龍神恋歌

第3章   選択   あるいは、その龍神強引につき

 

「決心は 変わらぬか。」

竜泉は、諦め悪く念を押した。

「はい、竜泉殿には また ご迷惑をおかけします。」

きっぱりと言い切る琥珀に、顔を顰(しか)めてみせる。

「お主の自分勝手は いつものことだからな。

兄上にも好きにさせてやれと 言われている事だし。」

行方知れずのお主が、無事だっただけでもありがたい。

あちらにいたのは驚いたが、自分から

渡りをつけてきたのが よほど嬉しかったらしい。

竜泉は、湯屋から渡りがあったときの 

竜王の様子を思い出して、肩をすくめた。

「それだけの力に目覚めていれば、

神籍を取り戻すのは 簡単だと思うがな。」

琥珀は、竜泉の言葉に 首を振る。

「いえ、私には 神を名乗る資格などありませんから。

こちらでの 存在に尽力をいただいただけでも、

身に余る事だと思っています。」

殊勝な琥珀の言葉に、竜泉はいつの間にか同じくらいの

位置になってしまった養い子の肩に 手を置いた。

「俺としては、宮に戻って 海神の神の守護を

手伝ってもらいたいのだがな。

まあ、仕方がない。しかし、それだけの力を持って、

この世界をうろうろされても、いらぬ騒動を起こすだけだ。

一つ提案があるのだが、聞いてくれぬか?」

心の中で せっかちに千尋の気配を追っていた

琥珀は、竜泉の言葉に顔をあげた。

 

2つの世界を繋ぐ狭間のトンネルを抜けると、

鎮守の森が広がっている。

人の手が入り、だいぶ削られてしまったとはいえ、

神々の結界がはられている中心部は

深い静寂と 清浄な空気に抱かれた 

命の輝きに満ち溢れ、あたかも原始の森にいるようだ。

森の其処彼処に佇んでいる石人の像は、

時に人間に警告を与え、時に狭間の向こうへの

霊霊の道標となる。

トンネルから数えて3つめの像を通り過ぎ、

古い鳥居と 小さな祠の奥にある 古井戸の前で

立ち止まった竜泉は、大きく拍手を打った。

そこは木々の梢が重なり合い、

緑のホールのようになっていて、

聖域であるこの森の中でも

周囲とは際立って異なる気配を纏う空間で。

そんな中にある古井戸は、どこかとはいえないが

なにかそぐわないような違和感を感じる。

そんな事を考えていた琥珀の目の前で

竜泉が拍手を打った瞬間、

見る間に古井戸の形は大きく歪み 其処に

あるのは 清冽な水が溢れる 泉であった。

底の白砂のあちらこちらから 透明な泡が

沸き立ち、豊かな清水が湧き出ている。

泉から放たれている気の薫香で 酔いそうに

なりながら、琥珀は竜泉に視線で問うた。

「この森の新しい守護神が、決まるまで 

石人と この泉の守をしてくれないか。」

琥珀は、首をかしげながら聞いた。

「ここは?」

「龍穴に通じる 標の一つだ。

社がなくなってから封印してきたのだが、

そうとばかりも言っていられなくなった。

鎮守の神がいなくなってから

石人の力が急速に衰えていて、ここも標として

使わせて欲しいと 秋津島の神々に言われてな。」

「石人の力が?」

驚いたように目を見張る琥珀に、

「まあ、神を失った地の定めだ。

とはいえ、ここは特別だからな。

我らとしても 手をこまねいているわけにもいかない。

次の出雲の集いで、新しい守の主を

決める事になっているそうだが、

どうやら、それまで標の結界がもちそうにない。」

人の欲に呑まれてしまえば、復活させるのも 難しい。

仮の主としてでよいから、尽力して欲しい。

提案というよりは、頼みだな。

と、言われてしまえば 散々世話になり

しかも、竜泉の真の願いを断って

しまった琥珀としては、断りようもない。

琥珀は、しぶしぶながらも

承知せざるを得なかった。

 

「おかあさーん、いってきまーす。」

リュックを背負い、玄関で靴を履きながら

千尋は大きな声でお出かけの挨拶をした。

「また、あの森に行くの?ピアノ教室に

遅れないように帰ってきなさいよ。」

呆れたような母の声に千尋は元気に返事を返す。

「うん、わかってる〜。」

転校してから2ヵ月。

友達もでき、新しい生活にも 

すっかり馴染んで迎えた夏休み。

千尋は、家の敷地の隣に広がっている 

森の探検に夢中になっていた。

なにしろ、今まで住んでいた都会には、

全くなかった 自然のままの森である。

りすやら、鳥やら、虫やらと 毎日が発見の

連続で 楽しくてしょうがない。

『みっちゃんも、なおちゃんも、たかしくんも、

なんでこの森に来たがらないのかな。公園で

遊ぶよか ずっと面白いのに。』

新しくできた友達に 森へ行こうよと誘っても、

色よい返事がもらえたためしがない。

「だって、あの森には かぶとやくわがたは 

あんまりいないしさぁ。

行っても つまんないぜ。」

「うん、それに薄暗くって あんま面白いとこじゃないよ。」

「幼稚園の頃は、どんぐりを拾いによくいってたけどさ、

もう 今更 行ってもやることないし。」

「それに、おばあちゃんが 神様の森

だから あんまり いくなって。」

最後に言った友達の言葉には 

みんな笑っていたけれど。

母に言うと、

「田舎の子は、身近にありすぎて 自然の

ありがたみなんて 感じないのかしらね。」

と そっけない。

『いいもん。わたしだけの 秘密の

森っていうのも 素敵じゃない。』

千尋は強がりではなく うきうきしながら考えた。

友達と遊んだり、塾に行ったり、プールで泳いだり、

それなりに忙しいスケジュールの中で

それでも 夏休みの大半は 

森の中で過ごしているのだ。

千尋は うきうきと考える。

昨日 見つけた 秘密の泉。

公園の噴水くらいの大きさしかないけれど、

今日は あそこで 1日過ごすんだ。

リュックの中には、自分で握ったおにぎりと、

水筒とお菓子と敷物に、お気に入りの漫画と物語。

千尋は 目的の場所に向かって

元気よく走っていく。

そうして、道とも見えない藪をかきわけて、

梢の重なる緑の大ホールに足を踏み入れたのだ。

鳥居の奥にある泉の辺に敷物をしくと、

そこにある小さな祠に、

「はい、どうぞ。お裾分けです。」

おにぎりを一つ お供えした。

どういうわけか、千尋はここに引っ越して来てから

信心深くなったかのように、道端にある

お地蔵さんにも 手を合わせるようになった。

祠というものは神様のお家だと教えたのは

確かに母親だったけれど、それを拝むなど

合理的な考えを持つ、母親はあまり

いい顔をしない。でも、千尋にとっては

なぜか神様というものが、全く自然な

存在に感じられてしまうのだ。

なので、お気に入りの場所にある祠は

当然、神様がいらっしゃるお家で、

なんとなく そこにお邪魔させて

いただいているような気持ちになって

しまうのも、千尋にとっては

当たり前な感情だったりする。

というわけで、ちょっとした手土産を

持参したというわけである。

そうしてから、千尋はうっとり泉を見つめ、

昨日からしてみたかった事を

さっそく実行に移した。

敷物に寝転んで 

手だけを水に浸してみる。

冷たくて、暖かい 綺麗な水。

ばしゃばしゃ、水を跳ね上げ水玉を

作っては、泉に落ちる様子に心を奪われ、

まるで幼児が気に入った遊びに

没頭するように 繰り返している。

水玉に見ほれながら、くすくす笑う

その声は、まるで幼児のような無邪気さで。

そうして、そんな 千尋を見つめ

微笑んで 見守っている姿が一つ。

つい数ヶ月前までは、千尋とあまり

変わらない年恰好だったはずが

今では、20代前半といったところか。

千尋の傍らに腰をおろし 慈しむように

微笑みながら、水玉に手を加え

まるで虹色に輝くダイアモンドのような

煌きを与えて、千尋を喜ばしている。

そんな他愛のない魔法を使いながら

まるで 千尋とともに遊んでいるかのようで。

姿かたちは変わっても、そなたに対する

想いは変わらないよ、とでも

言っているかのように。

千尋がこの森に親しみを感じ、来たがる

ようになったのは、そんな琥珀の気持ちが

通じているせいかも知れない。

たとえ、その姿を現す事が出来ず

千尋に気付いてもらえなくても、

話をする事もできなくても、

そっと触れる事さえできなくても、

共に過ごすだけで、こうして 傍らにいるだけで 

琥珀の胸に満ちてくる 暖かい想いを。

 

こうして、二人だけの十歳の夏休みが、

過ぎていったのだ。

 

「しまったな。仮の主など引き受けるのでは なかった。」

夏休みが終わり、千尋が森に来なくなってから、

思わず呟いた 情けない一言。

常に傍らにあった至福の時間を味わってしまった今、

胸にあふれる寂しさを どう宥(なだ)めればいいのか 

琥珀は、自分で自分をもてあましている。

そんな若い龍は、千尋の家の敷地との境、

結界の東端にある樹の上で 

月を見上げながらため息を吐き、

眠りの中にある 千尋の気配を追う。

森の主がいない以上、留守を預かる身としては、

結界からでるわけにもいかないのだ。

琥珀は千尋が夢魔などにつけいられないように、

護りにつけてある式に気を送ると、

泉の方角をふり返り、

瞳を 一瞬 光らせると、ふっと姿を消した。

 

夜になると、この森は 昼間とうって変わって、

濃い闇の蠢(うごめ)く世界になる。

真夜中過ぎ、石人の力に吸い寄せられるように 

どこからともなく 湧き出してくるのは闇の眷属たち。

闇そのものをまとう妖しやら、闇の精霊やら 

人もどきの異形やらが、

隙があれば 力を喰おうと

石人の結界の周りを取り囲むのだ。

泉の上に佇む琥珀主は、蒼い月光を浴びて、

銀の光を周囲に放ちながら、

その視線を 水面にひたと据え微動だにしない。

たかが仮の守りだと、侮って手を出した仲間の末路に 

歯軋りしながら、闇たちは考える。

神無月に鎮守の主が決まってしまえば、

森そのものに 入り込めなくなる。

その前に あいつを何とかしなければ。

 

喰う 喰う 喰いたいよう 喰いたい 

邪魔 邪魔 邪魔だ

 邪魔だよ

 あいつが邪魔だ 

喰いたい 喰う 喰う 

喰いたいよお 

欲しい 欲しいよ 

力が欲しいよ 

あいつ邪魔だね 

すごく邪魔 邪魔 邪魔 

なんとかしようよ 

でもどうやって?

 

後に粘つく臭気を残して、暁の光が差し込む 

一瞬前に 闇の眷属たちは 姿を消した。

 

秋が深まるにつれ、森もその彩りを

鮮やかにして、千尋をひきつける。

週末の休みには、バスケットを持って森に

出かけるのが このところのお楽しみになった。

山葡萄やら、きのこやら、山栗やら。

森の恵みを籠いっぱいにして帰ってくる

娘を見て、母親は、半分呆れてしまう。

「こんなにたくさん どこで見つけてくるの?

そんなに大きな森でもないのに、嘘みたいね。

でも、お母さん 山のきのこなんて知らないのよ。

毒キノコだったらどうするの。」

母と娘の2人がかりで 図鑑や料理本と 

首っ引きで 秋の恵みの始末をつける。

「大丈夫よ。全部食べられるのよ。おいしいんだから。」

森に満ちる優しい気配が教えてくれた 秋の恵み。

山葡萄はお酒に漬けて、栗は栗ご飯や渋皮煮に、

きのこはきのこ汁にして余ったら 塩漬けに。

娘と一緒になって作っていると、まあ程ほどの

田舎も 悪くはないかと 思えてくる。

でも、ひょろひょろの都会っ子だった娘が、

何時の間に アウトドア人間になったのか。

よっぽど ここの水があっているらしい。

もっとも 自分は自他ともに、認める都会派だから、

丈夫でたくましくなった娘に 複雑な思いを持ってしまう。

せめて、お稽古事や勉強はしっかりやらせようと

思うのも、母心としては無理からぬものであった。

そんなわけで、森にいけるのは日曜日の午後だけだと 

言いつけられ 「え〜っ」と抵抗したものの、

大人の権力に逆らえないのは、

小学生の悲しい身の上なのである。

琥珀にとっても まったく「え〜っ」である。

秋も深まり、いつの間にか冬の気配も

近付いた ある日曜の昼過ぎ。

 やっと来た千尋が、山葡萄の洋酒漬けを

祠にお供えしているのを、

いつものように 見守っていると、

「お母さんたら、土曜日に お茶とお花のお稽古を

しなさいって、無理やり教室にいれちゃったの。

ピアノ教室も日曜の午前中に変えちゃって 

平日は勉強に専念しなさいって言うのよ。

もうすぐ 高学年になるから、いつまでも森を

駆け回ってはいけないって。」

息を継いで、怒ったように続ける。

「もう、横暴なんだから。ここに来れなく

なったら 病気になっちゃう。」

泉の辺に座り込んで、膝をかかえながら落ち込んでいる

千尋を 慰めようと 思わず伸ばした手が、ピクリと とまる。

『ハク龍よ。あの子の記憶をよびさましては

いけないよ。魔法の守りは記憶の封印さ。

封印が解けたら、あの子は闇のものたちにとって、

この世界への格好の道標になってしまう。

お前が現し身をもって、あの子の前に姿を現し、

声を掛けただけで、封印の糸が

ほどけ始めてしまうんだ。』

『転変しないその姿が、いくらあの子の

目に うつらないからといって、

息がかかるほど近付いてもいけない。

触れるなんてもってのほかだ。お前の匂いが

あの子に移って、記憶が戻らなくても、

闇の連中のえさにされてしまう。

こちらの食べ物を食べた人間は 

闇に引き込まれたらひとたまりもないからね。』

それから、銭婆は 意味ありげに言葉をきって、

両手を広げて、はっきりと宣言した。

『もし、闇に呑まれそうになったら、輪廻の輪に

戻れるように たった今合意魔法をかけてきたところだ。』

思わず、琥珀は怒鳴っていた。

『銭婆殿!!』

合意魔法とは!!

銭婆は、琥珀の剣幕にしれっと答えた。

『闇に汚され、喰われるよりも 魂を解放して

やった方が 親切ってもんだろ。』

『いいね、あの子があの子のままで

いられるように、護っておやり。』

世界の狭間を抜ける前に、挨拶によった銭婆に

 くどいほど言われた言葉が耳にこだまする。

 

魔女と呼ばれる生き物に 気に入られるのは

人間にとってよいことばかりではない。

むしろ、悪しき事を呼ぶ方が多い。

彼女達は自分が気に入った人間の 純粋性を守るため、

手段を選ばず、ときにはその死をもって 守りとする。

死んで生まれ変わる人間の 生への執着を尊重しない。

歪んだ母性を持つ母親のように 

苦しめるより楽にするほうを選ぶのだ。

 

神ならば

気に入った人間を愛でるため 

無理やりにでも自分の世界に取り込んで

穢れに当たらないように 

大切に 大切に 閉じ込め 護る。

そうして、人間の魂は 永遠に神に結び付けられるのだ。

しかし、人間は 神とは異なり 

不変に耐えられる生き物ではない。

自ら 自由を求め 神に解放を懇願するか、

その瞳に何も映さなくなってくる。

不興を買った人間は、神の怒りにふれ

 投げ落とされるか そのまま 人形となり

 神の庭を飾る 置物になってしまう。

神にとっては かつての愛の記念品。

そんな置物が、神の庭にはたくさんある。

 

いずれにしても、人間が 異界のものに

愛されることはろくな運命をもたらさない。

 

『わたしは そんなことは 望まない。

千尋を失う事にも 耐えられない。

千尋が千尋のまま、彼女らしく生きていく 

それを守るためには何でもする。

わたしは、この子を絶対に守り抜く。』

銭婆は わたしの息吹が闇を呼ぶと言ったが、

このお役目から解放されれば

千尋の側について、離れるつもりはない。

そうすれば、闇の眷属など 

わたしの全てにかけて近寄らせない。

 

神無月まで あとひと月あまり。

琥珀主は 伸ばしかけた手をそのまま

 握り締め、千尋の傍らに佇んだ。

 

 

 

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