100のお題・066. 薄氷 (別設定の千と千尋の神隠しより)

 

別設定のお遊び話・第2部恋人編

 

10・薄氷

 

それは静かに始まった。

 

バキィッ

人里近い森の奥。

放置されて久しい鳥居が根元から折れる。

その奥に祭られていた荒れ果てた社も同様に。

人の手になりまるで

惨めに打ち捨てられた廃棄物のごとく

地に倒れ伏したかつての

神の住処は端から少しずつ

さらさらと砂となって

風の中に舞い散っていく。

そうして、形ばかり残っていた

祀りの痕跡は

跡形もなく消え去ったのだ。

 

ピシィィンッ

時を同じくして

しんと静まり返った真夜中過ぎ

とあるマンションの一角に

硬質な音が響き渡る。

まるで、凍てついた何かが割れたような

キィンと耳障りな音は

しかし中に住む幾多の人間たちの

眠りを妨げることなく

暗黒の曇天からちらちらと

灰のごとく細かい雪が舞い散る中

くるくると舞い踊る氷点下の風の中に

そのまま静かに吸い込まれていった。

 

ゴォッ

秋津島の中心にひっそりと佇む

世界最高の精度を誇る地震計が

一瞬の異変を刻む。

その瞬間、とある山の中腹で

小さながけ崩れが起きた。

表層のいくつかの木をなぎ倒し、

岩を抉ったその跡は、

山道から離れていたこともあって

ニュースになるほどではなく。

しかして、あっさりと見過ごされた

転がり落ちた大岩の

その跡には小さな亀裂が

地下深くに向って広がっていったのだ。

 

数時間の後・・・

 

ボコッ

人里近いとある山すその

荒れ果てた昼なお暗い森の中。

そこだけぽっかりとスポットライトが

当たった様に日に照らされた

小さなくぼ地の真ん中に

地下深くから一筋の流れが湧き上がる。

ボコりと湧き上がる泡のような一滴。

端から地面に吸い込まれていく

ほんの僅かな湧水は

少しずつ少しずつ凍った地面を融かしては

小さな水溜りを広げていって。

いつしか、くぼ地全体に広がった水には

地下深くから湧き上がる清水を守るかのように

うっすらと薄氷の膜がはられていった。

 

 

とある山の裾野から続く一筋の流れ。

コンクリートで覆われ

人の手に塗れたその流れの

あちらこちらで起きている異変は、

秋津島の人間の

誰一人として気付かないまま

こうして静かに進んでいったのだ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・

 

 

凍てつく空気が肺の奥にまで入り込み、

千尋は軽く咳き込んだ。

「やあね。かぜ?」

母の非難めいた声に応えようにも

急には咳が止まらなくて、

千尋は慌てて口と鼻をマフラーで覆い

深く深呼吸する。

「違うよ〜。急に温度が違うとこにきたから。」

マフラーの下からのくぐもった声に

母は安心したように頷くとタクシーから

身を乗りだすようにしながら

矢継ぎ早に注意を与えた。

そんなキンキン声をそわそわと

聞き流すと千尋は母を促す。

「分かってるってば。帰りはちゃんとタクシー頼むし

勝手に町をぶらついたりしないよ。

第一、地理もよく分かってないんだから。」

「ホテルの住所はちゃんと持っているわね?」

「うん。」

ニューヨークからこの国の首都まで

列車で2時間半。

ちょうど千尋の希望もあり

父親の仕事ついでの2泊3日の小旅行は

しかし現地での行動は好きにしなさい

というのが、母らしくて。

「じゃあ私、明夫さんと合流するから。

何かあったら携帯に電話頂戴ね。」

「分かったってば。早く行かないと時間に遅れるよ。」

呆れたような声を出す娘に

顔を顰めると、母親はようやく

運転手に行くように指示を出した。

去っていく車を瞬き一つ分見送った千尋は

くるりと向きを変えると、大きな建物を見上げる。

この広大な国の首都にある

広大な博物館群のひとつ。

母親にとっては全く興味のないこの建物は

千尋が日本にいたときから

どうしても来たかった場所なのだ。

ネイティブアメリカン、いわゆるインディアン文化を

紹介しているミュージアムは平日であっても

けっこうな賑わいを見せていて

千尋は温かい空気につと肩の力を抜くと

もらったパンフレットをながめる。

といっても、英語で書かれているそれを

すらすらと読解するほどの

力などもちろん無く、けれど

電子辞書を開くものもどかしくて

とりあえず片端から見ていこうと

千尋はゆっくりと足を進めていった。

そうして・・・

とある展示コーナーで千尋はふと後ろを振り返る。

馴染ある懐かしい気配に、しかし

見回してもあたりは見知らぬ顔ばかりで

千尋は小首を傾げると展示品のほうに向き直った。

「日本人の女の子なんて

そんなに珍しくもないと思うけどな。」

気にはなったものの小さく肩を竦めると

千尋は再び目の前のものに集中しだす。

「平原のインディアンと森のインディアン、ねえ。

インディアンといってもいろいろなのね。」

部族ごとの生活様式の違いを誇示するように

様々な品物を展示してあるそこは

彼らの持つ確かな世界観が

鑑みられて千尋は熱心に眺める。

自然と共に生き自然と共に死んでいった彼ら。

「でも・・・」

万物を敬い、生と死のバランスを

知っていた素朴な生き方は

しかし、秋津島同様すでに失われて久しくて。

そう、まさに博物館でしか

見ることができないのだと。

千尋は静かにため息を吐く。

急いて張り切っていた気持ちが

急速に萎んでいって。

そうして、

自分が本当にしたかったのは

失われた文化をたどる事など

ではなかったことにようやく気付いたのだ。

「なんだ。結局同じことしてる。」

去年の夏、神隠しに遭いかけたあの時と同じく。

はくが生きることの出来る場所。

人間が精霊たちと手を携えて

生きていくことの出来る場所。

本当に探していたのは

そんな場所の存在なのだ、と。

「ばっかみたい。はるばるこんなところまで。

いくらなんでも、日本のカミサマのはくが

こっちに来れるはずなんてないのに。」

くすくす笑いながら千尋は胸を押さえる。

「自分で自分の本当の気持ちに気付かないなんて。」

諦めが悪いのか愚かなのか。

欲しいのは

はくが本来の姿で生きていくことの

出来る場所なのだ、と。

 

こんなにも囚われている・・・

ああ、はく、わたし・・・

 

千尋は目を上げるとどこかぼんやりと

目の前の展示物を見つめる。

と、今の今まで気付かなかった

見覚えのある顔の木像にはっとする。

その瞬間。

 

『千尋。』

「え?」

『千尋、そこで何をしているの?』

「え?ぜ、銭婆お婆ちゃん?」

『急いで・・・手遅れになる前に。』

 

次の瞬間稲妻のような光が走り、

夢から覚めたように目を瞬かせた千尋は

いつの間にか元の工芸品に

変わってしまった木像をまじまじと見つめる。

夢というには脈絡がなく生々しすぎて。

「・・・銭婆お婆ちゃん?急げって、いったい・・・」

まさか・・・

伝えられたメッセージに訳がわからぬまま

急に焦燥感が募ってきて

千尋は身を翻すと出口に向って駆け出した。

「きゃあ。」

と、周囲の人ごみを縫うように走っていた千尋は、

すれ違いざまにいきなりガクンと

腕をひかれたたらを踏んだ。

キッと上げた視線の先にいたのは、

千尋とそう変わらない年頃の女性で

肩から提げた布に包まれた赤ん坊を大切そうに

抱えながら千尋をじっと見つめている。

黒い髪に黒い瞳。

しかし彫の深い顔立ちは顕かに

日本人とは違っていて

まさに、先程の展示コーナーの人形の中から

抜け出てきたような少女で。

あっけに取られ固まっていた千尋は、

目の前の布がもぞっと動いたことで

呪縛が解かれたようにはっとすると

戸惑いながらもおずおずと声をだした。

「Excuse me?」

『偉大なるガーディアンスピリットを宿した御方。

どうか、この子のために祈りを。』

「え?」

『人間が破壊した調和を正さんと

神の怒りが我らに注がれます。』

『どうか、祈ってください。』

「あ、あの?」

ネイティブ・アメリカンの面影を受け継いだ

幼子を抱いた母親が何事か訴えかけてくる

言葉はうまく聞き取れなかったけれど

『プレイ』という単語だけははっきりと分かって。

プレイ・・・pray?・・・祈り?

そうして、まるで崇めているかのように

深い礼を取ったインディアンの母親は、

そのままゆっくりと

自分たちのルーツが展示されている

ブースの方に入っていってしまい、

千尋は呆然とその後姿を見送った。

 

ホテルの部屋のソファに腰を下ろし、

千尋は一点を見つめる。

『ガーディアンスピリット・・・プレイ・・・』

・・・守護神に祈りを?・・・

・・・はくの・・・こと?・・・

『・・・手遅れになる前に。』

そういえば、はく春まで会えなくなるって・・・

やらなくてはいけないことがあるって・・・

『・・・手遅れに・・・』

「帰らなきゃ。」

衝動的に立ち上がった千尋は、

周囲を見回しはっとすると

ホテルの窓を覆う薄氷を見つめながら

もう一度腰を下ろす。

「・・・帰らなくちゃ・・・」

千尋は唇をかみ締める。

「・・・お父さん、お母さん・・・」

・・・たぶん・・・もう・・・

・・・それでも・・・

千尋は強く瞼を閉じる。

そうして、次に開いたその瞳には

一つところを見つめる強い光が宿っていた。

 

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久しぶりの別設定です。

世話の焼ける恋人を持つと苦労するね千尋さん、って感じで。