第3章・発現

お披露目・第10日目

水の神  通称、翁神 (おきなしん) ご降臨

 

今日の千尋は 起きてからずっとそわそわしている。

昨晩の宴も、それまで同様、夜半過ぎには退席したとはいえ、翁神が

くる緊張からかよく眠れなかったらしく、めずらしく中天過ぎまで

閨からでてこなかった千尋は、食事や身支度もそこそこに

大戸付近をうろうろして、湯屋の従業員たちの好奇の視線を浴びていた。

3日目にいらした白神姫の命(しらかみひめのみこと)の取り成しで、

主に姿を現すことが許された千尋付きの眷属、玉と由良が 

心配そうに顔を見合わせているのにも気付かないほど、

千尋の心はここにあらずの状態だった。

なにしろ、今日は待ちに待っていた 翁様がいらしてくださるのだ。

この、お披露目の手配を全てしてくださった、翁様に

やっとお目にかかってお礼を言う事ができるのである。

地の女神さまがいらしたときは別として、毎日毎日

大規模な宴会が続いていて、しかもこんなに立派な特別室まで

用意してくださったのだから、身の程を考えると

居たたまれないほどで 日ごと感謝の思いが募(つの)っていたのだ。

そんな千尋を見て微苦笑している夫とリン、

そしてすでに人間でいう10歳ほどの姿に成長している

玉と由良とともに、大戸の前でご来光を待っていると、

程なく白い輝きが空の彼方に現れ 次第に大きくなったきた。

どうやら、地の女神と異なり お一人で空を翔けてこられたようだ。

「翁様。ようこそ、お越しくださいました。」

「ほほ、ちーちゃん。この湯屋の居心地はどうかな。」

長大な白い龍身を人型に転変させた翁神が、大戸を潜り抜けると

並んで出迎えた中から、一歩前に出て、丁寧なお辞儀と共にした

琥珀主の挨拶に頷くと、翁神は表情を緩めて

その視線をすぐに千尋に向けて尋ねてきた。

ちーちゃん、という呼び方は翁様が始めたのかしら、

ちらっ、とそんな事を考えた千尋は、けれども

朝からご来光を待っていた翁様に会えた喜びで顔を輝かせた。

「はい、ありがとうございます。とても、立派なお部屋で

居心地が良すぎて、いつも寝坊してしまいます。」

おどけて言うと、ぜひご一緒にと、

琥珀主が口を挟む間も無く 翁神の手を取って 離れに案内していった。

そんな千尋の行動に あっけに取られたリンが、ちらっと

『ハク様』に目をやると、他の従業員の前だというのに珍しく

苦笑しながら肩を竦め、そのまま2人の後に付いていったのだ。

慌てて後を追ったリンは、7日前と違い 

今日はどうやら大丈夫のようだなと、安堵のため息を吐いた。

 

『な、なんだかな。』

リンは部屋の隅で目立たないように控えながら こめかみを掻いた。

居間に落ち着いて、向かい合ってお茶を飲んでいる せんと

水の御方を見ていると、まるで祖父と孫のような 親密な

空気が流れていて、琥珀はそこに婿入りした義理の孫

という風情だった。そんな扱いであっても、やはり珍しく

嫉妬心をみせない『ハク様』は、どうやら、この空気を

作り出している張本人の千尋には 

悋気(りんき)を見せないことを決心しているらしい。

この前、玉にそんな事を言ってみたら、

とんでもない、とばかりに頭を振っていたが・・・

じつは、こんなことが、と言ってきた玉と由良の うち明け話によると、

このお披露目のひと月ばかり前に、標道(しるべみち)でちー様の

気を奪ったシャクジンは、主の怒りに触れて

すでに秋津島に存在していない上に、お人よしのせいで

騙されてしまったちー様に対しても、キレテしまった主様は

5日の間 閨に篭(こも)って、ちー様を離さなかった、そうだ。

『な、なにが労わっている、だ。後でどついてやる!』

ふと、この話を思い出したリンは 

思わず下を向いてわなわな震えてしまった。

い、いや、閑話休題。

意識を、目の前の現実に向ける。

・・・・

「では、よろしければ 今夜はこのお部屋で

ご一緒に夕餉をいただきませんか?」

千尋の誘いに相好を崩した翁神は、湯飲みをおくと

琥珀主の存在を 忘れたかのように返事をする。

「おお、そうさせてもらえれば、ありがたい。そちも連日の

宴で疲れているであろう。今宵は、ゆっくり休むがよい。

わしも、この年じゃて、ゆっくり湯にでもつかって英気を養うと

しよう。どれ、夕餉前に一風呂浴びるとしようかな。

これ、琥珀主。そんなに渋い顔をせずわしを部屋まで案内せい。」

じゃあ、私も と、一緒に立ち上がった千尋に向かい、優しい笑みを浮かべると、

「ちーちゃんは、そのままゆっくりしていなさい。また後でな。」

そういうと、翁神は琥珀主を伴って部屋を出て行った。 

 

用意された部屋に 翁を案内した琥珀主は、

訝しげに翁の真意を問おうとしたが 

翁神は先んじて 琥珀主に向き合い、

手を上げて言葉を封じると 真面目な顔で訊いてきた。

「そち、地の属性が発現したそうだが。」

そちらの話か・・・琥珀主は一瞬の沈黙の後、冷静な声で答えた。

「はい。地の御方のお陰をもちまして。」

「ふむ。地と水か。鎮守の森の主の力としては願っても無い事ではあるが

そちの内なる属性は、まだ完全に目覚めていないと言う事であるな。」

考えるような視線で琥珀主を見やった翁は、ふっと表情をくずすと、

「そういうことであれば、結局この披露目に上位神の降臨を

願ったのは 天運であった ということか。」

どこか嬉しそうな翁神に対して、

琥珀主は表情を変えることなく沈黙を保つ。

そんな、琥珀主に対して 翁は言う。

「そちが、自らに目覚めることができれば 千尋への守護を

他の神に頼る必要も無くなろうて。」

そうして、しみじみとした感慨に ふけるように 言葉を重ねた。

「得たものを失う事ばかり 恐れているようでは、結局は手の内から

零(こぼ)れ落としてしまうぞ。なにせ、輪廻と魂の結びつきは強いものじゃ。

今のところ龍玉の力で断ち切ってはいるが、油断すると魂その

ものが、輪廻の輪の元に戻ろうとするものじゃからな。」

その声にふと感じるものがあったのか 琥珀主は翁を見つめる。

どこか、自分の内に話し掛けているような様子であった翁神は

気を取り直したように、琥珀主を見やると、諭すような調子で続けた。

「そちの悪い癖じゃな。己自身に もう少し興味を持ったらどうじゃ。

竜宮でも、かなり じれったい思いをさせていたそうだが、そちを

引き受けたわしも、その気持がわかりかけてきたわい。」

なんとも、微妙な表情をしている琥珀主には 返事のしようがない

のだろう。先ほどから 沈黙を保っている若い竜神に 翁神は

慈愛に満ちた視線を与える。しかし、次にでてきた言葉は

琥珀主にとって 意表をついたもので。

「とにかくじゃ。わしは千尋に対しては 特に守護を与える必要を

覚えん。そちが、守りきれなければ わしでも無理と言う事じゃ。」

琥珀主は焦ったように返事をする。

「ですが、上位神たる水の御方の守護があるだけでも

牽制になります。私への 不興はともかく 千尋への守護だけは。」

どこか、必死の面持ちで言い募(つの)る琥珀主を

翁神は 憐憫(れんびん)するかのように見た。

そうして しばらくの沈黙のあと 

さらに言い募ろうとする琥珀主を遮るかのように

「そちは、それほど 己に自信がないのか。」

嘆息しながらの言葉は、

琥珀主の心魂(しんこん)を貫いた。

 

その夜は、特別室の応接間に用意されたお膳を、

翁神と まるで家族のように囲んだ千尋は、

久しぶりに味わう静かな時間を楽しんだ。

翁神と酒を酌み交わしている夫がどこか元気がなさそうなのが

気になってはいたが、やはりこの10日の間に

積もった疲れが表情に出ていたのか、翁様の勧めもあって

夫とリンに早々に、寝室に引き取らされることになった。

「ちーちゃんとは、いつでも会えるでの。」

という翁神の言葉に甘えたようで気が引けたが、優しい笑みに

遠慮する方が失礼に思えて、やはり甘えさせていただくことにしたのだ。

琥珀主との世界の中で 銭婆同様、千尋が心から親しむ事ができる存在が 

また一人増えたのは、千尋にとって喜ばしいことであろう。

 

目覚めた時、外はすでに薄い朝の気配が立ち込め始めているようで

寝室に引かれているカーテンの隙間から 一筋の弱弱しい光が

零れ落ちていた。と、隣を見ても 夫の気配がなく 昨夜

僅かに心にひっかかったこともあり ふと心配になった千尋は

音を立てないように気をつけながら 起き上がった。

身支度をすませると、応接間に行ってみる。昨夜の 小さな宴の

後は、すでに片付けられ シーンとした気配に耳を澄ませて見ても

夫たる琥珀主の気配が どこにも感じられなかった。

「はく?」

千尋の声に気付いたのか、由良が側に控えた。

「由良ちゃん、はくはどこ行ったの?」

由良の答えを聞くと、千尋はドアをあけそのまま庭園に出て行った。

初めて登ってみる望楼は、湯屋の外階段と違い

以外に太い木で頑丈に組み立てられていて千尋が

登っていってもきしみ一つしなかった。

てっぺんの見晴らし台を覗いてみると、由良のいったとおり

琥珀主が、傍らに酒瓶と杯をおいたまま、顔を海に向け座っていた。

と、千尋の気配に気付いたのか、顔の向きを変えると

千尋がいつも 泣きたくなるほど愛しさを掻(か)きたてられる

優しい、そしてどこか 儚げな微笑みを浮かべた。

「千尋、来たの?まだ朝 早いのに。」

そういって、立ち上がり歩いてくると

千尋を抱きしめ そのまま先ほどまで座っていた

ベンチにつれていって、千尋を抱えたままストン、と腰をおろした。

「はく、ずっとここにいたの?」

「いや、先ほど翁様が 発たれて行ってね。そのお見送りをしたのだ。」

「えっ、翁様 お帰りになったの?起こしてくれればよかったのに。」

うろたえている千尋に そっと口付けた琥珀主は、

その瞳を見つめながら 愛しげに頬を撫でる。

千尋の頬を人差し指の甲がわで そっと撫でるのは

琥珀主の癖で、 そういうときの はくは

何か言いたい事があって、どう言おうか

考えているのだという事に 千尋は気付いている。

「千尋、翁様が これをそなたに と くださった。」

「?」

「水の種と呼ばれているものだ。これを飲むと、そなたは

秋津島の水 すべてを従える事ができる。ただし、期間は

1年だけ だけれど。1年ごとに 私が翁様の守護なさる河の

龍穴を管理しに行けば また新しい水の種をくださるそうだ。」

「はく、だってわたし 水を従えたいなんて 考えた事もないよ。」

「わかっている。これは、私のわがままだよ。龍玉を身に溶かしている

そなたには、本当いうと必要ないものなのだ。ただ、水の種を

管理できるのは 上位神たる水の御方だけということになっているのだ。

これを飲むことで、そなたに水の御方の守護がある、

ということが 誰にでも一目瞭然(いちもくりょうぜん)でわかるから。」

「でも、はく・・・」

「飲んで、千尋。」

はくの顔を見たとたん、何も言えなくなった千尋は

ひまわりの種ほどの大きさの 水色の勾玉の形をした

水の種を受け取ると、そっと口に含んだ。

水の種と呼ばれる勾玉は 千尋の口中にふれたとたん 

水となってそのまま千尋の体を下っていったのだった。

 

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いいわけは、やっぱり2部の設定集で。