川棚戦争遺跡探訪(中)

2008年10月13日

川棚魚雷艇訓練所跡・特攻殉国碑

  1943年、横須賀水雷学校の分校として川棚町小串郷・新谷郷に川棚魚雷艇臨時訓練所が設けられる。1944年5月からは、「震洋艇」の訓練所となる。
  ここが選ばれたのは、大村湾の海面静かな入り江であり、故障艇が流出することがなく、佐世保軍港に近く実艦訓練に都合がいいこと、海軍工廠も近く、何より行き交う船も少なく機密が保持できるなどの理由があげられる。
   太平洋戦争末期、制空権も制海権も失った軍部は、操縦者が飛行機や船艇とともに敵艦に体当たりさせるというなんとも非人間的な特攻作戦を行った。
  ここでは伏竜、佼竜の訓練や回天の講義も行われたという。
  「震洋」は船首に250キロの炸薬を装着して敵艦に体当たりするベニヤ製の小型高速艇である。マルヨン(マル4)艇と呼ばれた。(回天はマル6)この水上特攻兵器は、当初、コレヒドール島などで一定の戦果もあげたが、ほとんど役にたたなかったといわれる。
  人間魚雷の特殊潜航艇よりも安価で制作期間も短くてできたため、本土決戦に備え大量生産されていく(9月まで10000艘月産600艘)。長崎の三菱兵器製作所では月産100艘を生産した。
  敵上陸に備え、関東、四国、九州各地36ヵ所に配備されたが軍首脳部は特攻成功率を1割と計算していた。

特攻殉国の碑

新谷郷、かつて桟橋があった近くに「特攻殉国の碑」が建っている。碑文は靖国的発想があり違和感を覚えたが、ここで訓練され犠牲になった3510名の名前が碑いっぱいにびっしりと刻まれてており、迫り来るものがある。犠牲者の内には、輸送中、アメリカの潜水艦に沈められた1000名にものぼる乗組員、8月16日、終戦翌日に米機動部隊来るの誤報で艇を整備中、発火、大誘爆で死亡した111名などが含まれているという。


震洋模型の展示

  碑の横には震洋X型の模型が展示されている。T型は全長5m、エンジン1基、乗員1名28ノット。展示の5型はエンジン2基乗員2名32ノットという。艇は前進装置のみでバック機能はなかった。 三菱が50ノットクラスの試作艇の実験中に、発火爆発した逸話も聞いた。
フィリピンやボルネオ台湾、中国、済州島、南西諸島、沖縄本島などにも出撃配置されている。

桟橋跡

  写真中央のコンクリートの塊はこの施設のわずかの遺構、桟橋跡である。ここで訓練された特攻要員は17才から23才くらいの若い予科練や予備学生出身者であった。碑には「自ら志願した・・・」とあったが「志願を強要された」が本当ではなかろうか。2〜3ヵ月の訓練で基地に赴いたという。訓練生の中には、訓練中に死亡した者や鉄道や井戸での自殺者もあったそうだ。
 

伏竜隊の鉛草履

  伏竜は一人で簡易潜水着を着用して海底に潜み、棒の先につけた機雷で敵上陸用舟艇など小型船の船底を爆破する部隊である。海底に立っているための重い鉛の履き物が発見されている。重さは片足4キロ近くはある。ちなみに「佼竜」は、真珠湾攻撃に参加した2人乗りの小型潜航艇。これを大型5人乗りとしたもの。後に特攻兵器となる。

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