「ちょっと」
くるりとボールペンを回して、彼女はピタと先を俺に向けた。
「吸ってもいいか尋ねるくらいは、礼儀だと思うけど?」
煙草を咥えたまま、反応のおくれた俺は、着火しようとした薬指をフリント・ホイールにかけて止まっていた。同僚はすぐにまた手元の資料に戻って、つむじが見える。
「吸うの、吸わないの」
彼女は横着にも黒目だけ上げた。
「……吸っても宜しいでしょうか」
「どうぞ」
興味のない声だ。
怒っているわけではないらしい。不機嫌でもない。
隣りに座った男などどうでもいい顔をしている。
窓際に座ってプレゼンテーションを準備する瀬名とは、顔見知りではあったが四月に部署が同じになるまで話したこともなかった。お互い興味の対象になる相手ではなかったのだろう。
それが今、狭い企画室で二人きり、残業に唸っている。
「もしかして煙草嫌い?」
煙はなるべく横に吐き出して、訊いた。
「ん、まあ。でも言っても仕方ないでしょ」
確かに。
取引相手や上司にいえるわけもなく、喫煙のゆるされている職場ならば自分が慣れるしかない。
(なんで言ったんだ?)
そう考える。
無意識に発せられた言葉に利益はない。
「タバコ消そうか?」
それを期待されたのかと思い、訊いてみるが、
「いいよ。それで効率上がるなら早く終わりたい」
と返される。
テーブルの向かい、窓に近い位置に座る彼女は考え込んで、くるりくるり、とボールペンを回している。
「…それ」
「え?」
「ペンで人を指すのも礼儀に反すると思うけど」
……ああ。
瀬名はいま気がついたように自分の手元を見た。
そうだねゴメン気をつける、といった。
無愛想ではないが愛想をふりまくわけでもない彼女は、どこに行っても瀬名は瀬名であり、それ以外なく変わりがない奇妙な安定感がある。
プロジェクトが一段落すると接点はなくなったが、同じセクションであるために毎日顔は見ていた。目が合えば、挨拶もする。しかし立ち話をするような仲では相変わらずなかった。
視界の片隅で、瀬名は後輩の男と話をしている。
「池山くん、姿勢悪いね」
また関心の薄い声が聞こえた。瀬名はバカ正直だ。
気がついたことをどうでもよいくせに口にする。
後輩の池山は突然ふられた話題についていけずに止まっていた。以前の俺と同じだ。しかし、瀬名の中では終了しているので仕事の話に戻っている。
あれはきっと癖だろう。
『弟が、三人?』
なるほど、と思った。家族構成の話を聞いたときのことだ。
弟三人の姉。そうかそれで。なるほど。
ブラインドを背に池山は日差しの横縞をスーツに受けて立っている。瀬名の話を真剣な面持ちで聞いていた。入社当時、池山は挫折したことのない人間特有の高慢さが感じられて、若いなあと皆で笑った。最近は上司である瀬名にしっかり鼻を折られている。新人には彼女が淡々とこなす仕事量は驚異的だろう。鷹揚に構えて地味に見えるが優秀なのだ。全体を見渡す広い視野と無駄を省いた簡潔な手際のよさはなかなか真似できるものではない。
「んー…」
ギクリと心臓が跳ねた。瀬名が手にしていたボールペンの背をぎゅうと下唇にあてる。あわてて目を逸らした。覗きをしていたような後ろめたい気分になる。液晶画面に視線を固定したが、当然ながら内容は頭に入らなかった。
きっとあのペンは頬や唇をさまよい、池山に向くことはないだろう。瀬名は、律儀に俺の言葉を守っていた。意趣返しのように言っただけの言葉を。
瀬名を損な性格だと思う。
つい口にしてしまう瀬名は馬鹿だと。
自分に関わりないことを誰が口にする?
たとえば人が歯に青海苔をつけていたとして、それを教える人間が一体どれだけいるだろう。言ったときにあるだろう気まずさに怯んで言わない人間がほとんどだ。一番はじめに気がついた人間が教えるならその後みんなに見られることはないが、実際のところ多くの人に見られようと自分に関係ない。それならば気まずいことは避ける。
避けるのに。
相手が気に留めもしないかもしれないことを癖のように言ってしまう瀬名は、自分は律儀に守って、馬鹿だ、損な人間だと俺の目は彼女を追ってしまう。
珍妙な生き物がいたら誰だって目が行くだろう。
くるり、と回したペンの背を、あかい唇にあてる。
律儀な彼女の、最近の、癖。
あいとじょうとあいじょう 2004/10/05
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