龍神情話

 

第4章 至純   そして、未来へ

その朝は なにかが いつもと違っていた。

そんな風に感じるのは この1年ほど習慣となっている 

枕上の涙の染みが無かったからかもしれない。

悠子は 傍らの夫を見やった。

『・・・やつれた。』

久しぶりに正面からみた夫は 1年前とくらべるとまるで別人のように

やせ細り その顔には寝ている時でさえ消える事の無い

焦燥が、影になって張り付いている。

永遠が過ぎたような 一瞬だったような この1年を振り返ってみても

何をしていたのか どこにいたのか 記憶の中に定かに出てこないのは

寝起きのせいばかりではないことは わかっている。

 

自分は もう少し理性的な人間だと思っていた。

子どもなんて いずれ独立して巣立っていってしまうのだから

一番大切なのは いつも傍らに寄り添っていてくれる伴侶だけで。

むしろ、早く独立させて 夫婦2人の時間を楽しみたい。

そんな風に思っていたのに。

夫が子どもを可愛がるのは 一人娘に対する男親の親心としては

当たり前で。だから、事あるごとに 言い聞かせていたのは

「どうせ、お嫁に行ってしまったら 家になんて 寄り付かないわよ。」

「ボーイフレンドの一人もできて御覧なさい。父親なんて見向きもしないから。」

そういう私に情けない顔をみせながら、

「そうかな〜。千尋は違うよ。」

夫の自分に言い聞かせるかのようなセリフに 呆れて笑ってしまって。

 

ポトリ。

あら、やだ。夢の中で泣かない代わりに 朝になってから泣くなんて。

今日も、駅前でビラ配りをするつもりだったのに。

こんな顔じゃ、外に出られないわ。

 

気が付くと、夫が起き上がり そぅっと肩を抱いていてくれて。

悠子の涙は しばらく止まらなくなった。

 

朝食の席で 悠子は夫の顔を まじまじと眺めた。

「あなた、1回健康診断を受けた方がいいわよ。なんか すごく

顔色が悪いわ。お願い、今日お仕事を休んで 病院へいきましょう。」

「大丈夫だよ。千尋が戻ってくるまで倒れたりしないって。俺は体だけが

取り柄なんだから、そんなに心配しなさんなって。」

「お願い あなた。あなたにまで 何かあったら 

わたし もう 生きていけない。」

いつも理性を失わない妻のそんな言葉に 明夫は虚を衝かれたような

気持ちになり、逆に心配になった。

「おい おい いったいどうしたんだ。そんなことを言い出すなんて。

おまえの方が どこか具合が悪いんじゃないか。」

「違うわ。あなたが心配なのよ。お願いだから 病院に。」

必死で追いすがるような妻の剣幕に 明夫は降参して

「わかった、わかった。今日はだめだけれど 

あさっては休めるから 予約しておいてくれ。」

「絶対よ。すぐ予約するから。」

悠子の言葉に頷くと 明夫は時計を見て出勤の支度をはじめた。

家をでがてら 妻に確認する。

「今日は、駅前でビラ配りするのか?」

「ええ、時間をかえてやってみようと思って。午前中と夕方にするつもり。」

「そうか、無理するなよ。」

バタン

そういうと、明夫は車に乗り込んで 出勤していった。

 

人間の親は こうまで我が子を思うものなのか。

琥珀主は 水鏡で荻野家の風景を見ながら 唇をかんだ。

幼子と違い、娶った時には 千尋はもう16だった。

頑是無い子ならともかく、神隠しにあった人間は

 戻ってこないものと 早々と諦めるものだと思っていたのに。

千尋が知ったら 動揺する。

千尋が戻りたがるとは 思わないけれど、

悲しむ事は 確実で。

ふと、湯屋から鎮守の森に戻る前に 挨拶によった竜宮で

竜泉から言われた言葉が 意識をよぎった。

『娘が親の事を言い出したら気をつけろ。』

何のことかわからず、首を傾げていたら 竜泉殿は

肩を竦めて それ以上 何も言わなかったけれど。

親の我が子に対する執着を甘く見るなということか・・・

『神に我が子を差し出した親には報償を・・・』

そう言われたのは 空の御方で。

千尋に確認したら、笑って 

『今時、そんなことをする親はいないよ。

第一、差し出したのではなく 自分から出てきたのだもの。』

だから、ご褒美(ほうび)なんてあげなくてもいいの。でも、・・・

続きを聞き出そうとしたけれど、なんでもないの と

微笑むばかりで。

 

「千尋。おいで。」

「なあに?はく。」

キッチンで 由良と一緒に きゃらきゃら笑いながらお菓子作りを

していた千尋は、琥珀主の呼ぶ声に居間に出てきた。

千尋の様子を見ていると とても幸せそうで 今更

知らせるべきではない のでは ないか。

決めたはずの覚悟が揺らぐのは 自分ながら悪い癖だ。

そっと頭をふって、千尋を見やる。

そうして、

「千尋、そなたのご両親をみていた。」

はくの言葉に、はっとして 目を見張った千尋は 息をのむ。

そうしなければ、自分でも何を口走ってしまうかわからなくて。

固唾(かたず)をのんで、はくの次の言葉をまった。

「千尋のことを、探している。」

蒼白な顔をした千尋は、解かっている というかのように頷いた。

そうして、そのまま俯いて 何かに耐えるかのように震えている。

千尋 そなた・・・

千尋の様子から、千尋が心の底に隠していた痛みを感じ取る。

思わず 千尋を抱きしめると 千尋は 黙って涙をこぼした。

痛ましさとそれに気付かなかった己への怒りに

琥珀主は 再び唇をかんだ。

 

その夜は 何かが いつもと違っていた。

そんな風に感じるのは、いつも窓から眺めている 

千尋がお気に入りだった 

森の様子が違っていたからかもしれない。

 

夫と2人の夕食の後 片付けも終わり休む前のひと時。

この一年、とても空虚に感じられたひと時。

シーンとした気配に いつもはテレビの音がなければ

居たたまれない気がするのに、何故か今夜は

テレビをつける気になれなくて。

夫と2人、リビングのソファーに腰掛けて 

まるで 何かが起こるのをまっているかのように

月光に蒼く浮かび上がる森を見ている。

 

それは、突然の光だった。

光の中から 現れた姿に 2人は絶叫しながら 駆け寄った。

「千尋、千尋、ああ、還ってきたのね。」

「千尋ぉ!!」

号泣している両親を 千尋も涙を流しながら抱きしめる。

どのくらいの時が流れたのだろうか。

「千尋、さあ、うちに入りなさい。」

「どこに行っていたんだ。体は大丈夫なのか。」

焦ったように、千尋の手を引く両親に

千尋は 悲しそうに微笑みを返す。

「お父さん、お母さん。ごめんなさい。」

そう言ったまま、動こうとしない娘に ますます焦った両親は

困惑したかのように 顔を見合わせる。

『千尋を帰すわけにはいかない。』

いつの間にか 千尋の後ろに まるで発光しているかのような

眩しい光を纏った男が立っていた。

千尋は男を見上げると そっとその肩に身を寄せる。

『千尋は、我(われ)の妻だ。ゆえに、そなたたちの元に

帰す訳にはいかない。』

再び光から、声がする。

「な、なにを言っている。千尋。ほら、こちらに来なさい。」

「千尋、そっちに行ってはダメ。お願い こちらに戻ってきて。」

人外の、あり得るべきではない存在だということは

本能的に解かった。

戻ってきた娘を、引き戻そうとするその存在に

畏怖の思いを 押しのけながら 怒りをぶつける。

「わたしたちの娘よ。あなたに連れて行く権利は無い。」

「千尋は人間だ。頼む、返してくれ。」

千尋は、悲しそうな顔で微笑んだ。

「お父さん、お母さん。私が愛している人です。私が自分で

選んだの。ごめんなさい。どうか、許して。」

千尋の声に含まれる、深い感情に 2人は言葉を失う。

絶句している中 眩しい光が 次第に弱まっていくのに

気付いた2人は 焦って叫んだ。

「待って、お願い、行かないで。千尋、あなた幸せなの?」

「千尋。行くな。千尋。」

「ええ、とても幸せです。私、はくの妻になれて とても幸せ・・・・」

「ごめんなさい、お父さん。親不孝を許してください・・・」

徐々に小さくなる声に 追いすがるように叫ぶ。

「千尋ぉ。幸せでいるのね。大丈夫なのねぇ。」

「お父さん、お母さん、さよなら。

どうかいつまでも 仲良く 元気でいてね・・・」

 

はっと気が付くと、2人は 先ほどのまま ソファーに座っていた。

まるで夢から覚めたような感覚で、しかし夢ではなかったのは

お互いの 頬に流れている涙で 解かった。

言葉もなく 泣きながら しかし、千尋の行方が分からなくなってから

心の中に重石のように圧し掛かっていた痛みが 消えていることに気が付く。

そう、この涙は、娘への別離の涙。

私たちの娘は もう私たちの元へは 戻ってはこないということを

理解した、そのために感じる 悲哀が流す涙。

千尋の声に含まれていた 2人への愛惜(あいせき)と 

しかし 愛するものへの深い愛情を確かめる事が出来た 今の涙は

今朝、流した涙とは 違っていて。

 

いいよ。千尋、あなたが幸せでいるのなら、それでいい。

 

「なあ、引っ越さないか?」

「え?どうしたの、いきなり。」

「いや、ほら この家を買った時に言っていたじゃないか。

千尋が独立して 嫁にでも行ってしまったら、もう一度

都内のマンションに戻ってきたいって。」

「やだ、覚えていたの?」

「君の言うことは、何でも覚えているさ。」

「あなたったら・・・でも、そうね。2人で住むのなら

やっぱり、都会のマンションがいいわね。

あなたの会社にも近くなるし。」

「じゃあ、決まりだな。」

「ええ。」

「ふふ、でも、よかった。あなた、

顔色もすっかりよくなってとっても元気そうよ。」

「ん?そうか?そういえば、いつの間にか

胃の痛いのがなくなってるなあ。」

「やだ、やっぱり、調子悪かったのね。」

「いやいや、もう 絶好調さ。どうだ?

もう一人くらい子どもでも作るか?」

「ばかね。ううん、もう子どもはひとりで充分よ。

心配ばかりかけるんですもの。」

「そうだな。俺達の子どもは千尋だけで充分だな。」

「ええ。」

 

そんな両親の姿を水鏡で見ながら、千尋は

潤んだ目を夫に向けた。

「はく、お父さんになにかしてくれたの?」

「いや、たいした事はしていない。そなたを

私に捧げた見返りとしては、ほんの些細なことだ。」

穏やかに微笑む夫を見つめ、

注がれる愛を感じながら、

その潤んだ瞳に想いを湛(たた)えて、

千尋は ゆっくり伸び上がると

そっと口付けを贈った。

 

前へ  次へ