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 ― 瀬名の場合   愛と情と愛情 30





 真新しい壁が醸し出す独特な薬品の臭い。
 私は白を基調とした部屋をぐるりと見渡した。ところどころにビニールがまだ掛かっている。 新しい支社は、新築されたビルの2階に入っていた。
「瀬名さん」
声を掛けてきた男は、遠野という私より3つ上の新しい上司だ。新しい支社には当然、本社から来た人間以外にも他の支社から来た社員がいる。
「よろしくお願いしますね」
穏やかな物腰に相違ない、優しい笑顔で遠野さんは右手を差し出した。太く無骨なその手を取ると、それは意外にも柔らかな肉厚のある温かい手の平だった。
「こちらこそよろしくお願いします」
「はい」
私の言葉に遠野さんはゆるりと目を細めて、人に安心感を与える微笑みで頷いた。


 ・・ああ、

 素直に、好みの人だな、と思った。


 入社以来、本社にいた私には1フロアーしかない形態だけでも新鮮で、新しい支店の骨組みを一から作っていくのは楽しかった。
「どう思いますか?」
遠野さんは部下の私にも丁寧な言葉で、周囲の意見を取り入れながらまとめていく。彼の人柄を表すような広く柔軟に対応できる体系は、よく考えられていた。
「この計画書、よくできていると思います。ここだけ、もう少し詳細していただけると助かるのですが」
「わかりました」
差し出された紙を受け取って頷くと、遠野さんはありがとうと柔らかく笑った。

 そうだ。
 私はこんな人が好きだった。

 優しい空気を持っていて、傍にいると温かい。少しばかり丁寧すぎて忙しいときには周りを焦らせるが、同時に、その穏やかさが周囲を和ませる。
 この人を好きになったら納得できる。自然と受け入れるだろう。

 あの日、春田は「待つ」と言った。私はもう春田を受け入れている、と言って。 これまでの余裕のない様子はどうしたのだと思うほど落ち着いた目をして、いつもとは逆に春田の手が私の手を慰めるように包んだ。

 間違ってはいない。
 私は春田を受け入れている。
 それは私もわかっていて、だが、だからといって何だというのだろう。 それが恋愛でなければ、こうして心揺らされる人も現れるのに、それは春田だって判っているはずなのに。

 あれから二人きりで約束することはなく、たまに会社で姿をすれ違わせるだけで、メールは途切れなく届いていたが、内容は要点のない他愛のない世間話ばかりだった。

 そして私は支社へ移動となり、それ以来会っていない。
 こうして離れているあいだ、気持ちも離れていってしまうものではないだろうか。

 別れ際、解放された手が、そのまま別離をする二人のようだと思った。
 離れていく春田と私のようだと。






あいとじょうとあいじょう
2006/07/10-2008/10/04




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