共同☆企画2007−1

 

お姫様に恋をした龍のお話

 

 

 

灯心が油を吸い上げる音さえも耳につくほど

シンと静まり返った新月の夜のこと。

昨夜から続いた春の嵐が止み、

一晩中続いた嵐とその片付けに追われた1日に

都一の権勢を誇る左大臣家といえど

人の気配が絶えたかと思えるほど

家中のものが疲れ果て寝入っている。

宿直の衛士たちさえも、緊張が緩み、

ほんの少しのつもりで壁に寄りかかっては

こくりこくりと舟を漕ぎ出していて。

なので、闇に紛れるようにして

密やかに屋敷に忍び込んだ彼の存在に

気づいたものはただ一人を除いて誰もいなかったのだ。

 

 

さっと一陣の風が荻原の御殿と呼ばれる屋敷を

吹き抜け、奥殿のとある部屋の片隅にある燈台の

小さな灯をかき消すと、一段と濃い闇が辺りに満ちる。

『ああ、姫様が怯えてしまわれる。』

起きて灯心を掻き立てなければ、と反射的に思ったものの、

しかし昼間の疲れに寝付いた体はぴくとも動かず、

姫君の裳着に合わせお付きの女房に格上げになったばかりの

乳母子の鈴は、再び意識を眠りの闇に溶かしていった。

ヒソリ

「誰?」

薄い帳が風に揺れ、嗅ぎなれない香りが漂う。

つい先ごろ、今は春の王の名称を桜に取って代わられた梅が

ちょうど盛りの時期に裳着をすませたばかりの

この部屋の主は半身を起すと目を瞬かせた。

暗闇に怯える末の姫のためにと、父大臣の命で

高価な油を惜しみなく使って一晩中灯されているはずの

燈台の位置さえも定かにはわからないほどの闇の中、

15になったばかりの末の姫は、全身を固くして

慣れない気配を探りとろうと目と耳を凝らした。

「鈴?」

高雅な香りにありえないとは思っても、

いつも身近に使える侍女以外の存在が、同じ

寝台の中に在るということのほうがありえぬはずで

姫君は一縷の望みをかけ気配のほうに声をかけた。

サラリ

密やかな衣擦れの音に、一段と香りが舞い立って

姫君は今度こそ心底怯えると、上に掛けていた

夜具代わりの衣を身に纏おうと引き寄せようとした。

「あっ。いやっ。」

しかし、ピクリとも動かない衣の代わりに、

濃い闇を纏ったような影が、すぅっと近寄って来たかと思うと、

姫の身体を縛めるように抱きしめ、そのまま寝台に押し倒したのだ。

怯え怖じ、冷たい汗に全身を濡らした姫の頬を

正体の知れない指が確かめるようになぞっていく。

「見つけた。そなただ。」

息だけの低い声に金縛りにあったようにかちかちに

固まっていた身体がビクッと動く。そんな様子に密やかに

笑う気配がしたかと思うと、急に蛍火のような明るさが御帳台に満ちた。

「そのように怯えるな。我はそなたの夫になるもの。」

「・・・あ・・・」

姫は呆けたように目を見開く。

翡翠に輝く瞳に冴え冴えと整った顔立ちは、

この世のものとは思えぬほど美しく

人なれしない箱入り娘である大臣家の姫が、

人を呼ぶことも忘れ、急に灯った幻のような灯りの

不思議にさえも気づかないまま、目の前にある顔を

魅せられたように見つめることしかできないのは

確かに無理もないことではあった。

ただ見つめあうだけの茫漠とした数瞬の後、

「ああ、そなたは昔のまま変わらぬな。」

ふと凍てつき霜に覆われた大地が日の光に

融けるように、頬を緩めた男が嬉しげに呟く。

「・・・え?」

「また会うと約束をしたであろう。」

「え?」

目を瞬かせている姫君の戸惑いなど知らぬげに

男は指を伸ばしゆっくりと丸い頬を撫で下ろす。

「あの?」

まるで愛しくて堪らぬものを見るような瞳に

姫君の戸惑いはいっそう大きくなっていって

小首をかしげながら窺うようにそっと唇を開いた。

「・・・右大将様?」

夫と言う言葉に、昼間に交わされた父との会話を思い出した

姫君の小さな問いに、男は見下ろす瞳をすっと細めた。

「・・・右大将と申したか?」

「え?」

「婚姻の夜に違う男の名を呼ぶなど、許せぬな。」

「あ・・・」

急に冷ややかになった気配にはっとした姫は

びくりと怯えたあまりに、大きな瞳に思わず涙を滲ませる。

そんな目元に唇を寄せた男は、眼光を緩めると

「我はニギハヤミ コハクヌシ。」

「・・・ニギハヤミ・・・?」

「ニギハヤミ コハクヌシだ。」

「コハクヌシ様?」

男は頷くと、唇の中で名を呟き続けている

姫の小さな身体を抱き寄せ、耳元で囁く。

「ハク、と。」

「え?」

「私のことはハクと呼ぶ呼ぶように。」

そう言うと、男は遠い目をしながら小さく笑った。

「そなたにこうして名乗りをあげるのは2度目だ。」

思い出せぬというのなら、それでもよい。

・・・なれど

翡翠の光が姫の黒く濡れた瞳をまっすぐに射抜く。

「今宵以降、そなたが呼んで良い男の名は我の名のみ。」

そう言うと、呆然としている姫の顎に手をかけ、

微かに開いた桜唇にそっと唇を落とすとゆっくりと、

しかし有無を言わさぬ強引さで衣を開いていった。

不思議な輝きに満ちた狭い御帳台は

まるでこの世界から他者の存在など

消え去ってしまったかのような

静まり返った暖かい闇に包まれていて、

男は逸る気持ちの赴くまま、性急に事を運んでいく。

拒否することなど欠片も浮かばぬ不思議さに、幼い姫が

心の片隅で首を傾げている気配は感じてはいても。

愛しい姫が戸惑い、そうして零す涙にさえも煽られて、

熱いと息と涙と肌の感触だけが男を支配していく。

そうして、初めての経験に呆然と為すがままであった姫も、

男の密やかな労わるような愛撫と、その後に訪れた

激しい情熱のひと時に、心も体もぴったりと

まるで最初から、この不思議な男のために

存在していたかのように重なっていって。

思ったことさえもない幸福に震える身体は

何度も何度も高みに押し上げられ、合間に

囁かれる愛の言葉はなくても、無垢な身体に

男の想いは隅々まで染みとおり、彼の色に染まっていく。

しかし、お互いにいつまでも続いて欲しいと願う

思いと裏腹に、無情にも春の夜は足早に過ぎ去っていく。

そうして、一番鶏の鳴き染める直前に

しぶしぶ身を起した男は、自身と姫の身を整えると、

身に起きた出来事の重さを今だ掌握しかねている幼い妻の

気だるげに潤んだ瞳の端にそっと唇を寄せる。

黙ったまま見上げてくる姫の無言の問いかけに

微かに笑みを見せた男は、さらりと顔にかかって来た

髪をそっと耳にかけてやりながら、耳元で囁いた。

「今宵のことは、誰にも言ってはいけないよ。」

「・・・・・」

「時が来ればそなたを迎えとろう。それまでは

我のことを誰にも話してはいけない。」

「・・・・・」

「また今宵、同じ時刻に。」

返事のない姫に、しかし、瞳からあふれる思いの丈を感じ取り

男は、思わずといった仕草で、もう一度華奢な体を抱きしめる。

そうして、名残惜しげにぽっと赤らんだ頬を撫で下ろすと

周囲を囲う垂れ衣に手をかけ、入ったときと同じく

夜が明ける直前の濃い闇にその身を溶かし去っていった。

パサリ

垂れ衣が落ちる音に我に返ったように目を瞬いた姫は

体中に押された刻印の名残りに

その身をかき抱くと、震える唇をそっと開く。

「・・・ニギハヤミ・・・コハクヌシ・・・様・・・」

末子ということもあり甘やかされ、

おっとりと無邪気に生い立った姫であっても

今宵の意味は重々にわかっていて、

今更ながらに自分はあの方の妻となったのだと。

まるで絵物語に出てくる姫君のように、あのように

美しく優しげな公達に望まれたのだと。

別れたばかりの面影を恋い慕うかのように

潤んだ瞳に彼の人の影を浮かばせる。

「・・・ハク・・・様・・・」

夜明け前の濃密な闇の中、姫君の小さな声は

男の後を追うように密やかに響き渡っていった。

 

 

 

ジジッと灯心の燃える音に耳を澄ませながら

控えているはずの女房たちに気取られぬように

ため息を吐くと、姫は垂れ衣を隔てほのかに灯る明かりから

顔を隠すように上掛けの下に顔を隠す。

ドキドキと脈うち、微熱を纏っているかのように

震える身体の総てが、約束のときを待ちわびていて

自分の事ながら昨夜会ったばかりの殿御に

どうしてここまで心惹かれるのかと、戸惑うほど。

理屈ではない恋しさに、女として目覚めたばかりの姫は

夜着の袖をそっと持ち上げると目尻に押し当てた。

次々に溢れ出る滴の冷たさに、白い袖口は

濡れそぼち、昨夜纏っていたかの御方の直衣の色さえも

思い出されて、ますます恋しさが募っていく。

「やだ、わたしったら。」

「何かおっしゃりましたか?千(ちぃ)姫様?」

思わず出した声に幼い頃から仕えてくれている

乳母子の鈴が声をかけてきた。

「なんでもないの。鈴は今日も夜居なの?

疲れているなら下がってもよいのよ。」

慌てて取り繕うものの、やはりいつもと違い、一日中

ぼんやりとしていた姫君の様子を心配していた

鈴は、垂れ衣の影から重ねて声をかける。

「いいえ。姫様こそ、お休みになれませんか?

なにか暖かいものでもお持ちいたしましょうか。」

「ううん。いらない。もう休みます。そなたもお休み。」

「・・・はい。お休みなさいませ。」

しばらく様子を窺っていたふうだった鈴が

再び横になった気配にほっと息を吐くと

ちぃ姫は慌ててため息のでそうになる唇をかみ締めた。

・・・どれほどの時間が経ったのか。

昨夜と同じくヒソリとおとずれた気配に

姫は静かに身を起すと、嬉しげに両手を広げた。

「待たせてしまってすまない。」

「いいえ。よくお出でくださいました。」

一瞬で側に来ていた男の指が昨夜と同じように

頬に伸ばされていく。

「泣いていたのか?」

「いいえ、いえ、はい。」

「なぜ?我が怖いのか?」

「いいえ!!」

首を振る所作の強さに、頬にかかる髪がふわりと舞い上がる。

「そうではないのです。ただ・・・」

「なに、千尋?」

「夢かと・・・」

お出での遅さに、

「昨夜のことは、夢だったのかもしれないと。」

思って・・・

消え入りそうな声で呟く姫に男は、ぐっと眉を寄せると

そのままゆっくりと寝台に押し倒していった。

「夢などと一緒にされてたまるものか。」

昨夜と同様、いやそれ以上の激しさと熱が

荒れ狂った御帳台の中で、男の思いをいやというほど

刻み込まれた姫は、苦しげな熱いと息と共に、

夜が明ける直前まで彼の名を呼び続けたのだった。

 

こうして、密やかな逢瀬が三晩ほど続いたのだ。

 

 

「姫や。ちぃひめ〜。」

どたどたと身分にあわぬ賑々しさでこの屋敷の主たる

荻原の左大臣が奥殿の西の対にやってくる。

先触れもそこそこに年頃の姫君の部屋の御簾を

掻き揚げると御帳台に臥せっている愛児の顔を

心配げに覗き込むやその瞳に鬱陶しいほどの

水分を溢れさせた。

「おお可哀想に。このように顔色を蒼くして。」

「い、いったいどうしたことだ。このように急に

病に倒れるとは。お付きのもたちは何をしていたのだ。」

「どんな具合なのだ?頭が痛むのか、胸が苦しいのか?」

「あっ起き上がってはいかん。寝ていなさい。」

「藤の盛りはもうじきだというに。それまでに治るだろうか。」

「おお、そうだ。だれぞ右大将の元に使いを。」

「あなた!!いい加減にして!!」

加持だ祈祷だ、と大騒ぎを始めた大臣を

北の方たる母が一喝する。

「そのように枕元で騒がれてはちぃ姫も休めないでしょう。」

「邪魔だからあっちに行ってなさい。」

「そ、そんなこと言ってくれるな〜。」

「あなた!!」

「はいぃっ。」

天下に並ぶもののない飛ぶ鳥を落とす勢いの権勢を誇る

左大臣を完璧に尻に敷いている北の方は、しょぼんとうな垂れる

父大臣を尻目に蒼白な顔色で苦しげな息遣いをしている

姫君の上に屈みこむと額の手ぬぐいを取り、

侍女が渡した冷たいものと取り替えた。

「ちぃ姫、苦しいの?今、薬師が薬を調合していますからね。

薬湯がくるまで白湯を一口でもいいから飲んで御覧なさい。」

肩を支え、手ずから愛娘の口元に持っていった器を傾ける。

しかし、ほんの数滴の白湯が口に入った端から、

グッと胸を押さえ苦しげに喘ぐ姫の様子に、キッと後ろを

振り返ると、キンキン声で怒鳴りつけた。

「あなたっ。そこでうじうじしている暇に陰陽寮の博士やら

高徳のお坊様やらをすべてお呼びしてください。ほらっ急いで。」

「あ、ああ。ああ、そうじゃな。」

来たときと同じくどたどたと退席していく大臣を見送ることもしないまま

姫をそっと横たえた北の方は、赤らんだ頬をもう一度冷たい布で

拭うと、心配そうに眉を寄せて枕元に侍った。

「お・・かぁ・・・さま・・・」

「なあに?何か欲しい?柑子のようなものなら食べられそう?」

そんな母に首をふった姫は苦しそうな息のもと必死に言う。

「だ・・いじょ・・・ぶだから・・。」

「そ・・れより・・・う・・だいしょ・・・様に・・・」

「?」

帝と東宮に入内させた姉たちと同様の苦労はさせまいと

夫とともに数ある求婚者の中から人望も将来性も性格さえも

選りすぐった若者は、半月ほど後の藤の宴の晩に姫の元に

通ってくることになっている。そのつもりで心の準備をしておきなさいと、

つい数日前に伝えたばかりの許婚の名を口に乗せた姫に、

「姫は心配しなくてもよいのよ。このような病など

すぐに治りますからね。なんなら

右大将様にお見舞いに来ていただきましょうか?」

婚姻を控えたこの時期の病に心配になったのだろうかと

気を廻した北の方はにっこりと微笑んだ。しかし、

「・・そ・・・じゃない・・・の。・・ぉかぁ・・・様。

う・・だい・・・しょう・・・様に・・・おこと・・・わり・・・を。」

「え?」

「結婚を・・・お断り・・・してくだ・・・さ・・・い・・・。」

 

「・・・というわけなのです。」

御簾ごしに訴える左大臣北の方の話に、黙って瞳を伏せていた

陰陽師は、つと周囲を見回すと難しげな顔を顰める。

「熱が高いまま、うわごとのように結婚を断って欲しいとばかり。」

「高野山の聖様もわざわざ姫のために山を降りて

祈祷をしてくださっていますが、いっこうに効き目もなく。」

「あれ以来、姫の体調もだんだん悪くなるようで

もう、どうしたらよいか・・・」

「中には、このたびの婚約を恨んだ

右大将の通い所の女の生霊の仕業ではないかと

言い出すものまで出てきてしまって。」

よよ、と泣き崩れる仕草の中にも、もしそうなら

さっさと調伏せよ、この役立たず、との意を込めての

訴えに、同じ御簾のうちでまあまあと宥めているらしい

左大臣の気配に、当第一との呼び声の高い陰陽師は小さく息をつく。

そうこうするうちに、呼びに来たらしい女房と

ひそひそと話す声がしたかと思うと、気強い北の方は

「よろしくお願いしますね。一刻も早い調伏を。」

と念を押し、そのまま慌しく退出していった。

と、どこか嵐が去ったような静けさの数瞬の後

徐に御簾が巻き上がったと思うと一の権勢家たる

左大臣が苦りきった顔で脇息に寄りかかっていた。

「で、どうなのだ。本当のところは。」

「姫になんぞ憑いているのか?」

さきほどのオロオロした気配とは、全く異なるさすがの気迫を纏い、

じっと見られた陰陽博士は、躊躇ったように頷くと、

怯えているかのように周囲を見回した。

「?いったい、なんなのだ。」

畳み掛けるような追求に観念したのか、陰陽博士は

実は・・・

と躊躇いがちに、しかしとんでもないことを口にした。

「先程来、いえ、正確に申しますと、

日が暮れてからこちら、姫のおいでになる奥殿を

囲むように異様な気配が強くなっております。」

「!!」

「しかし、これは・・・」

思わず腰を浮かせた左大臣に陰陽師は言いよどむ。

「生霊であれ、死霊であれ、人の気配などでは。」

「左大臣様。なんぞ禁忌を犯した覚えはござりませぬか。」

「これは、尋常な気ではございません。まるで・・・」

「まるで、なんだというのだ。」

焦ったような左大臣の顔を恐れと哀れみを半々に見やった

陰陽師はごくりとつばを飲み込むと、

絶句している左大臣にむかって顔を見られぬよう平伏した。

「姫君の病は、神の障りとお見受けいたします。」

 

そうして、時を同じくして奥殿でも騒ぎが起きていた。

「もう一度、申してみや。」

北の方の甲高く鋭い声にビクッとした薬師は

平伏しつつ、同じ言葉を繰り返す。

「何をバカな。そのような世迷言を申すなど

そなたは、それでも典薬寮の医師か。」

「ですが、この兆候は間違いなく・・・

診たものの所見もすべてが同じでございます。」

「姫が・・・懐妊・・・。」

取り落とした扇にも気づかないまま北の方は、呆然と呟いた。

 

 

 

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あまりの出来の遅さに、苦肉の策で続き物にしてしまいました。

このあとのお姫様の運命はいかに。

なんて、あんまり遅くならないように頑張りまっす。

クーちゃん様、ごめんなさい。(平伏)