白銀の都
1. 半月亭珍事
「そろそろだわ」
外はもう真っ暗。うるさいパパも書斎にこもっちゃったし、抜け出すには絶好。
「ようし!」
窓枠を乗り越える。すぐ近くまで木の枝がきてるから飛び降りることはない。ちゃんと服も着替えてるし、何度もやってるからまちがえっこない。
そっと木を伝って地面に下りると、見つからないように木立に紛れながら壁穴に急ぐ。そこはあたしとお兄ちゃんが抜け出すときに使うとこで、いままで何十回となくお世話になってるわけ。
「はあい!」
あたしはポニーに挨拶した。ポニーもぶるぶるっと挨拶を返した。
この道を来るとちょうど厩のそばを通るのだ。この子は小馬の時からずっと知ってる。今ではちゃんと大人になってるけど、名前だけはポニーという。みんな笑うけど、あたしがつけた名前なんだから。
壁穴が見えてきた。茂みに隠れて分かりにくいから今までほったらかしにされてる壁の割れ目だ。あたしはそこをくぐった。やった、自由だ。あたしの計画はいつも完璧!
屋敷の外は閑散としている。いい調子!いつもは通行人をやり過ごすのに苦労するのに。
あたしはるんるんと下町へと向かった。振り返るとあたしの屋敷がセイシェルの星の光に浮かび上がっている。こうやって見ればいい家なんだけど、中身がねえ。パパやママがあんなにうるさくいわなければいいのに。
そういうことをぶつぶつ言いながら歩いていると、銀の塔がきらめくのが見えてきた。
ああ、そういえばそろそろお披露目も近いなあ。もちろんあたしのは終わってるけど、最近行ってないからまたうるさく言われそうだわ。こんどはどう言ってさぼろうかなあ……
まあそんなことはいまはどうでもいいわ。
塔のそばを抜けてさらに行くとだんだん街に活気が出てきた。それにつられて、
「うふふふふ」
とついつい含み笑いが出ちゃう。だって考えてみたらあたしは曲がりなりにもル・ウーダ一族なのよね。言ってしまえばお姫様よ。その「姫」が夜中に抜け出して下町に行ってるなんて……ことが知れたら、パパなんか気絶しちゃうかもね。ますますいい気分。
これでさっきの喧嘩のことも忘れられそう。まったく全然分かってないんだから。人の顔見るたびにいっつも同じ事ばかり。あきちゃうわよ。あんなとこにずっといたら、そのうちおかしくなっちゃうわ。
とか考えながら角を曲がると、
「きゃ!ごめんなさい」
あんまり浮かれてたんで人にぶつかってしまった。一応謝ってから見ると……なんだ、スレーブじゃないの。損した。
「イエ、コチラコソ」
「いいのよ!」
スレーブは行ってしまった。あたしも道を急いだ。
そのうちに人通りが多くなってきた。
「やっとついた……」
うちの屋敷は銀の塔をはさんで反対にあるから、歩くとちょっとかかる。お兄ちゃんと行くときは馬車なんかがこっそり用意されてるからいいけど、今日はあたし一人。カーンみたいな悪友がいないから仕方がないけど、ちょっと疲れた。でもここにきたらそんなのは関係ない。
あたしは回りを見回した。
へへへ。今日はどうしようかしら。シアターはこないだ行ったし、今日は辻の楽師もいないみたい。ええと……あそこにしよ!
通りをつっきって横町を回ると目当ての場所はすぐだ。さあ見えた。『半月亭』という看板がある。そこのドアをあたしはくぐった。
ざわめき。楽の音。じゅうじゅうと肉の焼ける匂い。人がいっぱいいる。きょうはえらく繁盛してるじゃない。
「ヤッホー」
マスターが見えたのであたしは声かけた。
「やあ、ティアちゃん」
マスターはえらい。いつだってあたしの顔を覚えてる。この店には人がこんなにいっぱい来るのに。
あたしはカウンターに座った。
「マスター元気?」
「ああ、おかげさまでね。今日は兄貴は?」
「いないの」
「一人?」
「うん!」
マスターはびっくりしたみたい。そうよねえ。考えてみたら、下町の娘だって一人じゃあんまりこういうとこには来ないみたいな気がするけど……
「親父さん、怒らないのかい?」
む!その話は禁句よ。あたしがにらみつけると、マスターは笑いだした。どうして笑うのよ!
「ははは、また喧嘩かい?」
「そうよ!」
「いつでもそうじゃない?」
そうよねえ。特に最近はほとんど毎日だもの。
「だってねえ、パパは……」
「分かった分かった。で、何にするの?」
あたしがわめきたてようとするとマスターがさえぎった。
「ええと……エール」
「はいはい。そうにらまないでね。ちょっと待っててな」
ぶつぶつ。そうなのよ。喧嘩してない日って最近思い出せない。ああ、昔は良かったわ。あたしが泥だらけになって遊んでたって誰も文句は言わないし、今みたいにル・ウーダの淑女は何だかんだってお説教も食らわなかったし。
はあ、何かまた落ち込んできた。
ここはいいわよねえ。みんなあたしみたいに縛り付けられてないし。ル・ウーダの家なんかじゃなくてこういう所に生まれてきたらどれだけ良かったかと思うわ。
「はい、お待ちどうさま」
「ありがと。それとあれある?」
「あるよ」
「ちょうだい」
「いいよ。でも食べ過ぎたら太るよ」
「いいのよ!」
「はいはい」
ここのエールはおいしい。うちで出てくるのよりもずっと上等みたい。でもお兄ちゃんは作ってるところは同じだって言ってたけど。そうよねえ。屋敷であんなにしゃちこばって飲んだら、どんなのだっておいしくないわ。何てったって説教がないのが最高よ。
そのとき音楽が変わった。
「ギニー!ギニー!」
客席から声が飛ぶ。
「ねえ、マスター。今日はギネスなの?」
「そうだよ」
なるほど。だから混んでるのか。
ギネスってのは歌い手なんだけど、とっても美人ですごく人気がある。あたしが最初にきたときも彼女が歌ってた。いつみてもきれい。嫉妬しちゃうわあ。あのときだってお兄ちゃんなんて鼻の下伸ばしっぱなしで……あら、あの時の歌じゃない。
陽の輝きは雲を貫き
吹く風は霧を払う
されど我が心は晴れず
暗き淀みに今日も漂う
忘れ去りし我が思い
はるかなる時の彼方に
ああ、思い出すなあ。月の湖でフロウと遊んだこと。いったいどこいっちゃったんだろう。いきなりいなくなって……それっきり。
はあ。ため息が出ちゃう。フロウがいれば今みたいな思いはしなくて良かったのに。本当にどこいっちゃったんだろう……
「できたよ」
「あ、ありがと」
マスターが蜂蜜入りの揚げパンを持ってきた。
「どうしたの、深刻な顔しちゃって」
「ちょっとね」
「何か今日はいつもと違うね」
「そう?」
そうかしら。でも……そうかもねえ。その時マスターが新しく入ってきた客に挨拶した。
「いらっしゃい!」
みると男の二人連れだ。何かえらく雰囲気が違うなあ。あら?こっちに来る。
「今日はギネスが出ると聞いたが」
「今歌ってますよ」
「そうか」
なによこいつら。えっらそうに。でもその割には何かおっかなびっくりって感じで……
二人は近くの席に座った。
「ねえ。マスター」
小声で、聞こえないように……
「なんだい?」
「あの人達よく来るの?」
「いいや……初めてだね」
「あたし思うんだけどさあ、あれどっかのお忍びじゃないかしら」
別に根拠があったわけじゃない。でもこういうとこに来るにしては、何か場違いな服だし……あれ?あの生地はシルクかしら?ますます怪しいわ。
「確かにちょっと違うけど……お客はお客だよ」
「商売人ね」
「その通り」
あたしは面白いからこっそりみてた。一人は結構年輩だけど、もう一人は若くってあたしと同じぐらいかしら。うつむいた感じで顔がよく見えないけど、あれは絶対ハンサムだわ。でもフロウがあのまま大きくなってたらもっとハンサムになってたわ。きっと。
二人はギネスの方を見ながら何か喋ってる。うーむ。要するにだ。彼らはどこかの貴族で、ギネスの噂を聞いたから鼻の下を伸ばしてやってきたというわけだ。まあ、可愛そうに。
「うふふふふふ」
「どうしたんだ?」
マスターが怪訝そうな顔をする。
「あの人達ギネスが三人の子持ちだって知ってるのかしら」
「さあなあ。でもそんなことお構い無しの奴もいるぞ」
「ええ?」
「貴族連中だと、そんなことは日常茶飯だって聞くけどな」
ううう、あまり反論できない。じゃああいつら三児のママをかっさらいにやってきたのかしら。そんなことしたら他の若い衆が黙ってないわよ。そんなに腕に自信があるのかしら。
さっきちらっと見た若い子の方は体つきはいいけど結構可愛い顔してた。あれじゃあそんな大それたこと……でも人は見かけによらないっていうけど。
あたしがじっとその子の方を見てると、はっとその子が振り向いた。げ、目が会っちゃった。
「あはは」
何とも間の抜けた笑いを浮かべてあたしは会釈した。いきなり目を外らすのは失礼だし、だからといって……なにこれ、見つめあってるんじゃないのよ。こら、早くあっち向け!もう……いいや。そっぽむいちゃえ。
ああ、びっくりした。結構いい顔してるじゃないの。げ、心臓が、なによあいつ、ほんとにもう……
「どうしたんだい?ティアちゃん、赤くなって」
「あ、あいつと目があっちゃったのよ。無粋な奴なんだから」
「うん?なかなかかっこいい少年じゃないか」
「まだ見てる?」
「うん……いまあっち向いた」
「はあ……」
「どうしたんだい。別に珍しいことじゃないだろ」
確かにここに来ると結構声かけられたりするけど……
「ティアちゃんもそろそろ結婚する年だし、男の子が気になったって……」
「結婚の話はやめてよ」
ついつい語気が荒くなる。
「ん?でも君ぐらいの年の娘は……」
「それで喧嘩してきたのよ!」
マスターは納得したという顔でうなずいた。
それ以上何も言わなかったから良かったけど、どうして誰も彼もおんなじ話題しか出さないんだろう。どうでもいいじゃない。ほんとに……もう
「マスター、お酒」
こうなったら飲むしかないわ!
「ちょっとちょっと」
「いいじゃないの!」
「でもねえ……」
「あたしを子供扱いするの?あたしはお客じゃないの?」
「わかったわかった、じゃあちょっとだけだよ」
「ありがと」
マスターは奥に引っ込んで、赤いカクテルを持ってきた。
「飲み過ぎちゃ駄目だよ」
「分かってるわ」
ああ、おいしい。顔がぽうっとしてきて、何かうきうきして来る。
「だめだよ、そんなにがぶがぶ飲んじゃ」
「おいしいのよ。マスターがつくったんでしょ。おかわり」
「あのねえ」
「おかわり」
「もう一杯だけだよ」
「ありがと!」
マスターが行くとあたしは残ってた蜂蜜パンを飲み込んだ。
そのときだった。
「お嬢さん、お嬢さん」
「んん?」
振り返ると……あら?さっきの男じゃない。年輩の方だわ。あたしを口説こうっていうのかしら。
「お手を拝借してよろしいですか?」
何これ?お披露目じゃないのよ。あたしは笑いをこらえて言った。
「よろしいですわよ。でも、あなたまだ独身なんですの」
「いえ、私でなくデュ……彼があなたとお話ししたいと……」
ちょっとちょっと、こんなとこで仲立ち立てないでよね。恥ずかしいったらないわ。あたしはとうとう吹き出した。
「あはははははは」
相手は困っちゃったみたい。でしょうねえ。でもこれは笑える。ここで見ると貴族の習慣ってのはおかしいわ。あたしだってそうだけど、でもこうやってみると滑稽。
「ど、どうかなさいましたか?」
「はあはあ、ねえ、その喋り方、あなた貴族でしょう?」
「え、ええ?」
ますます笑えるわ。気付かれないとでも思ってたのかしら。
「おぼっちゃまに言った方がいいわよ。娘を口説くときは自分でやるものよって」
あら、怒ったみたい。ちょっとひどかったかなあ。でも……ああ、行っちゃった。
「ティアちゃん、お待ちどうさま」
マスターがカクテルを持ってきた。今度はゆっくり味わった。マスターってけっこう頑固だから、本気でだめっていったらだめだから。
そのときマスターが目配せした。
「ん?」
後ろを指している。ええ?ありゃ?今度は少年が立ってる。本当に自分で来たみたい。結構根性あるじゃない。昨今のぼっちゃまは仲立ちを立てないと何も喋れないのが多いのに、えらいわあ。
あたしは彼をじっと見つめた。少年は何か言いたそうにしているけど、口をぱくぱくしているだけで言葉にならない。
「どうなさったの?」
「あ、あの……」
「いらっしゃいよ!」
言葉に詰まってるみたいなんで、あたしから大サービス。
「よ、よろしいですか」
「いいわよ!」
おもしろいわ。平民娘ごっこって。
少年はおずおずと横に座った。
「ええと、はじめまして……」
かちかちになってる。おもしろいわ。いじめちゃえ。
「ねえ、あなたどこの一族?マテラ?アスタル?それともクアン・マリかしら」
ル・ウーダじゃないことは確かだ。
「ええ……」
あはは、困ってるわ。
「隠さなくっていいのよ。貴族が来ることもあるんだから、ここは。あなたもギネスを見に来たの?」
「え、ええ」
でしょうねえ。
「うふふ、どうだった?」
「素晴らしいです。あんな歌い手は銀の塔にもいません。いつか呼んでみたいものです」
「銀の塔にもいないの?」
「はい。こんな歌は初めて聞きました」
「それは良かったわねえ。いいことがあって」
「でももっといいことがあったかもしれません」
「ええ?」
なによそれ。意味深なセリフ。
あたしが見つめると、少年は言った。
「あなたは……いつもお一人なんですか?」
「そんなことないわよ。今日はたまたまよ」
「こちらの方は……こういう所にお一人で来られるのですか?」
「ええ?まあ、ね……」
あんまり一般的じゃないとは思うけど……
「へえ。そうなんですか。ずいぶん解放的なんだなあ」
あからさまに驚かないでよ。
「上じゃそんなに閉鎖的なの?」
聞かずとも分かってるけど、ここはこういう流れだから……
「ええ……こんな風に女性の方と話をするなんて、考えられませんね」
そうかしら……最近はけっこう解放的だけどなあ。そんなにお堅い家にいるのかしら。
「それより何か飲みますか?」
少年が話題を変えた。そうねえ、喉は乾いたし……
「ええと……」
あたしが詰まったので、彼がマスターに言った。
「では、アルカを。彼女はソーダで割って」
「ええ?」
「ないのか?」
「いえ、かしこまりました」
あたしは彼の横顔を見つめた。かわいいだけじゃなくって結構厳しくも見える。今の口調もずいぶん手慣れてるみたいだけど……
「ええっと、あなた、そういえば名前は……」
いったい誰なのかしら。
「こ、これは失礼しました。僕は……デュールと呼んで下さい」
デュール?どっかで聞いたような気がするけど……ええと……忘れちゃった。まあいいや。
「あたしティア。よろしく」
「こ、こちらこそ」
「で、どこの家?」
「そ、それは……」
「言いたくなけりゃ言わなくていいのよ」
あんまりこんなのでいじめちゃかわいそうだわ。こっちだって実は後ろ暗い所がある。この話はこのへんにしとこう。
あたしはマスターが持ってきたアルカのソーダ割を飲んだ。初めてだったけど……結構辛いわねえ。
「あれ?良くなかったですか」
「なにが?」
「アルカは」
あたし飲むときにしかめっつらしたのかしら。
「ううん。おいしいわよ」
「ちょっと強かったかな」
「このぐらいがいいわ。マスター、おかわり」
「ティアちゃん、もうそれぐらいに……」
「もう一杯ぐらいいいでしょう?」
デュールが言った。えらい!話が分かるわ。
それを聞いてマスターがデュールに耳打ちした。それを聞いてデュールは目を丸くした。
「何話したのよ!」
マスターがこっちを向いた。
「あんまり飲ませたらティアちゃんがお父さんにお尻をぶたれるって言ったんだよ」
「何よそれ!」
「でもそうだろう?」
「あのねえ!」
「まあ、ティアさん、そういう事情ならしかたないでしょう」
「なによ、マスターとグルなの?」
「違いますよ。それよりティアさん、あなたはお一人なんですか?」
話をそらそうとしてるわね?
「一人で来てるって言ったでしょう!」
「そうじゃなくって……」
ああ、そうか。
「ああ、それは一人に決まってるじゃないの。あたしが三人の子持ちに見えるの?ギネスみたいに」
「いえ、そういう意味で言ったのでは……ええ?ギネスさんは子供がいるのですか?」
「そうよ。知らなかったの?やっぱりそうだと思ったわ。ここに来る人、たいてい初めは彼女目当てでくるのよ。でも子供がいることを知ったらたいていびっくりするの」
「あの方、何才なんですか?すごく若く見えますが」
「さあ、でも三〇近いわよ」
「へえ、人は見かけによらないんだ……ティアさんも……」
「あたしは違うわよ。見損なわないでよ。失礼ねえ。あたしはまだ一七の乙女なんですからね。結婚だってできるのよ」
「ああ、そうですか……それはよかった」
えらくうれしそうじゃない。
「何が良かったのよ」
「あなたがまだお一人だということが……」
よかった?
「あ、あたしが一人だったらどうだっていうのよ」
ちょっと展開が変なんじゃない?
「僕はあなたのような方に初めて会いました。あなたは私の知っている女性とは違います……」
い、いきなり大胆じゃないのよ。こいつ……
「ち、違うったって、いま会ったばかりじゃないの」
「それでも分かります。先ほどの言葉、痛いほど身にしみました」
あ、あの男に言ったことかしら?
「そ、それは良かったですわね」
ペースが狂ってしまった。何なの、この男は。いきなり手が早いというか……そういえば貴族のふりをして娘を騙す奴らがいるっていうけど、もしかして……
「だから、もう少しあなたのことを知りたいのですが……いいですか?」
そりゃいいけど……あたしは上目遣いでデュールを見た。
真面目な顔だわ。大丈夫みたいねえ。
「何が知りたいの?」
「ええと、それはみんなですが……」
ちょっとちょっと!いきなりまずいわよ、それは……
「みんなってねえ、あのねえ」
「い、いや、そういうわけでは……」
デュールは真っ赤になった。気付かずに言ってたわけ?まあかわいい。
あたしは吹き出した。デュールはおろおろしている。
「あ、あの、す、すみません」
「いいのいいの!ああ、おかしい……」
やっと笑いがおさまるとあたしはデュールの方に向き直った。
「で、何が聞きたいの?」
いきなりこんな風に聞かれると困っちゃうものだけど、案の定困っている。
「ええと……」
「何でもいいわよ。答えられることなら……」
「それでは……いまつきあっている方はいらっしゃいますか?」
「それは……いないけど……でも……」
いきなりこういう話題に入らないでよ。
「いないのですか?」
ううう、それを聞かないでよ。またまた思いだしちゃうじゃないの。
何か急に頭がかっとしてきた。
「いるのよ、でもいないの!」
銀の湖、虹の森、月見の丘、とねりこの木……
「ええ?」
「いたの。結婚の約束だってしたの。でもいなくなっちゃったのよ」
なみだが出て来ちゃった。あの時はずいぶん泣いたもんね。
「ティ、ティアさん、どうなさいました」
「ちょっと、思いだしちゃって……虹の森で最初に会ったのよ。あたしはまだ小さかったけど、銀の湖のほとりだったの。フロウがそこにいたのよ。森の中でかくれんぼして遊んだのよ」
「フロウ?」
「そう。フロウ。どこのフロウか知らないけど、フロウなの。フロウとあたしは何回も遊んだの。虹の森によく晴れた朝行くといつでもいたのよ」
「虹の森ですか。あそこはいいところだ」
「でしょ?それからみんなで月見の丘に行ったの。カロンの森を抜けるのは恐かったけど。みんなってのはフロウとあたしとお兄ちゃん。お兄ちゃんはカロンの森をよく知ってるから迷わないの。ポニーに乗って行ったのよ。とねりこがあるでしょ、月見の丘に。あそこでずっと遊んでたの。フロウはとってもきれいな子で、まるで王子様みたいだったわ。そこでねえ、あたしたち結婚しようって約束したの。とねりこの木に約束を書いたのよ。とねりこの木に書いた約束ってのは絶対守らなきゃいけないでしょ?だから書いたの。それなのにいなくなっちゃったのよ。ろうしてなのよ。あたしなにもわるいことしなかったのに……」
ぐす、あたしは捨てられたんだ。一〇才にしてもう女の悲哀を身にしみて感じたんだ。女って不幸だわ。どうしてあたしは男に生まれなかったんだろう。うう、ますます涙が出て来る……
「ティアさん、元気を出して下さい」
「ろうやってげんきがでるのよ!フロウはいなくなっちゃったんらから」
「フロウ君がいなくなったのはそれなりの理由があったのかも知れません」
「りゆう?なによそれ。おとこなんてみんなけらものよ!ろういうりゆうがあったってひとことぐらいいってくれたっていいらない!」
「僕には分からないけど……」
「あからない?あからないじゃすまないわよ!あんたおろこれしょ?ろうしてあからないのよ」
男なんていっつも言い訳ばかり。そうやって泣くのは女なんだ。
「そう言われても……」
「ろうしてなのよ!」
「あー、ティアちゃん酔っぱらっちゃてるよ」
どっかからマスターの声が……
「ど、どうしましょう」
「デュール様いったいどうなされました」
誰かやって来たな?さっきの年輩の男か。
「彼女が酔っぱらってしまった」
「あらしよってなんかないわよ!」
「これは……家まで送らなければなりませんね」
「どうもこうも、ああ困った。責任問題だ……」
「僕が責任を取ります。彼女の家は?」
「それは……」
「えきにん?られがえきにんとるのよ。ろうしてあんたがふろうのえきにんとらなきゃいけないのよ!」
「ティアさん、ティアさん!」
「あんたがあたしとけっこんしたってふろはかえってこないわよ」
「あ、あのですねえ、ティアさん、そういう問題じゃなくって……」
「ふろう、ふろう、ろうしていっちゃったのよう」
「ティアさん、気を確かに」
目の前のデュールの顔が二つに見えるけど……この人首が二つあったのかしら……
「きゃははははははは」
「ティアさん!」
でもよくみるといい男じゃないの……こういう人ならいいかなあ……あたしのこと捨てないかなあ……
「すきよ、りゅーる、あんた、あたしのことすき?」
「ええ?それは、その、あの……」
やっぱりなんだ……こいつもあたしのことおもちゃとしか思ってないんだ……
「ろうせあたしなんて……」
「違いますよ。ティアさん!
「あにがちがうのよ!」
「とにかく彼女を家にお連れしましょう」
「いえにつれこんれろうするき?」
「デュール様これでは……」
「ティアさん、ティアさん」
ううう、どうして男ってみんなこうなのかしら!もういいわ!あたしは一人で楽しく暮らすんだから。
「泣くのはやめて、ティアさん!」
「そうよ、ないてたってしょうがないわ……ろうしてあたしがなくのよ……そうらわ、デュール、おろりましょう、みゅーじっく、すたーと!それえ」
「あの、あの……」
「わあ、ティアちゃん!」
「デュール様、ああ、ああ、ああ」
うう、ドクターと話しこんでしまった。もう夜だよ。
カーンにしたらいい迷惑だったろうが、でも面白いことは面白いからなあ。世の中分からないことが多すぎる。
それにしても最近一日が速い。やだねえ、年とるってのは。今日も一日変わりばえがしなかった。最近あまりたいしたことがないし、こんな状態じゃ脳みそが腐ってしまう。あーあ。
「おい、フィン、聞いてるのかよ」
「何だ?」
「やっぱり聞いてないな」
「何を?」
「今言っただろ。ドクターの言ってた謎のことでさあ」
「ああ、あれ。何だ、お前まだ考えてたのか?」
「分かったのか?」
「だいたいな」
「ええ?本当か?答えはなんだ?」
「ありゃ簡単だと思うけどなあ。要するに、英雄はドラゴンの口の中で、お前は俺を食ってしまう気だな、と言えばいいんだ」
「ええ?でも食われたらどうするんだよ」
「食われたら英雄はドラゴンのすることを当てたことになるから、正直ドラゴンは食えない。食わなかったら、はずれたことになるから英雄を食わなければならないが、そうしたらまた振り出しに戻ってしまうというわけさ」
「ええと、ええと……」
「簡単だろう」
「わからん」
「そんなに難しいかなあ」
「俺はこういうややこしい話は嫌いなんだ。それより今夜はギネスの日だよ」
「ああ、そうだったっけか」
「行こうぜ」
「今から?」
「今から行かないと帰っちまうぞ」
「そうだなあ」
こいつは元気だなあ。まあこういうエネルギーで生きてるんだから仕方がないが。
「行かないのか?」
「行こうか」
久しぶりかな。行ってみるか。
「なんだか元気ないなあ」
「ほっといてくれよ。疲れてるんだから」
「疲れる?お前疲れるようなことしてるのか?」
「あほ!お前と一緒にするな」
こいつは悪人だから……
「なあ、俺思うんだけどさあ、お前ってちょっと変わってるよなあ」
「そうか?」
そいつはよく言われる。
「どうしてお前シェンを振っちゃったんだ?」
「どうしてって」
「いい娘じゃないの。向こうだってまんざらじゃなかったみたいだし」
「俺は振ってない。向こうが勝手に行っちゃったんじゃないか」
「お前が何もしなかったからだろ」
「何もって?」
「ちょくちょく声かけたり、何かやったりしたか?くだらんもんでも結構喜ぶんだぜ。女って」
「という話だなあ」
「どうしてしないの」
「面倒じゃないか」
「何考えてるんだこいつはもう……」
シェンは……結構いい娘だったよな。確かに。そりゃすごい美人じゃなかったけど、いい娘だっていうのは事実だ……しかし、気力が湧かないよなあ。みんなどうしてあんなに元気なんだ?うちの親なんかをみてたら、行く末がどうなるか分かりそうなもんだが……
「お前がそんな調子だからティアちゃんだって結婚相手が見つからないんじゃないのか?」
「ティア?あいつはアホだから」
「そうか?ティアちゃんがお披露目に出てこないんで、仲間の間じゃすでに伝説になってんだぞ。それならまだしも、人に言えない恥ずかしいことがあるとか、実はもう子持ちだとか……」
「ぎゃははははは」
「笑い事じゃない!」
「あいつが子持ちだって?どういう子供ができるか見てみたいぜ」
「そのうちできるぜ」
「なに?お前まさか……」
「あほう。一般論だ。何考えてやがる。俺はもっとおとなしい方がいいの」
「何か、考えられん」
「こいつほんとに兄貴かよ」
まあ、俺の目からみてもティアは変わってる。あいつぐらいの娘ってのは大抵が着飾ってお披露目の花になってるもんだ。何であいつがそういうことに興味を持たないのかは不明だが、いやもしかしたらガキの頃のあの婚約をまだ本気にしているのかなあ。
そういえばフロウとか言ったっけ……若干発育不良ぎみだったが、なかなか可愛い少年だったな。そうそう。とねりこの下で約束してそれを木に刻んだんだよ。そうしたら望みがかなうって出まかせ言ったんだよな。何かそんなことを書いてある本があったような気はするけど。
そうしたら本気にしちゃって。真剣に誓ってたもんな。あれをまだ守ってるのかねえ。フロウはすぐいなくなっちまったし……うーむ。
ん?何の音だ?馬車のようだが。誰かが叫んでいるな。うん?
「フィン様、フィン様!あ、カーン様も」
「ん?誰だ?」
「やっと見つけました。家に行ったらまだ帰ってないっていうし……」
「おや?君は確か……半月亭の」
「ガルトです」
「やあそうそう、今から行こうとしてたんだよ、フィンと。まだギネスはやってるんだろ」
「ええ、それよか早く乗って下さい」
「どうしたんだ?こういう客引きは聞いたことがない」
「違いますよ、ティアさんが……」
「ああ?あいつがどうかしたか?」
「それが……」
ガルトはどうも要領を得ない。あの馬鹿がどうしたんだって?ともかく行ってみなければ。
ガルトはおお急ぎで馬車を飛ばした。しばらくして半月亭が見えた。
「お急ぎ下さい!」
「なんなんだ?」
店は繁盛してるようだ。中ではえらく盛り上がっている。扉を開けると、
「きゃはははははははははは」
女の馬鹿笑いだ。困るねえ。酒は静かに飲むのがよいのに。ん?でもあの声は……
「あ、あれ、フィン!」
カーンがひきつっている。なんだ、どうしたんだ。げ。あ、あ、あ、あの馬鹿何してやがる!
「いいぞ、ねえちゃん!」
「きゃははは、うまいでしょう、ぴーすぴーす!」
「ティアさん、ティアさん」
横に変な奴がへばりついているが、何だあいつは?
「おおい、次だ次だ」
「つぎはねえ、がるほのおろりよ!」
人が一杯で近付けないじゃないか。あ、マスターがいる。
「おい、マスター」
「あ、あ、フィン様!」
「どうしたんだよ、これは?」
「らんららんららん!」
「どうもこうも、今日一人でいらして、お酒を召し上がって……」
「酒飲んだ?いったいどのくらい」
「最初はカクテルを……あとアルカ酒を……」
「あんな物飲ませたのか?」
「別な方のおごりで……」
あに?
「あの側にいる奴か?」
「はい」
何だ?身なりはいいようだが……
「何だあいつは?」
「分かりません。でもお忍びのようで……」
お忍びでこんな騒ぎを起こすなんて、どこの間抜けだ。
「どうして止めなかった」
「いやその」
マスターは恐縮してしまっている。しかたないよなあ。貴族の娘の尻叩いておっぱらうわけにも行かないだろうし……
「まあいいよ。ともかく今はだな」
「ほんとうにすみません」
「いいって」
ともかく連れて帰らなきゃ。
人混みをかき分けて前に行く。ええ、うっとおしい。もう。のけ!酔っぱらいども!
「ティア!ティア!」
「ええ?られよ……あら、おにいちゃん」
「こっち来い!」
「ろうしたのよ。おこっちゃって……きゃははははは」
「あのなあ」
「まあ、おにいちゃん、あー、あー……」
いきなりティアが俺に抱きついてきた。なんだ?この馬鹿は……
「こらあ、踊り子をさらってく気か?」
「おいもう終わりかよ?」
連れて行こうとすると文句が出た。まったく、こんなとこで人気が出ちゃって……こんなことが知れたら大騒ぎだ。何考えてんだ、こいつは。
やっとのことでティアを引きずり出した。
「おいティア!」
「あーん」
「おい!」
「んーん」
何だ、寝てやがる。しょうのない……と、誰かが横にいる。
「すみません、ティアさんのお兄様ですか?」
「そうですが」
なんだこいつ?ああ、さっき横にいた……
「すみません、こんなことになるなんて」
誰だ?結構若いが。んん、何か見たことがあるような気もする奴だ。
「あんたが酒飲ませたのか?」
「は、はい。こんなことになるとは……」
「以後気をつけるように。これじゃあ、酔い潰して拉致しようとしてるって思われるぞ」
「そんな……」
貴族だな。この物腰、喋り方。悪意はなさそうだ。どこかのぼんぼんだろう。うんうん。こうやって人間は成長するんだ。まあ今回は許してやろう。
「まあ、無事が何より。それにこいつがだいたい悪い。いい年の娘が全く……」
「いえ、僕の責任です」
「まあいいって。いいって。それにあんた、こういうことは表沙汰にはならないほうがいいんだろ?」
「え、まあ、しかし……」
「じゃあ早く消えな!噂の広まるのは早いぞ」
こっちもそうしなくちゃ。
「デュール様、デュール様」
「何だ?スロム」
だれだ?こいつの連れか。少し年輩の男が近づいてきた。デュールというのか、こいつは。何か聞いたことがあるような名前だが……そんなことはどうでもいい。とにかく今はずらかるのが先決だ。
「それじゃまた」
「あ、いえ、どうもすみません」
俺はデュールと別れるとカーンを捜した。
「フィン、フィン」
「いたいた、カーン、帰るぞ」
「何だこれは」
「俺が知るか」
「フィン様、フィン様……」
「マスター、迷惑かけちゃったね。まさかこの馬鹿が一人でくるとは……」
「は、はい」
「これは親父には内緒ね」
「分かっております」
「ばれたらえらいことだ」
「決して口外しません」
マスターは恐縮しきっている。だろうなあ。マスターの立場としては大変だっただろう。板挟みの苦労というのはよく分かる気がする。
「今日は本当に迷惑かけた。今度まさかこいつがきたら、追い返していいから」
「ええ?でも……」
「親父に言いつけるぞとかいって。ごねたらもうばらしちゃっていいから」
「は、はい、分かりました」
「じゃあ、また」
「いえ、また起こし下さい」
俺はティアをかついで表に出た。まるで人さらいだよ。これは……ああ、みんなの注目を浴びてしまう……
「フィナルフィン様馬車をどうぞ」
「ああ、ガルト、ありがとう」
俺はティアを馬車に押し込むと自分も乗り込んだ。
馬車が動き出すと、カーンが尋ねた。
「なんだ?ばらすとかなんだとかいうのは」
「あそこじゃあ、俺達の正体は知れてないことになってたの。その方が面白いから」
「ああ?まったく……暇だねえ。それに何だ?今度って、フィン、お前まだここに来させる気?」
「人間、そういう気分になることも多いだろうが」
「なんて兄貴だ」
カーンがあきれたように言った、とたんにティアががばっと起きた。
「やっほー」
「お前は寝てろっつーの」
「むう」
ティアはばたんと倒れた。
はあ、疲れた。何だかとっても疲れた気がする……