「佐々木さん?」
低音のやわらかい声に、心臓が跳ねた。
慌ててデスクの液晶画面から顔を上げると、長身の上司がいた。
春田さん。
「この資料ありがとう。わかりやすかった」
にこ、と微笑む。
「は、はい」
頬が熱くなっているのがわかって、恥ずかしい。資料の束を受け取った手さえ、火照って熱い。
「……、」
せっかく話す機会なのに言葉が出てこない。なにか気の利いたことを言えて、会話できたらと思うのに、喉がつまったように空気も通らない。
ありがとう、と春田さんは絶対に言ってくれる。
お茶をいれたときでもコピーをしたときでも、ちょっと物を取ったときでも。
にこ、と笑顔ひとつ添えて。
「春田ぁ〜、ちょっと!」
そんなことを考えているうちに、春田さんは呼ばれてしまって、
「じゃ、ありがと」
軽く手を上げて行ってしまった。
去っていく後姿を見つめて、ハァと溜息がもれた。
恋と呼ぶよりは憧れで。
颯爽と歩く彼のすがたを、憧憬の念で眺めているだけだった。
「見た?」
「見た。」
もちろん、春田さんのスーツの話。
女はスーツやネクタイ、服装のことは誰に対してもチェックをしている。下北係長はいつもセンスがいい、あれはきっと奥さんが決めているのだろう、高山さんは顔はハンサムなのに合わせ方がおかしい、岡くんはシャツがよれよれ、などなど。口に出さなくてもしっかり観察している。次の日に同じネクタイなんてしてきたら、まず気づかれると思って間違いない。
中でも、春田さんは話題の人だった。
もっとも彼の場合それだけではなく、どこかの御曹司で今は社会勉強中の身なのだとか、出身は何々大学だとか、そういった噂がオプションとしてあって、すっきりと整っている目鼻立ちも騒がれる原因のひとつではあった。
とにかく、そんな春田さんだったから。
「瀬名さんと…?」
「うん、受付の子が見たって!」
目撃情報などもすぐに広がる。
「他にも見た子いるらしいよー」
次々と証拠が挙げられていく。
「ホントなのかなあ?」
顔を見合わせる。まだみんな半信半疑のようだった。
きっとこれから、二人の行動はあちこちで監視されることになるだろう。
わたしの目も、あたりまえに二人を追っていた。
瀬名さん。
よくもわるくも、普通のひと。嫌われる『お局』でもないが特に人気があるわけでもなく、単に、上司、そんな言葉がぴったりなひと。
確か春田さんとは同期だったはずだ。
(まさか…ね?)
恋人がいないとは思わないけれど、相手が瀬名さんというのはピンとこない。
会社で二人が一緒にいても、事務的な用件で話しているところしか見たことがなかった。
ところが、世の中というものは嫌なものほど目撃してしまうものらしい。
休日に街を歩いていると、二人がレストランから出てくるところに遭遇した。
(運わる…)
春田さんの私服姿を見るのさえ初めてだというのに、どうしてこんなときに見掛けてしまうのだろう。二人は駐車している車に乗り込む。あれはきっと噂で聞いた春田さんのBMW。決定的だ。
二人のことは、わたしが言いふらすまでもなく、あちこちから出た目撃情報で確定事項となった。
「でもさぁ…春田さんって、御曹司なんでしょ?」
「お見合いの話、30になったら考えますって断ったって」
「もしかして瀬名さんとは………遊び?」
えーうそぉ、ヒドォイといいながら声は明らかにゴシップを面白がっている。
瀬名さんにフォローをしてもらったことのある子は多く、また評判も悪くはないので陰口を言う雰囲気でもない。でもみんな何らかのケチをつけたいようで、瀬名さんが恋人になれるのならもしかして、私も頑張れば、そんな気持ちがある。
「瀬名さん、淡白そうだよね」
「案外わかってて付き合ってるんだったり」
噂はとどまることを知らない。
「二人とも遊びかも」
ありえるー!という声をはたで聞きながら、ばからしいと思った。
春田さんは本気だ。間違いなく。
だって目が追っている。きっと本人だって気づいていないだろうけど、ふと目が泳いで向かっている。無意識に。
注意して見ればすぐにわかった。
パソコンを打つ姿、資料をチェックする手、わたしの目が春田さんに引き寄せられるように、彼の目は瀬名さんに向けられていた。
「あ、瀬名」
彼女の腕をつかんで呼び止めた男とその立ち話の姿を、凄い目で。
射殺すような。
それはたったの一瞬の出来事だった。背筋が凍った。恐ろしかった。
なのに。
嫉妬に喉が焼けた。 熱く。羨ましくて仕方がなかった。
瀬名さんが振り返る。春田さんと目を合わせて、
…困った顔を。
した。
あれでおかしくなってしまった。きっと。わたしは。
瀬名さんが他の男と歩くのを見て、喜びを感じるような、そんな。
恋人でしょうね、きっと。
「仲良さそうに二人で」
このまえの日曜日。
無邪気を装った、少し早口の。妙に甲高く、耳障りに聞こえた。
資料室に春田さんと二人きり。でも、それだけじゃない。こんな告げ口のような真似。わたしは醜い。嫌な人間になった。
「…ふぅん」
それきりだった。
私の心臓はバクバクと早鐘を打ち続けているというのに、彼のポーカーフェイスは崩れなかった。
なにもなかったように資料の棚を見続けている。
唇を噛みしめて俯いた。
少しの影響も与えられないの?
瀬名さんの名を借りても、わたしは。
涙をこらえて資料の文字を凝視して。
彼が必要のないファイルを意味なく握り締めていたことに、わたしは気づけなかった。
あいとじょうとあいじょう 2004/10/13-16
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