喇叭とは英語ではBugle、フランス語ではRappel。 意味としては「呼び戻す・呼び集める」などの意味がある。 日本ではその始まりは慶応二(1866)年の春に、江戸城を守備する 幕府歩兵隊がフランス人教官から歩兵喇叭の教習を受けたときとされているから 、フランス語のラッペルがラッパになったともいえよう。 さらに一説には、その源は古代サンスクリット語で「叫ぶ」を意味する RAVAにあり、教典で中国に伝わって喇叭の字になったともいわれる。 中国語の発音もラッパであり、日本に伝来したものはフランス教官からも中国渡りも同じくラッパとなった。 |
---|
(1) |
かつては部隊の行動が全て喇叭で統制されていたこともあり、 常に指揮官の直ぐ脇にいて 目立つ存在である喇叭手は 敵のいい的であった。 実際、敵の弾をその身に受けながらも喇叭を放さなかった喇叭手が 軍神として祭られている例もある。 (ただしこれは 敵の射った弾が正面から喇叭に命中した為、 喇叭が口にめり込み、放す事も出来なかったのだが・・・。) 寒冷地で使用する喇叭は マウスピースがグラスファイバで出来ていた。 これは 日露戦争時など 寒冷地で使用する喇叭のマウスピースが 普通のものと同じ、鉄で出来ていると、 いざ吹く際に 唇に当てた瞬間、貼りついてしまい 剥がせなくなるのを 防ぐ為であった。 徴兵制であった旧日本軍において 喇叭手の昇進速度は 一般の隊員より遅いものであったらしい。 一般隊員が2年間の徴兵期間の間に上等兵まで進むところを 喇叭手は一等兵止まりだったと言われている。 陸軍戸山学校の軍楽隊の隊長であった山口常光氏が 昭和の始めにギヤルド(吹奏楽団、主にこの呼び方はフランス)に入団した後 帰国した際、日管に大喇叭 中喇叭 小喇叭を発注し ラッパ小隊として 編成したことがあった。 ([写真(4)]左が大喇叭 右は2ツ巻きの小喇叭) 尚 現在でも使用しているもの(信号喇叭として使用しているもの)は 小喇叭でありG管となっているが 大喇叭はB♭管 中喇叭はF管で 当時 山口氏が最初 日管に発注した本数は3本ずつくらい。 大喇叭の1本は著者も確認したが 現存する本数は不明である。 (資料1:昭和8年頃の雑誌の広告) |
(2) | |
(3) | |
(4) |