大嫌い。
世界中で誰よりも嫌い。
遠慮なくドアを開いた。
だらだらと寝ていると分かっているから、返事なんて待たなかった。
大嫌いな相手に声を掛けるのだ。多少乱暴になってしまっても許してもらおう。
起こしてきてくれ、と兄に頼まれた。
なんで私が、と嫌な顔をすれば微笑んで、未だに幼い妹を見る目をする。
春の陽射しが大きく縁取られた窓から入り、居間は穏やかな明るい光で満たされていた。
『 桐香 』
柔らかな声で語り掛けられて、もう子供じゃないの、と地団駄を踏みたくなる。
もう16になったのよ、と。
しかし子供染みた衝動と同時に、昔から変わらない兄の様子に安堵を感じるのも事実だった。
この人は兄で、この情は不変のもの。
それがどこまでも私を安心させた。
「んん…」
久方ぶりに日本に帰ってきたという男は、寝汚く、声を掛けても くぐもった呻きを漏らすだけで、一向に起きる兆しを見せない。兄が面倒に思って私に目覚まし役を頼んだことは想像に難くなかった。
この男が嫌い。
子供の頃は、憎いといってもいいほど嫌いで堪らなかった。
傍らに立って、その旋毛つむじを睨みつけた。
腹が立つほど整った顔は、ふかふかとした羽毛布団に潜り込んで今は見えない。
覗く猫っ毛がくしゃくしゃと枕の上で踊っている。
この男がこんなふうにまるまって寝るなんて、意外といえば意外だった。
いつも隙のない様子で、寝ているときも冷淡に綺麗なのだと思っていた。
カーテンを開ければ、窓からの光が眩しいのだろう、更にふとんを深く被った。
『昼メシ食うかだけでも訊いてきてよ』
な?と笑う兄は天然の甘え上手だと思う。
もっとも、真琴さんはそんなことない、と言うのだろうけれど。
彼女は兄を落とすのに随分 苦労したと言っていたから。
たぶん、今現在の兄がいるのは真琴さんのお陰なのだろう。
私にはいつも優しい兄だったが、周りが口を揃えて言うからには、そうなのだ。
私ばかりが淋しいと思っていた。
兄は一人で立っていても平気だと、いや、幼い自分はそんなことにも気づかなかった。
中学高校と一人で暮らしていた兄の心情はいまも知れない。
久々に海外から帰国した男に、帰って来なくていいのにと意地悪く思う。
友情さえ否定して『 腐れ縁だ 』とお互いに口を揃える関係は、
兄弟でもなく恋人でもなく、しかし遠く離れて帰ってきても隣りを用意されている。
きらい。
キライ。
大嫌い。
たまにしか会えない私と比べて、この男はいつも兄のそばに居た。
友人だというだけで、私よりもそれを望んでもいないというのに、
私が物心つくよりずっと以前から。
真琴さんと出会ったとき、傍目から見てもその片思いは明らかで、羨ましくて嫌いだったけど憎めはしなかった。
私と同じだと思った。
真琴さんは私の痛みに哀しく微笑んで、私の居場所を作ってくれた。
射し込む光など なんの障害にもならない、といった様子で眠りを貪る姿に腹が立つ。
いつまでも私だって子供じゃない。
この男相手の嫉妬が正しくないことくらい理解している。
「………」
ダメだ。
もはや条件反射でムカムカする。切れ者だとか言われているその頭を思い切り叩(はた)いてやりたい。
(落ち着いて)
深呼吸をする。もう子供じゃないと兄に言うにはそれなりの行動をしないと。
意を決して、息を吸った。
* * * * * * * *
「 …」
声がする。女の声だ。
「…き……」
もう少し眠らせてほしい。
なんだか非常に疲れていた。
ここはどこだ、という思考も全く働かず、ひたすら惰眠を貪った。
恐る恐る揺らす指も確かに女のもので、
じゃあこれは昨夜寝た女だろうか。最近は誰と付き合っているのだったか。
声は続いていた。
黙らせようと手を引く。
「……っ」
文句を言おうとした唇を塞いだ。
誰だ、と思う。相変わらず頭は動かない。朝は苦手だ。誰だろう。
酷く心地の良い体温。
触れた頬も唇も、その身体もとても柔らかい。
抵抗がなくなったので、濡れたその下唇を舌でなぞった。
"... Let me sleep ..."
もう少し眠らせて と耳元で呟くと、柔らかな身体に震えが走り、あまりに素直な反応に笑った。耳朶をゆるく咥くわえる。
香水ではない甘い香りが鼻腔をくすぐった。
不思議に馴染む身体が大人しくなったのをいいことに、抱いたまま微睡まどろみ始めた。
「……こ、」
「 こンの………バカ男 !!!」
ばふん!と頭を何か柔らかいもので強打された。
………ぬいぐるみ?
なんで俺の部屋にぬいぐるみ? ってか日本語?
目を開けると、全身を真っ赤に染め上げた、桐香が立っていた。
「…あれ?」
「アレ、じゃなーーーい!!」
怒りかそれとも羞恥か。
濡れた目をして、友人の妹は怒鳴った。
上半身を起こしてボンヤリと寝惚け眼で見上げる。
ああ、そうか。
やっと納得する。この間抜けなサメのぬいぐるみは竜也のもので、俺は昨日帰国したのだ。
真夜中に日本に着いて、ホテルを探すのも面倒で転がり込んだ。
しばらく海外暮らしをしていた自分の家はないし、
実家に帰れば母への対応に余計疲れる。
こういうときは気を使わない友人が有り難いとばかりに竜也の家に押し掛けたのだ。
案の定真夜中の訪問は嫌な顔をされたが、不機嫌な様子で勝手にしろとまた寝室に戻っていった。こういうことは初めてではないので、向こうも慣れている。竜也もするのでお互い様だ。
ぼーっと真琴が買ってきたというサメを眺める。
起こされたということは、御飯か何かで、おそらく真琴が俺も食べるかと気を使ったのだろう。
これも、いつものことだった。
…そういえば、腹が減っているような気もする。
「ごはん?」
そう言ってサメから目を移せば、桐香はまだ顔を真っ赤にして激怒していた。
彼女は面倒臭がった竜也に頼まれてしぶしぶ自分を起こしに来たのだろう。
うるんだ赤い眼で睨みつけてくるから、
むくむくと嗜虐心が湧いてきてしまった。悪いクセだ。
昔から、自分を毛嫌いしている桐香が面白くて弄イジりたくなってしまう。
にっこりと邪気のない笑顔を浮かべると、桐香が警戒するのが判る。
(失礼だね)
(…………… でも、正解)
* * * * * * * *
「しん…っじらんない!!!」
ああもう腹が立つ、腹が立つ、腹が立つ!!
扉を力任せに閉めて、乱暴な足音を立てながら歩く。
あの男は昔から面白がっているのだ。私をからかって楽しんでいる。
今ごろ間違いなく爆笑しているだろうことに更に怒りが湧き上がった。
誰と間違えたかなんて知らない。
英語だったから、向こうの恋人だということは容易に判る。
自分を抱き込んで口を寄せて、
驚くほど柔らかな唇に抵抗するのも忘れた。
たった一度経験した兄への盗むようなキスは、感触まで覚えていない。
甘く強請る掠れ声が、耳から忍び込んでカッと全身が熱くなった。
何これ何これとパニックになる私とは反対に、あの男はク、と喉で笑い、…こともあろうか、耳を噛んだのだ。
痴漢・変態・冷血男、と頭の中でありとあらゆる罵倒をする。
さいっってい!!
にっこりと爽やかな笑顔で笑って見せたと思ったら…
『 感じた? 』
嫌いキライきらい、だっきらい!!!
震える指先を掌に握り込んで、ずるずると廊下に沈み込む。
「…もぉなにコレ…」
身体中が熱い。
震えが止まらない。
しゃがみ込んだ膝に額を乗せて、発熱する耳をぎゅっと掴んだ。
バクバクと心臓が鳴っている。
「……由希のアホーーー!」
* * * * * * * *
ああ、面白い。
新たに投げつけられたマンタのぬいぐるみを抱きながら笑う。
相変わらず楽しい。
日本に帰って退屈するかと思いきや、早速オモチャに出くわした。
また遊んでやろう。
寝転んで窓の外を眺めれば、黄色い花をつけ始めたばかりの金雀枝(エニシダ)が青空に向かって伸びている。
「あー…」
ふと怒り狂う友人の顔が思い浮かんた。
寝惚けてキスをしたなどと知られたら確実に殺される。
暴力反対、とばかりに再び布団に包まった。
先ほどの温もりが消えたことをどこか物足りなく感じながら。
― KIRIKA vs. YUKI ―
BATTLE START !
The Reason Why I Hate You .
|