魔法使いと薙刀娘
第1章 旅の…仲間?!
「な、何だよ? この穴は?」
予想以上に冷たい川の流れに腰まで浸たりながら、男は思わず声をあげた。
この数日降り続いていた雨も収まり、空は真っ青な秋晴れだ。さわやかな風が川面を吹き抜けていく。
これが適度な運動後の火照った体ならば、まさに天の配剤と言っても良い風だろう。実際彼の馬が川床に掘られた穴に引っかかって転倒してくれるまでは、彼もそんなささやかな幸せを十分に堪能していた所なのだ。
だが今その風は、びしょ濡れになった男の体から容赦なく体温を奪い取っている。もうそろそろ冬も近い。
男は慌てて川から這い上がると一度大きなくしゃみをした。それから川の中に突っ立っている馬を呼ぶ。その声を聞いて、同様にびしょ濡れの馬が川の中からのんびりと上がって来ると男のすぐそばで盛大に身震いした。
普段なら確実に怒り狂える状況だが今更どうでもいいことだ。
「くそ! 乾かさないと風邪ひいちまう!」
男はぶつぶつ言いながら河原に落ちている枯れ枝を集め始めた。
この男の名は通称フィンという。見るところまだ二十歳を少し過ぎたぐらいの若者だ。
同い年ぐらいの若者と比べれば背はやや高めだが、体は少し痩せている。その顔立ちからは何となく育ちの良さが感じられる。
それだけなら単なる生まれの良い間抜けでしかないのだが、その次に彼がとった行動はちょっと普通の旅人とは異なっていた。
フィンは枯れ木を積み上げると、その上に手を伸ばした。すると突然手の上に小さな炎の玉が現れたのだ。その玉が枯れ木の上に落ちると、ぽっと炎が燃え上がった。
だがそんなことは彼にとっては日常のことらしく、そのまま濡れた服を脱ぎ始めた。服を脱いでみると、痩せているといってもひ弱なのではなく、しっかりした骨格を持っていることがわかる。また腰に大きな傷跡が見える。刀傷のようだ。
「あの親父の嘘つきめ! どこが浅い川だって?」
たき火の炎で体が暖まってくるとやっと少し余裕が出てきたのだろう。フィンはこの渡河場のことを教えてくれた宿屋の親父をぶつぶつとののしり始めた。
だがもし親父がそれを聞いたとすれば、言いがかりだと言って怒り出しただろう。親父は通常時の渡河場のことを言ったのであって、雨上がりで増水している時の話をしたのではない―――しかもフィンが渡ろうとしたルートは本来渡るべき道筋からはずれていたのだが……
ののしり疲れると、フィンは半裸の状態でしばらくぼうっと炎を見つめていた。炎の熱と涼しい風が丁度よくバランスしていて、フィンは眠気を催してきた。
だがさすがにここで寝込んでしまってはいけない。フィンはたき火の周囲に並べた濡れた服を手に取ってみた。
「くそ……結構湿ってやがるな。トレンテまで戻った方がいいか?」
これが完全に乾くまでにはかなり時間がかかりそうだ。それから旅発ったのでは中途半端なところで暗くなってしまいそうだ。こんな状態で野宿はごめん被りたい。
そもそもこの旅はそんなに一刻一秒を争う旅ではない。だとすれば夕べ泊まったトレンテ村まで引き返して明日出直す方が賢いかもしれない―――そんなことを考えていたときだった。
「ん?」
耳を澄ますと遠くの方から蹄の音が聞こえてくる。顔を上げると馬に乗った誰かがこちらの方にやってくるのが見える。
結構慌てて走らせているようにも見えるが―――ここの渡しには詳しいのだろうか?
フィンは結構お節介な部類に属していると見えて、立ち上がると手を振った。
「おーい!」
その人物はフィンと同じような旅人姿だったので、彼は最初少年かと思った。だが近づくに連れて、すぐに若い娘だとわかった。
普通の娘と異なっているのは、彼女が長い剣を担いでいることだった。
娘は全速力で馬を走らせてくる。すぐに彼女の顔がよく見えるところまでやってきた。
次にフィンが気づいたことは、彼女が担いでいた物が実は剣ではなく薙刀というものらしいということだった。ただそれにしては長さが短いが―――持って旅をするにはあのぐらいの長さの方がいいのかもしれない。
次いでフィンが彼女の顔に目をやったとき、フィンは一瞬固まった。彼女が見知っている女性に見えたからだ。
《ファラ?》
もちろんそう勘違いしたのは一瞬のことだ。娘はちらっとフィンの顔を見たが、もちろんフィンの知らない娘だった。
河原に入ると大きな石がごろごろしているので、娘も馬を急がせることができない。
「やあ」
フィンは近づいてきた娘に手を振った。彼女が地元の娘かどうかは分からないが、ここの渡し場の罠のことを教えてやっても無駄にはならないだろう。
だが彼女はまるでそこには誰もいないかのように彼の側を通り抜けて、川の中に一直線に入っていった。
「おい! 待てよ!」
呼びかけに彼女は止まるどころか、馬に拍車をかける。
「あ! そっちは!」
思った通りに娘は踏み跡からまっすぐに川に突っ込んでいく。確かに一見そう行けるように見える。フィン自身がついさっきまでそう思っていたとおりに……
「おい! 止まれよ!」
だがもう手遅れだった。その叫びと同時に馬が傾いて、乗っていた娘は川の中に放り出されてしまったのだ。
「だから言っただろうが!」
フィンはそうつぶやいて、娘を助けに向かった。
幸いにも川に駆け込んで行くには実にふさわしい格好である。
「おーい、大丈夫か?」
娘はフィンがはまったのと同じ場所で、同様に一体何が起こったのかわからないという風に立ちすくんでいる。
「あっはは、ここ、行けそうに見えるけど、穴があるんだよ。魚採りの仕掛けの跡かな? 俺もさっきここで落ちたんだ。本当は川下に向かって斜めに突っ切らないといけないみたいで」
そう言いながらフィンは手をさしのばしたのだが、娘はそれも無視した。
彼女の目は別な方を向いていた。
その方向を見ると―――彼女の乗ってきた馬が遙か彼方に駆け去っていくのが見える。
「あーあ。なんて馬だ。主人を置いてけぼりにして……ともかく上がれよ」
娘はフィンをにらみつけた。
なんだか知らないがこの娘はひどく怒っているようだ。
「俺に怒られたって筋違いだぜ。俺はさっきそれを教えてやろうと……」
そのとたんに娘はいきなりフィンの横を走り抜けていったのだ。
一瞬フィンは呆然とした。ここまで無視されるいわれがあるか? 人が親切にしてやってるのに―――と思った矢先だ。フィンはその娘がなにをしようとしているかに気がついたのだ。
「あ! こら! それは俺の馬だ!」
娘は土手の上で草を食んでいるフィンの馬に向かって一直線に駆けていったのである。
フィンはあわてて後を追った。だが娘はひどく身軽だ。石ころがごろごろしている河原を何もないかのように走っていく。すばらしい身のこなしだ―――などと感心している場合ではない!
「おい! 待て! その馬は……」
娘は馬に飛び乗ろうとした。
だが馬とはなかなか賢い生き物である。主人とは違う何かとても怪しげな人物に対して、彼は当然の拒否反応を示した。
その結果娘は振り落とされ、そのまま土手の下まで転落していく。娘はすぐに立ち上がるとまた駆けだそうとするが、すぐに顔をしかめてうずくまった。どうやら足を挫いたようだ。
おかげでフィンは娘に追いつくことができた。
「あのなあ、いきなりそれはないだろ?」
娘が顔を上げると、そこにはフィンが立っていた。
娘は再び彼をにらみつける。
結構な美人だ。微笑んだらかなりかわいいかも知れない。
だが今の彼女の目つきはまるで獣のようにしか見えない。
「わけを話してくれたら、一緒に乗せてってやってもいいんだぞ」
だが娘はフィンの言葉に耳を貸してはいなかった。彼女は何か別な物に神経を集中していた。
それにはフィンもすぐに気がついた。遠くから再び馬の蹄の音が聞こえるのだ。しかも今度は複数の馬のようだが……
娘は立ち上がろうとして、また顔をしかめた。
「足は? 大丈夫か?」
「寄らないでよ!」
きつい声だ。
彼が気圧されている間に、娘は薙刀を杖代わりに立ち上がると、河原の方に歩いていく。
フィンは処置なしという表情でその姿を見送った。
ほぼそれと同時に男が六人現れた。
「いやがったぞ!」
男達はどう見ても友好的な雰囲気ではなかった。みな手に武器を持っている。
それから彼らは河原に立っている娘を取り囲んだ。
「よくもテッドの耳を!」
激高した男に対して、娘は冷ややかに答えた。
「言ったでしょ? 手を離さないとぶった斬るって」
娘はその状況にも全然あわてている様子はなかった。
その答えに、やってきた男達はますますいきり立った。
フィンはこの状況が洒落ではないことを察した。この娘とはたった今出会っただけなのだが、ちょっと見過ごすわけにはいかなそうだ。
「やっちまえ!」
男達は娘に襲いかかろうとした。同時に娘は薙刀を抜きはなつ。
そこにフィンは割って入った。
「あー、ちょっといいかな」
男達は振り返って、フィンをにらみつける。
また娘の方も驚いたようにフィンを見つめた。
今の彼の格好は上半身裸で濡れぼそっていて、見るからに場違いだが……
「なんだ? 貴様は」
「あー、何というかね、女一人に六人がかりっていうのは、なんだな」
「それがどうした!」
「ちょっと恥ずかしくないか?」
「てめえには関係のないことだ!」
「目の前でそういうことされると、気分が悪いんだよね」
「じゃあ、どっかへ失せろ!」
「この格好じゃそんなにすぐには出ていけないんでね」
「ぐたぐた抜かしてるとてめえも同じ目に……」
そこまで言いかけて男は目を丸くした。
というのは、フィンの手の上にいきなり炎の玉が現れたからだ。それはふっと浮かぶと、男に向かって飛んでいく。幻ではなかった。玉が男の服の袖に当たって弾けると、袖が燃えだした。
「うわ! あちちちち!」
ほかの男達も色を失った。
「魔法使いか?」
別な男がつぶやいた。
「どうする?」
フィンはにやにやしながら男達を眺め回した。
男達は顔を見合わせると後ずさりを始め、それから逃げ出した。
彼らが去ってしまうと、河原には再びその娘とフィンだけが取り残された。
娘は薙刀は鞘に収めているが、その表情は全然気を許していないように見えた。
ぽたぽた水が滴る髪の間から獣のような目がフィンを見つめている。
「ともかく服とかを乾かした方がいいんじゃないか?」
フィンはそう言ってたき火の方に歩き始めた。振り返ると娘が少し後からついてくる。
やはりかなり強烈にひねったようで、右足をひどくひきずっている。
たき火の側に来ると、娘は少し表情を和らげた。それから無言で服を脱ぎ始める。
《お、おい!》
フィンはあわてて後ろを向いて言った。
「そこのポンチョが大体乾いているから着てるといい」
着替え終わった雰囲気を確認してフィンが向き直ると、娘はフィンのポンチョを頭からかぶってたき火の側にうずくまっていた。
二人はたき火を挟んで向かい合って座った。
「寒くないか?」
娘は黙ってうなずいた。
「足は?」
「大丈夫よ」
声にさっきのような棘はないものの、なんだかとりつくしまもない。
しばらく二人は無言で炎を見つめた。
「あ、俺はフィナルフィン。フィンって呼んでくれていいよ。君は?」
「アウラ」
「アウラね。いい名前だね……確か古い言葉でそよ風って意味だっけ?」
彼女が反応しないので、フィンはまた黙らざるを得なかった。
またしばらく二人は無言で炎を見つめる。
「あいつら……何だったんだ?」
「トレンテの奴らでしょ」
「何で君を追いかけてたんだ?」
「あいつの耳を落としてやったからでしょ」
アウラは無表情にそう答えた。
「ああ、そ、そうか」
どういう状況だったのかは知らないが―――乱暴な女だ。
フィンは彼女のの薙刀を見た。
ずいぶんと使い込まれているように見える。伊達ではないようだ。
まさかいきなりそれで襲ってくることはないだろうが―――この期に及んでフィンは心配になった。考えたらさっきこの女はフィンの馬を盗もうとしたのではなかったか?
そもそもフィンはあの男達と本気で喧嘩になったとしたら、実は全然自信がなかったのだ。
さっきはあのように見栄を切ったが、あれは魔導師が一般人に恐れられていることを利用したハッタリにすぎない。男達がまとめて襲いかかってきたらどう逃げるかと、内心そればかり考えていたのだ。
だがアウラにはフィンを襲うようなそぶりは見えなかった。
魔導師はそうそういるものではないし、その力は必要以上に誇張された形で流布している。多分彼女にも彼のハッタリは効いているのだろう。
また二人は無言で炎を見つめた。
だがいつまでもそうしているわけにもいかない。日はもう中天に昇っている。
「そろそろ乾いたようだな」
そう言うとフィンはアウラの服を取ってやろうとした。だがアウラはそれを遮るように立ち上がると、自分の服を取り上げてフィンのポンチョを脱いだ。
「ありがと」
そう言ってアウラはフィンにポンチョを差し出したが、その瞬間フィンは凍り付いてしまった。
なぜなら当然その瞬間には彼女の胸が丸見えになっていたからだ。
それ故にフィンはアウラのやや小振りだが形のよい乳房―――ではなく、いや、それもだが、それ以上に彼女の肩から腹にかけての、巨大な傷跡から目が離せなくなってしまったのだ。
だが彼に見られているということに関しては、アウラは全く無関心だった。
「これ」
そう言うとアウラはポンチョをフィンに押しつけてくる。
「あ、ああ、ご、ごめん!」
フィンは自分のしていることに気づいて、あわてて後ろを向く。
やっとパニックが収まって振り返ったときには、彼女は元の旅人姿に戻っていた。
出発の準備が整った所で、フィンはアウラに尋ねた。
「き、君もグラテスに行くのかい?」
アウラはうなずいた。
グラテスは次の町だがここからは馬でも二日以上かかる。その上途中からは上り坂だ。五体満足でも歩いていくのはかなり辛いはずだ。
本当ならトレンテに戻って治療するのが最善なのだろうが、まあ論外な話だ。
彼女はどうやらそこで刃傷沙汰を起こして逃げているようだし、今ではフィンもその関係者になってしまっている。
《こういう場合しょうがないよな》
フィンはそう思いながら、彼の馬を指して言った。
「乗んなよ」
「どうして?」
「どうしてって、足怪我してるだろ?」
アウラはしばらく考えた末に、黙って馬によじ登った。だがその後からフィンが乗り込もうとすると、彼女はいきなり馬から飛び降りてしまったのだ。
「ああ? 何で降りるんだよ!」
「嫌だからよ」
「だって馬は一頭しかいないんだぞ」
「一人で行けば?」
さすがにそれを聞いてフィンもキレた。いったい何なんだ? この女は!
「わかったよ。じゃあな!」
そう言い捨てると、そのままアウラを置きざりにして出立した。
フィンは今度は正しいルートで川を渡ると、まっすぐ街道を進んで行く。
天気は相変わらず最高の旅日和だ。だがフィンの内心は最低に近い状態だった。
《何だよ! あのクソ女!》
彼は心の中で何度もつぶやいた。こんな出来事はさっさと忘れるに限る。そしてこの先の楽しげなことを想像しようとした。
これから行くグラテスの町ではもうすぐ収穫祭が行われる。その祭りでは勇壮な山車が町中を巡って練り歩くという話だ。彼の育った都でもこういうタイプの祭りはない。さぞや見物だろうなあ―――などと考えてみても、全然おもしろくない。
そればかりか何だか彼自身が悪いことをして逃げているような、ますます嫌な気分になってきた。
フィンは馬の歩みを止めて天を仰いだ。
《あいつらが戻ってきたら、あいつ大丈夫か?》
そういうことになったら彼女はひどい目に会うだろう。下手をすれば命さえ危ないかもしれない。
《でも自業自得だろう?》
理論的には全くその通りである。
どうやら彼女はトレンテでテッドとか言う男に絡まれて、そいつの耳をそぎ落としたらしい。たぶん相当な嫌がらせを受けたのだろうが、やはり耳をそぐというのはやりすぎだろう。
その上彼女はフィンの好意を完全に拒否したのだ。誰がどう考えたってこれは彼女の責任である。
だが―――瞼に彼女が男達に蹂躙される図が浮かぶ。
途端に胃のあたりが締め付けられるような感じがした。
《全然……似てるわけじゃないだろ?》
フィンは心の中でそう自分に言い聞かせようとした。
最初に見間違えたのは、未だに彼が昔の女を忘れられないということの証で、実際今までも何度もそういう見間違いはしてきたのではないか? だからアウラが特別だというわけではないはずだ。あの女がどうなろうと彼には何の関係もない話じゃないのか?
フィンはそう自分に言い聞かせようと努力し続けた。だがそういうことをしている時点でもはや負けたも同然だ。
それから大きくため息をつくと、フィンは来た道を戻り始めた。
彼が再びアウラを見つけたのは、あの川からそれほど離れてもいない場所だった。
陽はもう西に傾いている。彼女は道ばたに疲れ果てたように座っている。かなり時間が経っているが、歩けたのはこれだけらしい。
やってきたフィンをアウラは驚いたように見上げて、次いで身構えた。
フィンはむっつりした顔で馬から下りると、アウラに言った。
「乗れよ」
「どうして?」
「お前ここで野宿する気?」
「あたしの勝手でしょ」
「あいつらがまた戻ってきたらどうするんだ?」
アウラは言葉に詰まった。今の状態であの人数に襲われたら確かにかなり危ないのは事実なのだ。
それから黙って目を反らす。
「それに二人乗りしようって言ってるんじゃない。一人で乗れって言ってるんだ」
その言葉を聞いてアウラは驚いてフィンを見つめた。
「どうしてよ?」
「お前二人乗りが嫌なんだろ?」
「……だけど……どうして? そんな……」
おのれは人の親切がそんなに信じられないのかと怒鳴りだしそうになるのを、フィンはじっと押さえながら言った。
「俺の、気分が悪いからだよ」
彼女は目を丸くしてフィンを見つめていた、やがてまた目を反らした。
「放っといてよ」
「ずっと乗れって言ってるわけじゃない。あんたが馬を見つけるまでだ」
アウラは再び振り返る。
「あたしが馬を奪って逃げたらどうする気よ?」
「そうする気なのか?」
「…………」
「じゃあ乗れよ」
しかしアウラはまだ信じられないようだった。
「でも……」
それを聞いてついにフィンは吼えた。
「いちいちうるさい! さっさと乗れって言ってるんだ!」
アウラはフィンの剣幕に圧されて、フィンの馬によじ登った。
フィンはそれを確認すると、手綱を取って歩き出した。
《俺もよっぽどお人好しだよな……》
フィンは歩きながら考える。
そもそも今日はグラテスまで半分の所ぐらいまでは行く予定だったのだ。
フィンは夕べ泊まったトレンテ村で、祭りの見物客があちこちから集まるために、ぎりぎりに行ったら宿が取れないという話を聞いていた。
《くそ! 三日は余裕があるはずだったのに!》
しかし今の調子では、それこそ到着はぎりぎりになりそうだ。
フィンは馬上のアウラのことを考えた。いったいこの娘は何者なのだろう? グラテスに何をしに行くのだろう? とても祭り見物という感じではないが……
彼女の正体についてあれこれ想像を巡らせるが、さっぱり思いつかなかない。
そこでついに彼女に直接尋ねてみた。
「あんた……仕事は何してるんだ?」
「何もしてないわ」
―――聞くだけ無駄だった。
それから二人は終始無言だった。
そんな調子だったので二人が次の道中宿にたどり着いたときにはもう夜になっていた。
フィンは久々にこんな長距離を歩いたのでくたくたになっている。本来だったらこの次の次の宿ぐらいまでは行けたはずである。フィンは人間の足の遅さをつくづく実感していた。
二人が中にはいると、番台では宿の主人が眠そうにしていたが、入ってきた二人をみると即座に商売人モードに入った。
「いらっしゃい!」
「個室空いてるかい?」
「空いてますぜ。一つでいいですかい?」
「いや、二つ」
主人は驚いたよう二人をに見た。
「ええ? ご夫婦じゃないんですかい?」
フィンはあわてて取り消した。
「ち、違うよ。怪我をしていたから途中で乗せてきたんだ」
主人は納得した顔をした。
そのときアウラが口を挟んだ。
「あたし大部屋でいいわ」
「ええ?」
驚いてフィンはアウラの顔を見るが―――別に冗談を言っているのではなさそうだ。
さっきちらっと覗いたが、大部屋には既に旅人が何人も寝ころんでいた。見知らぬ人間がすべて礼儀正しいわけではない。女性が一人で大部屋に泊まるのは、あまり安全であるとはいえないのだが……
「そんなお金ないもの」
それを聞いてフィンは反射的にこう言っていた。
「ああ、じゃあ俺が出すから個室二つ」
それを聞いてアウラは不思議そうにフィンを見つめた。
フィンもそう言ってしまってから、どうしてこの女にそんな肩入れしているんだと自問する。
本人がいいって言ってるんじゃないのか? それにこの女なら、危険なのは他の旅人の方かもしれないし―――ってか、それもまた困るか?
宿の主人は当然儲かる方を優先した。
「そうですかい? それじゃご用意しますよ」
「ちょっと! いいの?」
「いいよ。それより親父、ここに馬はあるかい?」
「残念ですが今はいないです」
それを聞いてアウラが言った。
「奥の厩に二頭いたじゃない」
「だめでさ。あれは駅伝用だ。売ったりしたら首が飛んじまう」
「こっそりだったらわからないでしょ?」
それを聞いたフィンは青くなった。なんて非常識な女なんだ⁉
もちろん宿の主人も同様だった。
「お嬢ちゃん。冗談は言いっこなしだよ」
「でも……」
「あはは。彼女ね、きつい冗談が好きみたいなんだ。あはははは」
「全くびっくりさせんでくだせえ。じゃあ、食事はあそこですぜ」
「ありがとう」
そこでフィンはアウラと共に食堂に向かった。席に着くとアウラが小声で言った。
「どうしてよ? 二頭もいるじゃない」
「あのねえ、そういう問題じゃないんだ。駅伝って言うのは、国の危急の時に使うんだよ。いざというときに馬がいなくて、それで国が滅びたりしたらシャレにならないだろ?」
「今は危急の時なの?」
「そうじゃないけど、普段から準備してないとまずいだろ?」
「そうなの?」
「そうなの‼」
フィンはどっと疲れが増してきた。この娘は一体何をしでかすか全く予想もつかない。この調子じゃ馬を盗んで逃げ出すかも―――そんなことになったら―――いったい彼に何の関係があるというのだ? この女が勝手に捕まるだけのことだ。
《どうして俺がそんな心配をしなきゃならんのだ⁈》
心の中でそう自問しながらも、結局明日もアウラを乗せて行くのだということは、疑いのないことだった。
それから五日、二人は妙な道行きを続けた。
運悪く、途中の道中宿には売り物になるような馬はいなかった。最初の三日はフィンは歩きづめだった。こんなに歩いたのは何年ぶりだろう?
残りの二日はアウラの足が良くなったので、二人は交互に馬に乗った。彼女の回復力はたいしたものだった。
それでフィンは少し楽にはなったが、そもそもからして何だかおかしい。
旅を始めてすぐにフィンは、アウラが病的なまでの男嫌いだということを知った。
最初は馬を引いているときに、ちょっとつまずいてアウラの方によろけたときだ。フィンはその拍子にアウラの左足にちょっと触ってしまったのだが、その途端にアウラが馬の反対側に転がり落ちてしまったのだ。
慌てたのはもちろんフィンの方だ。
「お、おい! どうしたんだ? 大丈夫か?」
「大丈夫! 平気よ」
アウラは右足を挫いているにもかかわらず、体を回転させて上手に着地したせいで、草むらに転がっていったとはいえ全く無傷だった。
そして助け起こそうとするフィンから避けるように立ち上がると、また何事もなかったかのように馬にまたがった……
そのときはフィンはアウラがどうして落ちたのか全く分からなかった。
その後も何度か似たようなことが繰り返された挙げ句、フィンと体が触れようとした場合に彼女は異常に過剰な反応をすることに気がついた。
彼女はフィンが近寄るだけで見て分かるほどに体を固くするし、何かの拍子にちょっと当たろうものなら、すさまじい勢いで飛び離れるのだ。
彼は最初、アウラに耳をそがれた男はよっぽどしつこくアウラに迫ったのだろうと考えていた。
だが彼女と五日間一緒にいた結果、はっきり言えばその男の方こそ被害者なのだという結論に達していた。
たぶん男は軽い気持ちでアウラの腕を掴んだだけに違いない。もしかしたら彼女に一杯驕ってやろうとしていただけかもしれない。
フィンはトレンテの出来事を聞こうかどうしようか真剣に考えたが、やはり恐ろしくなってきたので詳しい状況を聞くのはやめにした。妙に刺激して暴れられたら命に関わる。そんな物に命を賭けるのはさすがにごめんだった。
だから遠くにグラテスの城壁が見えたときには、フィンは心底ほっとした。これでやっとこの変な女から解放される。
まったくこの五日間、フィンは神経の使い通しだった。今までの一生で―――二番目ぐらいに気を使ったかもしれない……
二人がグラテスの城門をくぐると、中は祭りの準備でごったがえしていた。
あちこちに様々な露店が並び、そこから肉の焼ける香ばしい香りが漂ってくる。
「大きな町ね」
「ああ。ここは東西の交易の要衝だからね。鉱山もあるし」
「グリシーナみたいな城壁ね」
「グリシーナ? 君はシルヴェスト出身かい?」
「違うわ。ちょっとそこにいただけ」
「へえ。いろんな所を旅したんだ」
そのころには二人の間では何とか会話が成立するようにはなっていた。
といっても、たいていは天気の話とか食事の話で、彼女の過去に関するような話題はこれが初めてだった。
フィンはアウラがもっと何か話さないか待ってみたが、それ以上は何も言わない。
二人が中央広場につくと、アウラはそこで馬を降りた。
「ちょっと待ってて」
そう言って近くの露店に行くと、焼き肉の串を二本買って戻ってきた。
「ありがとう」
彼女はそう言って串を二本ともフィンに渡した。
「あ、ああ」
彼女はフィンが串を受け取ったのを確認すると、ぱっときびすを返して去っていった。呼び止める間もなかった。
フィンは人混みに消えていくアウラの姿を呆然として見送り、それから深いため息をついた。
終わりとはあっけないものだ。
「まったく……なんだったんだ?」
あのわけのわからない苦労の報酬が、焼き串二本か?
だがフィンはあまり怒る気にもならなかった。彼は手に持った串を見つめてつぶやいた。
「串二本もらえるだけでも……まだ上出来だしな」
これでまた前と同じだ。ただそれだけのことだ。