第4部龍王たちの伝説

第1章、降誕・・・過ぎるほどの

2

 

「さあ、お座り。体が辛いのだろう。」

琥珀主がいなくなったとたん

泣くのを我慢しているかのように

眉尻を下げた千尋は

銭婆の労わる様な声にこくんと頷く。

促されるまま、さき程まで横たわっていた

クッションの上にそっと腰を下ろすと、

とたんに千尋は、顔を顰めながら

胃の辺りを押さえ、ぐっと息を飲み込むと、

立ったままの銭婆に困惑げな顔を向けた。

「お婆ちゃん・・・」

言いあぐねている千尋を静かに促す。

「話してご覧。心配事を胸にためておくと

碌なことにならないからね。」

そんな銭婆に、千尋はほっとしたように

息をつく。そうして、ここ最近

思いつめるほど悩んでいたことを

打ち明けたのだ。

 

「お婆ちゃん。わたし、ちゃんと

はくの赤ちゃん産めるのかしら?」

 

銭婆はそんな千尋をまるで何かを

探っているかのように黙って見つめる。

千尋は項垂れると、膝に置いた手を

ぐっと握り締め、途切れ途切れに続けた。

 

わたし、何にも・・知らなくて・・・

と・・・ても・・・怖い・・・の・・・・

 

「ふむ。」

銭婆は千尋のすぐ側に腰を下ろすと手首を

そっとつかむ。そうして、しばらくの間

目を伏せてじいっと首をかしげていた。

 

はらり

千尋の気に入りの東屋のすぐ真上から

満開の藤の花びらが一つ、小さく舞い散る。

と、晴れ晴れとした表情で千尋の顔に視線を戻した

銭婆に、千尋は、はっと顔をあげた。

「ふむ、順調なようだね。」

「ほんと?」

「脈も正常だし、あのハク龍の血を受けたわりには

力もうまく抑え込まれているよ。これなら・・・」

そういうと銭婆は千尋に微笑みかける。

「大丈夫。これならおそらく腹の子は

人の形を被って産まれてくることができるよ。」

「え?」

 

そう、龍の子は龍なのだ。

いくら比売神として立てられようと、

いくら守りを与えられようと、

しかし、本質が人である千尋には、

龍としての姿形を現したままの子を

産むのは不可能だろう、と

銭婆は密かに持っていた一番の

懸念がとりあえず晴れたことに

ほっと息をつくと、

自らの取り越し苦労と

千尋の呆然とした顔に

思わず笑いを零す。

 

「え?人の形?」

「考えたことも無かったかい?」

「え?え?」

「お前さんもハク龍の本当の姿を知っているだろうに。」

「・・・はくの本当の姿って、白い龍?」

そう、龍の子は龍として産まれてくるのだよ、と。

「え?じゃ、じゃあこの子は龍の形で産まれてくるの?」

自分のことながら思いもかけない現実に

千尋は蒼白な顔をして腹に手をあてる。

銭婆は宥めるようにそっと手を包み込んだ。

「今言っただろう?大丈夫、この子は

きちんと転変した姿で産まれてくるよ。」

「て、転変?」

千尋の戸惑いを置き去りにしたまま

銭婆は浮かれたように続ける。

「わたしも実際お前さんを見るまで

確信できなかったんだけどね。

さすが、腐っても竜王の末の血筋は

伊達ではなかったということだね。」

この子はお前さんの体にあわせて

人の子と同じように腹で育ち生まれてくるだろうよ。

ハク龍もきちんとその辺は弁えていたようだね、と

皮肉っぽくはあるものの珍しく琥珀主をほめた銭婆は

しかし、不安げな千尋を見ると鼻の頭にしわを寄せる。

「もっとも、言葉が足らなすぎるけどねえ。」

これだから男ってやつは・・・

そういうと、ようやく銭婆は千尋が一番知りたくて

しかし、今まで知る機会も方法も

なかったことを教えてくれたのだ。

 

 

はらはらと、風に舞い散る紫の花びらが

神の庭に佇む小さな東屋を取り囲む。

時折聞こえる、若い女性の明るい声と

年老いた、しかし深い母性を多分に

含んだ低い声に、近くに控える木の精も

うっとりとため息をついた。

 

「よかったぁ。妊婦さんってずぅっと

こんな風に気持ちが悪いのかなって

ちょっと心配だったの。」

「まあ、しばらくの辛抱だね。

直に落ち着くよ。」

銭婆はやっといつもの笑顔が

戻った千尋を眺める。

 

考えてみればこの娘の周りには

同族が一人もいないのだ。

おまけにまだまだ若い神の守護地ゆえに

子を産むという経験をしている女霊たちもいなくて。

本能だけでことすむ獣と違い、

群れ意識が強い人間は

母から子へ子から孫へと、

人生の先達により教え導かれることで

ようよう一人前になっていく種族。

こと妊娠出産という女としての大仕事を

控え、本当ならば経験者である母親やあるいは

その他の女たちの助言や励ましがあって

初めて心落ち着いて向き合うことが出来るのだ。

日に日に変わっていく身体への恐怖と

募っていく孤独は、

夫から注がれる愛情だけでは、

補えることではなくて。

 

「お婆ちゃん、この子って後どれくらいで

産まれてくるのかしら。はくは新春までには

産まれるだろうって言うのだけど。」

「この子が宿った日がお前さんの

言った日ならば、そうだね・・・」

ひぃふぅみぃと指折り数えると

「そう、年が変わるまでには腕に抱けそうだね。」

「ほんと?」

嬉しくてたまらないとばかりに

弾む声を聞きながら銭婆は立ち上がった。

「お婆ちゃん?」

「そろそろ狭間のトンネルにかけた呪いが

切れそうだからね。また来るよ、といいたいけど

ちょっと大技が必要でねえ。体の調子が

落ち着いたら今度はお前さんのほうからおいでな。」

本当ならば、産まれるまでこのままうちに

引き取りたいくらいなのだけどねえ。

そういうと殊更に片目を瞑っておどけてみせる。

「お婆ちゃん・・・」

「ほらそんなに不安そうな顔をおしでないよ。

その子の為にも、お前さん自身が強くならなくてはね。」

「はい。お婆ちゃん、ありがとう。」

千尋の笑顔に銭婆は頷く。

「さてさて、帰る前にハク龍に一言言っておこうかね。」

そうして、見送りに立とうとする千尋を

少し休んだほうが良いと押しとどめると

狭間の向こうを支配する魔女の一人は

慈愛に満ちた笑みを残して、

ふっと姿を消したのであった。

 

 

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考えてみれば、妊婦さんって

定期健診やら母親教室やらタマゴクラブ?やら

近所のおばさんやら母親やらから

いろんな言葉や情報をもらって自分の状態を一つずつ

そういうもんなんだ、と納得しながらなんとか落ち着いて

日々を過ごせるんじゃないかなあ、と。

ちーちゃんは16歳であっちの世界に行っちゃったから

具体的な妊娠の経過なんて知らないままじゃないかなあ、と。

学校で習った性教育って科学的なメカニズムや

おなかの中での赤ちゃんの育ち方はちびっとやるけど

母親の体の状態なんてやらないもんねえ。

友達同士の話題にもそんなことまででないだろうし。

(いや、してたら怖いって)

実際友林も妊娠中、ちょっとしたことでも情報が欲しくて

それ系の本を手放せなかったし。

 

「大丈夫?無理しないで。」

という言葉よりも(いや、ありがたいけど)

「当たり前なことだから心配ないよ。」

という言葉が欲しいときもあるんじゃないかなあ、と。

はくは、そんなことわかんないんだろうけど。

(むしろわかってたら怖いか。)