龍神情話

 

第2章 華燭の宴(かしょくのうたげ)本当はみせびらかしたいんです

葉月の14日、千尋は夫たる龍神につれられて、

こちらと あちらの狭間を通り抜けた。

夏の名残か 空気は爽やかながら 日差しは結構きつかったが、

風を切る爽快さが気持良い。

まだ、日が高く、眼下に、底にあるものが朧(おぼろ)に浮かび上がり

一見すると浅いように感じるが、もぐってみたところで

決して底には行き着けないという不思議の海が広がっている。

そんな海の真中を一本の線路が走り、

中天の日差しをうけて、鈍い輝きを放っていた。

「銭婆のおばあちゃんと かおなし、私のことわかるかな?」

少し不安そうな声で龍神に尋ねる。

はくの背にのり、風を切る感覚はあの時以来で、

懐かしさに胸がいっぱいになり、今にも涙が零れ落ちそうだ。

そんな感傷的な自分がなにか恥ずかしく、気を紛らわそうと、

返事ができないのはわかっているがつい、夫に話しかけていた。

体の下で、龍神が優しく身じろぎし、

『心配ないよ、私がついている』と伝えてくるのを感じ、

千尋は微笑んで想い人の鬣(たてがみ)に頬をよせた。

龍神の優しい笑みを心に感じ、その安心感にうっとりする。

ふと、キラッとした線路の輝きが目に入り、眼下に目をやると、

不安で 怖くて、でも何かせずにいられなかった 焦燥感から

電車に飛び乗り 銭婆を訪ねていった自分を 思い出した。

『千尋、がんばったね。あの時のあなたがいるから、今の私達がある。

未来の私達のために、私も私のできることを精一杯やらなきゃ。』

過去の自分から、エールを送られているような気分だ。

『どんなことをやる事になっても、勇気を出さなくちゃ。』

・・・はくはすべて自分が引き受けると言っていたけれど、

はくにばかり任せるなんて出来ない。

そう、千尋と一心同体だといったのは、はく自身なのだから。

とたん、気持ちも浮上し、銭婆のところにつくのが

待ちきれなくなるほどテンションがあがった。

このところの、千尋はこんなふうに気持ちの浮き沈みが激しい。

泣きそうになったり、無駄にはしゃいだり、

落ち込んだり、顔を赤くしたり。

そうしてみては、夫の顔をじっと見つめたり、

一人で何事か頷いたり。

千尋とはくは、すでに龍神とその妻という関係ではあるが、

明日からひと月にわたって、神々の前でお披露目をするのだ。

いわば、千尋は結婚式を明日に控える 花嫁なのである。

冷静に落ち着いていられるほうが おかしいのかもしれない。

龍神は、大切な妻の気持ちが穏やかでないのを敏感に感じ取り、

心もちスピードをあげた。気がすすまないながらも、千尋が

『銭婆のおばあちゃんに会いたいな。湯屋でやるお披露目には

来ていただけないなら、わたしから、ご挨拶に伺いたいの。』

と、望んだので、こうして一日早くトンネルをくぐる事にしたのだ。

あの魔女は千尋の命を楯に取ることで、

琥珀主が決して手出しできない形で

記憶封印の呪いを千尋にかけた。

年の功か、琥珀主より一歩も二歩も先んじ、

悔しい思いをさせられた事も 1回や2回ではすまない。

まして、命のやり取りをした記憶もそれほど前のものではない以上、

できれば近寄りたくない相手ではある。

しかし、誰に頼まれたわけでもなく千尋の事を気にかけ、

安全を図ってくれたこともまた事実で・・・

月道が開く前、琥珀主が思い余って 千尋の様子を見るために

銭婆の魔法の姿見を使うことを請うたときも、

皮肉げに笑いはしたものの決して咎(とが)めず、

一緒になって千尋の話をしたものだ。

が、まさか合意魔法を千尋にかけるとは・・・

いくら、千尋を気に入ったからといって、

闇から守るためだからといって、

その手段だけは決して認めてやることはできない。

そのお陰で、千尋は命を落としかけたのだから。

自分の油断と不甲斐なさのせいでもあるけれど・・・

複雑な思いに 琥珀主は 奥歯をかみ締める。

思わず、公園で炎に包まれ倒れている

千尋を見たときの恐怖が蘇る。

震えそうな体を、背中の千尋を意識することで こらえた。

しかし、また そうは思っても 神に還ったばかりの龍神にとって、

銭婆は 千尋をゆだねられる数少ない人物なのであって・・・

まして、お披露目の、一番の目的である神気の授受を

千尋が不安に思っているのを承知の上で 

強引に実行しようとしている龍神にとって、

それ以外の望みは全て叶えることも、

また妻に甘い龍神にとっては 至上の課題なのであった。

 

遠いとも感じぬうちに、沼の底の駅をすぎ、懐かしい家が見えてきた。

龍神は庭に舞い降りると、自身が起こした風が収まるのをまって、

優しく妻をおろし、人の形に転変する。

琥珀主の支度が整うのを側で待っていた

妻の顔が、懐かしさからか明るく輝いているのを見て

 安堵のため息をつく。

・・・やはり、つれてきて良かった。

連れ立ってドアの前に行き、ノックをしようとしたとき、

ドアが向こうから開けられた。

「よく来たね。」

「おばあちゃん、お久しぶりです。お元気でしたか。」

琥珀主は 飛びつくような勢いで銭婆に駆け寄る千尋を、 

複雑な面持ちで見ていると、銭婆は千尋の背に

手を添えたまま にやっと笑って、

「あんたも、おはいりな。」

と声をかけてきた。

2人は 銭婆に導かれるまま、大きなテーブルに備えられている

がっしりとした椅子に並んで 腰をおろした。

1回しか来たことがないというのに、

懐かしさを感じているようで、

家の中を見回していた千尋は、

銭婆にいれてもらったお茶をうけとると姿勢を改めて、挨拶をした。

「おばあちゃん、あの 知っているとは思うのですけど、わたしはくの妻に

なりました。報告が遅くなってしまって ごめんなさい。」

その言葉に直ぐには答えず、

茶碗を上げ くっとひと口お茶を飲むと、

銭婆は、顔をあげて じっと千尋を見つめた。

そして、にっこりと微笑むと しみじみとした調子で言った。

「お前さん、綺麗になったねぇ。龍と人とでは、うまくいきっこないと

思っていたけれど、まあ、幸せそうで結構な事さ。」

そうして、琥珀主にむかって 顎をしゃくり

「このばか者は、お前さんを得るためにかなり無茶をしたらしいじゃない。」

其処のところを、詳しく聞きたいねぇ。と、わくわくした様子で聞いてきた。

大きな瞳はきらきら輝き、手をお祈りするかのように合わせているのは

琥珀主をからかうためのポーズなのであろう。

『よく言うわ。無茶をしなければならない状況を作ったのは、

お前らではないか。(怒)』

琥珀主がわざと表情を消した瞳で にらみつけてやると、

「まったくねぇ、手癖の悪い、無自覚に力を垂れ流していた未熟者も、

随分いい顔をするようになったじゃないか。千尋に目をつけた眼力は

さすがだと思ったけれど、あんたなんかに

渡してやるつもりはなかったんだけどね。

まあ、本人が望んだのだから しょうがないと思うことにしようか。」

意地悪な笑みとともに、しれっとした態度で言う。

そんな2人の攻防を、気付かないまま 

千尋は銭婆の言葉に はにかんで笑った。

無茶したなんて、どうして知っているのかなと、

チラッと思ったが、まあお婆ちゃんも魔女だから当たり前か。

といつものごとく 割り切って、薫り高い紅茶を口に含んだ。

そして、ふと気付いたように 何かを探すように部屋を見回すと、

「あの、おばあちゃん、かおなしは?」

かおなしにも報告しようと思ったのに、留守ですか。

不思議そうに聞いてきた千尋に、茶碗を置くと

銭婆は思わず笑い出しながら、答えてやった。

「あんたたち、明日から湯屋で披露目をするんだって?坊に聞いたとたん、

かおなしったら、張り切っちゃって、湯婆婆と契約しにいってさ。

今、湯屋の臨時の雇い人になっているよ。あんたに、よっぽど早く

会いたかったらしいね。まったく、ここにいれば、一日早く会えたのにねぇ。」

思いがけない言葉に琥珀主は、飲んでいたお茶を 

気管に詰まらせるところだった。

むせている夫の背中を優しくさすりながら、千尋は

「契約って、かおなしもできたの?」

目をくりくりさせて、聞き返す。

銭婆は、2人の様子に にやっと笑うと暴露した。

「まあ、コネがあるからね。かおなしと坊は今じゃ親友って間柄なんだよ。」

あんなに湯屋で大暴れしたのに大丈夫なのかしら、

みなさんとうまくやっていけるのかな?

琥珀主の背中から、手を放し 

心配顔に考えている千尋に、龍神は憮然とする。

それに、気付いた銭婆は、呆れたように、

「あんたもくだらない事で いちいち焼きもち妬くんじゃないよ。

そんなんで、あしたからの披露目が無事できるのかい。」

と肩を ばしん、と強く叩きながら言ってきた。

琥珀主はそんな銭婆に向かって

一言 言ってやろうとしたが、その機先を制するように

「おばあちゃ〜ん、私のほうが心配で 無事にできるか自信ないよ。」

千尋が、涙ぐみながら訴える。

銭婆はその大きな目を非難に染め、琥珀主を睨みつけた。

「やれやれ、元気がないと思ったら、

マリッジブルーってやつだったのかい。

ハク龍、お前ちゃんと説明してやったんだろうね。」

その問いかけに、千尋が答えた。

「うん、はくは、丁寧に説明してくれたんだけど、

神気を頂くときのことを考えるとはくが心配で、・・」

銭婆は、俯いてしまった千尋の頭に そっと手をそえて、

「大丈夫だよ、わたしが、勇気が出るお呪(まじな)いをかけてあげようね。」

優しく囁いた言葉を断ち切るように、鋭い声がした。

「銭婆殿!!」

余計な事をするなとばかりに、にらみつけてきた琥珀主にむかって、

銭婆は千尋に置いた手はそのままに、ちらっと、流し目をやった

「心配おしでないよ。神気をいただける機会の貴重さは、私もわかっているよ。

神々に承知させた、あんたの手腕に敬意を表したいくらいさ。

千尋のことを考えるなら、最高の寿ぎ(ことほぎ)だよ。

まあ、あんたも思い切ったことをやるもんだと、呆れはするがね。

だいたいね、あんたは千尋の気持を考えてやった事があるのかい。

なんだかんだいっても、結局は自分の未熟さのせいじゃないか。

花嫁に心配するな なんてよく言えたもんだよ。

嬉しいはずの披露目に心配事を持ち込むなんて、まったく

花嫁の繊細な気持ちってやつを、考えていないんだから。

まあ、男のあんたに分かれって言うのは、

無理かもしれないけれどね。」

千尋が、披露目の前に 私のところに来たがったわけも 考えてやりな。

普通の花嫁には、母親がついていて 安心させてやるものなんだよ。

千尋を親から引き剥がしたのは、あんたなのだからね。

と人指し指を振りながら、決め付けてやる。そして、

「千尋 安心おし、今夜一晩、私が、千尋の母親代わりを務めてやるよ。」

今まで、龍神が見たこともない優しさと労わりのこもった声でささやいた。

龍神は はっとしたように目を見開くと

心配そうに千尋の顔を覗き込み、少し考えると銭婆にむかって、

「よろしくお願いします。」と頭を下げた。

その殊勝さに銭婆は、かえって目を白黒させ、ハク龍にむかって

はじめて和らいだ瞳をみせたのだった。

 

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