20002HIT記念リクエスト小説(ふく様リクエストによる)

 

挽歌

前編

 

その出会いは、偶然に過ぎなかった。

出会った者にとってはある意味幸運で、

しかしその相手を溺愛している龍にとっては

不幸なという形容詞をつけたくなるほど偶然の出会い。

 

春という季節はわけもなく気持ちが高揚し

些細なことでも笑いたくなる不思議な力を持っている。

神に守られた森の中のありとあらゆる命が、

厳しい冬の寒さをくぐりぬけることができた

喜びに満ち溢れ、光輝いていて。

千尋はどの季節の森も大好きなのだが、

やはり春という季節は特別だと毎年思うのだ。

そんな喜びに満ちた森の中を

一人そぞろ歩くのは千尋にとって至福の時間の一つである。

千尋に関しては神経質なほど心配性のこの森の主は

最初こそ眷族もつけずに千尋を一人出歩かせるなど

決して許さなかったのだが、

神々の世界に身をおいて数十年を経た今では

森の中限定ではあるのだが、たまにはこうして一人で

そぞろ歩きを楽しむことも許してくれるようになっている。

まあ、標道を行く霊霊に対するに、千尋自身が

あまり係わり合いにならないほうがその霊霊のためになる

ということを身をもって実感してきた経験から

はくの気をもませ苛立たせるような出来事が

なくなってきた、ということもあるだろうし、

琥珀主自身も経験値をつみ、千尋を傷つけ汚すような存在を

森に近寄らせない自信があるということの顕れなのかもしれない。

なので、その出会いが結果的に千尋を嘆き悲しませたことに

後に琥珀主自身、忸怩(じくじ)たる思いがしたものだ。

 

千尋お気に入りの森の花畑に行くには一箇所

どうしても標道を横切らなくてはならない場所がある。

そこを通るときには、まるで幼児が横断歩道を渡るように

右見て左見て右を見て、霊霊がいないことを

何度も確認してから素早く通り過ぎることに

している千尋だったのだが、視界にそれが

入った瞬間、思わず標道に駆け込んだのだ。

春浅い標の森の芽吹いたばかりの山ボウシの

木の下、蹲っていた白い塊。

ぐったりと倒れ付している子犬を、千尋はそっとその手に抱き上げる。

千尋の手の中で弱弱しく震えているその生き物は

今にも命の火が燃え尽きそうで、千尋は慌てて回れ右をすると

館に向かって駆け出す。

標道を通るのは霊霊のみ。

そんな教えをすっかり忘れさった千尋は、

腕の中の哀れな存在しか考えられず、

こんなとき何より頼りになるはずの夫のもとへと急いだのだ。

「ああ、かわいそうに。まっていて、すぐに手当てしてあげるから。」

千尋は暖かい光に満ちるリビングのラグマットの上に

柔らかいタオルを重ね、そっと子犬を置く。

「ちー様、それは?」

「ああ由良ちゃん、すぐに傷を洗ってあげてくれる?

わたし、急いではくを呼んでくるから。」

「あ、ちー様。」

止めるまもなく部屋を飛び出した千尋に

小さくため息をつくと、由良は、子犬に向かい合う。

「主様がお見えになる前に本当のお姿になっておいたほうが

ご自分のためですよ。主様は姫君を騙す様なものを

如何なる訳があってもお許しになる方ではありませんから。」

その言葉に子犬は大儀そうに顔を傾けると耳をぴくぴく動かす。

そうして、小さく細い前足をピンと伸ばすと

見る間に人間で言うと7,8歳位の童子に転変したのだ。

「ああ、お動きになるには及びません。そのまま横になっていらしてください。」

童子は、そのまま床に手を付くと崩れるように体を横たえる。

かつては、かなりの上等の品だったらしいぼろぼろの水干は

纏うというよりも体に引っかかっているような状態で、

しかもその体も、服と同じく薄汚れ、あちこちに傷もあって

かなり衰弱しているのは、間違いないようだ。

まだ、先ほどまで取っていたぼろ屑のような子犬の姿のほうが

ここまで哀れで痛ましい感じを与えなかったであろう。

由良は眉を顰めると、慌ててぬるま湯を張った桶と布を持ってくる。

「玉。なにか、代わりに着るものを持ってきて。

この様子をご覧になったら、ちー様が動揺されてしまうよ。

僕はできるだけ手当てをするから。」

「了解。」

由良は、そっと水干を脱がせると、湿した布で体を拭う。

「苦しいですか?」

何か言いたげで、しかし、衰弱のあまり言葉にすることもできないのか

半開きの口は小さく動くだけで、声にはならなくて。

体を拭い終わると、あちこちにできている傷はそのままに

玉が持ってきた小袖をそっと羽織らせる。

「この傷は、魔法の傷ですね。僕では手に負えません。」

「魔法?」

「うん。ほら、わき腹のとこ。」

「・・・ああ、ほんとだ。闇の匂いがひどい。

ちー様が近寄られること、主様、お許しになるかな。」

「今更、遅いよ。ここまで抱いてこられたのはちー様ご自身だし。」

「まあ、そうだけど・・・あんた、水飲めるか?」

玉は童子を抱き起こすと、そっとカップを口に当てる。

ようよう一口の水を飲み下した童子を再び横にならせた時

千尋が龍神を伴って部屋に戻ってきた。

「え?」

千尋は子犬だったはずの童子を見て固まる。

それを、やれやれといった様子で見やると

龍神はゆっくりと童子に近寄り、膝をついた。

「玉、千尋を向こうに。」

「はい。」

「え?やだ、はく。わたしも何かお手伝いします。」

「だめ。」

「ちー様、どうかこちらへ。」

玉に手を取られた千尋は、小さくかぶりを振る。

「はく?どうして?」

泣きそうな千尋に琥珀主は

振り返ると困ったように眉を寄せる。

「千尋。」

「お願い、はく。」

千尋はすでに、その腕の中に、その童子を抱いている。

袖擦りあう程度の縁であっても、情を寄せてしまう性格は

カオナシの件をはじめ嫌というほどわかってはいることなのだ。

心配げに童子を見つめたまま動こうとしない千尋に

琥珀主は仕方が無いというように小さくため息をつく。

「ならば、千尋。玉と共に龍穴の水を汲んできておくれ。」

「・・・泉のお水を?」

「急いで。」

森の主は玉に頷くと、千尋を連れて行くように促す。

「・・・ぅん。待っていて。」

玉に手を引かれ、千尋が振り返りがちに部屋を出て行くと

森の主は童子に厳しい視線を向けた。

「名を。」

童子はほんのわずか顔を上げると小さく横に傾ける。

その様子に、琥珀主は、手をかざすと、額に向ける。

2、3瞬後、額に当てられた手のひらが光を失うと同時に

童子は、その瞳を閉じぐったりと気を失った。

琥珀主は眉を寄せて倒れている童子を見つめる。

「由良。」

「はい。」

「白神姫様に至急の使いを飛ばせ。」

下命を待っている木霊を振り返ると森の主は続ける。

「迷い子をお返し申し上げると。」

「御意。」

由良が命を果たすべく部屋を出て行くと琥珀主は

童子を抱き上げ、客間の褥に横たわらせる。

「間に合えばいいが・・・」

低い呟きにこもる憂いは、童子を思ってのことではなかった。

 

・・・・・・・・・・・

「はく、持ってきたわ。」

「ああ、ありがとう。」

千尋は小瓶につめた泉の水を琥珀主に渡すと

心配げに小さな子どもを覗き込む。

「千尋。」

「・・あ。ごめんなさい。邪魔にならないようにするから。」

そう言うと、ぐるりと回ってベッドの反対側に移動し、

先ほどと同じように童子を覗き込んだ。

龍神は小さくため息を吐くともう一度妻の名を呼ぶ。

「千尋。」

「千尋、こちらを見て。」

童子を挟んで向き合うように立っている夫の怖いような

真剣な声に千尋はびっくりして目を上げる。

「ここへ、おいで。」

「どうしたの、はく?」

いつまでも治療を始めようとしないことを訝しがりながら、

それでも、素直にもう一度ベッドの縁を回って夫の傍に行く。

と、琥珀主は戸惑っている小さな体をぎゅっと抱きしめ

その柔らかい髪に顎を埋めるようにして唐突に囁いた。

「千尋、この子はもう助からない。」

「え?」

いきなりの言葉に頭をあげ呆然と見上げてくる

千尋を離さないまま静かな口調で続ける。

「元々は、白神姫様の眷属であった山犬の末らしいのだが・・・」

「白神姫様の?で、でもこんなに小さいのに

そんな遠くからどうやって来たの?」

「ああ、見かけほど幼くはないのだ。

それに、地の御方の守護地からではなく、

狭間の向こうからきたのだと思う。

この呪いは湯婆婆のものだ。」

琥珀主の言葉に千尋はぱっと体を離す。

「あのときのはくと同じ?じゃ、じゃあ、

翁様にニガダンゴをいただけば。

ねえ翁様にお願いしましょうよ。ね?はく。」

「千尋・・・」

「翁様にお使いを遣わす?あ、わたしが直接お願いに行ってもいいし。」

「千尋・・・」

琥珀主はふっと小さく息を吐くと腕の中の妻を

部屋の中央に敷いたラグの上にそっと座らせた。

そうして、千尋に真向かうように膝を付き、

潤んだ瞳で訴えるように見上げてくる千尋の頬を

両手で包み込むとそっと額に唇を落とす。

そうして、静かに言い聞かせるかのような口調で話し始めた。

「・・・千尋、そなたが翁様にしてさし上げたことは、

決して軽い事ではないのだよ。

上位神たる御方が帯びた穢れを祓うなど、

油屋の力だけでは出来なかっただろう。

そなたのしたことは、いわば神の甦り(よみがえり)。

あのときのニガダンゴは、それに対して下されたご褒美なのだ。」

翁様がそなたに肩入れするのは、それなりの訳があるのだから。

そうして、ふいに目をそらすと、半ば独り言めいた呟きをもらす。

「神とは人の願いに対して見返りを要求する存在。

あの計算高いお方へ、そなたがこのもののために

ニガダンゴを願うなど認めることはできないよ。」

少なくとも、甦りと同等の見返りを要求されるだろう。

「それに・・・」

琥珀主は千尋に視線を戻す。

「それに、もう手遅れだ。契約を交わしていながら

こちらに戻ってくるなど・・・。狭間の理を覆したものを

助ける事など、たとえ上位神であってもできはしない。」

呆然と夫の話を聞いている千尋の顔を見ながら琥珀主は唇を引き結ぶ。

「・・・・・・・・」

「すまない、千尋。」

琥珀主の苦しそうな表情(かお)に、千尋ははっと目を見開いた。

「・・・はく・・・ごめんなさい。」

千尋は項垂れながら、まるで夫の真似をするかのように唇をかむ。

「考えなしのことを言ってしまって、ごめんなさい。」

「いや、そなたが謝ることなど何もないのだよ。」

琥珀主は華奢な肩を抱き寄せる。

慰めるかのような暖かい胸の中。

千尋は、己の無意識の傲慢さを自覚し悔やむ。

たとえ神であっても、出来る事と出来ないことがあるのだ、と。

命を助けるということは、自身の存在をかけるほどの覚悟が必要なのだと。

そんなことさえ、分からずに、森の龍神に守られ

慈しまれているうちに自身の無力ささえ忘れ去っていて。

「わたしが、この子のためにしてあげられることは、何もないのね。」

胸に顔を埋め、小さくかみ締めるように呟く千尋に琥珀主は首を振った。

「いや、そなたはすでに充分のことをしているよ。」

「え?」

「ここに連れて来たのだから。」

「わたしには、呪いを消すことはできないけれど、

体に帯びた傷の手当てくらいはできる。それに、

もしかしたら、辞世の望みを叶えることも、ね。」

さあ、そなたも、手伝っておくれ。

琥珀主は愛しい娘をそっと放す。

「・・・はく、ありがとう。」

そして、ごめんなさい。

夫と童子双方に向けた謝罪に、もう一度柔らかな頬に

手を当てると、琥珀主は、ふっきるように立ち上がる。

そうして、徐に小瓶の水を口に含むと童子の小袖を肌蹴け

わき腹に負っていた傷に向かって龍穴の水を吹き付けた。

「千尋、肩を支えて。」

「はい。」

僅かに意識が戻ったのか、小さな唸り声を上げる童子の

上半身を支えながら琥珀主は右手を当てて何事か呟く。と、

ぱっくりと抉れるように開いていた傷は見る間にふさがって。

「わっ、すごい。」

千尋の感嘆の声を聞きながら、童子の

何かを訴えるがごとき瞳に琥珀主は、小さく頷く。

「運がよければ間に合う。すでに使いを遣わしたゆえ。

泉の力で数時間は持つはずだが、あとは、そなたの力と運次第だ。」

すでに覚悟はあるのだろう。童子は感謝するかのように

微かに頷くと再び瞳を閉じたのだった。

 

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