はじめは良かった。
唇を離して、でも名残惜しく鼻を擦り合うほどの近さで本当に瀬名かと確かめるように覗き込めば、上気した目元と濡れた目に射抜かれて
頭の中が沸騰したようになった。パッと距離を取った
俺はやっぱり混乱したままで、確か一緒に飲みに行こうだったか夕食に行こうだったか、そんなことを言ったのではなかっただろうか。
落ち着かない俺の様子を眺めた瀬名は、いつもの凛とした雰囲気を柔らかくして
紅潮した頬まで綻ばせた。本当に可笑しい、というような、仕方ないなぁとでも聞こえてきそうな笑顔。
眩暈がした。
たかが恋で。たかが笑顔が向けられただけで。たったそれだけのことで頭が壊れそうになるのだ、と初めて知った。
瀬名は、いったん人に気を許すとトコトン許す人間らしく、俺にもすぐに打ち解けた。
山本相手と同じとは言わないが、当たり障りのない態度ばかりではなくなった。
『んーー満腹。満足』
瀬名がご馳走サマ、と手を合わせて言った。
あれは瀬名の家で食事を作ってもらった二回目のときだ。
『春田くーん、食器洗ってー』
テーブルから食器を片付けている瀬名のあとについて俺も食器を下げていると、
はい、とスポンジを渡された。
『え…』
『あ、そこ今片付けるから』
瀬名は乾燥させていた食器を手に取って棚に戻しに行く。瀬名の後ろ頭を見て、俺はそうかと今更ながら思った。今まで彼女の手料理のときに食器を洗った記憶はない。全部やってもらっていたのだ。それが当たり前だと思い込んでいた。皿を下げたり台拭きをした覚えが僅かにあるだけ。
『水に濡らすからちょっとどいて』
食器を洗う俺の隣りで瀬名が台拭きを絞る。真横に来た瀬名の耳が見えた。
う、わ、と手に泡をつけたまま後ろに下がる。表情を作ることをしない耳の形はすごく無防備に感じられて、柔らかそうな耳朶が妙に目についた。
瀬名は絞った布巾を広げながら、意味もなく焦っている俺にきょとんとした目を向けた。
自然に振舞う瀬名。きっと家でもこんなふうに姉弟で片付けをしていたんだろう。緩みそうになる頬を引き締め、真剣に洗うふりをした。
一度目に食事を作ってもらったときは俺が疲れたと漏らした日で、食後は瀬名が淹れてくれた緑茶を飲みながら洗い物をする後姿を眺めていた。
きっとあの日は疲れている俺を休ませるために全部をしてくれた。
元気なときは瀬名は何でも遠慮なく俺にさせるだろうけれど、俺が駄目なときにはやっぱり何気なく休ませてくれるのだろう。
俺も、そうしたいと思った。
瀬名を自然に気遣えるようになりたい。休ませてやれる存在になりたいと。
瀬名の態度が硬くなったのは、いつからだっただろう。
体を合わせて、あの後も瀬名は奇妙な顔をしていたけれど俺は初めてのときみたいに一杯一杯になっていたし、下手くそだったかもしれないと落ち込んだだけだった。
俺たちの噂が立ってからだろうか。別段と隠しもしなかったから目撃されてもおかしくもなかったし噂自体はどうでも良かった。瀬名が気にしないのだったら。
徐々に。
そういうしかない。瀬名は俺に戸惑うように徐々に態度を硬化させていった。
もしかして、と思った。もしかして以前の俺と一緒なのではないか。嫌いじゃないから、なんとなくイイコだと思ったから、付き合う。
ぞわ、と背筋が寒くなった。恐ろしくなった。
好きだと言われたことなどない。その事実に気がついた。手を取られて。そうして全てを受け入れてもらえた気になっていたけれど。
胸が締められる。困惑した目で俺を見る瀬名。あれは、俺に別れを告げようとしているのではないのか。俺が有意義だと思えなかった昔の彼女のように、瀬名にとって俺はいらない人間なのではないのか。
問い詰めることはできなかった。その通りだと捨てられたらどうするのだ。恐ろしくて堪らなかった。
瀬名から届くメールの1通、その度にホッと安堵していることなど瀬名は知りもしないに違いない。
あいとじょうとあいじょう 2005/10/19
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