第3章・発現

お披露目・第17日目

火の神  金床耶迦具土彦穂弟命(かなとこやかぐつちひこほでのみこと)  ご降臨

 

「はく、もう1回だけ言って。」

「かなとこやかぐつちひこほでのみこと。」

「あうっ、はく、はやすぎ。」

朝餉の席についたとたん始まったじゃれ合いに、今日初めて給仕についた

たまは、驚きのあまり、口を閉じるのを忘れてしまった。

本日は、7日ぶりに湯屋の従業員が休める日で、

たまも、本当は休日をもらうはずだったのだが、

よりお姉さまが特別に、本当ならまだ新米のたまが

近寄る事など許されないはずの 大切なお客様の

給仕のお役を譲ってくださったのだ。

もう、楽しみで楽しみで昨日からわくわくしていた

たまは、緊張のあまり顔をあげられずにいたのだが、

お部屋に入ったとたん、リン様がうんざりしたように

吐いたため息に 思わず上げた顔の 目の前にあった光景に

茫然自失してしまった。

 

「どうして、神様のお名前ってそんなに長いの?」

困ったような千様の声に竜神様がくすくす笑いながら答えた。

「かなとこやかぐつちひこほでのみこと、というのは長い

というほどでは、ないよ。神々のお名前は、そのお役目やら

出自やらを示しているから、通称を用いられない神々は

それだけ、ご自分のお役目を大切に思っていらっしゃる

のかもしれないね。そなたも人間だった頃、古事記

という書物を勉強した事があるだろう?その中に

正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命

(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)

とおっしゃる神様がでていたと思うけれど、覚えていない?」

「いません!もう、はくったら これ以上混乱させないで〜!」

『りゅ、竜神様が全開の笑顔で笑っていらっしゃるぅ。』

千様の叫び声にますます笑われている竜神様のお顔は

時たま、拝見する無表情なお顔と比べると、どこか子どもっぽくて

クールな大人の男性というイメージが がらがらと崩れていった。

まん丸になった目を泳がせていたたまは、ふと

自分と同い年くらいの男の子と、目が合うと

その子の哀れみに満ちた視線に

さらに呆然としてしまったのだ。

 

大勢の眷属方とともに 湯屋にご降臨くださった、

火の御方は まさにそのお役目に相応しく

厳しいお顔つきの 大きな がっちりとしたお体をした男神様だった。

リン様に言われて お出迎えの一員として玄関に並んでいた

わたしは、初めて真近でみる 雲の上のお方に戦々恐々とした

気持で カチカチに固まったまま 隅っこに突っ立っていた。

だから、どんなやり取りがあったのかはよく解からなかったけど、

千様が何か 必死でおっしゃっているのには気付いていた。

何をおっしゃっているんだろう と耳を澄ませようとした

次の瞬間に 起こった事に、わたしは 出迎えの他の皆と同じく

呆然としてしまい 声も出なかったのだ。

一同が唖然としたことに、なんと 今いらしたばかりの火の神様は、

竜神様を伴われて すぐにどこかに飛んでいってしまわれ、

千様は大勢の眷属方とともに、玄関に取り残されてしまった。

千様は、縋(すが)ろうとされた そのお手を伸ばしたまま

竜神様が飛んでいった空の彼方を

しばらく、食い入るように見つめていたけれど、

気を取り直したように、同じく主に取り残されていた

火の御方の眷属方をおもてなしすべく 

しゃんとお顔をあげられて、私たち従業員に案内を頼んだのだった。

 

わたしは、今もその時の千様のお顔を 

目の前に思い浮かべる事ができる。

 

眷属のみなさんが部屋に引き取っていかれた後、

リン様が、千様の肩をお抱きするようにして、背中を

ぽんぽん、と叩かれて 残っている従業員を急きょ集めて

おもてなしの手配をするべく中に入ろうとした。

「大丈夫だって。眷属ったって たかだか10人くらいだろ。

残ったやつらを集めれば 何とかなるって。お前一人で

もてなすなんてことは 考えなくっていいから。」

「でも、リンさん。命(みこと)様は、わたしにもてなすように

頼んでいかれたのだもの。それに、はくも命様の

命(めい)を受けるつもりで、一緒にとんでいったのだから。

前にも言ったでしょう。はく一人に頑張らせるつもりは 無いって。

だから、最初の予定通り、広間の準備だけはお願いします。

でも、中に入るのは私と玉と由良だけで、湯女や白拍子の

お姉さま方は、予定通り休んでいただいてください。

また、明日から続く宴に 頑張っていただかなければならないもの。」

千様のおっしゃる事に 困ったようにこめかみを押さえていた

リン様は、固まっているわたしをみて、

目を見開いたかと思うとああ、と呟いて笑い出した。

「心配すんなよ、たま。せんが言った玉は、ほれあいつのことだ。」

と言って指差したのは、先ほどお部屋でわたしを見ていた男の子で。

どうやら、千様の眷属のお方らしい。

「せん、あの子も たまっつうんだよ。男と女と 同じ名まえで紛らわしいな。」

その言葉に、わたしの方を向いた千様は、優しく微笑んでくださったのだ。

リン様は、それでも俺くらいは側にいると言い張っていたのだけれど

結局は 廊下で控えている事になったようだ。

そのあとの事は、リン様にいわれて お休みをいただいた

わたしには わからないけれど、次の日にお給仕についた

すく の話によると、その日の朝餉は 

千様も竜神様も とてもご機嫌でいらしたとか。

そして、千様の指には それまで無かった 

美しい銀の光を集めたような

指輪がはめられていたそうだ。

 

ずっと後になって、金床耶迦具土彦穂弟命

(かなとこやかぐつちひこほでのみこと)様というのは

火と金属の精錬を司る神様で、どうやら、

千様の指にはまっていた指輪は、竜神様自らが

打たれたものだということが わかった。

それにしても、水を司る竜神様が、金物を溶かすような

火に耐えて、指輪を鍛えたなんて、本当に

千様のことを、愛しておいでになるんだなぁと

あの時見た、笑顔ともども 強く印象に残ったのだ。

だから、わたしに いまだ 恋人の一人もいないのは

まだ子供の時に 出会ってしまった最強の

カップルのせいかもしれない。

 

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いいわけは・・・・