池田菊苗 いけだきくなえ(1864―1936)
1864年 元治元年9月8日、京都に生まれ
1889年(明治22)東京帝国大学理科大学化学科を卒業、
1899年(明治32)助教授在職中の1899年に、当時の物理化学のメッカであったドイツのライプツィヒ大学のF・W・オストワルトのもとに留学。帰途しばらく滞在したロンドンでの夏目漱石(そうせき)との交流はよく知られている。
1901年(明治34)同教授、
1917年(大正6)理化学研究所創立に参画、のち主任研究員
1923年(大正12)大学退職、大学退職後はドイツに5年間研究室をもったり、自宅に実験室を設けて5名の研究者と死の年まで香気、臭気の研究をするなど、異色の研究生活を送った。
1936年(昭和11年)5月3日東京にて死去
東京帝国大学教授在職中、物質の味には甘味、酸味、苦味、塩から味の四味のほかに、「うま味」があるはずとの着想をもち、用務員を督励して大量のコンブから「うま味」を抽出、ついにその成分の本体がグルタミン酸ナトリウムであることをつきとめた。これが今日の「味の素」である。
第3話;ロンドンの憂鬱、池田菊苗博士
明治34年から5年のロンドン留学時代、漱石先生はどんどん英国が嫌いになり、文学がいやになり、スランプに落ち込んでいった。そこへドイツから池田がロンドンに移ってきた。天の助けであったといえる。およそ50日間、池田は漱石と下宿をともにした。そして二人は大いに意気統合した。子規によって文学開眼させられた漱石は、ロンドンで池田菊苗によって永年悩みの種であった東西文学の根底にある不協和意識を、一刀のもとに断ち切ってもらうことができ、一段高い立場に飛躍するときに恵まれたのである。
第5話;ホームドラマの主人公、本籍が北海道ということ
作家の丸谷才一氏が1969年6月号「展望」に発表した「徴兵忌避者としての夏目漱石」はきわめてショッキングな文章であった。明治25年、漱石が26才の春、分家し北海道岩内村浅岡方へ送籍し、徴兵免除のため北海道市民になった事実をとりあげ、かつその2年後に起こった日清戦争に注目して、こう書くのである。(略)
明治27年夏から翌8年春までの日清戦争下にあたって、誠実の人漱石が強い自責の念にかられ、精神の平衡を欠き変調をきたしたとすることは、それほど強引な推理ではないようにわたしも思う。若き漱石が神経をおびやかされたであろうことは、松山に落ちて行ったのちに間もなく4月11日に日清戦争が終るが、漱石の神経の苛立ちだおさまっていることでもわかる。
さらに余計なことながら、漱石がふたたび神経の変調をきたすのはロンドン留学中から。いささか、我田引水の説となるかもしれないが、日露両国の関係が悪化の一途をたどり、山雨まさに到らんとするの時。明治35年1月の日英同盟はきたるべき対ロシア戦にそなえてのものであることはだれの眼にも明らかであった。
感想;
漱石の外戚でもあり、悪妻と世評される鏡子夫人と話した筆者ならではの、身近な等身大の漱石像がよく書かれている。漱石はえらく繊細な人でること、また小説「坊っちゃん」の背景もわかった。