第4部龍王たちの伝説

第3章定律・・・水の流れのごとく

 

 

意識の底を漂うかのように低められた声が耳に木霊する。

その声に促されるようにゆっくりと目覚めた千尋は

ぼうっと真上に広がる天上を見つめた。

ちかちかとした色彩が踊るそこにようやく焦点を合わせると

細木で枠どられた中にいくつも描かれているのは、元は

極彩色で描かれたであろう天井画で、剥げかけている

とはいえ、その細部まで丁寧に描かれている

仕事ぶりは見事なもので、千尋はしばし見惚れた。

「曼荼羅、なのかしら?」

声に出したつもりの無い問いかけに

コトリと人の気配がはしり、千尋はハッと上体を起こすと

反射的に身を縮める。そうして、部屋の中ほどにおいてある小卓から

そろりと立ち上がった男を体を固くしたままじっと見つめた。

「お目覚めでございますか。」

瞬間、意識を失う前の出来事を思い出すと

千尋は足を抱えた手を解きぐっと拳を握り締める。

そのまま無言で見つめてくる千尋に、男は何を思ったのか

すっと姿勢を低くしてその場に片膝をつく。

「・・・あなたは?」

それ以上近寄る気配を見せず、頭を下げたままの男に

きっとした声で問いかけたのは数分の後で

千尋はその間に、異国情緒の漂う部屋のつくりを見て取ると

跪いている男をじっと観察し続けた。

そうして、寝台の下に揃えられていた自身の靴に気がつくと、

足を下ろし音をたてないように滑りいれるとすっと立ち上がる。

ドアまで目算で5メートル。

間に細かい細工が施されているものの

かなり古びている小卓と椅子が置かれているだけで

敷かれている絨毯もかなりすりきれていて

走っても足を取られるほどではないだろう。

もちろん一番の障害物は目の前の男であることは

間違いなく、纏う気配には隙が無くて

簡単には逃げ出せそうもないということは分かっている。

現われ方といい、ここにこうして自分がいるという現実といい、

頭を下げてはいても、このような過激な手段をとるような目的は

おそらく自分とはくにとってとんでもないことなのであろう。

今更ながら、千尋は簡単に浚われてしまった自分に

強いては、そのような状況を作ってしまった自分に腹を立てる。

 

そなたは、何も変わらずに、安らかであれ、と。

何も考えずに、己の腕の中でただ安んじてあれ、と。

夫の願いは明白で、それではくの気が休まるのならば、と

強いて日常の生活に甘んじて、

追求することなどしなかったのだ。

時折の知らせに流れ来る不穏な空気は何事か、と。

見せたことさえ気づいていない、憂い顔に

何をそんなに懸念しているのか、と。

しかし、ある日ある時、はくを守る4柱の竜に

こそりと教えてもらったのは、

はくを脅かす何者かがいるということだったのに。

『敵は弱点を狙うもの。』

『殿下の弱点は、自ずと明白。』

『どうか、御身を大切に。』

・・・はくは、誰かに狙われているの?・・・

『殿下を敵にまわす愚か者は

この秋津島にはおりません。』

・・・では、なぜ?・・・

『すでに侵入を果たしておりますれば。』

・・・侵入?・・・

・・・はくを狙っているのは、まさか?・・・

『狙いが判然とはしないものの。』

『なれど、用心に如くはないかと。』

『『『『どうか、しばらくご用心を。』』』』

 

千尋はかみ締めていた唇を緩めると深く息を吸う。

「私をこのまますぐに森に帰してください。」

口調の強さに身じろぎした男はゆっくりと頭をあげると、

瞳を伏せたまま低い声で言った。

「ご無礼をいたしましたこと、どうぞお許しください。

わが目的はお方様に害をなすことではございません。

どうぞお心を安んじられますように。」

「私を館に帰してください。今ならばまだ・・」

再び伏せられた顔に千尋は奥歯をかみ締める。

「私が名を呼べば、待つ間もなく夫が参ります。」

そう、はくはこのようなことをしたものを決して許さないだろう、と

うぬぼれでは無い確信が胸の奥底に氷のように凝っていて

千尋は取り返しがつかない事態を招くまいと必死で言い募る。

「失礼ながら。」

しかし、男は慇懃な態度を崩さずにほんの少し声を大きくすると

千尋に言い聞かせるかのように淡々と言った。

「失礼ながら、御身に封印を施してあります。」

「封印?」

とたんに、今まで気がつかなかったのが不思議なほど

ズシリとした重みを首周りから鎖骨にかけて感じ、

千尋は慌てて手を上げる。指先に当たる冷たく硬い感触に

手探りで辿ると、まるで幅広のゆるい首輪のごとく

首から鎖骨付近に何かの金属の帯が

肌に張り付いているかのように着けられていて

指の力程度ではぴくとも動かず、

千尋は指をそのままに目の前の男を凝視した。

「これは?」

「璧玉(へきぎょく)の中でも環紅瑯(かんこうろう)と呼ばれる

秘宝でございます。本来なら門外不出のものなのですが。」

息だけで話しているかのような密やかな声で男は続ける。

「取り付けたもの以外の手で外すことは叶いません。」

そう言うと、初めて男は顔をあげ千尋をまっすぐに見やった。

「火の加護、水の加護、土の加護、海の加護、

そうして、光の加護を受けし貴重なる御方様。

おまけに身の内に竜玉を溶かしたその御身を

我らごとき力では傷つけることなど叶いません。」

「ですが、御身が放つ光は隠させていただきました。

たとえ、五公子の御名を呼ばれたとしても、

お声が届くことはございません。」

人間で言うと30代前半くらいか。

整っている彫りの深い顔立ちは左のコメカミあたりから

頬の中ほどまで斜めに傷が走っていて、

それがこの男をより精悍に見せている。

なによりも、中心に金色の縦線が刻まれた、

はくとは違うグリーンがかった瞳は

まるで千尋を憎んでいるかのような

強い光を放っていて、千尋は思わずたじろいだ。

 

コンコン

 

と、小さな物音とともに唯一の入り口である木製の扉が

ゆっくりと軋みながら僅かに開く。

すっと立ち上がった男は、千尋に一礼するとドアに向かい

後ろ手に取っ手をつかんだまま、扉の影にすべりでた。

「・・・公子の・・・ごきは・・・」

「・・・やはり・・・・では・・・」

「・・・ひらか・・・までは・・・」

「・・・時間が・・・しかし、それは・・・」

「・・・2案を・・・」

ぼそぼそと顕かに数人はいると思われる声に

千尋は、眉根をギュッと寄せて半開きの扉を凝視する。

そうして、少しずつ扉に近づくと話に耳を澄ました。

「・・・形代を使ってみよ・・・」

ようやく聞き取れた言葉に、もう少し近づこうとした瞬間

ドアの影にあった背中がくるりと振り向きどこか冷たい眼差しと

至近距離で対峙することになってしまった。

そうして、そのままパタンと殊更大きな音をたてて閉まった扉に

部屋の外を覗くことも叶わなくなり、千尋はくっと喉をならす。

「困ったことになりました。」

まるで共犯者に言うがごとき、馴れ馴れしさを

含めながら男は言う。

初めて目線を下に千尋を見下ろしながら話しかけてくる男を

千尋は揺らぎそうになる瞳に力を入れてにらみ返した。

そんな千尋の様子を無視するかのように男は言葉を続ける。

「お方様にはもう一時(ひととき)、

行方を眩ましていただかねばなりません。」

「何を・・・」

瞬間、鋭い風が周囲に渦巻き、

千尋は、思わず腕を挙げて目を庇う。

と、耳元で起きたざくりとした音に、ビクッ開いた千尋の目に

男の手の中に握られている自身の見慣れたものが映った。

「え?」

蒼白になった千尋をどこか無機質に見やった男は

後ろを向き扉を僅かに開けると、手の中のものをすっと差し出す。

そうして、千尋がハッと気づいたときには

すでに扉は音をたてて閉められていて。

無意識に手を上げて髪を触っている千尋の腕を、

有無を言わさず、振りほどくことができぬ程度の力でつかむと、

男はもう一度千尋を奥まで連れて行く。

そうして、自身は先程と同じくらい離れた位置に下がると

そのままゆっくり額ずき、深い礼を取った。

「・・・あ。」

ここ10年ほど慣れ親しんでいた重みを失って

千尋は呆然と目を見開く。

夫があれほど愛しんでいた身の丈に余るほどの髪が

肩の僅か下程度にまでざっくりと切られ、あまりのことに

言葉を失っている千尋に対し男は平伏したまま

石になったように動きを止めていた。

「はくが・・・」

搾り出すように、千尋は囁く。

「はくが、許さないと・・・」

「事がなりました後、お詫びにこの命をいかようにも。」

平伏し、くぐもっている男の声は、

不協和音が木霊するかのような不吉な響きを帯びていて

千尋は髪に触れていた手を下に下ろすとくっと眉を寄せた。

「・・・事とは?」

「何のためにこのような・・・」

命を懸けてまで何をしようというのか、と。

初恋の龍神に嫁いでからこの方、かの神の守る聖地の中で

人の世の苦しみや汚辱から守られ、慈しみと愛のみを注がれてきた

人間の娘は、震える指をぎゅっと握りこむ。

「・・・封印が解かれお姿が現われますまでの

僅かの間のご辛抱です。

ほどなく夫君と見(まみ)えることができますれば。」

平伏したままの低い声を聞き漏らすまいと千尋は男を凝視する。

「上位神に就任された御夫君は、困ったことに

道を総て閉ざしてしまわれた。ゆえにすぐに

お帰し申し上げることは叶わなくなりましたが。」

「・・・?」

しかし、その内容は相変わらず謎かけのようで。

「連れて行くこと叶わない場合、

御自ら来て頂かなければなりませぬゆえ。」

そう言うと、男はそのままひたりと口を閉ざす。

そうしてしまえば、この部屋は空気の動きさえ

ないかのような静けさだけが溢れてきて・・・・

 

キシッ

 

微かに軋んだ音に目線だけを上げた男の目に

寝台に腰を下ろし考え込むように俯いている娘の姿が映る。

ほっそりと小柄な娘は、短くなった髪のせいか

どこか乙女のような清純さを漂わせ、しかし、

たしかにかの龍を惑わせるのもさもありなんと思わせる

成熟した大人の女の香りを振りまいていて、

男は僅かに目を眇めるとふっと視線を逸らした。

かの神の妻を浚ってここに隠してから、

まだその実2時間足らず。

しかし、すでに予定は大幅に狂っていて、

使いたくはなかった最終手段をとらざるを得ないだろう、と。

男は、階下にあるものに思いを馳せると

手順を辿るように思考を巡らせる。

 

床にひれ伏している男と、寝台に腰を下ろしうな垂れている娘。

双方が自らの思いの中に沈み込んでからどれほど経ったのか。

ほとほとと扉を叩く音に二人は同時に顔をあげた。

そうして、再び扉の影で何やら低い声で話をしている

男の背を、寝台に腰を下ろしたまま千尋はじっと見つめる。

と、今度はいきなり扉が大きく開いたと思うと

その先の薄暗い廊下には、同じような甲冑で身を固めた

武神らしき男が数名立っていて、千尋は大きく目を見開く。

その先頭には、先程まで平伏していた男が

苦い顔で千尋に視線を向けていて。

「どうやら次元の扉が持ちそうもありません。

いざというときのために場を移させていただきます。」

「いやです。はくに何を仕掛ける気なのですか!?」

わけがわからないままに、怒りと不安に

瞳を揺らしている千尋の問いかけを無視すると

男は懐に手をいれながら寝台に近づく。

そうして、身を引こうとした千尋の肩を抱くようにして押さえると

取り出した小瓶のふたを口にくわえ

引き抜くと同時に千尋の鼻先に持って行く。

「何を・・・」

数秒にも満たない早業に身体をひねる間もなく

瞬間、鼻の奥に強い刺激を感じたと思ったとたん

千尋の意識は再びくたりと暗転したのだった。

 

「洸差(こうさ)殿。」

「すぐに下のトンネルに行く。場合によっては

このままこの娘をあちらに連れて行くことになろう。」

「はっ。」

「五公子の様子はどうだ?」

「やはり、形代を追う気配がありません。」

「森から動かぬままか。」

「はっ。」

洸差と呼ばれた男はぐっと奥歯をかみ締めると

腕の中の千尋に視線を落とす。

「秋津島に張られた封印の様子は?」

「綻びの出来る隙がなかなかに見つからず。」

「そうか。」

思いもよらぬほどの神威の発現に、衝撃を受けているであろう

彼方を思い浮かべると洸差はそのまま瞼を伏せる。

仕掛けてはみたものの肝心の目的を果たせぬまま

ここにこうしている一刻ごとに危険が増していて。

背後に控え、しかし興味深げに洸差の腕に抱かれている

人間の娘を覗き込んだ武神の一人は

この計画の責任者たる洸差を振り仰ぐ。

「洸差殿。やはり無理だったのでは?」

「このまま、その娘をあちらに連れて行ったところで

肝心の御方が現われねば意味がないではありませんか。」

「むしろ、かの公子が単独で乗り込んできた場合、

どのような惨事になりますことか。」

「この娘、このまま、ここに捨て置き、一度帰って

策を練り直したほうがよいのでは?」

すでに腰の引けている武神たちに洸差は皮肉げな笑みを見せる。

「おめおめと東宮に帰るか?東瑛太子になんと言い訳する。」

「それは・・・」

一様に押し黙った武神たちを眺め渡すと洸差は肩を竦めた。

「それに、こうして、妻を奪った以上、たとえ還したところで

五公子がその追求を緩めるとも思えぬがな。」

「かの公子は秋津島の神ではあっても我らが神ではあらず。

妻さえ返せば、結界を越えてまで追うてくるとも思えませんが。」

「どうかな・・・」

今更になかったことに、とでも言いたげな下級の武神たちに

洸差は、己の主を思い浮かべると苦い笑みを吐いた。

・・・結局は、無駄な足掻きに過ぎないということか・・・

・・・なれど・・・

「それに、西宮、南宮、北宮の出方も思いやられましょう。」

「今更、それをいうか?」

しつこいほどの弱気な発言に、今度こそ怒りを含んだ、針のように

細められた金の瞳に武人たちは気おされたように押し黙った。

「時間がない。行くぞ。」

「洸差様!!」

と、千尋を腕に歩き出した洸差の元に、

息を切らしながら森に忍ばせていた伝令が飛び込んできた。

「封印が解かれました。」

「なんだと!」

背後にいる武人たちが喜色を露に色めきたつ。

「間違いないか。」

「はい。確かに扉が開かれる音をききました。

ですが、龍王陛下が。」

伝令が言いかけた言葉を激したような鋭い声が遮る。

「王陛下ではない。かの公子は戴冠してはおらぬ。」

かの龍とても気づかぬほど、十数年の歳月を費やして

忍び込ませていた指先でつぶせるほどの

小さな虫の精に洸差は鋭い視線を突き刺す。

「申し訳・・・」

怯え縮んだ蟲をそのままに洸差は背後を振り返る。

「このまま、第2の策に移る。封印が解かれた以上

この娘の身と引き換えにするも易くなろう。

なれど、やはり場所を移す。」

「どういうことです。」

「ここでは歩が悪すぎる。

五公子方にはあちらにお出でいただく。」

「では。」

「狭間のトンネルを抜け、帰還する。行くぞ。」

 

 

そうして・・・

 

すぐ隣の中央のトンネルから現われ、

色鮮やかなステンドグラスを通した光に彩られた

広い待合室に佇むかの神龍の姿を

一番右のトンネルの中から眺め渡した洸差は

その翡翠の瞳が己の腕の中の娘を

認めたと同時に、頭を下げる。

そうして、戴冠することのなかった

神祖龍王の第5公子にではなく

その肩に乗せられている小さな龍王姫に向かって

恭しく礼を取ると己が主の言葉を伝えた。

「女王陛下。どうか我らが元にご帰還を。」

瞬間、崩れゆくトンネルの向こうから

洸差の耳に呪言が届く。

「千尋に触れたもの一人とて許さぬ。

千尋の涙の一滴(ひとしずく)が、

古の予言の実現となろうこと刻み置け。」

 

 

そうして、一瞬の逢瀬ののち、父と子は、再び妻であり母である

何より愛しい存在から遠く引き離されたのだった。

 

 

 

 

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オリキャラの嵐だなこれ。

すみません。

第4章はさらにオリキャラ続出します。

そのうちきちんと人物紹介作りますね。

 

 

以下ちょっと一服、センチヒ語り

暫しお付き合いを・・・

 

映画の最初、千尋がお父さんとお母さんと一緒に

トンネルを潜りぬけ広い空間に出たとき

ふと千尋が自分たちが通ってきたトンネルを

振り返った場面、覚えていますか?

あの時確か穴が3つ開いていたんですよね。(もっとあった?)

そのうちの一つが千尋の通ってきたものだとして、

後の2つはどこに通じているのかな、と。

ずっとずっと考えていて・・・

森以外から通じている場所が少なくともあと2つはある・・・

もちろん秋津島の中なのは間違いないのでしょうけど。

んでもって、そこから始まった妄想劇場。

やつらってばいつの間にか

そのうちの一つを手中に治めていたんですね。

おまけに次元の扉を歪めて、崑崙への出入り口を

作ってくださっていやがりましたのん。

最も、使えるのは1回こっきりの危険な道でしたが。

千尋が洸差たちに隠されていたのは、

実は時計台、というか森のほうから見ると

油屋の看板がかかったあの古い建物でした。

あの建物って、2階に窓があってちょっと旅館風に見えません?

今はもう使われていない古い建物。

思いがけない盲点になるかな、と。

やつら、千尋を攫って、

だけどそこかしこにわざとらしい痕跡を残して

後を追わせる様に仕向けて、

森を空っぽにする予定だったのですよ。

その隙に千尋を使って龍穴の封印を解いて・・・

龍玉石のまま攫ってしまえば・・・

というご都合主義の計画は

ハク様のブチ切れモードであえなく挫折。

それにしても、

あ〜あ、ちーちゃんあんなとこまで攫っちゃって。

おまけに最後、作者が予想もしてなかった不吉な言霊まで

ハク様に吐かせちゃってさあ。

おいら知〜らないっと。