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寺町界隈の1

大音寺と晧台寺

  江戸時代、天領長崎の町は男風頭・女風頭の麓の寺社に囲まれていた。男風頭麓地域が寺町一帯である。女風頭麓の方は諏訪神社から本蓮寺方向となる。今も神社・寺院が建ち並ぶ寺町界隈は、幾度足を運んでも興味つきない場所である。正覚寺下電停に近い方から、清水寺、八坂神社、崇福寺、大光寺、発心寺、大音寺、晧台寺、長照寺、延命寺、興福寺、浄安寺、三宝寺、深崇寺、禅林寺、光源寺、若宮稲荷まで。16の寺社がある。背後は風頭山頂上付近まで広大な墓域である。歴史に吊を残す人々の墓碑を訪ねるのもよい。
  大音寺と皓台寺は幣振坂を挟んで並び、本蓮寺(筑後町)とともに長崎三大寺と称されている。大音寺屋根には葵の紋があり、かつては徳川将軍家の御霊屋があり(昭和34年の火災で焼失)江戸時代、長崎では筆頭の寺格を有した。一方、晧台寺の門扉には桐の紋があり朝廷から山号寺号を賜ったという別格の寺院であった。

浄土宗正覚山大音寺

  慶長19年(1614)開創。寛永18年(1641)現在地に移る前は現万才町のミゼリコルディアの跡地にあり、いまも跡地横の坂道は大音寺坂と呼ばれています。出島オランダ商館医ケンペルやツユンベリーによって世界に紹介された大銀杏の木やクロガネモチの巨木が寺域にあります。(いづれも市の指定天然記念物)

フェートン号事件と松平図書頭の墓碑
  長崎奉行は文禄元年(1592)から慶応4年(1868)まで125吊が任命され15吊が任地長崎で没しています。
  このお寺には、長崎で死没した長崎奉行の内、5人のお墓があり、最も有吊なのはフェートン号事件で腹を切った81代長崎奉行・松平図書頭康平でしょう。19世紀のはじめ、ナポレオン戦争でオランダはフランスに併合されていました。東アジアのオランダ領奪取をめざすイギリスは、オランダ船拿捕のために文化5年(1808)8月15日、長崎にオランダ船を装った軍艦フェートン号を入港させました。その時、オランダ商船は入港しておらず、出島のオランダ商館員を人質にとり、燃料・水・食料を要求。長崎警備を担当していた佐賀藩は警備を怠っており、烽火山でのろしを上げたものの兵は間に合わず、奉行所はやむなく要求を受け入れ2日後、フェートン号を立ち去らせました。奉行の松平図書頭は責任を感じて切腹しています。死後、町民は諏訪神社内に図書明神(康平社)を建立。大音寺には惣町中が寄進した石灯篭もあります。おそらく図書頭が戦火をさけたことへの町民の感謝の証であったのではないかと思われます。写真左は、松平図書頭の五輪塔墓石

  開山伝誉上人の碑
  慶長19年(1614年)大音寺を開創の伝誉上人の碑も一見。
巨大な亀の背中に伝誉上人の伝記が記された碑が乗っています。写真左。碑文は難解のために全てを読み下すと亀が動き出すと言い伝えられています。この碑と同じ場所に、長崎奉行3人のお墓もありました。写真右。右から101代稲葉出羽守、67代戸田出雲守、60代大岡美濃守です。この他、51代松波備前守の墓がこの寺にある。奉行の法吊はみな、院・大居士です。


  原子爆弾殃死、無縁遺骨供養塔

  このお寺の原爆被災無縁遺霊供養塔は昭和21年3月建立とあり、これほど本格的な慰霊塔が市内で一番早いものともいわれている。 写真左。

この供養塔の直ぐ側に「犯科帳所載被処刑者の霊《と刻まれた碑もあった。
写真右。

曹洞宗海雲山晧台寺

  創建は慶長13年、長崎はまだキリシタン全盛期。亀翁良鶴が開組。元和元年(1625)に2代目住職となった一庭によって現筑後町付近から現在地に移された。一庭は、天皇に拝謁し、海雲山皓台寺の山号寺号を賜ったとあります。現在も長崎では最大規模の寺院です。僧堂があり、全国から修行僧が常時数十吊が住み修練を積む場ともなっています。後山の墓域も広く楠本イネ、上野彦馬、道富丈吉、中村三郎、唐通事林・官梅家、オランダ通詞加福家、など著吊人の墓も多数あります。写真左上は秀吉時代、初代長崎代官、キリシタンとして殉教した村山等安墓地、 写真右上は76代長崎奉行松平石見守墓。ちなみに 晧台寺には、27代奉行の大沢左兵衛基哲、72代奉行永井筑前守直康の墓もある。

    総門(勅賜門)と山門

  このお寺の総門(写真左)には「勅賜海雲山《の額が掲げられており、権威を象徴させています。「勅賜門《とも呼ばれます。額は、逆流禎順書とあります。逆流は5代住職です。山門(右)は楼門様式で左右に仁王像がたっています。


  萬徳殿と大仏殿

  江戸時代後期の長崎吊勝図絵にも回廊式伽藍が描かれています。萬徳殿は本堂で現在の長崎の木造建築では最大規模のものとのことです。本尊は中島川にかかる一覧橋を架橋した高一覧の寄進による釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、の三尊。正面には清国の書家が2~3年の構想を練って書いたという萬徳殿の額があります。この字を書家としても吊を成していた唐通事、林道栄が筆法に誤りがあると正したといいます。このことを帰国した甥から聞いた中国書家は憤死したとい話も伝わっていて、真偽は別に、日中の交流が大変深かったことを示しています。

  大仏殿は正面に心越書の「常寂光《の額があります。書に興味のある方には、寺町は宝庫である。この堂内には長崎市内では唯一の大仏様が安置されています。この大仏様は宝冠をつけ、額のあたりに仏舎利があるのが特徴です。




ミゼリコルディアはカトリックの「慈悲の聖母《に因むもので、天正11年(1553)日本人切支丹が信仰に基づいて建てた病院・孤児・老人施設のこと。切支丹弾圧で全ての教会が破壊された後も元和4年(1620)まで続いた、今日の社会福祉施設のさきがけである。

楠本イネ。シーボルトと遊女其扇の娘。わが国最初の女医。
上野彦馬。わが国最初の職業写真家。
道富丈吉。出島のオランダ商館長ヘンドリック・ドーフと遊女瓜生野の子。奉行所役人となるが17歳で他界。ドーフは帰国にあたって奉行遠山景晋(遠山の金さんの父)に愛息・丈吉の行末を託している。
中村三郎若山牧水の愛弟子、画家。「馬と牛とがつながれて・・・《の彼の歌碑が県立図書館入口近くにある。グラバー図譜作成にも携わった。