トップページに戻る
本のページに戻る
ニュースのページ、「とことん考えるということ」、に戻る

闘う独創の雄 西澤潤一

闘う独創の雄 西澤潤一、著者・渋谷寿1999 1700円、オーム社、平成111111 1版第1刷発行

<目次>
はじめに
第一章半導体研究への道…………1
西澤潤一という凄い学者がいる/異端で異色の学者/光通信でノーベル賞候補に/電気通信から光通信へ/ガラス線を光伝送路に/世界初の半導体レーザー考案/光通信の父/広範な研究/研究の原点/トランジスタとの出合い/半導体研究を先導した渡辺寧教授第2章トランジスタの誕生、………27
エレクトロニクスの発展/半導体が主役に/電子やホールの動き/固体増幅器への挑戦/ベル所に半導体研究グループ/トランジスタの発明/トランジスタの動作原理/ショックレー「Pn接合理論」を発表/日本での追試と動作理論の研究第3章半導体デバイスの発明…………53
研究の始まり/定説と違うダイオードの特性/半導体の一部を絶縁層に/Pinダイオードの発明/イオン注入の技術/学界での異端児に/論文の発表を禁止される/西澤研究室の誕生/実験装置を手づくり/Pinダイオードの試作に成功/最初の海外出張/モネとの出合いと再出発/Pinダイオード紛争/半導体研究振興会の発足/静電誘導トランジスタ一SIT)の着想/FETの飽和特性の究明/SITの発明/SITの特長/SITの工業化へ向けて/二一世紀のデバイス/SIサイ第4章光通信デバイスの発明・・・・101
光受信素子の発明/メーザーの発明/半導体レーザーの考案/半導体レーザーの具体化に失敗/定常発振レーザーの出現/光ファイバーの発明/光ファイバーの開発始まる/光グラスファイバー特許紛争/特許不成立のなぞ/光通信の時代へ
5章完全結晶づくり・・・・・127
シリコンの完全結晶をめざして/結晶欠陥の究明へ/化学量論的製法の発明/ガリウムひ素の組成制御/蒸気圧制御温度差液相成長法の発明/発光ダイオードの開発/高輝度青色発光ダイオードの出現/光励起分子層気相エピタキシャル成長法の発明/フォトエピタキシの開祖
6章生い立ちと研究環境・・・・145
ひ弱だった少年時代/自立のころ/工学への志向固まる/研究生活に人って/少年時代の屈折感/頭を鍛える/日本の電気通信の黎明/無線電信・電話で世界レベルヘ/電気試験所の活躍/東北大学電気工学科/八木秀次の存在/先見性あふれる数々の研究/エレクトロニクスのメッカ/革新的な創立の理念/独創研究の系譜
7章西澤の独創性と創造力・・・・183
創造力の源泉を探る/研究環境と創造力/個人的資質としての創造力/定説を疑う独創性/闘う独創/攻撃的な研究姿勢と特許/先見性と素早い対応/西澤の研究のまとめ/西澤に対する評価/華やかさと愚直一徹/外野席からの評価/エレクトロニクス界での一つの評価基準
8章峻厳で強靭な異色の学者・・・・215
真面目で不器用な性格/とことん考えるということ/西澤研での研修会/研究に対する姿勢/指導者としての西澤/研究観/合理精神について/恩師渡辺寧教授/コーディネータとしての渡辺寧の存在/西澤研究室ですごした人びと/峻厳で強靭な異色の学者/段誉褒距の激しさについて
エピローグ・・・・・255
あとがき……261
参考文献……267
参考文献
『独創』西澤潤一編(半導体研究振興会一九八一年)
『続独創』西澤潤一編(半導体研究振興会一九八六年)
『十年先を読む』発想法西澤潤一(講談社一九八五年)
『科学時代の発想法』西澤潤一(講談社一九八五年)
『独創は闘いにあり』西澤潤一(プレジデント社一九八六年)
『西澤潤一の独創開発論』西澤潤一(工業調査会一九八六年)
『技術大国・日本の未来を読む』西澤潤一(PHP研究所一九八九年)
NHK人間大学・独創の系譜』西澤潤一(日本放送出版協会一九九二年)
『なぜ完全結晶を追求するのか』西澤潤一・餌取章男(三田出版会一九九六年)
『電子の世紀』林芳典(毎日新聞社一九六六年)
『西澤潤一・独創の系譜』日高敏(ダイヤモンド社一九八五年)
『愚直一徹 私の履歴書』西澤潤一(日本経済新聞社一九八五年)
『電子立国日本を育てた男』松尾博志(文芸春秋社一九九二年)
『日本の半導体開発』西澤潤一・大内淳義共編(工業調査会一九九三年)
『トランジスタ開発物語』中野朝安(東京電機大学出版局一九九三年)
『光ファイバー通信』大越孝敬(岩波新書一九九三年)
『技術開発の昭和史』森谷正規(朝日文庫一九九五年)
「電子立国日本の自叙伝」相田洋一(ライブラリー日本放送出版協会一九九六年)
「チップに賭けた男たち」ボブ・ジョンストン一安原和見訳、講談杜一九九八年
『半導体産業の系譜』谷光太郎(日刊工業新聞社一九九九年)
『東北大学五〇年史』一東北大学一九五七年)
「新版.電気の技術史」山崎俊雄、木本忠昭共著一オーム社一九九二年
「年代別科学技術史一第3版一 城坂俊吉 再刊工業新聞社一九九〇年
「エレクトロニクスの開拓者たち」水島宜彦 電子通信学会編一九八一年
「日本の物理史上・下」日本物理学会編 東海大学出版会一九八七年
『エレクトロニクス発展のあゆみ』(東海大学出版会一九九八年)
『半導体装置』西澤潤一(近代科学社 一九六一年)
「光ファイバーの基礎」大越孝敬、岡本膳就、保立和夫 オーム社 一九七七年
『オプトエレクトロニクス』西澤潤一(共立出版一九七七年)
「光ファイバー通信入門 改定3版」末松安晴、伊賀健一 オーム社 一九八九年
『半導体工学の基礎』清水潤治(コロナ祉一九九四年)
「オプトエレクトロニクス入門」後藤顕也 オーム社 一九九六年
SIデバイス』村岡公裕・龍田正隆(オーム社 一九九五年)
『半導体のおはなし』西澤潤一(日本規格協会 一九九六年)
「日本のエレクトロニクス」水島宜彦(『エレクトロニクス50年史と21世紀への展
望』日経マグロウヒル社一九八O)
「静電誘導トランジスタの開発」西澤潤一(『エレクトロニクス・イノベージョンズ』
日経マグロウヒル社一九八一年)
「冷遇半生からの大逆転」『週刊朝日』一九八五年一月十八日号
「杜の都にノーベル賞の花嵐」(AERA』一九八八年十一月号 朝日新聞社)
「高輝度青色発光ダイオードの開発」(『日経エレクトロニクス』日経マグロウヒル社
一九九五年)
「八木秀次先生とアンテナの発明」(『電気学会誌』一九九九年、

○攻撃的な研究姿勢と特許
西澤による特許は、出願が一、一一五件(うち外国三七二件)、確定したものが六四三件(うち外国二五〇件)という、他ではみられない件数である。西澤の特許は防御型でなく攻撃型が多いという。「防御型」というのは、一般的には研究成果が確定した段階で、その権益を守るため特許出願するのに対し、「攻撃型」はアイデアの段階で出願し、研究成果に先手を打って、プライオリティを確保しようとするやり方だ。また、特許の使用料についても、きっちりと請求する姿勢である。このような特許に対する考え方は、日本の社会ではあまりなかったことで、当然、衝突や摩擦を引き起こし、その波紋が広がることになる。
先見性やひらめきを大事にし、その結果生まれるアイデアをいち早く特許で押さえ、後から実験で探究していくという研究方法であった。しかし、このようなやり方は、日本では異端視され、反発を招いたのである。

○光ファイバーの開発はじまる。
川上にガラスファイバー研究に専念させることにして、ガラスファイバーの屈折率分布の理論解析と計算をやってもらった。川上の解析では、屈折率分布は放物線形とすれば最もよく、ファイバー周辺からの光の損失は、ファイバーの径、屈折率分布で十分小さくできることがわかった。その結果を一九六五年十二月、米国の学会誌Proceeding of IEEEに発表した。カオらの論文はその翌年、一九六六年二月、英国の論文誌に発表された。これもタッチの差であった。
当時ペル所の伝送研究部長だったジョン・ピアースが仙台にやってきた。当時、ベル研では前述したように、ガスレンズ方式で光導波路の研究をやっていたが、ガラスファイバーについては着手していなかった。ピアースは、米国の『電気電子学会誌』に載った、西澤らのガラスファイバーの論文に注目し、わざわざ仙台まで西澤に会いにきたのである。ジョン・ピアースといえば、バーディンとブラッテンが点接触型固体増幅器を発明したとき、それにトランジスタ(transister)という名称を与えたことで有名であったし、戦後、ベル研でシャノンらとPCM(パルス符号変調方式)の理論解析に貢献、その後も衛星中継を実現した中心人物で、エレクトロニクスの大先達であった。ピアースは西澤の話を聞いて帰国すると、米コーニング・グラス・ワークス社にガラスファイバーの話を持ち込み、光ファイバー開発の体制をとったのである。川上・西澤の論文が米国の学会誌に発表された二ヵ月後、カオとホツカムの論文が英国の学会誌にでている。ピアースはこの二つの論文を読んだあと、グラスファイバーの開発に入ったと考えられるが、前後して、直接、西澤に会って話を聞いたのである。その後、前述したように、光ファイバーの開発は急速に進展するのであった。


○光グラスファイバー特許紛争
ところで、西澤のグラスファイバー特許は、その後、特許庁との間で紛争となり、最初の出願から二〇年経った一九八四(昭和五九)年十一月十二日、ついに特許権出願の存続が期限切れとなり、西澤の特許は未成立となった。なぜ揉めたのか、グラスファイバー特許紛争の経緯を振り返ってみる。
一九六四年、西澤は@光伝送路の中心部(コア)と周辺部(クラッド)で屈折率が急激に変わるステップ・インデックス(階段状屈折率変化)グラスファイバーAコア部分でも屈折率が連続的に変化する集束型(グレーテッド・インデイクス)グラスファイバー、の二つを光導波路として特許出願した。ところが、ステップ型については、一九五三年医療用として、すでに米国で特許が出てることが分かり、改めてグレーテッド型を分離して出願した。この間「書式が整っていない」「明細が不備」などの理由で、再三書き直しで戻され、このようなことを数回繰り返した後、七年後の一九七一(昭和四六)年になって、ようやく特許が公告された。特許の要旨は「屈折率の違う透明固体材料から成り、屈折率分布が連続的に変化するのが特徴」という内容であった。特許が公告されると、光ファイバーを研究していた日本のメーカーから、「外国の文献などにすでに記載済み」との理由で、異議申し立てがなされた。
このような状態では特許の成立が遅れると考えた西澤は、「透明固体材料」という表現からガラスだけを取り出して、改めて特許出願した。
これに対して特許庁は「出願には透明固体材料として、ガラスを用いるとは書いてはおらず、発明の一部を分割したものとは認められないLとして却下する。つまり、ガラスという表現がないのに、それを分離するとは何か、ないものはないのではないかということで、拒否しだということになる。
西澤は、これを不服として審判請求したが、一九八一年、その主張は認められないとの審決が下された。そこで今度は高裁へ提訴。ここでは「透明固体材料にはガラスを含めるのが相当。特許庁の審決を取り消す」として、一九八三(昭和五八)年十月、原審差戻しとなった。特許庁の却下理由が妥当でないという判断であった。
そこで西澤は改めて出願する。しかし、特許庁は「この分割出願は、最初の分割出願の発明に含まれる透明ガラスを明記したものに過ぎず、分割は不適法」としてふたたび拒否するのであった。ガラスは透明固体材料に含まれているのに、分割する必要がない。つまり、手続きが間違って、いるので受け付けられないとされたのである。

西澤側は「最初はガラスは透明固体材料に含まれないと言っておきながら、今度は手のひらを返したように“ガラスは透明固体材料に含まれるから分割は認めない。という。一八O度逆転した論法だ」と批判したものの、期限切れではどうしようもない。問題は、特許庁がいったん公告したものを「異議申立て」を境に、一転して拒否の態度に変わった点である。高裁で「透明固体材料にガラスが含まれる」と審決されると、今度は手続き上の不備を理由に拒否した。
「異議申立てをしたメーカー」とは日本板硝子と日本電気で、「すでに外国の文献にある」とは、前述したカオの論文であった。カオの論文は、西澤の特許出願の一年三か月後のことで、川上、西澤の理論解析と計算の論文がでた二か月後である。この異議申立てが無効であることは、調べればすぐに判ることであった。それにしても何を勘違いしたのであろうか。日本板硝子と日本電気は、一九六八(昭和四三)年十一月二〇日、「集束性光伝送体」(製品名、セルフオックス・ファイバー)を開発したと報道発表した。西澤は驚いた。西澤が考案した集束型グラスファイバーと全く同じ内容であったからだ。しかも、その製法特許は、繊維部門で認められたという。ファイバーは繊維であるというわけだ。

○特許不成立のなぞ
西澤によれば、当初拒否された理由の一つは、出願理由での「不均一な光学材料」(筆者注「透明固体材料」と思われる)という表現にあったのではないか、としている。それは「ガラスという本来は均一な素材を、意図的に不均一な屈折率を含む状態につくり上げた」としたこと、また「将来、プラスチックなど不均一な材料も光学的に利用できる」との見通しを付け加えていたからであった。特許庁は、ガラスは本来光学的に均一な材料ではないか、という解釈であったという。この点について日経の記事では、「西澤先生のオリジナリティーは認めるが、最初からガラスと特定していなかった点が弱かったのではないか」と、ある国内の光ファイバー研究者のコメントを伝えている。ガラスだけでなくプラスチックなども含めるとして、将来のことも考えた「透明固体材料」という苦心の表現が、逆に裏目に出たと言えなくもない。その時、イギリスの学者が「新しいことは日本や米国で発表してもダメだ。今度は英国で発表しなさい」といってくれたと、西澤は日経新聞の『私の履歴書』で書いている。
さて、西澤は研究室での基礎データ、つまりガリウムひ素の完全結晶をつくるときの、蒸気圧のかけ方のデータを発表した。住友電工では、オーバープレッシャーという方法で、ガリウムひ素の結晶を作っていたが、西澤が発表したデータをみて、結晶のつくり方を修正した結果、きわめて効率のよい明るいGaAlAs赤色発光ダイオードができたのである。
反論していた人々もこれを見せると黙ってしまったという。住友電工の高品位ガリウムひ素の単結晶は、現在、世界市場の九五パーセントを制するまでになった。いま、アメリカが最も注目している日本の技術といわれている。

○発光ダイオードの開発
電子機器類の表示灯は、かつての豆ランプやパイロットランプに替わって、いまや発光ダイオードが使われるようになった。

スタンレー電気は米国からウエハーを輸入して、GaAsP赤色発光ダイオードを生産していたが、うまくいかず、業績不振が続いていた。そこで、スタンレー電気は西澤に指導を求めた。西澤の助言があって、スタンレー電気は新技術開発事業団から、発光ダイオードの開発を任されることになった。スタンレー電気は、西澤の考案した蒸気圧制御温度差液相成長法による発光ダイオードの開発に、社運をかけて取り組んだのである。

○高輝度青色発光ダイオードの出現
ところが、画期的な高輝度青色発光ダイオードが現れたのだ。日本のしかも地方にある小さなメーカーによって独自に開発された。この話に触れておこう。一九九三年、徳島県の日亜化学工業がガリウム窒素(GaN)の結晶で、一カンデラという従来のほぼ百倍に近い明るさの、高輝度青色発光ダイオードの開発に成功した。寿命も数万時間と長く、一九九四年からは量産体制に入ったという。青色発光ダイオード用の化合物半導体としては、窒化ガリウム(GaN)が最も有力とされていたがGaNP型をつくることが難しく、発光効率のよいPn接合ができなかった。日亜化学工業の中村修二技師は、これに挑戦、まず特殊な方法を開発してP型のガリウムの薄膜をつくり一窒素ガスの中で熱処理してGaNPn接合を作製、これをInGaN/GaNダブルヘテロ構造にすることで、高輝度青色発光ダイオードの開発に成功した。日亜化学工業が、ここまでこぎ着けるまでには、研究一筋で頑迷な中村修二という人物と、それを支持した日亜化学工業の会長の存在があったからである。中村は大手企業と同じことをやっても勝つ見込みはないとして、人のやらない最も難しいとされていたGaNを対象に、高輝度青色発光ダイオードの研究開発に入った。できないと思われていたことに挑戦し、常識を覆したのである。世界でも初めてであった。日亜化学の中村修二は、開発に成功した高輝度青色発光ダイオードの発表前に、西澤を訪れている。そのとき西澤は、中村のチャレンジ精神を讃え、色紙とともに博士号の贈呈を考えたが、中村はちょうど母校の徳島大学に博士号を申請中ということで、実現しなかったエピソードがあった。中村は高輝度青色発光ダイオードの開発で、一九九六年度の仁科記念賞を受賞した。

感想;具体的な事例をもとに詳細に西澤先生の足跡をたどり、研究開発における創造、独走とはなにかについて、詳述した、すばらしい本でした。