第4部龍王たちの伝説

第1章、降誕・・・過ぎるほどの

 

パタン

千尋は読んでいた小説を閉じると深く息を吐く。

千尋の庭の東の隅にある御園の東屋は

変形6角形のちょっと変わったつくりで

千尋がはくに嫁ぐ前からの愛読書であったとある

児童文学の挿絵に出てくるものとよく似ている。

今では奥の宮と呼ばれる館や庭のあちこちには

そんな千尋の無意識の憧れやら好みやらが

反映されていて、どこをとっても心楽しく、居心地良く

できていて、さながら乙女が描く夢の国といえるかもしれない。

最も、最近はその小さな夢の国のあちらこちらが

少しずつ様変わりしているのは、千尋自身が

大人になり(自分ながら今ごろ?と突っ込みたくなるが)

付け加えれば母になろうとしているためであろう。

千尋はたくさんのクッションに囲まれた体を

静かに起こすと、吐き気を堪えながら

小さなテーブルの上に置かれた

蜂蜜入りのハーブティーに手を伸ばす。

狭間の向こうの銭婆から届けられた特製ハーブブレンドは

近頃の千尋が飲める唯一の飲み物なのだ。

少しずつ食べ物の好みが変わり、どころか

食べられるものも減ってきた千尋は、これが

つわりというものなのかしら、と鬱々と考える。

気持ちの悪さをごまかすように、コクンと

一口飲むと、ミントとは違うどこかほろ甘くそれでいて爽快な

風味が口中に広がり、千尋はほっと息をついた。

『このハーブには心と体のバランスを取る効果があるし

体の毒素を中和させる働きがあるから、体が辛いときには

たくさん飲みなさい。できれば滋養になる菩提樹の蜂蜜を

入れると、体が温まります。一瓶あげるから、終わりそうに

なったら、また使いをよこしなさい。体を大事にね。』

はくに仕える4武闘神の一人が、つい先週届けてくれた

便りには、銭婆の千尋への気遣いがあふれていて、

ちょうど気分的にどうしようもなかった千尋は

思わず涙を浮かべたのだ。

「お会いしたいな・・・」

小さな呟きに傍らに控えていた由良が顔を上げる。

「主様にでございますか?」

ならば、お呼びいたしましょうか?

そんな由良に首を振ると、千尋はちょっと顔を顰める。

「はくは、お仕事中でしょう。そうでなくても

リーさんにお仕事が進まないって言われているもの。」

ちょうど、身籠って3ヶ月に入ろうというころ。

今まで、気のせい程度で治まっていた体の変調も

だんだんごまかしが効かなくなってきて

千尋は、ともすれば横になっている時間が増えている。

もっとも、横になっていたところで

気分の悪さがなくなるわけではなく、

起きているよりはマシと言う程度なのだが。

千尋の体調や気分に合わせ、一喜一憂しながら

おろおろしているこの森の主の最近の姿は

側近くに仕える僅かなものにしか知られていないが、

特に朝方の体調の悪さを心配して

千尋の側から離れたがらないはくを

やっと遊佐やゲイ・リーの元に追いやったばかりなのだ。

千尋はふと視線を落とす。

それに・・・

それに、はくじゃだめなの。

「ああ、銭婆お婆ちゃんにお会いしたい。」

千尋は、瞳を潤ませながら呟く。

でも・・・

千尋は夫に言われた約束を思い浮かべると

力なく首を振り、そのままクッションに顔を埋めてしまった。

 

 

・・・・・・・・・

 

森の主は久しぶりに感じる感覚に、全身を緊張させる。

自身の守護地に断り無く入ってこようとする強大な力。

しかも、これは・・・

無意識に跳ね除けようとする防衛本能が、しかし

馴染のあるにおいを嗅ぎつけると、琥珀主は

顔を顰めながら肩の力を抜いた。

 

『ハク龍。久しぶりだね。』

青いフリル付きのドレスに宝石で飾り立てた首や指。

巨大な頭には銀灰色の髪がきちんと

結い上げられ簪が挿されている。

突然、現れた異形の女に

一瞬、執務室の時が止まる。

この龍神の宮の、しかも主が執務中の部屋への

唐突な出現に、愕然とし、次の瞬間、身に帯びていた

剣を抜き放って侵入者の前に立ちはだかった

ゲイ・リーは、びりびりとしたこちらの世界のモノとは

全く異なる波動に歯を食いしばった。

「何者!」

ありえない事態に驚愕していた遊佐は、ゲイ・リーの

声にハッと心付くと呆然として呟いた。

「ぜ、銭婆殿?」

「銭婆?そなたが?狭間の向こうの魔女が

何ゆえの狼藉であるのか。」

厳しい眼差しで詰問するゲイ・リーには

ちらとも視線を向けず、魔女は森の主を

見やりながらゆっくりと目を細める。

「ゲイ・リー、控えよ。」

「は?」

「遊佐。」

「はい。」

「ゲイ・リーをつれて下がれ。」

「はい。」

何か言おうとしたゲイ・リーを視線で黙らせると

琥珀主は銭婆に向かい歩を進める。

緊迫する気を肌で感じながら

水妖の化身は憮然としている龍の眷属に頷くと

二人は主の命のとおりに部屋を出て行った。

 

「銭婆殿には唐突なご来訪、痛み入ります。」

『お黙りな。無駄口をたたきに来たわけではないよ。』

ぴしっと割れた空気に銭婆の怒りを感じ取り

森の主は内心の困惑を表さないまま

唯一の心当たりを口にした。

眷属のうち狭間の向こうに入り浸っているものが

なにか禁忌を犯したのか?と。

 

本体ではなく半透明の式の姿とはいえ、

異世界の存在である魔女が

こちらの世界に来るなど聞いたことも無く。

たとえ、それが世界を繋ぐトンネルを

抜けてすぐの標の森の内であろうと

狭間の理に無理を通すことなのだ。

もちろん、強大な魔力を持つ銭婆は

勝算のない無謀な、あるいは無駄骨な

企てなどするはずもなく、理をごまかす

何らかの手立てを講じてはいるのであろうが

いずれにせよ、よほどの理由が

あっての行動には違いない。

この沼の底の魔女が、

カァ・ウェンの失策程度のことで

まるで我を忘れたかのように

渡りもせずにこちらに来るなど

考えられないことではあるのだが。

僅かの時間に考えをめぐらせた琥珀主は

目の前の顔から目を離さず

次の言葉を待ち受けた。

銭婆は表情を表に表さない、かつての

妹の弟子に、ちっと舌打ちをすると一言で

その冷静さを突き崩す。

『千尋のことだよ。』

「千尋?」

「千尋がどうしたというのです。」

 

考えてみれば、呪いを破ってこちらに戻ってきた千尋に対し

仲たがいをしていた妹に協力を仰いでまで

合意魔法をかけたほどなのだ。

 

『闇に落ちるくらいなら、

その純な魂が

汚されるくらいなら

死んで輪廻にもどれ』

と。

 

いくら守るためとはいえ、この魔女の

千尋への執着も大概のものではない。

狭間の理を掻い潜ってまで来るなど

千尋に対し、今度は何をするつもりなのか。

 

冷静さを失うどころか一瞬でその本性を表すかのように

立ち上る炎のごとく激しいオーラを背負った琥珀主を

しかし、銭婆は頓着もせず睨み付ける。

『千尋を苦しめるのはおやめ。』

「何のことだ。」

『お前、本当に気づかないのかい。』

龍は愚かだがお前はその最たるものだね。

狭間の向こうの魔女はわざとらしく首を振りながら

呆れたように言うと、夕日のような色と煌きを

放つ指輪を帯びた人差し指を突きつける。

『心を鎮め千尋の気を感じてみな。』

出来の悪い弟子を諭すがごとき指摘に

増した怒りは、しかし次の瞬間、

驚きと困惑とそして焦燥に取って代わる。

「ち・・ひろ?泣いて・・・?」

そうしてこの森の主である龍神は、

あっという間も無く

愛妻の元に転移したのだ。

 

・・・・・・・・

「はく?」

「え?銭婆お婆ちゃん?」

クッションに顔を埋めるように泣きながら伏せっていた

千尋を、言葉もなく腕に抱き込むと、

しかし、胸の中からの千尋の呟きに

琥珀主は歯をかみ締め振り向く。

案の定、してやったりの顔をした魔女が、

すぐ側で千尋に暖かい眼差しを注いでいて。

そうして、琥珀主はこの魔女の狙いにやっと気づいたのだ。

 

「はくっ、はくっ、ありがとう。どうして

銭婆お婆ちゃんに会いたいことが分かったの?

わざわざつれて来てくれたのね。嬉しい。」

 

しかし、愛妻の、しおれていた花が水を与えられ

再び花開いたかのような笑顔に、何が言えようか。

千尋を囲った守りを突破するために守りを

与えた龍神自身を使うなど、しかもこの無礼を

咎めることなどできぬ状況に陥らせてしまうなど、

これだから魔女は油断がならないのだ。

 

「千尋に会いたいのならば

きちんと渡りをくだされば

すむことではありませんか。」

『あんた、それを握りつぶさなかったと言えるのかい?』

『大体、千尋を守るためといいながら外出も面会も

許さないなんて、束縛するのも大概におし。』

どこかの稲荷神がかつて言ったのと

同じような小言に琥珀主は憮然とする。

「だからといってこのような。」

『お黙りな。』

「はく?」

きょとんとしたような愛妻の呼びかけに龍神は

深く息を吐くと視線を下ろした。

そうして、涙のあとの残る頬をそっと人差し指でなぞる。

「千尋。そなたの望んでいることは

きちんと言葉にしておくれ。

黙って泣かれると辛いな。」

「うん。ごめんなさい。」

「言っただろう、すべてそなたを優先させると。」

「ん、でも・・・。」

お仕事の邪魔をしたくないし・・・

俯く千尋の髪に顎を埋めると琥珀主は嘆息する。

「何を言っているの。私の子を身の内に宿している

そなたのほうがずっと辛いだろうに。」

 

いくら体が成熟したからとて、

いくら龍穴の神気を注いだからとて、

いくら結界の守りを強くしたからとて、

異種間のしかも神の子を宿した体の負担は

かなりのもので。

ここ3,4週間の間に、千尋が自身で

思っている以上にやつれてしまっていて

むしろ黙って我慢している千尋を

見ているほうが辛く思ったりするのだ。

 

「銭婆にそんなに会いたかったの?」

コクンと頷いた愛妻はゆっくりと身を起こすと

銭婆に向き直る。そうして、

戸惑ったように夫を見上げた。

 

『ハク龍、案内ご苦労様。あんたは、仕事とやらにお戻りな。』

ここからは女同士の話さね。あんたは邪魔だよ。

 

千尋の気持ちを汲み取ったかのような銭婆を

琥珀主はギッと睨みつけるが、しかし

千尋自身が望んでいることを拒否できるわけも無く。

「席を外したほうがよいのならば向こうに行くけれど

何かあったら、今度こそ私を呼んでおくれ。」

「ん、ごめんなさい、心配をかけてしまって。

銭婆お婆ちゃんとお話ししたいの。だから・・・」

「わかったよ。」

琥珀主はそっと千尋の額に口付ける。

「銭婆殿、しばらく千尋を頼みます。」

『よいから、さっさとお行き。』

しっと追い払うかのような銭婆に眉を顰めた

森の主は、妻の懇願するかのような視線に

しぶしぶ席を外したのだ。

 

 

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あ〜、中途半端ですが長くなりすぎなのでとりあえず切ります。

余計な枝葉って書くのが楽しくてついつい書き連ねちゃうのよね。

いや、本当に書きたかったのは千尋と銭婆の会話なのに

その前振りが長くなりすぎだってば。

 

はく様へ

銭婆様が千尋に会うためにこんな小細工をしたのも

あんたのガードがめちゃくちゃ硬かったせいで、だから

銭婆にしてやられたのもあんたの自業自得さ。

千尋の不安を見逃していた事も合わせて、

己の未熟さを反省しなさい。

 

しかし、銭婆お婆ちゃんも千尋に関しては

気が気じゃないらしいですね。

わざわざ無理して訪ねてきてくれるなんて

よっぽど、はくのことが頼りないのか?

いや、たしかにニンシンっていうのは

男には分からない世界なのだけど、ね。

次回、ちーちゃんと銭婆様のお話です。(やっと)