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 愛と情と愛情 32



 瀬名と出会ったころ、ちょうどあの子が生まれたばかりだった。
 俺は幼いながらに、もうあの子以上に大切にする存在は現れないことを知っていた。

 瀬名もその頃、小さな弟たちに対する責任感でもって背伸びをしていて、俺たちにそんなつもりはなくとも、周囲から見るとそれは大人のふりをするだけの小さな子供だったろう。
 サヤコといえば生まれ持った理知的な瞳で周りを見渡し、俺たちが仲間だと悟っていた。ランドセルの群れの中、サヤコは既に一人の女だった。

 「えー祥子、来なさいよー」
『だから、明日仕事早いの』
「いいじゃない、せっかく私たちと職場が近くなったんだし。私は祥子と飲みたいの〜」
『もーー』
言い出したら聞かないサヤコに、瀬名が電話の向こうで諦めの溜息を出す。
「待ってるからねー」
一方的に言って、プチリと携帯を切る様はサヤコの我がままにしか見えない。俺が呆れた目線を送るとサヤコは鷹揚に微笑んだ。
 まったく。あんな言い方をするから、周りには誤解されるのだ。だが本当は、瀬名に今現在 自分が必要なことを理解していて、だからサヤコは無理を言ってでも呼び出す。瀬名が一人きりで煮詰まり過ぎないように適度な間隔で接触を持つ。それを瀬名も解っているから、サヤコを受け入れる。
 全然タイプが違うように見える二人は、しかしひとを大切に思う点で同じなのだ。友人というには違和感があると思われているのに、姉妹のように仲が良いのはそういうことだろう。


 偶然だった。
 瀬名とその男に会ったのは。

 予備校の帰り道、暗い街灯のした2つの長い影を認めた。セーラー服とスーツが並んで、黒い学ランを着た俺の前を歩いていた。
『瀬名?』
ただの男だったと今なら思う。 しかし、当時、周りよりも大人びていた瀬名には、恋愛対象になる男など同世代の中にはいるわけもなく、年上の男に惹かれたのは当然の結果だったのだろう。
 教師と生徒が偶然に道で出会った、そんな言い訳もきくような距離を保って歩いていた。

 まずいな、という顔をしたのは男の方だけで、自分の想いに後ろ暗いところなど何もない瀬名は真っ直ぐに俺を見た。恋をしている、恥ずかしそうに含羞はにかんだ笑みを俺に見せた。きっと俺相手だったから、バレても問題ないと思ったのだろう、素直な表情だった。

 男と同世代になって、理解できる。
 聡い目をした少女の、一途な想いは、抗いがたい誘惑だったのだろう。例え瀬名本人にそのつもりがなくとも、ただ密やかに恋心を育てていただけにしても。
 まっすぐにむけられる瞳に、触れたいと男は思っただろう。

 そしてまた、幼い恋心を信じられなかった気持ちも解るのだ。
 確かに男も瀬名に恋をしていた、だから俺は黙っていた。あんな結果になるなんて思ってもいなかった。
『婚、約?』
『そうそう、先生、結婚するんだってー!』
教師は生徒たちに自分の恋愛事情など話さない。話が出るとしたら、それは結婚のときくらいのものだ。俺も、もちろん瀬名も恋人がいたことさえ知らなかった。相手からしてみれば、瀬名が浮気相手。遊びだった。

 男は逃げ出したのだ。

 相手はまだ高校生で、自分の将来をかけるにはリスクが大きすぎる。そして聡い瀬名を恐れたはずだ。少し大人になり世間を知れば、瀬名は気がつく。相手は年を重ねただけのただの男だと、高校生男子と比べて、少しマシだっただけだと。

 この歳になって、男の気持ちを理解できる。軽蔑していることには変わりないけれど。


 あのときの出来事は、瀬名自身というよりは、瀬名の周囲に影響を与えた。 瀬名は自分なりに消化し次の恋へ進んだが、俺やサヤコや、瀬名の弟たちに苦い思いを残した。

 口の悪いサヤコが、いい例だ。口では何といってようと一番瀬名を気に掛けている。気遣った言葉などないのに、行動はいつでも瀬名を守る。昔からサヤコは飄々としているように見えて、いつも神経を張り巡らせて冷静に物事を見ていた。あの事件以来さらにサヤコの目は鋭くなった。

 「なんだ、ホントに瀬名来んの?」
勢いよく杯を空けていた山本が枝豆を摘んで言った。
「当たり前でしょ」
「はー、さすがサヤコさんですネー」
揶揄するように言う山本を、サヤコはちらと視線だけで一蹴した。先日知り合った瀬名の同僚は、長年害のない人物とサヤコに放置されてきたが、ハルタの友人ということでサヤコは手駒の1つにすることにしたらしい。
「あ、すんませーん、生、もう一つ」
空のグラスを傾けて山本は声を張り上げる。コイツも表面的には奥底を窺わせない軽さがあり、ある意味サヤコと同人種かもしれない。 気も合うだろうしセックスしても相性は良いだろうが、互いに恋愛には発展しなさそうだ。
「順ももっと飲みなさいよ」
不埒な想像を見透かすようにサヤコに凄味のある微笑みを向けられて、俺は肩をすくめた。

 瀬名のことはサヤコに任せて俺はハルタに探りを入れるか。

 過保護すぎると思いつつ、瀬名の静かな泣き顔を思い出してしまって仕方ないよな、と苦味の強いビールを飲み込んだ。





あいとじょうとあいじょう
2008/10/20
2008/11/02




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