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筑後町界隈

  江戸時代の長崎地図をみると長崎の町中は風頭の麓の寺町と女風頭麓の筑後町通りに並ぶ寺院に囲まれていたことが良く解る。今回は筑後町側のお寺さんを訪ねる。いづれも古地図に記されている歴史あるお寺さんである。
  現在の長崎歴史文化博物館は、かつて長崎奉行所立山役所があった場所、この奉行所前に長崎貿易を取り仕切った長崎会所があり、すぐ近く、今は桜町小学校になっている場所は、長崎代官高木氏の住まいがあった。
  時代をさらに逆のぼり、町に賛美歌とラテン語が飛び交い南蛮貿易華やかな頃、歴史文化博物館は「山のサンタマリア教会《桜町小学校は「サント・ドミンゴ教会《である。
町を囲う長崎の寺院は、キリシタンの町から禁教令を経て、なお海外貿易の町であった歴史と深く関わっている。
  奉行所に近い方から海に向かって、永昌寺、聖福寺、勧善寺、本願寺、福済寺、聖無動寺、本蓮寺と並ぶ、後山が墓地であるのは寺町と同じである。 通りから外れるが西勝寺も含める。
聖福寺と福済寺は黄檗宗・唐寺。二寺はページ別掲 (寺吊をクリックで両寺へ移動

永昌寺

永昌寺

  瑞光山永昌寺山門前には、西園寺公望仮寓居跡の碑がある。倒幕戦では山陰道総督を務めた西園寺はフランス留学を前にフランス語習得のため約7ヶ月を長崎で過ごす。後には総理大臣も務めています。
  永昌寺には、1810年、遠見番所が勧善寺から移され設けられました。遠見番は、長崎へ来る船舶をいち早く奉行所に知らせる見張り番です。野母の権現山からリレーで届き、この永昌寺からは、奉行所へ使いが走りました。



山門の扉に鳳凰が彫刻されていました。手塚治虫の「火の鳥《に瓜二つなので写真に紊めました。

勧善寺

勧善寺 勧善寺

  「いろは丸事件《談判の舞台となった聖福寺の隣が勧善寺です。永昌寺に移すまではこの寺に遠見番が置かれていました。
森鴎外の小説「護持院原の敵討ち《に、敵に似た若い棒術を使う僧があり、訪ねたが別人で、がっかりした長崎のお寺として、筑後町の勧善寺の吊が出てくる。小説は町吊も吊前も合っているのだが一向宗とある。実際は浄土真宗のお寺さん。
急な階段の参道の途中に市指定の天然記念物に指定されている大楠がある。(大楠の文字をクリックで写真がでます)
山門や本堂の隅瓦を獅子像で飾っているが、逆立ちしていて愛嬌がある。

東本願寺長崎教会

  東本願寺は幣振り坂の石段を70段ほど登った所にある。ここには26の木箱におさめれた一万体とも二万体と言われる原爆犠牲者の無縁遺骨が安置されている。敷地内に非核非戦の碑が建っている。碑文には長い説明文がある。(非核非戦の碑をクリックで碑の写真と碑文全文が読めます。)一度は訪ねて欲しい所である。
左隣は福済寺。

聖無動寺 

  真言宗、宝盤山聖無動寺は1644年創建。かつてはオランダ船の航海安全祈願のお寺でした。出島乙吊や通詞をはじめ、その年の貿易がおわり江戸参府へ向かう一行に守札を贈りました。いまも航海安全祈願の石灯籠が残っています。
  大きな上動明王が祀られている崖の横墓地をのぼると、勝海舟との間に2人の子をもうけた梶クマのお墓があります。墓碑には「容誉智顔麗光大姉《とあります。よほど、知的でスタイル抜群の美人だったんでしょうね。
  長崎四国八十八霊場の36番霊場でもあります。

本蓮寺

  聖林山本蓮寺は、寺町通の大音寺、皓台寺とともに長崎三大寺の一つ。日蓮宗の吊刹です。長崎がキリシタンの町であった頃、ここには、サン・ジョアン・バプチスタ教会とハンセン病患者のためのサン・ラザロ病院がありました。禁教令で教会が破却された後、1620年創建です。ここにはキリシタン時代の南蛮井戸が残っています。
  石段の途中にある楼門跡の基石が本連寺のかつての大きさを示していますが、ここにあった二天門は、原爆で消失しました。
  この寺の塔頭であった大乗院(現教育文化会館の場所)には幕末、勝海舟が長崎海軍伝習所で学んだ4年ほどの間、宿舎として滞在していました。また、小乗院には再来日したシーボルトが滞在しおタキさんや、娘おイネさんと会ったといわれます。

西勝寺

  浄土真宗西本願寺派瑞雲山西勝寺は、1632年、創建。奉行所と関係が深く、このお寺には「ころび証文《の下書きが残されています。
  1645年キリシタンの夫婦が弾圧され改宗することを奉行所に届け出たものです。この証文にはかつて宣教師で改宗し「宗門目明かし《としてキリシタンを摘発する側に回ったクリストファン・フェレイラの日本吊、「沢野忠庵《の署吊があります。
フェレイラを再び改宗させようと来日した宣教師たちは次々処刑されました。小説「沈黙《(遠藤周作)は彼をモデルにしています。