沿道の田には刈り取ったイネが干され、コスモスの花が揺れ、海は鏡のように凪ぎ潮の香を漂わせる穏やかな町にも、驚くばかりの戦争遺跡がありました。現地では、長く地域のお世話をなさってこられた田崎さんに、特攻艇訓練基地が作られた頃のご自身の体験も交えてお話とガイドをして戴いた。
  針尾海兵団、海軍兵学校予科、川棚海軍工廠、川棚倫治魚雷艇訓練所などの軍事施設がまる見えであった早岐から川棚にかけて、列車の鎧戸を閉めさせられたこと。飛行場には木製の実物大飛行機が並べられていたこと。グラマンが飛来すると日本軍の飛行機は迎撃のためでなく避難のために飛び立ったなど興味深く聞きました。
見学したのは、 >片島魚雷発射試験場跡(上)川棚魚雷艇跡・特攻殉難の碑(中)無窮洞(下)である。


片島魚雷発射試験場跡

  日本帝国海軍は、朝鮮・中国など東アジア進出の根拠地として寒村であったが天然の良港、佐世保に軍港を開設することを決定。佐世保鎮守府は1889年(明治22年)に発足しています。1903年(明治36年)には佐世保海軍工廠(SSKの源流)ができています。
  いまは無残な残骸となった姿を晒しているコンクリートとレンガの構造物は、1918年(大正7年)に造られたとのこと、佐世保海軍工廠で制作される魚形水雷の発射試験場だったそうです。1942年(昭和42年)川棚に分工廠が設置されたのに伴い、発射試験場の施設は拡大され文字とおり島であった片島は海を埋め立て陸続きになったとのこと。

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片島・実験場跡の遠景 廃屋・内部には水槽らしき設備跡も 廃屋内部・外壁のみが残る
廃屋内部2 監視所跡・橋が欠落して渡れない 魚雷発射塔跡。いまは絶好の釣り場
発射塔内部壁と窓枠 廃屋から発射塔へレール跡
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