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 ― 瀬名の場合   愛と情と愛情 23





 はーと溜息をついて、春田は片手で目を覆った。
「…理由は?」
手摺りに腰掛けて春田が聞く。
「別れたい理由はなに?」
春田は両手を膝のあいだで組んで俯き、目が合わない。
 どうしようもなく悲しくなった。
 もう、あの手を取って体温で安心を伝えることは許されないのだと思うと、苦しかった。

 支社の話が来たとき、とうとう決断のときが来たと思った。
 風邪が治ったあとの気だるさを感じながら会社に行くと、上司から呼ばれて話をされた。新しいことに挑戦するのは嫌いではない。私にとっていい話だった。そして、すぐに浮かんだのが春田のことだ。 離れてしまう友人も同僚も飛ばして、春田を思った。
 春田はなんて言うだろう。遠くになって今のようには会えなくなるけど、 でも、きっと内容を聞いたら応援してくれる。大丈夫だと力づけてくれるだろう。

(……だいじょうぶ……大丈夫って、…なにが?)

 ただの仕事だけのことじゃない。離れても大丈夫だと、そういう色んな意味を内包した言葉をくれるだろう。
 だけど。
 こんな曖昧な状態で拘束する権利が私にある?

 好いて、好かれて。
 それが恋人として当たり前の構図だ。

 幸福の構図。

 どこかにいる誰かに出会って、春田がそれを手に入れる機会を奪っていいはずがない。
 春田を解放するべきだ。


 意味のわからない読経が耳を通り過ぎていく。木造の寺はクーラーもない古い造りであったが、木材と風通しが良いせいか夏の日中だというのに少し汗ばむ程度で済んだ。ミーンミーンと蝉の声、風に吹かれた木々の音が延々と続く単調な経の添え物となっていた。
「いてぇ…」
慣れない正座に末の弟が小声で文句を言ったが黙りなさいと目で制した。
 父方の祖父の7回忌である。もうすでに20歳を過ぎていた私には祖父の記憶は多く残されたが、末の弟になると小学生の夏休みに遊びに行ったことくらいだろう。 初孫である私が高校合格したときに大喜びしたことや、大学生の入学祝いだといって両親には内緒でこっそりとお小遣いを多めにくれたこと。 大きくなったなぁと目を細めた笑顔も。
 私の中に何気なく残る優しい記憶を、この子はもう得ることが出来ないのだ、と泣く弟を抱き締めながら思った。あのときまだ私よりも小さかった弟が隣りで欠伸を噛み殺しながら大人しくしている。
 末の子を親が可愛がるのは仕方のないことだと聞いたとき長女である私は何故だろうと思った。ズルイと。しかし、こうして大人になるとわかる。

 別れが早く訪れるのだ。

 10歳下の弟は、10年早く。
 自分は10年分も多くもらっている。


 「ねーちゃーん、俺、もう限界なんだけどぉ〜…」
「我慢しなさい」
ま、だからといって姉の私が甘やす必要はないけどね。

 親戚が集まった和室の広間で杯が交わされた。私たち姉弟は末っ子を除いてアルコールが飲める歳に達しているので、叔父や叔母からも大いに勧められる。親戚の集まりで子供のときの話などが暴露されるのはもう恒例で仕方のないことだ。供養だからと祖父の生前の話が交わされ、まだ小さかった従弟妹たちは余り覚えていない祖父の話をされて、多少なりとその人を知る。
 酒が進むと話はあちこちに飛んで、ここ数年はいつも話のネタにされる私の結婚の話題もやはり出た。
「付き合っている人とかいないの?」
「今はいないですねー」
いてもいなくても居ないと答えるのが無難なのである。それ以上の話にならない。
 ところが。
「そういえばこの前ね、お隣の奥さんと話していて良い縁があればって…」
「ふぇ?!」
叔母さんの話に変な声が出た。うちの親戚では縁結びオバさん的な人はいないはずだったのに。まさかそのお隣さんが縁結び趣味の人であったとは!
「どう?」
「いえいえいえいえ!まだ…」
早いとも言えないか。昔ならとっくに結婚している年齢だ。
「…仕事が面白いので!」
嘘ではない。本当はあんまり考えていないだけだ。30になったら考えようかなと思っているだけで。
「そう?」
叔母さん本人自体はあまり姪っ子の事情に踏み込むことは良しとしない人なのでそれで引いてくれた。

 (春田はどう思ってるのかなぁ)
やはり親戚で集まったりすると結婚の話が出たりするのだろうか。
 人見知りなところのある春田だが、山本と一緒にいるときなどを見ていると本来は子犬のように懐くタイプのようだ。 愛想のよい外面から一転して、自然な感情が表面に表れてくる。池山のように意識して顔を使い分けているわけではなく、単純に警戒心が強いのだと思う。 愛想さえ良くしていれば世の中問題はないのだから、無意識のうちにそれが習慣になっているのだろう。
 しかし、自分の家族は最初から愛すればよい存在だ。警戒する必要など何もない。結婚したら良いお父さんになるのだろう。子供が生まれたりしたら一心に可愛がるに違いない。 春田は警戒心が強い分、一度ふところに入れてしまえば情が深い。

 可愛い奥さんと子供。
 目に浮かんだ。簡単に想像できた。

 もっとも、私が実際に目にすることはないだろう。一度恋人になってしまった以上、友人になることは難しい。
 やだな、と思った。
 春田と関係が切れてしまうのが悲しい。飲んだり話したり、一緒に何もすることができなくなる。 それが嫌で今まで逃げていたようなもの。

 一見いつもと変わらない春田の態度。でも、緊張した様子が伺えた。
 私の戸惑いに春田は気がついている。
 きっともう判っている。


 ………終わりにしないと、いけない。








あいとじょうとあいじょう
2005/10/25-6




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