第4部龍王たちの伝説

 

第3章定律・・・水の流れのごとく

 

 

生い茂った木々の葉が

空を覆いつくし、日中にも関わらず

いつも薄暗くひんやりと感じるほどの

霊気漂う森の奥深く。

その中をまるで彷徨うかのごとく

ただ一人ゆっくりと歩を進めているのは

この森を支配する龍神の妻で

久しく見ることも無かったその姿を

森の小さな命に宿る精霊たちが

きらきらと喜びの波動を振りまきながら

見つめている。

と、そんな周囲の様子など

目に入らぬかのように俯き歩いていた

千尋は、無意識に感じていた精霊たちの気配が

ぱたりと止まったことにぴくりと顔をあげた。

さわさわとした風が木の葉の間を

吹き抜け、たくさんの命の気に

満ちる、慣れ親しんだはずの森の中。

普段ならば、薄暗い、けれど

まるで包み込むように暖かいはずの

この場所に漂う気に

千尋は怯えたように足をとめた。

 

半月前に還ってきたばかりの夫は

つい1時間ほど前に再び森を出て行った。

表の宮からの急な知らせに慌てて見送りに出ると

夫は、いつものごとく、

何も心配しないで良いよ、と

すぐにそなたの元に戻ってくるよ、と

穏やかな笑みで額に唇を落とすと

そのまま龍身となり、武闘神たちを引き連れて

白く輝く光の矢のように森を飛び立っていってしまった。

先年の出雲の集い以来、新しくその身に帯びた

お役目に、無理を重ねているのではないかと

また、前のように数ヶ月も会えなくなるのではないかと

重く怯える心を微笑みに隠し、手を振って

見送った千尋は、いく筋もの光が消えていった

空の彼方を見上げたままいつまでも立ち尽くす。

そうして、心配げにかけられた

眷属からの声に我に返ると、奥の居室に

戻る気になれぬまま、ふらりと

森の中に彷徨い出たのだ。

自身の内の奥底にとぐろを巻き、

重苦しい不安と焦燥を伴った感覚を

まるで覗き込むかのように

俯きながら歩きはじめてから

どれくらい経ったのか。

時間の経過も計れないほど

自分の中にある思いに没頭していた

千尋は、鳥肌が立つ程のおかしな気配に

思わず周囲を見回す。

絶対の庇護者が留守の森。

しかしその神力は遍く森に

行き渡り、いつもならば、どこにいても

まるで夫の腕に包み込まれているかのような

安寧を与えてくれる森の中で

このような気配を感じたことなどかつてなく

竜神の妻は、怯えたように

側にある太い木まで後ずさる。

そうして、ブナの白い幹に背中を預け、

懸命に気配を探っていた千尋は

次の瞬間、掠れた悲鳴を上げたのだ。

いつの間にかすぐ足元に跪いていた

一人の男。

異国の、そう武闘神たちの

甲冑とよく似たものを身に付けて

狭間の向こうに出かけていく

霊霊(かみがみ)とは顕かに

異質の気配を纏っている

がっしりとした体格のその霊は

千尋に向かって恭しく拝礼すると

言葉を待つがごとく動きを止めた。

しかし、それはまるで獲物に飛び掛る直前に

身を潜める獣のような気配を帯び、

千尋は声も無く震え続ける。

 

標道は異国の霊には封鎖されたはずなのに。

それに、ここは・・・

 

標道からかなり離れ、

森の眷属たちでさえ足を踏み入れることを

許されていない森の奥深く。

かつて嫁いで間もない頃に、

夫と愛を交わしたこの場所は

この森の中でも特別に原始の気配を

色濃く帯び、周囲とは一線を画しているほど

命の瞬きが輝かしい聖地となっていて

主の許可無く近づくことなど

誰にもできないはずだったのだ。

千尋自身、ごくまれに発作のように

無性に一人になりたくなるときに

好んで来ていたこの場所に

突然現われただけでも

怯え怖じる理由は充分で

本来、威厳を持ってその無礼を誰何せねば

ならないはずの女主は、

せめて木霊たちの控え待つ場所まで駆け戻ろうと

本能のまま身を翻した。

 

そうして・・・

腹部に感じた激痛と共に

急激に暗くなっていく意識の底で

何事か呟く男の声を懸命に聞き取ろうと

足掻いたのもつかの間

千尋は意識を失って何者とも

知れぬ男の腕に崩れ落ちていった。

 

 

 

・・・・・・・・・・・

 

ニギハヤミシルベノコハクヌシが

感知した異変に身を翻し、

自身の支配する標の森に馳せ戻ったのは

それから数十分ののちのことで

すでに最愛の妻たる千尋姫命の気配は

森から完全に消え去っていたのだった。

 

 

 

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波乱の始まり。

 

 

 

 

 

ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

と謝っておきます。

ちーちゃん、女主とはいえ

出自、ごく平凡な少女でしたから

おまけに、嫁いで以来、完璧、箱入り嫁でしたから

一人でこんな事態に対処しろっていうのが無理。

あっという間にさらわれちゃったよ〜ん。

だったら一人になるなよっていうか

あんたら、一人にしちゃだめじゃん。(怒)

 

それにしても・・・

ふっ。

「あの子、どうするかねェ。」

(おくされ神の世話をする千尋の様子を

高みで見物している湯婆婆の口調で)

あの子って?

もちろん、ハク様のことさ。