「ちょっと、あんた、熱あるんじゃないの」
同僚が私の額に手を当てて声を上げた。
「あー…ばれた?」
「ばれたじゃないわよ、まったく。ひどい熱じゃない」
「今日の会議を抜けるわけにはいかないし」
言外に帰れという同僚に大丈夫と手を左右に振った。明日は土曜日、今日を乗り切れば休みだ。
同僚はつい先日浮気の噂を大笑いした口に今度は心配そうな歪みを浮かべて、キツくなったら言うのよと私の肩を叩いた。
大きな失敗をすることもなく会議をなんとかやり過ごし、手足を引き摺るように部屋へ帰ってきた。
熱が上がり心なし震える指で、春田にメールを打つ。
春田とは
お互い特に用事がなければ週末を一緒に過ごすことにしている。今週は会えないという主旨のメールを書いて、ベッドに潜り込んだ。これでもかと毛布や布団を被っても一向に乾いて汗ばまない身体が更に悪くなる予感をさせる。泥沼に沈んでいくように全身が重くなり意識が途切れた。
水の落ちる音を夢の中で聞く。
あのとき。
キスに息を弾ませて目と目が近くに鼻先がふれるほどの距離で、春田が今日の夕食でも一緒にどうと照れた様子で訊くのに笑った。べろちゅーまでしておいて今さら何を照れているの。
そしてまたキスをされた。
関係は長く続かないだろうと思っていた。
年下の女の子たちからうっとりと声を掛けられて選びたい放題の春田だ。
そのうち次へ行くだろう、と軽く考えて、だから付き合うことにしたのだ。本気じゃなくてもいいか、と。
ところが触れ合えば肌は熱をもっていて、あのときと同じように春田の手は想いを伝えてきた。その指は性急で必死だった。私の快楽を懇願するように。私の悦びが好意の感情であるかのように。
噂のことで憂鬱になったのは、自分の評判がどうこうという以前に春田が気にすると思ったからだ。
今さら春田が私を想う気持ちを否定することなどできない。
私が浮気をしたなど聞きたくもないはずなのだ。
なぜ何も云わないのだろう。
ひとこと訊いてくれれば否定して安心させられるのに。
ぴちゃん、と、また水の音がした。
喉が渇いたと思うのに手足は粘土でできたかのように重く反応しなかった。寝る前にすぐに飲める位置にペットボトルを置いていたが、手を伸ばすことも億劫だった。熱は更に上がっていた。
「瀬名?」
春田の声。
「瀬名? 起きたのか?」
近づいてくる気配に重い目蓋を上げる。
整ったはずの目鼻だちがぼやけて二重にも三重にも揺れた。
額に触れる指にビクリと身体が震える。
「ごめん、冷たかった?」
濡れたタオルを乗せられる。ひんやりと気持ちがいい。汗ばんで頬に貼りつく髪を優しい指で除ける春田をじっと見つめるが、二重の目に浮かぶのは心配ばかりで考えていることなど何も判らなかった。
もし、これが他の人だったら。
噂を否定して笑うだけだろうと気にも留めない。
気になるのは、春田が私をどう感じているのか知らないからだ。
毎日身近にいる仕事仲間や昔からの友人は私を理解している。
全てではないが、私がそういうことを毛嫌いしていることは知っている。
でも、春田はどう思っただろう。
恋人という、一番近いはずの立場にいる人が、私をわかっていないかもしれない。
春田が私をどう見て、どう考えているのかなんて知らないのだ。
あば
いくら身体を暴いて、身体を合わせたところで。
愛しいという恋情が垣間見えるだけで、その人の主義も思想もわかりはしない。
「瀬名? だいぶ汗かいてるから水を飲んだほうがいいよ」
子供に言い聞かせるように春田がいう。
「身体、起こせる?」
「ん…」
頷けば、熱のせいで目尻に溜まった涙がぽろりと零れた。
ごめん。
ごめん春田。
酷いことをしている。
いくらその手が必死だったからだといって。
私を必要としていたからって。
気持ちが伴わないなら手を取るべきではなかったのだ。
いとしい。
春田を愛しいと思う。
どこか怯えた孤独を感じさせる春田。
両親の留守に淋しくて泣く末の弟を思い出す。
抱き上げれば安心して笑顔を見せた。
だから。
だから春田にも安心してほしくて。
いとしい。幸せになってほしい。
弟と同じ。
春田を幸せにしてくれるなら私でなくても誰でもいい。
ただ笑っていてほしいと思う。
でも、それは。
それは恋人とは違うでしょう?
そんな情を、春田は求めているわけではないのだ。
ごめん。ごめん、春田。
求めてくる、その手を取ったくせに、あげられなくて。
好きになれなくて、ごめん。
あいとじょうとあいじょう 2005/05/31 改稿 2005/06/30
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