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 ― 池山の場合 ―   愛と情と愛情 7





 女って、ホント怖えぇ。
 俺は背後の給湯室から聞こえてしまった噂話に、心から思った。
 聞くつもりもなかったが、聞き耳を立てていたと誤解されるのも嫌なので、なるべく気配を消したままその場を離れた。

 最近、会社の内部はある噂で騒がしい。
 どうして噂というのは、すぐに広まるのだろう。最初に女性社員の中でワッと広がって、そのおこぼれに与(あずか)った男が更に全体に広める。
 たったいま仕入れたばかりの噂を頭で分析しながら、煙草でも吸おうと喫煙室に向かった。喫煙室といっても、最近はめっきり厳しくなってビルの中でも数箇所にしかない。世間は現在喫煙者にとても冷たいのだ。
 やめようかなあ、煙草。
 学生時代にアクセサリーのように覚え、いつしか携帯品にまでなった。ぱかぁと口から出して上っていく煙は、なぜか俺の安心感を誘った。
 「おう、池山」
「ちはっす」
喫煙室に入ると大学の先輩でもある山本さんが、半分になった煙草を咥えていた。メンソールの薄い煙を口から吐き出している。1mg/0.1mgのメンソール。何度見ても似合わない。
「おめーは相変わらず重ぇの吸ってんなあ」
「吸ってる気がしないじゃないスか」
俺はメンソールは絶対吸わない。ハッキリいって煙草じゃない。
「そもそも山本さんが重いのだったんでしょ」
同じサークルだった頃は、目に付く銘柄は片っ端から試している物好きな人だった。あるときから、ぱったりと同じものだけになった。イギリスの。ますます似合わない。
『女が吸ってんの一本もらったらさぁ、すげえ美味かったんだよねぇ〜それが』
いつか理由を尋ねたらそう言っていた。目も鼻も大きい整った顔とは言い難い山本さんだったが、クセの強い何らかの空気をもっていて、いつも女性が絶えなかった。メンソールを吸う女がどれだったのかは、わからない。
 「お前だけだったよな、アレ最後まで吸ったの」
「アレ?」
「ほら、土産の」
「ああ…」
大学時代バックパッカー族だった山本さんがインドで買ってきた怪しい銘柄の煙草だ。
『お前は気に入らなかったらコッソリ捨てるんだろうな』
山本さんは意地の悪い顔で笑った。ありがとうございます、と無難に礼をいった俺に、お前の性格はわかっていますという揶揄する口振りだった。しかし結局俺は、箱の最後まで吸い切った。周囲の人間、当の山本さんまであまりのアクの濃さに途中で放り出していたにも関わらず、だ。図星をさされたようで否定したかったのかもしれない。

 「あれ? 瀬名だ」
山本さんが指したガラスドアの向こうに、瀬名さんが立っていた。俺の上司だ。そして、山本さんの同期。
「お前に用じゃねえの」
どうもそうらしい。目が合うと手招きをされた。
「……」
吸い始めたばかりなのに。手にした一本を未練がましく見ると、さっと横から伸びた手がそれを取った。
「俺が吸っといてやるから」
おお久しぶりの味、という男に、あきらめてドアに向かった。

 瀬名さんといえば、ただいま噂の渦中、むしろ台風の目! な人物である。

 バインダーを開いて、瀬名さんは俺に書類を見せた。
「池山くん、これね…」
「はい?」
俺がよく見ようと近づくと、瀬名さんが鼻に皺をよせたのが判る。煙草が嫌いなのだ。臭いから近づくなとまで言われたことがある。まったく酷い。もともと臭い消しのスプレーは持ち歩いていたが、それから使う頻度は更に多くなった。
「で、だから、」
しかし喫煙室にいたのを呼び出したのを自覚しているからだろう、何もいわずに話を進めた。本当は頭からスプレーをかけてやりたいと思ってるはずだ。
「ちょっと。聞いてる?」
「…ええと…」
聞いてません。すみません。

      あなたが一緒に歩いていたっていう男のことを考えていました。

 …とは、流石にいえず、曖昧に誤魔化した。
 瀬名さんは、社内で出世頭として有名な『春田』という男と付き合っていた。しかし、噂になっている相手は、春田その人ではなかった。
 明け方。まだ暗い。腕を組んでいた。エトセトラ。どこまで本当か知らないが、別れたのか浮気なのか憶測で情報が入り乱れている。春田が顔も性格も良しときたものだから付き合い始めたときもかなり噂になったものだったが、今回は内容に悪意がこもっていて凄まじい。
 以前は噂を知っていても瀬名さんの態度は普通でいつもと変わりはなかった。今度のことは知っているのだろうか。本当なのか。その男って誰だ。
 「…なに、さっきから」
言いたいことがあるなら言ったら、という瀬名さんの不満顔に思わず笑った。
「いや、…えっと…、瀬名さん、俺にスプレーぶっかけたいんだろうなと思って」
噂のことは隠して、さっき考えたことを言ってみる。ぷっと瀬名さんは吹き出し、すごい、正解と笑った。
「あのときから、いっつも携帯してるんですよ」
あれは酷いです、と俺が拗ねたように言うと、ますます笑う。
「ごめんね、もうちょっと言い方を考えたら良かったね」
すまなそうな顔をするが、そのときの遣り取りを思い出したらしく目は今だ可笑しそうだ。
「いいですけどね、別に」
毎度ひそかに臭いなあ、とか思われているよりマシだ。それ以前から一応気をつけてはいたが、喫煙者の鼻など所詮あてにならない。瀬名さんはかなり敏感な方とはいえ他にも思っていた人はいたかもしれない。
 そういえば、別れた女の中にもいた。
 別れる段階になって、アレが嫌だったコレが嫌だったと山ほど例を持ち出され、だったらそのとき言えとむしろ呆れ返ったのを覚えている。女は怖いと思った。腹の中で何を考えているかわからない。

 その点、瀬名さんは信頼できる。

 俺は携帯スプレーを取り出して、瀬名さんに手渡した。あのときも俺はこうして、気が済むまでやってくださいよっ、と挑むように言ったのだ。
 ニヤと笑うと瀬名さんも思い出したのかクックックと笑いを漏らして、俺の頭、肩、と噴きつけた。俺は、以前に姿勢が悪いといわれた背をさらに丸めさせて瀬名さんに近づいた。

 ふと、視線を感じる。
 瀬名さんの肩越しに、噂の渦中の、もう一人。

 「どうです?」
「んー…」
わざと、身体を寄せた。見せつけるように。瀬名さんは、無防備に鼻を近づけた。俺は彼女にとって弟と大差ないからだ。

 視線が一段と険しくなった。

 そんな顔すんなよ、春田サン。心の中で話し掛ける。
 噂の『男』は、俺じゃない。


 残念ながら、ね。




あいとじょうとあいじょう
2005/01/12




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