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漱石先生ぞな、もし

漱石先生ぞな、もし;半藤一利、文芸春秋、1992.9.25、1300円

著者略歴;1930年東京生れ、1953年東大文学部卒、文芸春秋入社、文春、文芸春秋編集長など

第1話;べらんめえ、と、なもし
第2話;漢学を好んだこと
第3話;ロンドンの憂鬱
第4話;恋猫や主人は心地例ならず
第5話;ホームドラマの主人
第6話;ストレイ・シープ
第7話;銀杏返しの女たち
第8話;教師として師として
第9話;記者とビールと博覧会
第10話;ある日の漱石山房
第11話;生涯に三度のバンザイ

前口上(抄);わたしのカミさんが漱石の外孫、漱石先生は義理の祖父ということになる。漱石を話のネタによもやま話を、ないしは、ちょっといい話を少しばかり、近ごろ本をよまなくなった若い人を相手にしたくなったまでのこと。どうせ書庫はいっぱいであろうから、むしろ読み捨てにしてもらったほうがありがたい。

夏目漱石年譜
1867慶応3 1月5日江戸牛込馬場下横町(現東京都新宿区牛込喜久井町 )に誕生。本名は金之助。里子に出され、翌年塩原家の養子となる。
1876明治9 生家に帰る(復籍は1888年)
1881明治14 4月東京府立一中から二松学舎に転校、漢学を学ぶ
1884明治17 9月大学予備門(東京大学教養学部)入学
1889明治22 1月正岡子規を知り、俳句の手ほどきを受ける
1890明治23 9月帝国大学文科大学(東大文学部)入学
1893明治26 7月文科大学英文科卒業 10月東京高等師範学校英語教師に就任
1895明治28 4月松山中学教諭として松山へ赴任
1896明治29 4月松山中学を辞し、第五高等学校講師として熊本へ、6月中根鏡子と結婚 7月五高教授となる
1900明治33 9月イギリス留学へ出発
1903明治36 1月帰国東京、4月第一高等学校兼東京帝大英文科講師
1903明治36 この年しばしば神経衰弱に悩まされる
1905明治38 1月『吾輩は猫である』(〜1906年8月)、『倫敦塔』を発表
1906明治39 4月『坊つちやん』発表 9月『草枕』発表
1907明治40 4月朝日新聞社に入社 5月『文学論』刊 6月『虞美人草』連載(〜10月 ) 9月ごろより胃病に悩む
1908明治41 6月『文鳥』連載 7月『夢十夜』連載(〜8月) 9月『三四郎』連載( 〜12月)
1909明治42 1月『永日小品』連載(〜3月) 3月『文学評論』刊 6月『それから』 連載(〜10月)
1910明治43 3月『門』連載(〜6月) 8月転地療養のため修善寺へ行き、大量吐血して人事不省に陥る
1911明治44 2月文学博士号を辞退
1912明治45・大正1 1月『彼岸過迄』連載(〜4月) 12月『行人』連載(〜1913年11月)
1914大正3 4月『こゝろ』連載(〜8月)
1915大正4 6月『道草』連載(〜9月)
1916大正5 5月『明暗』連載(〜12月、中絶) 12月9日胃潰瘍のため永眠。雑司ヶ谷墓地に埋葬

池田菊苗 いけだきくなえ(1864―1936)

1864年 元治元年9月8日、京都に生まれ
1889年(明治22)東京帝国大学理科大学化学科を卒業、
1899年(明治32)助教授在職中の1899年に、当時の物理化学のメッカであったドイツのライプツィヒ大学のF・W・オストワルトのもとに留学。帰途しばらく滞在したロンドンでの夏目漱石(そうせき)との交流はよく知られている。
1901年(明治34)同教授、
1917年(大正6)理化学研究所創立に参画、のち主任研究員
1923年(大正12)大学退職、大学退職後はドイツに5年間研究室をもったり、自宅に実験室を設けて5名の研究者と死の年まで香気、臭気の研究をするなど、異色の研究生活を送った。
1936年(昭和11年)5月3日東京にて死去
東京帝国大学教授在職中、物質の味には甘味、酸味、苦味、塩から味の四味のほかに、「うま味」があるはずとの着想をもち、用務員を督励して大量のコンブから「うま味」を抽出、ついにその成分の本体がグルタミン酸ナトリウムであることをつきとめた。これが今日の「味の素」である。


第3話;ロンドンの憂鬱、池田菊苗博士
明治34年から5年のロンドン留学時代、漱石先生はどんどん英国が嫌いになり、文学がいやになり、スランプに落ち込んでいった。そこへドイツから池田がロンドンに移ってきた。天の助けであったといえる。およそ50日間、池田は漱石と下宿をともにした。そして二人は大いに意気統合した。子規によって文学開眼させられた漱石は、ロンドンで池田菊苗によって永年悩みの種であった東西文学の根底にある不協和意識を、一刀のもとに断ち切ってもらうことができ、一段高い立場に飛躍するときに恵まれたのである。

第5話;ホームドラマの主人公、本籍が北海道ということ
作家の丸谷才一氏が1969年6月号「展望」に発表した「徴兵忌避者としての夏目漱石」はきわめてショッキングな文章であった。明治25年、漱石が26才の春、分家し北海道岩内村浅岡方へ送籍し、徴兵免除のため北海道市民になった事実をとりあげ、かつその2年後に起こった日清戦争に注目して、こう書くのである。(略)
明治27年夏から翌8年春までの日清戦争下にあたって、誠実の人漱石が強い自責の念にかられ、精神の平衡を欠き変調をきたしたとすることは、それほど強引な推理ではないようにわたしも思う。若き漱石が神経をおびやかされたであろうことは、松山に落ちて行ったのちに間もなく4月11日に日清戦争が終るが、漱石の神経の苛立ちだおさまっていることでもわかる。
さらに余計なことながら、漱石がふたたび神経の変調をきたすのはロンドン留学中から。いささか、我田引水の説となるかもしれないが、日露両国の関係が悪化の一途をたどり、山雨まさに到らんとするの時。明治35年1月の日英同盟はきたるべき対ロシア戦にそなえてのものであることはだれの眼にも明らかであった。


感想;
漱石の外戚でもあり、悪妻と世評される鏡子夫人と話した筆者ならではの、身近な等身大の漱石像がよく書かれている。漱石はえらく繊細な人でること、また小説「坊っちゃん」の背景もわかった。