賞金首はもっと楽じゃない! 第1章 シルヴェスト王国

賞金首はもっと楽じゃない!


第1章 シルヴェスト王国


 鬱蒼と生い茂る大森林の中を街道は延々と続いていく。

 見上げれば大木の梢の隙間から、七月のまばゆい太陽の光が差しこんでくる。だが、木々に遮られているため、森の中はほとんど無風状態だった。

「だあぁぁぁ! 暑い!」

 馬上でフィンが何度目かの愚痴を垂れた。

 先ほど中途半端にぱらついた夕立のせいで、森の中は蒸し風呂のようだ。

 昨日もこんな天気だった。グラテス周辺のさわやかな気候に身も心も慣れきっていた二人にとっては、この数日間はまさに地獄だった。

 特にフィンは生まれも育ちも高原地帯だったので、こんな夏場にこのような低地に来たことがあまりなかった。思い出す限りこんな目にあったのは―――いつぞやハビタルに使者として遣わされたときと、都を出てしばらくメリスという町でだらだら過ごしていたときだけだ。

 メリスは白銀の都の門前町といった趣の都市で、いろんな意味で生活しやすい所だった。

 実際彼がル・ウーダの一族というだけで、旧家の住み込み家庭教師の職にありつくことができたくらいだ。

 教師といってもその家の子供にちょっと読み書きを教えればいいだけで、本好きのフィンにとっては造作もないことだった。

 だからその気になればいくらでもそこに滞在することはできたのだが―――ただ一点、夏の暑さだけは想定外だった。

 メリスは草原地帯だ。その季節に一歩家を出れば、灼熱の太陽に焼き焦がされる。

 彼が東に旅立ったのはそこで一夏を越してみて、ちょっとこれは堪らないと思ったからだった―――まあそのせいでアウラに出会えたのだから、太陽が一方的に彼の敵だったのではないのだが……

「夏が……暑いなんて当たり前じゃない」

 それを聞きながら横でアウラがつぶやく。

 彼女の声にも元気がない―――といっても、暑さにばてていたわけではなかった。

 アウラはフィンとは正反対で、暑い方が調子が出てくるタイプだ。

 彼女はこのシルヴェスト周辺で育ったのだから当然だった。だから普段なら『じゃあ涼しくしてあげる』とか言って水をぶっかけられるのがオチなのだが―――今日はそうつぶやいて黙々と馬を歩ませるだけだ。

 フォレスの王宮で散々いじめられていた頃から思えば、今のアウラはとても大人しくなったと言っていい。

 だがその本質がそう簡単に変わるわけではなく、興が乗ってくればもう何をしでかすか分かったものではない。

 小はフィンの背中に虫を這わせたりするところから、大はエレバスに喧嘩を売ってみたりするところまで―――控えめに言って、その度に何で俺はこいつと一緒にいるんだ? と、真剣に考える羽目になる。

 そんなわけで今日の彼女が大人しいのには別な理由があった。

「おい、まあそう落ち込むなよ」

「だって……」

 あの騒ぎから数週間が経ち、二人は山を下りてシルヴェスト王国の中央部に広がる大森林の中を進んでいた。

 首都グリシーナまではもうすぐだ。

 だがこの数週間、アウラの感情はジェットコースターのように浮き沈みを繰り返していた。

 あの晩、フィンが昔の話を聞き出すまでは、彼女はシルヴェスト時代、特にヴィニエーラのことはほとんど何も話してくれなかった。

 聞いてみればそれも仕方のないことだったのだが―――逆に一度あのように思いの丈を吐きだしてしまうと、今度はやたらに饒舌になった。

 それは主に宿屋に泊まって軽く酒が入った後、二人でそんな気分になってしまったような場合だ。

 彼女はヴィニエーラで知り合った様々な娘達のことを、色々と教えてくれるようになったのだが―――といってもハスミンのようにぺらぺら喋り始めたわけではない。そうではなく、彼女たちの特徴や動作、それに特技などを、主に実演で教えてくれるようになったのだ!

 彼女の、他人の微妙な仕草を読みとったり真似たりできる才能はもう驚くべきものだ。

 薄暗い所で動きだけ見ているともはや別人だ―――おかげでフィンは毎晩ヴィニエーラの娘たちを取っ替え引っ替えしているような、いやもうまさに一人ハーレムといった気分に浸れていたのである。

 彼女が変貌した理由は明らかだった。

 間違いなく彼女は、今までレジェを救えなかったことをずっと思い悩んでいた。

 もうあそこには戻れない。ならばもうヴィニエーラのことは思い出すまいと、ずっと一人で思い詰めていたのだ。

 だがあの状況であれ以上のことを求められるわけがない。

 結果としては最悪なことになってしまったが、彼女はできうる限りのことをした。それだけは掛け値なしの真実なのだ。

 それ故にフィンは単なる慰めの言葉ではなく、心の底から彼女にそういい聞かせることができた。

 それを聞いてアウラもやっと納得できたのだろう。彼女は間違ってはいなかったのだと。誰もそのことで彼女を責めたりすることはないのだと……

 すると今度は反対にヴィニエーラでの生活が随分と恋しくなってきたらしい。

 そんなわけでアウラは、ついでにフィンもだが、グリシーナに着くのを心待ちにしながら旅を続けてここまで来ていたのである。

 ところがだ。そんな二人のささやかな夢がいきなり無惨にも打ち砕かれてしまったのだ。

 それは昨夜泊まった宿での出来事だった。


 ―――そのとき二人はグリシーナまであと一日行程ということもあって、前祝いも兼ねて上等の夕食を頼んでいた。

 懐は暖かかったし、それにこの宿はヘリオス川という大河の河畔にあって新鮮な魚料理を食べさせることで名が知れていたのだ。

 実際、宿屋の主人はなかなかの料理上手で、出てきた料理はこういった道中宿の食事にしておくには惜しいような出来映えだった。

 二人が満足して最後に出されたデザートのお菓子を口にしたときだ。アウラが思わずつぶやいた。

「あ! これおいしい! タンディが作ったのみたい!」

 彼女はぽそっとそう言っただけだったのだが―――給仕をしていた宿屋の主人がそれを耳ざとく聞き留めると、ひどく驚いた顔で尋ねた。

「あれま、お嬢さん、タンディちゃんを知ってるんですかい?」

「ん? うん」

 あっさりうなずくアウラを見て、主人は慌てて思い直したように言った。

「いや、まさかね。違うタンディちゃんだよね?」

「違うって? ヴィニエーラのタンディじゃないの?」

 アウラが再びしれっと答えたので、主人は慌てて口ごもってしまった。

 フィンはぴんと来たので口を挟んだ。

「ああ、彼女ね、タンディと同じ村の出身なんだよ。村でもタンディのお菓子のことは噂になってて」

 アウラが驚いた顔でフィンを見る。フィンはハンドサインで黙ってろと促す。

 まあ、いくら彼らにとっては当たり前のことではあっても、巷では若い娘が郭や遊女について詳しいというのは少々不自然である。

 ともかく主人はフィンの言葉を信じてくれたようだ。

「はあ、そうでしたか……じゃあ彼女は村に戻ったんですか?」

「え?」

 主人の言うことがよく分からず、二人は顔を見合わせた。

「あそこでタンディちゃんに頂いたお菓子の味が忘れられなくってねえ、こうやって再現しようと頑張ってるんですが……」

 それを後ろで聞いていた宿屋の女将が咳払いをする。主人はちらっと振り返ると慌ててごまかした。

「いやまあ、こっちの話で。あはははは」

 苦笑している主人に対してアウラが尋ねた。

「それより何? タンディ、やめたの?」

 彼女の問いに主人は少しぽかんとしてから答えた。

「は? やめたもなにも、戻ってないんですか?」

「だって彼女、村には戻りたくない、いい旦那を見つけてお菓子屋さんを開きたいってずっと言ってたのよ?」

「それじゃ誰かいい人を見つけたんでしょうかね。あの頃は良かったですよね……」

 そんな彼らの会話を聞いていたべつな客も同調した。

「ああ。ヴィニエーラは粒ぞろいだったよね」

 フィンとアウラは再び顔を見合わせて―――それからフィンが恐る恐る尋ねた。

「えっとその、ヴィニエーラは粒ぞろい“だった”って、まるでその、今なくなっちゃってるみたいな言い方してるけど……」

 主人は一瞬驚いた顔をして、それから納得したといった感じで言った。


「え? ご存じないんですか? もうヴィニエーラはありませんが?」


「ええっ?」

「はあぁ?」

 フィンとアウラが同時に驚きの声をあげる。

「この辺の者で知らない者はいないと思ってましたが……」

「ああ? いや、僕はシルヴェストに来たのは初めてなんだ。彼女とはその、グラテスで出会ったんだよ。そこでグリシーナのヴィニエーラは天国みたいな所だって聞いて、彼女がそこの売れっ娘と知り合いだって聞いてさ」

 それを聞いた主人はうなずいた。

「ああ、そうだったんですか。それじゃ知らなくても仕方ありませんね。いや、火事を出しましてね」

 火事? そういえばパサデラからそんな話も聞いたが……

「あ、それは確か聞いた気がするけど……別に全焼したとかそんなんじゃなかったんじゃないか?」

「そうだったんですがね、何でか知りませんがその後、管理不行き届きとか何とかで取りつぶされてしまったんですよ」

 フィンとアウラは再び絶句して互いの顔を見合わせた。

「もう三年も前の話ですがね、押し込み強盗がヴィニエーラとそれにディレクトスにも入って、さんざっぱら荒らし回った挙げ句、放火までしくさってですね、それでヴィニエーラは半分ぐらい焼けて、ついでに隣の商家が全焼して、何でか知りませんがそのせいでヴィニエーラも再建の許可が下りなかったんですよ。そんなの強盗が悪いに決まってるじゃないですか。ディレクトスの方はちゃんと建て直してるのに、ありゃ絶対不公平ですよ」

 なんだって? ちょっと待てよ⁉

「じゃあ……ヴィニエーラはいま……どうなったの?」

 アウラの問いに主人は首を振りながら答えた。

「完全に取り壊されて、今じゃ織物の問屋になってますよ?」

 フィンとアウラは声も出せずに再び顔を見合わせた。

「じゃあ郭にいた娘達は?」

 フィンの問いにも主人は首を振った。

「散り散りですよ。タンディちゃんも村に戻ってないんならどこに行っちゃったんでしょうねえ。彼女のお菓子は本当に絶品だったのに」

 フィンはちらっとアウラの顔を見た。彼女の目は虚ろだった―――


 アウラが落ち込んでしまっているのはそんなわけだったのだが―――こればかりはフィンも慰めようがなかった。その後、宿屋の主人や他の客にも尋ねてみたのだが、ヴィニエーラにいた遊女達の消息は誰も知らなかった。

「ま、とにかく行ってみれば知ってる人がいるかもしれないし」

「うん……」

 そんなことならパサデラにもう少し詳しく訊いておけば良かったのに―――などと思っても後の祭りだ。

 ハビタルから発つ少し前、パサデラとは一度三人でゆっくりしたことがある。何故かメイが彼女からの手紙を持ってきてくれたせいだが……

《いや、だってさあ……》

 アウラとパサデラ二人を前にして、それ以外のナニができるというのだ? それこそ数日ほどフィンは腰が抜けていたわけで―――けふんけふん。

 となれば後は現地に行ってみるしかないわけだ。グリシーナまで行けばそういうことに詳しい人が見つかるかもしれない―――というより、いるに決まっている。

 問題はどうやって捜せばいいのかだが―――手当たり次第に聞き回ってみても仕方がなさそうだし……

 などとここで思い悩んでいても始まらない。とりあえず行くだけ行ってみようと、そんな調子で二人はグリシーナまでの道を歩んでいたのだ。

 だから当然テンションが上がるはずもない。

 二人はぶつぶつ言いながら馬を進めた。

 そうやってしばらく進んでいると、急に風が吹いてきた。続いて道を曲がるとふっと森が途切れて眼前に広い平野が現れた。

「着いたわ。あれがグリシーナ」

 アウラが前方を指さして言った。

「へええ」

 平野の向こうには三つの丘があって、白い石造りの建物でびっしりと埋め尽くされていた。

 その麓は高い城壁で囲まれている。また丘の中腹にも城壁があり、その最も高い丘の頂にはひときわ立派な城が見えた。

《ここがアウラが暮らしていた町か……》

 フィンは何となく感慨深かった。

 ここは彼が知らなかったアウラのいた場所だ。

 あの晩、彼女から話を聞くまではグリシーナとは単にシルヴェスト王国の首都という地図上の地点でしかなかったのだが、こうやってみると妙に身近に感じられる。

 フィンは振り返ってアウラを見た。

 彼女の顔には間違いなく、故郷に帰ってきたという喜びの光がある。それはフィンが今まであまり見たことのなかった表情だった。

《あんな事がなければ、こいつ今でも夜番をしてたのかな……》

 だとすれば彼女は幸せだっただろうか?

 間違いなくそうだったに違いない。

 多くの娘達に囲まれて、アウラお姉様として慕われて―――その場合、彼女の心の傷は癒えていったのだろうか?

 フィンは黙って首を振る。

 あんな劇的な直り方はしなかったかもしれない。だが、やがて時間が解決してくれたはずだ。大体フィンが彼女を直してやったわけではなく、彼女が自力で克服していったのだから……

 フィンは道行くアウラの横顔を眺めた。

 彼女とこうしていられるのは何だか奇跡のようにも思える。

 ちょっとした運不運が変わっていただけで、二人の人生が交錯することは全くなくなってしまうのだ。

 あの河原での出会いはまさに驚くべき偶然だった。

 かつてアウラが暮らしていた町を見ながら、フィンは急に胸が痛くなった。

 フィンはもう知っている。彼女がここにいてどうしていたのかを―――だがアウラはその頃フィンが何をしていたかは知らない。

 それまでは互いに過去は不問といった暗黙の了解があった。そんなことより今と将来のことの方が大事だと―――もちろん彼女とそういった取り決めを交わしたわけではない。ただ何となく互いにそれがいいと思っていたのだ。

 だがその関係は半分覆されていた。

 今ではフィンは彼女に昔起こったことをほぼ知っている。

 だが彼女はまだフィンの過去を知らないのだ。

 フィンはそれを思って溜息をついた。

「ん? どうしたの?」

「いや、なんでもない。ちょっと涼しくなったんでな」

「そうなのよ。ここまで来たら結構気持ちいい風が吹くのよ」

 フィンは深呼吸をする振りをしてアウラから顔を背けた。

 いつかは話してやらなければならない。少なくともこの旅が終わるまでには……

 時間はあるとはいっても、無限にあるわけではない。

 彼らは中原を一周して、最後に白銀の都のフィンの実家に行くことになっている。なぜ最後に回したかと言えば―――それはすぐには彼女に話ができなかったからだ。

 そう。フィンにはよく分かっていた。“ファラ”のことを忘れることなどできないということを……

 だが、その話を語ろうとするならば彼女抜きには語れない。

 アウラはそれを聞いてどう思うのだろうか?

 あの短剣を扱うフィンを見て、彼がファラのことをどう思っているのか薄々感づいているかもしれない。いや―――彼自身もよく分かっていないのだ。ファラをどう扱うべきなのか……

「あとどのくらいだ?」

「二時間はかからないわ」

「じゃあ、行こうか」

 二人は馬を歩ませた。



 二人がグリシーナに着いたのは昼過ぎのことだった。

「着いたわよ」

 城壁に開いた大きな城門をくぐりながらアウラが言った。さすがに思い出の町に来たせいか、声が嬉しそうだ。

「ふえー、確かに立派な城壁だな……」

 フィンは思わず口に出していた。グラテスの城壁もなかなかだったが、こちらの物は更に分厚く高くそびえ立っている。

「これじゃ……」

 思わず都の魔導師でもぶち破るのは大変そうだと言いそうになって、フィンは内心慌てて口を閉じた。それを聞きつけてアウラが尋ねた。

「これじゃ、何?」

「いや、上から見たら景色が良さそうだなって思ったのさ」

 フィンは慌ててごまかした。

 昔だったら間違いなくそんな感想しか湧いていなかっただろう。だがフォレスでのあの体験以来、何を見ても戦いに結びつけて考えてしまう自分に少々閉口気味だった。

「うん。そうなんだけど、上がるのは禁止なの。兵隊だけしか上がれないのよ」

「へえ、そうなんだ」

 実際この街にはあちこちに明らかに戦いに備えた造りが見受けられた。

 この頑丈な城壁は誰が見たってそうだが、それ以外にもまず道路の造りが違っている。

 ガルサ・ブランカの場合、町に入ると舗装された太くて長い表通りが城まで続いている。

 グリシーナの道路もきれいに舗装されている点は同じだが、フォレスの道路と違って幅がかなり狭く、しかも長い直線の部分がほとんどなかった。ちょっと行くと道はわざわざカギ型に曲げられていてひどく見通しが悪くなっている。

 そのためこの街ではセロの戦いの後に行われた凱旋式のような式典はできそうもない。

《あれはちょっと壮観だったよな……》

 ガルサ・ブランカ城の塔から望むと一直線に続く広い表通りは、兵士や見物人の海に呑み込まれてしまったかのようだった。

 その中を三人の女神を先頭にネブロス連隊がやって来たときには、町中が一つの生き物のように沸き立ったものだ―――だがこの街ではそんなパレードが来ても、何がどうなっているのかさっぱり分からないだろう。

 それだけでなく建物の造りも異なっていた。

 石造りのしっかりした家であるところは同じだが、フォレスの場合は三角の傾斜のかなり急な屋根なのに対し、こちらではみんな屋上が平たくなっている。

《こんな造りだと伏兵が置きやすいよな……》

 実際、シルヴェスト王国は敵性の国家レイモンと接触しているのだ。

 この街はレイモンが攻め込んできたときのことを明らかに意識して造られている。

 もちろんフォレスの場合は雪が積もり過ぎないようにする意味もあるのだが、雪がほとんど降らないベラのハビタルの住居だって三角屋根だ。わざわざこんな造りにしているのは、ここがいつ前線になってもいいようになのだ……

 フィンがそんなことを考えているとアウラが言った。

「景色見るならあそこがいいわよ」

 彼女の指さす先、丘の中腹にちょっとした広場が見える。

 二人がそこに行き着くと、広場では市が開かれていて多くの人で賑わっていた。

 それを見てアウラがつっと馬を下りると、近くの露店に向かう。何をしているのかと見ると何だか赤い果物を買っているだ。

 戻ってきたアウラがフィンにそれを手渡した。よく見るとそれは異様に赤かったがトマトのようだ。

「それってトマトか?」

「ここのって甘いのよ」

「甘いったって、所詮トマトだろうが……」

 ところがそれは喉が渇いていたせいもあってか、予想以上に甘くおいしかった。

「って、本当に甘いな」

「ね? 言ったでしょ?」

 アウラが微笑む。

 そんな笑顔を見るのは久しぶりだなと思いつつ、二人は広場の端まで行って下の町並みを見下ろした。

 確かにここからだとグリシーナの下町が一望の下に見渡せる。

「へえ!」

 フィンはそう唸ってから思った。

《ここからだと魔導師の支援がやりやすそうだな……ってまたかよ?》

 またもフィンは、もう少し平和的に物が考えられないものだろうかと、自身に突っ込まざるを得なかった。

 ともかくさっさと目的地に向かおう。

「で、ヴィニエーラってどの辺だったんだ?」

「あっちの丘になるの。ほら、あの大きな建物の先よ」

 グリシーナは幾つかの丘の集合体のような所に建設されている。あっちの丘ということはまたこの暑い中、下ったり登ったりしなければならないのだが……

「じゃ、まあ行ってみるか」

 二人はトマトを囓りながら、元ヴィニエーラのあった方に馬を向けた。

 整備は行き届いているが細く曲がりくねった道をしばらく行くと、派手な外装の大きな建物の前に出た。

「ここは?」

「ディレクトス」

「ああ、あのおおむね男の客が多い所ね」

「何よ! 普通知らないでしょ? そんなの」

「そっか?」

 ここがアウラの話に出てきた男娼宿のディレクトスらしいが―――さすがにそんな施設らしく、何もかもが意味もなく派手で艶っぽい。その建物を見上げてアウラがつぶやいた。

「何? 何か前より大きくなってるし……」

「そうなのか?」

 男娼というのはどこの地域でもいることはいるのだが、多くはこんな風に表立って店を構えたりはしていない。フォレスでもフィンの育った白銀の都でも、こんな大きな男娼宿など見たことがない。

 だが話に聞けば平原地帯ではかなり昔からそちら方面では男女同権だったらしく、いわゆる遊郭と並んで男娼館もあったと聞く。

 どうやらシルヴェストもそういった文化圏に入っているのかもしれない。

 まあ人の好みはそれぞれだし、都の貴族にだってこっそり稚児を侍らせていた奴なんてのはごまんといたことだし―――だがフィンの趣味からいえば、ヴィニエーラを残してもらっていた方が百万倍良かったのだが……

 二人はぶつくさ言いながらディレクトスの前を通り過ぎた。

 それからまた曲がりくねった道を進むと再び大きな建物の前に出たのだが、その前でアウラは馬を止めた。

「………………」

 アウラは黙ってその建物を見つめる。

「ここ、だったのか?」

 彼女は黙ってうなずいた。

 心なしか目が潤んでいるようにも見える。

 フィンもその建物を見上げた。

 大きな建物だが―――どう見ても普通の問屋だ。違う所といえば他の建物と比べて真新しいということだろうか? あの宿で聞いた話に間違いはなかった。

《さて、これからどうしよう?》

 これじゃ昔のことを知ってる奴なんて見つかりそうもない。

 だがともかく一応フィンは通行人に尋ねてみた。

「あの、ここに前ヴィニエーラってのがありましたよね」

 話しかけられた男はちょっと驚いた顔をしてから、それからにやっと笑った。

「ああ、なくなっちまったよ。そういうとこ捜してるなら、いい場所教えてやろうか?」

「いや、知り合いがいたんですよ。従業員とかどこ行ったか分かりませんよね?」

 男は首を振った。

「さあな。ちょっと分からねえな」

「どうも」

 そんな調子で道行く数名に尋ねてみたがもちろん全然埒はあかない。

 その間アウラは黙ってヴィニエーラのあった場所を見つめているだけだ。

 ともかくこれではどうしようもない。涼しい所で一休みしたい。

「しょうがないな。それじゃ宿でも探すか?」

「それよりお腹すいた」

 言われてみれば暑くて食欲が今ひとつないとはいっても、そろそろ空腹を感じ始めている。

 考えてみればグリシーナに着いてからトマトを囓っただけだった。

「じゃあちょっと何か食べるか」

「うん」

「知ってる店とかあるのか?」

「ううん。ずっと中で食べてたから……でもそこの坂を下りてくと繁華街があるのよ」

 アウラはフィンを先導して馬を歩ませ始めた。

 坂を下りきると人通りの多い通りに出た。通りの両脇には様々な店が建ち並んでいる。

「この辺に宿屋もありそうだな」

「うん。確かあっち行った所に一軒あったと思う」

 遅くなってから宿屋を探し回るのはどこでもトラブルの元だが、ここならそんなこともなさそうだ。ならばまずはゆっくり腹ごしらえしよう。

 二人がしばらく行くと一軒の小さいが小綺麗な料理屋が現れた。

「ここにするか? 知ってる?」

「知らないけど、いいわよ」

 それ以上歩き回りたくなかったので二人は店の前で馬を止めた。

 中に入ると午後も遅くなっていたせいか、店の中は空いていた。

 二人は窓際の席を取った。

「いらっしゃい」

 二人に気づいて料理屋の主人が現れた。

「まだやってる?」

「やってますよ」

「どんな料理がある?」

「これをどうぞ」

 そう言って主人は二人にメニューを渡す。

 フィンはそれを覗き込んだが、何だかよく分からない名前が並んでいる。だがアウラは即座にその中の一つを指さした。

「あたしこれ。それにこのスープ付けて」

 フィンはアウラのメニューを覗き込んだ。

「それって何だ?」

「オムリュザ。知らないの?」

「知らない。どんなんだ?」

「えっと、お米に色々混ぜて炒めたのを卵でくるんでるの。ピリッとしてるから暑い時にもいいわよ」

「へえ。じゃあ僕もそれにしよう。あ、それと冷たいビアはあるかい」

「ありますよ」

「じゃあそれも二つ」

「承知しました」

 旅の楽しみの一つは何と言ってもご当地の食事だ。

 注文が終わるとアウラが妙ににこにこしている。

「そんなに腹減ってたのか?」

「え? ああ、それもあるけど、これって久しぶりで。フォレスじゃなかったし」

「オムリュザのことか? ああ? あっちはパンばっかりだからな」

 米はこちらの方でこそ普通に食されているが、雨の多い平原南部の特産品なのでフォレスやベラの食卓に出てくることはほとんどなかった。

「ってことはさ、お前もしかして我慢してた?」

「我慢って?」

「フォレスでも、もしかしてお米が食べたかったとか?」

 アウラはうっといった感じでちょっと黙ってからうなずいた。

「……ええ? まあ、そうね」

「だったら言ってみたら良かったのに」

「ええ? でも……」

 彼女はこういった方面ではあまりわがままを言わないから―――それならば、他にも色々我慢してることがあるのだろうか?

 そうこうしているうちに主人が先にビアを持ってきた。

「ともかく乾杯」

「乾杯!」

 冷えたビアを喉に流し込むと、二人は生き返った心地だった。

 それからしばらく二人が暑さに愚痴をこぼしていると、主人がスープとオムリュザの皿を持って来る。スパイシーな香りが辺りに充満する。

 これだったらこの暑さでも行けそうだ。

「おいしそうだな?」

 フィンがそう言ったときにはアウラはもうオムリュザをぱくつき始めていた。ところが次の瞬間、彼女は顔をしかめた。

「これカシューが入ってない!」

「何だ? それ?」

「こう、曲がった豆なの」

「はあ?」

 そう言われても―――だがそれを主人が聞いていた。

「お嬢さん、もしかしてサルトスから?」

「え? 前いたけどどうして?」

 主人はうなずいた。

「オムリュザにもいろいろあって、カシューを入れるのはあっちの流儀なんですよ。これはお口に合いませんでしたか?」

「ううん。でも入ってたらもっと良かったけど」

 主人はちょっと残念そうに首を振ると答えた。

「私も実は好きなんですが、このあたりだと嫌いな人が多くて。この次もし来られるならご用意させて頂きますよ」

「え? ほんと」

「はい」

 アウラが満面の笑顔になる。

《まるで子供みたいだな……》

 などと思っていると、主人がフィンに尋ねた。

「お客様もサルトスからいらしたのですか?」

 フィンは首を振る。

「いや、僕はグラテスからだけど。彼女はそこで出会ったんだ」

 主人はうなずいた。

「そうですか。じゃあこちらの方は初めてですか?」

「え? まあそうだね。あ、そうそう。それでちょっと訊きたいんだけど、この上にヴィニエーラってあったでしょ?」

「はい。ありましたね。それがご目当てで?」

 今までまじめくさっていた主人の口元がすこし緩む。

「いや、そうじゃなくて知り合いがいたんだ。それでやって来たら郭ごとなくなっててさ、途方に暮れてる所なんだけど……何か知らないかな?」

 だが主人の方も残念そうに首を振る。

「さあ……それがこっちも知りたいぐらいなんですよ。それこそグリシーナはおろか、この周辺の男はみんなそう思ってるんじゃないでしょうかね」

 そこまで言って主人は微妙な表情でアウラをちらっと見る。

 それを見てフィンはぴんと来た。ここでも当然、良家の子女の前でそんな話題は少々憚られるが―――今のアウラはそう見えないこともない。

「ああ、彼女は気にしなくていいよ。えっと、その彼女がね、ヴィニエーラにいたタンディって娘と幼なじみなんだ」

 それを聞いた主人が驚いた。

「そうだったんですか? タンディちゃん? 知ってますよ!」

 途端にアウラが身を乗り出す。

「ええ? 本当? じゃあ、行き先知ってる?」

 その勢いに主人は一瞬たじろいだが、それから残念そうに手を振った。

「いえ、知ってたって事です。ヴィニエーラ一のお菓子作りの名人でしたよね。いや、あんな事させておくには惜しい腕だと思いましたよ」

「おじさんもそう思う?」

「はい」

 そう言いつつも主人の顔には微妙な表情が浮かんでいる。これはタンディ本人にいろいろ“接待”されたことがあるということなのだろうか?―――などというところを突っついても仕方がない。そこでフィンは尋ねた。

「行った先の噂とかも聞かないのかい?」

「さあ、確実な話は聞きませんね。ただセイルズの方でヴィニエーラ出身の子を見かけたとかいう話は聞いたことがありますが」

「セイルズかい……結構遠いな」

 セイルズとはヘリオス川をずっと下っていった先にある町だ。

「それにその子がタンディちゃんかどうかは分かりませんよ?」

「ああ、そうだよね……にしてもどうしてなんだろう? こうまでばらばらになってるなんて」

 大体ヴィニエーラが取り潰されたからといって、そこにいた従業員が何故これほどまでに行方不明なのだ? 少しくらい残っていたっていいはずなのに。

 大体それだけの娘が揃っていたのなら、普通なら市内でも引く手あまただろう? それとも全員が格落ちの郭になど行きたくなかったというのだろうか?

 いや、その後ヴィニエーラに匹敵する郭はできているみたいだから、そんな理屈も通らないし……

 それは半分独り言だったのだが、主人がそれを聞いて声を潜めた。

「それなんですがね。どうも偉い人の逆鱗に触れたかららしいですよ?」

「偉い人? 逆鱗?」

 主人はしっと口に指を当てて、それから小声で言った。

「はい。あれは表向きは強盗事件になってますが、実は最初、ユーリだとかいう名前の警吏がその偉い人の愛人を殺したのが発端だとか……」

「ええっ?」

 ユーリって―――ユーリスのことか?

 フィンとアウラは顔を見合わせた。

「しかもその愛人というのがディレクトスのツバメだったんですよ。大体あの店自体、そんなバックがなきゃ立ち行きませんよ」

 それを聞いて思わずフィンは尋ねた。

「え? じゃあ、やっぱりここでも珍しかったんだ?」

「はい。もちろん。先代の頃には考えられませんでしたよ」

「ふーん。それで?」

「はい。そしてそのユーリだかがヴィニエーラに逃げ込んだんですが、逆上したその偉い人が追っかけて来てなぶり殺しにしてしまったとか……そのどさくさでかがり火が倒れて、ヴィニエーラは燃えてしまったとか」

 フィンはちらっとアウラの顔を見た。彼女も驚いているが―――あの事件にはこんな裏があったのか?

「でもそれじゃヴィニエーラは全然関係ないじゃないか」

 主人はうなずいた。

「そうなんですよ。でもその偉い人がそんな事件を起こしたとなると大スキャンダルでしょ? なんでヴィニエーラを取りつぶして、現場を見た人間を各地に散り散りにさせたという話なんですよ」

 なんだって?

「……その偉い人って誰なんだ?」

「さあ、偉い人って以上のことは……」

 そこまで言って、主人はアウラが蒼い顔になっているのに気が付いた。

「あ、すみません。お嬢さんにはきつい話でしたね」

 実際彼女にはショックな話だっただろう。主人が想像したのとは別な意味で―――だがここはもう少し聞いておかねば……

「いや、彼女は大丈夫だよ。それじゃレジェは?」

 彼女のことはどう伝わっているのだろう?

「レジェ? ええ? ああ、確かそんなプリマがいましたね。その方が?」

 そう問われてフィンも一瞬言葉に詰まる。

 渦中のプリマなのだから、名前だけで反応するだろうと思っていたのだが―――主人は質問の意図がてんで分からないようだった。

「いや、レジェっていう凄いプリマがいるって聞いてたから、その子がどうなったかってね」

「さあ……私には何とも」

 主人は本当に何も知らなそうだ。

「そっか……ありがとう」

 そう言ってフィンは主人にチップを渡した。

 主人が引き下がると、フィンは考えた。

 以前に聞いたアウラの話からも、ユーリスが何者かに追われていたのは確かだ。

 そこではその理由までは分からなかったのだが―――実はユーリスは何かの絡みでその“偉い人”の愛人を殺した後にレジェの所にやってきて、一緒に逃げようと言っていたわけだ。

 だが二人が逃げおおせる前に追っ手がヴィニエーラに乗り込んできて、ユーリスは殺される。

 また“偉い人”にとっても、こんな事件を起こしたとなれば決して名誉なことではないはずだ。それに主人の言い方ではここシルヴェストでも、男娼を愛人にするのはあまりまともな趣味ではなさそうだし―――ならば全力で揉み消しにかかる可能性はあるだろう。

《確かに一応筋は通ってるんだけど……》

 ―――フィンには全然納得がいかなかった。

 主人はレジェのことを全然知らなかったようだが、ユーリスがレジェに入れ込んでいたということは、アウラの話を聞く限りは、かなり知られていた事実だ。

 ならば本当に無関係だったとしても、関係を取りざたされるのが世の常なのでは?

 この類の話はレジェまで含めた三角とか四角の関係にした方が聞く方には喜ばれるものだし、実際に追っ手はレジェを追ってきてアビエスの丘の惨劇につながるのだ。

 だがその話はどうも完全に伏せられていて―――だとすると何者かがともかくこの事件の真相をもみ消そうとしているようにしか思えない。

《だからといってなあ……》

 それ以上のことなど調べようがないし……

 フィンははあっと溜息をつきながら何の気なしにふり返って―――驚いた。

「あ? 何だ? そりゃ?」

 何とアウラが手鏡を取り出して化粧を始めているのだ。

「手鏡だけど? グルナ達がくれた」

 アウラは平然とそう答えるが……

「いや、それは知ってる。何でいきなり?」

 それは旅立ちのときの餞別としてエルミーラ王女お付きの三人娘―――いや今ではメイを含めて四人だが、彼女達がプレゼントしてくれた手鏡と化粧道具のセットだ。アウラが今までそういう物を持っていなかったと聞いて、グルナなどは半分怒っていたくらいだ。

 だが、旅の間アウラがそれを使っている場面に、フィンは一度も出くわしたことがなかった。

《一体どういった心境の変化だ?》

 フィンがそう尋ねようとしたときだ。アウラがハンドサインを出す。

『敵。左手』

 フィンは驚いて、彼女の指示した方を見た。

 そこは店の反対側の隅だったが、さっきまではいなかった新しい客が二人座っていた。

 途端にアウラが小声でフィンを制す。

「バカ! 直接見たらだめじゃない! だからこれで見てたのに!」

《あ、そういうことか……》

 というか、確かに鏡にはそのような使い方もあるわけだが―――やっぱり何か違わないか? プレゼントしてくれたグルナが泣くぞ⁉

 ―――などというのはともかく、今はあの怪しい奴らをどうするかだ。

 そいつらは、一瞬見ただけだったが、それだけでもこの間まで一緒にいたバルコとかロゲロといった連中の仲間だということは明らかだった。

 二人ともかなり大きな体つきで、このくそ暑いのに頑丈な革のベストを着ている。

 脇にはしっかり使い込まれていそうな剣も見える。

 そこでフィンは床から何か拾うふりをしながらアウラに出任せを言った。

「ああ、そういえばあいつに会う予定だったよな」

 そう言いながらフィンはハンドサインで尋ねる。

『気づかれたか?』

『大丈夫みたい』

 アウラは化粧をするふりをしながらサインで答える。

 フィンは少し安堵した。

 そう思いつつも、これが単なる杞憂に終わることを願った。

 確かにこの店はああいった奴らには少々上品すぎるかもしれない。だからといって別に賞金稼ぎが来て悪いわけでもない。彼らがここのオムリュザのファンでないとどうして言える?

《実際、けっこう美味しかったし……》

 だがこんな場合のアウラの勘は鋭かった。だからこそアイザック王やエルミーラ王女にあれだけ信頼されているのだ。

 勘違いなら笑い話ですむが、そうでなければ大変なことになる。

 そこでフィンはアウラに言った。

「じゃあそろそろ行こうか。あいつを待たしちゃいけないし」

「うん」

 勘定を済ませて二人が店から出ようとすると、その二人も席から立ち上がるのが見えた。

 テーブルの上には飲みかけのグラスと料理が残ったままだ―――どうやらアウラの勘に間違いはなさそうだった。