龍神情話・第2章

雲ひとつない抜けるような青空が広がる中、

龍身での飛行を上機嫌で終えると

琥珀主は 懐かしい赤い欄干の袂(たもと)で転変した。

上空から、湯屋の玄関先に

大勢の出迎えが出ているのを確認し、

気持を引き締めた琥珀主は

すでに懐かしさでいっぱいの千尋の斜め後から 

エスコートするように湯屋に向かう。

橋の真中を ゆっくり歩いていくと 

湯婆婆をはじめ、坊や かおなし、

上役たちを中心にして 懐かしい顔が、

満面の笑みをもって2人を迎えた。

「よくお越しくださいました。」

「ささっ、お疲れでございましょう。さっそく御寛ぎ(おくつろぎ)に

なれるようにご案内いたしましょうね。」

ああだこうだと、大騒ぎで歓迎の意を伝えてくる中で、

湯婆婆が自ら玄関の外まで出迎えて

接客しているところを始めて見た千尋は、

夫と顔を見合わせ、気付かれないように小さく笑うと 

一歩前に出て湯婆婆の正面に立った。

「湯婆婆おばあちゃん。お久しぶりです。このたびは、

お世話になりますので よろしくお願いします。」

丁寧に頭を下げてきちんと挨拶をした千尋は、

悪戯っぽい笑みを浮かべると、

「おばあちゃん、元気そうでよかった。」

と、突然 湯婆婆を抱きしめて頬をよせた。

そして、唖然としている湯婆婆を放すと、

坊やかおなしのほうに向かって 

止める間も無く 駆け出していった。

千尋が顔なじみと再開を喜び合っている様子を、

取り残されたまま無理に表情を消して

見ている琥珀主にむかって、

湯婆婆は こほんとわざとらしく咳払いをする。

「ニギハヤミシルベノコハクヌシ様。

このたびは、誠におめでとうございます。

お披露目にこの湯屋を選んでいただき

恐悦至極に存じ上げます。

誠にありがとうございました。

このご温情に 湯屋一同心を込めて、

お披露目を仕切らせて

いただきたいと存じ上げます。」

と、流れるような作り声で挨拶した。

琥珀主は、無表情だった顔に 唇だけの冷たい笑みを浮かべ、

自分の選択ではないとの、意をそれとなく匂わせながら言った。

「妻が緊張しないようにとの、翁殿の配慮だ。

何事も、妻の心のままに

安んじて披露目ができるように心がけて欲しい。」

その神気はまさしく神のものであり、

見るもの みな ひれ伏さざるを得ない迫力があった。

しかし、湯婆婆もさるもの 

にこにこと、まさにお客様は神様です。

の態度を崩さない。

傍(はた)から見ると、

かつての雇い主と従業員、あるいは師匠と弟子、

はたまた、被害者と脅迫者という関係なんてまるでありません。

初めて顔をあわせています。

といった様子に見えるが、実態を知っている上役達には、

突然、空気が凍りついたかのように感じられ、

思わず体をふるわせ、首をすくめた。

緊迫した、腹の探りあいは、突然の大声にさえぎられた。

「リンさ〜〜〜〜ん。」

千尋は、案内に現れた、女中頭に走りより、

顔をくしゃくしゃにしながら飛びついた。

「せん、せん、良く来たな。元気そうで良かった。

どうしてるか心配してたんだぞ。」

「うん、リンさんも元気そう。あえて嬉しいよー。」

抱き合いながら、感動の再開をはたしている2人をみて、

龍神の機嫌がさらに下がったのを

敏感に感じ取った父役が、あせって小言を言う。

「リン、奥方様になんという話し方をするのだ。無礼ではないか。

奥方様、いくら昔馴染みとはいえ、ご無礼の段お許しください。

さっ、リン、はよう、お二人をお部屋にご案内せよ。」

その言葉に、琥珀主は 手を上げて制した。

「父役殿、先ほども湯屋殿にはなしていたように

何事も妻の良いようにせよ。

堅苦しい礼儀より、妻の気持ちがほぐれるように心がけて欲しい。」

『ハク様』の言葉に思わず口笛をふきそうになったリンは、

湯婆婆の視線を感じて、

「では、こちらへ、お部屋にご案内いたします。」と、

すまし顔を作って案内にたった。

「じゃあ、坊、かおなし、またあとでゆっくりお話しようね。」

「あ、あ、」「せん、あとで部屋に遊びに行くぞ。」

琥珀主は、名残惜しげな千尋の背に 

2人からの視線を遮るかのように 

そっと手をまわすと、

押すようにして、その場から離れた。

奥に入っていく3人を見送りながら、湯婆婆は、

「まったく、坊にまで、威嚇(いかく)してどうするんだろうね。」

呆れたように呟くと、『ハク様』の変わりように唖然としている上役らにむかって、

「何しているんだい。さっさと仕事に取り掛かるんだ。

気の早い客は、次の便で到着するよ。

粗相のないように、しっかりやりな。」と、はっぱをかけた。

従業員がわたわたと、働き出すのをみながら、

湯婆婆は 目を細める。

・・・ふん。長年 女一人でこの湯屋を守ってきた この私を舐めるんじゃないよ。

油屋の意地と誇りにかけてこの披露目 仕切って見せようじゃないか。何しろこのひと月で

一年分の儲けを得られるのだからね。あの、ひよっこがどう思おうと知ったこっちゃない。

このあたしの第一信条たる、金儲けの機会をくれた、おまえには感謝してやろうさ。

それに・・・

先ほどの琥珀主の言葉をおもいだす。

それに、要は千尋さえ ちやほやしてやればいいってことだろう。

龍神ともあろうものが あんな小娘に入れ揚げるなんて、まったく世も末だねぇ。

こうなる事がわかっていたら、策を弄(ろう)してでも人間の世界になんて帰すんじゃ無かったよ。

そうすれば、あの若造を、もっとこき使ってやれたろうに。

自分の弱点をこうも気軽に晒(さら)すっていうのは、よっぽど自分に自信があるのか、

それとも相変わらずの愚か者なのか・・・

湯婆婆は、気を取り直すと大切な息子の姿を探した。

遺伝なのか、相変わらず頭は大きいが

すでに少年と言ってよいくらいに成長している坊は、

このひと月お守役として雇ってやった、厄介者と

ニコニコしながら何か話をしていた。

どうやら、坊にも魔法の力が育ってきているらしく、

「あ」としか言えないはずの かおなしの言う事が解かるようなのだ。

湯婆婆は、その成長ぶりを嬉しさ半分 苛立ち半分の、

複雑な思いでながめやる。

「坊ぉ。さあ、せんに会えたのだから、しばらく かおなしとお部屋で遊んでいなさいね。

これから、お客様がたくさん来るから、おんもにいると危ないから。

ね、いい子にしているのよ。かおなし、坊の御守をしっかりやりな。」

自分こそ弱点を晒している事に気付いていない湯婆婆は 

あれから7年たってすでに、精神的自立の兆しをみせていることには

 目をつぶったまま、 息子を 相変わらず赤ん坊と

変わらぬとでもいうように扱っているのだった。

 

玄関からロビーを通りぬけ その先の廊下を右に案内していったリンに向かい、

「ねえ、リンさん、お部屋に行く前に釜爺にご挨拶してもいいかな。」

千尋が、遠慮がちに訊ねてきた。

「もちろん、釜爺も今度のことをきいて 大喜びでさ。お前ら2人が来るのを

すっげー楽しみにしていたから、顔出してやると喜ぶと思うぜ。」

打てば響くような明朗さで答えた リンに 嬉しげな笑みを見せると、

斜め上にある夫の顔を振り仰いだ。

「はくも会いたいでしょ?」「もちろん。」

琥珀主は、妻のくりくりした瞳に微笑み返すと 

頷きながら簡潔に答えた。

同時に周囲に鋭い視線を走らせる。

廊下のあちらこちらを通りかかる湯女や蛙男たちの

 遠慮がちな それでいて好奇心を隠せない視線を 

牽制(けんせい)するかのように睨みつけてやる。

慌てて視線を逸らす湯女や男たちを無視すると、

琥珀主は千尋を庇うようにしながら

エレベーターに乗り込み リンとともに 地下に向かった。

懐かしい小さな木のくぐり戸をあけると、ボイラー室も、薬草をつぶしている

釜爺の後ろ姿も、かつての記憶そのままで、千尋は思わず涙ぐんだ。

・・・緊張して声をかける自分、ぐったりと倒れているはくの姿、

どんなときも手を差し伸べてくれた釜爺、懐いてくれたすすわたり、

いろいろな事が次々と心に去来する。

釜爺にかけようとした声が詰ってしまい、

思わず下を向いてしまった妻の肩を優しく抱き直し、

琥珀主は、釜爺の後ろ姿にむかって、

「お爺さん、ご無沙汰しています。」

と、声をかけた。

琥珀主にとっても、釜爺は恩人であり、湯屋にいたとき、

心を許せるただ一人の人であったのだ。

表情も声も上で見せた態度とは、全く違う。

釜爺は、ゆっくりふり返り、表情を緩めると 

長い手を動かして台から降り、2人に近づきながら、

「おう、おう。良く来た、よくきた。お前さんたち、良かったなあ。

目出度い(めでたい)、目出度い。本当に良かった。」

自分でも何を言っているか分からない様子で、

顔をくしゃくしゃにしがら2人を抱きしめた。

千尋はすでに ぽろっと一滴の涙をこぼしているし、

琥珀主も当惑げながら その感情を隠そうとしない。

3人とも、万感胸にせまり、なかなか声が出せないようだ。

見かねたリンが、こめかみをポリポリ掻きながら声を掛けた。

「あの〜。釜爺、まだ、こいつら部屋にも通してないんだ。先に釜爺に挨拶したいって、

言うからつれてきたんだけど、いろいろしたくもあっから、あんま時間がないんだよ。」

「そうか、この釜爺が心を込めて湯を送ってやるからな。披露目がんばるんじゃぞ。」

そういうと、釜爺はやっと腕を放し二人の顔をみながら 言う。

「はい、ありがとうございます。お世話になります。」

「釜爺さん。」

瞳を潤ませて見上げてくる千尋の頬を 優しく さわりながら、

「ひと月もいるんじゃ。また後でゆっくり会いにきておくれ。湯婆婆が、

お前さんたちのために湯釜付きの離れを建てたから、早く見に行っておいで。

びっくりするぞ。新しい湯釜だから気持ちいいぞ。」

「あっ、釜爺おれが案内してびっくりさせようと思ったのに、ばらすなよ。」

「はは、すまん、すまん。リン。」

相変わらずの様子に、千尋もようやく笑顔をみせ、

一段下がった土間で大騒ぎをしているすすわたりたちに、

やほ〜と小さく手を振って

夫ともども、ボイラー室からもどっていった。

 

リンに案内された部屋は、庭園の望楼のそば、海に臨む一角に新しく

建てられた離れであった。釜爺が言っていたように、まだ木の香も新しく、

応接間と広い居間、洋風の寝室の、3部屋のほか、側付き用の控えや小さな台所、

お風呂にトイレまで備えた豪華なもので、驚いている2人に向かい、

リンは幾分得意そうに教えてやった。

「湯婆婆がお前達のためにってんで、新しく建てたんだよ。

湯屋の超ビップ用の特等室さ。

ひと月もいるんだからゆっくり寛げるようにって、必要なものは

みんなそろっていると思うけど、

なんか欲しいものがあったら遠慮なく、いってくれな。

ちなみに、おれ、この離れ専用の女中だから、

どうぞよろしくお願いいたします。」

最後の挨拶だけは、畳に両手をついて、丁寧なお辞儀をしながらいうと

「驚いただろ」と笑った。

目を丸くして建物中を探検してまわった千尋は、

「すご〜く素敵だけど、すご〜く高そうだよ。

こんなに贅沢(ぜいたく)な事しなくても良いのに。

はくぅ、どうしよう。」

と、困惑顔で夫をふり返った。

千尋らしいセリフに、琥珀主は苦笑しながら、

「ほんとに、困ったことだね。そなたは、翁殿をはじめとして

神々によほど気にいられているらしい。」

そう言うと、背中から抱きしめてきた。

「ちょっ、はくったら。」

顔を赤くして じたばた暴れる千尋をさらに抱き込んで、

「大丈夫。『スポンサー』がついているからね。」

と、悪戯っぽく耳に息を吹きかけながら囁いてくる。

・・・なんか、森にいるときはそうでもなかったのに、

人前になると、一段と接触が激しくなるような気がするんですけど。

はくったら、昨日銭婆おばあちゃんに

もっと私の気持を察してやれって怒られていたのにぃ〜。

じたばたしている千尋に リンは、みかねて助けを入れる。

「お前ら、人前で いちゃつくのいい加減にしろよな。いくら新婚だからって。」

『ハク様』、なんか性格変わった?それとも、俺にまで牽制するつもりか?

真っ赤になった千尋と、無表情を装った龍神の澄まし顔をみくらべたリンは、

どうやら後者らしいと察して ため息をつくとお茶を入れた。そうして、座卓に

座るように促すと、しみじみとした口調で千尋に話し掛けた。

「いいか、せん。おれはお前の味方だからな。しつこくされていやだったら、

すぐ言え、な。お前細っこいから、いろいろ大変だろ。店に来る龍神様の閨(ねや)には、

お姉さま方でさえ 根をあげることがあるからな。」

「失敬な。そなたなどに心配されずとも、充分 労(いた)わっている。」

琥珀主は、聞き捨てなら無い とばかりに言葉を返す。

「はん、お前の言う事なんか信用できっか。」

琥珀主はリンのセリフに、眉を寄せると ふと思いついた。

そういえば、このリンだけは帳簿係をやっていたころから

私に対して遠慮のない言葉を吐いていた。

どうやら、千尋への気遣いでつけられたと思っていたが、

私への牽制も含んでいるのだろうか。

経営者としての湯婆婆の手腕については、自分もよく知っている。

一瞬頭をよぎった考えを深める前に、千尋に目をやると、

「ちょっ、ちょっと二人とも、何の話をしているの!」

座卓を叩いて、真っ赤な顔で怒っている千尋を見て、リンは思わず噴出した。

少しは人妻らしくなったかと思っていたが、ガキっぽいのは相変わらずで、嬉しくなる。

「おっと、すまん、せん。まあ、お茶でも飲め。このあと、忙しいぞ。」

背中をバシバシ叩きながら湯飲みを渡してやると 千尋は

「もう2人ともヘンなこと言わないでね。」

とぶつぶつ言いながらも、素直に口をつけた。

「おいしい。のど かわいていたんだ。ありがとう、リンさん。

でも、忙しいって、私何をすればいいの?」

「何言ってやがる。お前 相変わらずとろいな〜。花嫁のお支度(したく)に決まってんだろ。

まず、風呂に入って、禊(みそぎ)をしてから、支度するからな。お披露目は、毎日、

日が暮れてから2時間後に始まる予定だけど、

それまでに、腹に何かいれておいたほうがいいだろうしな。」

立て続けに予定を伝えると、

いよいよというように 体を固くしている千尋から、

『ハク様』に目を向ける。

相変わらず気持がうかがえないような顔を崩してやろうと、

「ああ、ところで、『ハク様』、湯殿の世話に

湯女のお姉さま方を呼んだほうが良いか?

一応、花婿と花嫁は別々に支度することになっているから、

おれは、せんのほうに つかしてもらうし。」

にやっと笑って聞いてやると、思ったとおり むっとしたようで仏頂面で、

「必要ない。」と答えてきた。

その答えに一応 接客の責任者としての 立場を思い出し、

差配の手順を考えながら、問う。

「んじゃ、だれか、男衆でも頼むか?」

「いや、眷属をつれてきている。千尋の世話も、それらにやらせるゆえ、

湯殿に他の者を遣す必要は無い。」

「ん、承知いたしました。じゃ、めしと花嫁支度の世話だけでいいな。」

リンは、大体の予定を頭の中で計算すると、緊張している千尋に

「まあ、俺に任せておけって」

と 安心させるようにウインクをすると 

次の手配するために、部屋を出て行った。

 

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リンさん大好き。