第2章旅立ち

「ハク龍は いったようだね。」

湯婆婆の居室に、普段なら決してありえないような 姿が 不意に現れた。

もっとも、顔を合わせる事を、お互いに避け続けているため、実態ではなく

式神の力を借りての 影であったが。

湯婆婆は、はじいていた そろばんを机に置き、自分と瓜二つの 姉をチラッと見て

呟くように言った。

「めそめそした、くたばりぞこないだったくせに。」

銭婆は、かすかな笑みを見せる。

「力の方向が、定まっていなかっただけさ。」

「ふん、ちょっと役に立つおもちゃかと思っていたら、とんでもないくわせものだったよ。

おかげで、大損だ。」

「まあ、龍を弟子にして、操ろうなんて考えるのは あんたくらいの者だよ。命があっただけ

めっけものだと思って 諦めるんだね。」

姉魔女は 次第に、声を大きくしてくる妹に 宥めるような声をかけてやった。

「崑崙の四海竜王の末だと分かっていりゃ、手出しなんかするもんか。本性を出したとたん

しれっとした顔で、坊の命を楯に取るんだから、いいように搾り取られちまった。」

湯婆婆は、人間の子どもが呪いを破り、元の世界に戻っていった あの日のことを思い出し

ちっと 舌打ちをした。

あの時、戦っていても負けはしなかっただろうが、坊や、湯屋の 守りにまで、力を割余裕が

ないことを、本能的に察知し、引かざるを得なかった。

もっとも、正体が分かった今となっては、正しい選択だったとは 思うが。

4大元素を司る、四海竜王の末が、何でこんな所をうろうろしていたのかしれないが、

いい 迷惑だ。

銭婆は、眉間にしわを寄せて考えている妹をわざとからかう。

「あんたにゃ、いい薬だね。」

「うるさいね。何しに来たんだい。」

湯婆婆は、徐(おもむろ)にタバコに火をつけると、深く吸い込み 姉の影に向かって 煙を吐き出してやった。

「あの疫病神、あんたには えらく懐いていたようだね。」

意味ありげな笑みを浮かべる姉を胡乱(うろん)げに見やる。

「私に言わせれば、あの子は 初恋に戸惑っている かわいい かわいい 坊やだったね。」

「初恋ぃ?」

「そうさ。」

なんとも微妙な沈黙が漂う。

「・・・ふん。人間の小娘には、いい迷惑だろうね。龍の恋情は 周りを顧みず、その身を滅ぼすほど

激しいって言うじゃないか。目覚めるどころか、色ぼけして破滅するのが おちだね。まして、相手は

 人間の子どもじゃないか。」

湯婆婆は、椅子の背に もたれかかりながら、目を細めて 煙と一緒に 吐き捨てるように言うと、

「そこだよ。わたしは 千尋を気に入っているからねぇ。一応、護りの呪いは かけてあるけど

相手が相手だ。あんたにも 手を貸してもらおうと思ってね。」

湯婆婆はやっと、目的を話し出した銭婆を、面白そうに眺めやった。

「なんだい。あの疫病神の邪魔をしてやるつもりかい。」

「邪魔になるのか、手助けになるのかは、あの坊や次第ってところだね。あんたにも 損はない

話だと思うけど。」

湯婆婆は、しばらく目を細めながら 考えていたが、

「いいだろう。封印の呪(まじな)いに いくつか手を貸してやろう。」

破滅するなら、溜飲が下がるし、うまくいけば 恩が売れる。確かに 損はない話だ。

銭婆は、にやっと笑って、

「そうこなくっちゃ。合意魔法は 久しぶりだねぇ。千尋の命が かかることだから 慎重にいこう。」

そっちに、出かけていくよ。というと、影はふっと消えた。

 

湯婆婆は、タバコを燻(くゆ)らせながら 考える。

だから、銭婆は恐いというんだ。あたしなんかより よっぽど 恐い。

あんなのに 懐くんだから、琥珀よ、あんたは まだまだ アマちゃんだねぇ。

お前が、選択を間違えたとき 千尋は お前から 永遠に失われる。

「まあ、わたしも女だからね。」

意に添わぬことをされたとき、逃れる術(すべ)を持っているってことは、女として大事なことさ。

魂ごと、からめとられる前に、輪廻の輪に戻っていった方が 幸せってもんだ。

 

湯婆婆は、徐にタバコを消すと 何年ぶりになるか自分でも覚えていない 

姉の来訪を迎えるべく、温室の窓を開け放った。

 

 

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